ミステリー小説『誤認逮捕状』第三章 十四
十四
朝食の膳が下げられてしばらくすると、扉の外で、再び気配を感じた。
「取り調べだ」
男性警官に声をかけられ、連れ出される。
取調室には、佐岡と藤村が座っていた。
「どうぞお座りください」
藤村が指示する。
「体調不良など、ありませんか?」
「ありません」
「それでは、取り調べを始めます」
何かの開幕宣言のように、若い刑事が言い放つ。
「あなたにかけられた容疑は、窒素の窃盗です。逮捕前は否定していましたが、改めて聞きます。どうですか?」
「……」
「寄居さん?」
「……やってません」
反射的に答えていた。
「そうですか。実は我々は、朝比奈工業のある社員に再度、話を聞いてきたんですよ」
開いた手帳を机の上に置き、藤村が続ける。
「勤怠記録を調べた結果、窒素が減っている日に限って、夜の十時まで残業していた者がいたんです」
「……」
「決定的な証拠、つまり、窒素を盗み出している瞬間を捉えた映像が欲しかったのですが、残念ながら、それはありませんでした」
「……」
「その人物ですがね。一度目の事情聴取では、何も知らないと繰り返していました。ただ、二度目で白状しました。しかも、自分の意志でやったわけではなく、他人に指示されて、仕方なくやったと」
元哉の顔がゆがんだ。
「身に覚えがありますね?」
「……さあ」
「オワダセイジさんです」
思わず、両目をつぶる。
「そして指示したのは、寄居さん。あなただと」
「オワダが、そう言ったんですか?」
「そうです。おとといのことです。あなたのお宅にお邪魔した日の午後に、再度、オワダさんに話を聞きましてね。そこで白状したんですよ」
あの日は刑事の追求に遭い、会社に戻る気になれず、そのまま午後休を取ったのだった。
「どうなんですか?」
深いため息をついて、元哉は口を開く。
「……刑事さんの言う通りです。私がオワダに指示して、窒素を盗ませていました」
心なしか、藤村の表情が緩んだように見えた。
「詳しく聞かせてください」
「興味があったんですよ。窒素を摂取すると、酒酔いみたいな症状になるということが」
「私がお伝えした、マティーニ症候群ってやつです」
「はい。その名前は初耳でしたけど、酒を飲まずに酔えると知って、興味があって始めました」
「元々、窒素中毒については知識があったのですね?」
「ええ。ネット検索のレベルですが」
「なぜ、オワダさんに盗ませたんですか?」
「向こうからの提案だったんですよ」
「どういうことですか?」
「もう半年くらい前のことです」
元哉は、頭の中で当時を振り返りつつ話した。
朝、いつものように自転車で通勤していると、交通事故に遭った。
信号のない交差点で、急にバイクが飛び出してきたのだ。慌ててよけた結果、派手に転び、元哉は左の肩と腕を強打した。
幸い衝突はなかったため、自転車は壊れなかった。
相手がフルフェイスのヘルメットを被っていたため、すぐには気付かなかったが、バイクの運転手はオワダだった。
転んだのが元哉だと気付くと、オワダは怪我の心配をするでもなく言い放った。
「ヨリイサン、ケイサツ、カイシャ、イワナイデ」
自分が飛び出してきておきながら、なんという態度だ。
まずこちらの心配をしろ。
そう思いつつも、元哉はオワダの家庭事情を慮った。
社内恋愛で結婚した妻との間にもうけた二人の子供は、まだ未就学児だ。それに、日高市内に新築のマイホームを建てていた。つまり、この交通事故で職に影響が出ることを心配しているのだ。
「ツマモ、アサヒナノ、シャインデシタ。ネ、ヨリイさん。オネガイ」
「ここに留まっていると怪しまれる。ひとまず、君は会社に向かってくれ」
「ヤクソク、シテ。ケイサツト、カイシャニハ、イワナイデ」
「わかったよ。約束する」
安堵の表情を残し、オワダは去っていった。
その日の終業後、元哉は会議室にオワダを呼び出した。
「約束通り、誰にも言ってないよ」
「サンキュー。ワタシ、ナンデモスル」
交換条件を求められ、ある計画が浮かんだ。
その時点では、どうなるのか想像もつかなかったが、やってみる価値はあると思えたのだった。
「デモ、ドウヤッテ?」
「カセットコンロ、わかる? 冬に鍋とかする時に使うやつ」
「ワカル」
「そのガス缶があるだろう。あれを空っぽにして、そこに詰めてくれ」
「ワカッタ」
果たして、オワダは会社にばれることなく、やってのけた。
その後は定期的に、缶の本数も二本、三本と増えていった。
「これが経緯です。最初はばれるのが怖かった。でも誰も疑いを持たなかったし、窒素吸引も一度やってみると、なかなか良くて」
「カセットコンロのガス缶で、どうやって吸っていたんですか?」
「捨てる前にガス抜きするのと同じで、固いものでノズルを押すだけです」
缶があるようなしぐさで、元哉が実際にやってみせた。
「そのやり方で、吸引量はコントロールできるんですか?」
「ええ。慣れてくれば」
ペンを置いた藤村が続ける。
「以前にも話しましたが、オワダさんには、窒素を盗む動機がないんですよ。メリットがない。それなのに窃盗を繰り返していた理由が、これで明らかになりました」
「これだけは言っておきたいのですが、事故を隠したいがための交換条件ですからね。あいつが自ら言い出したんです」
「それは、こちらで捜査します」
「というか、あいつも逮捕されるんですか?」
「それは、捜査情報なので言えません」
「私だけ逮捕されるとしたら、不公平ですよ。あいつだって……」
椅子が床をこする音がした。
佐岡だった。
今までまったく口を開かなかった中年刑事が、おもむろに沈黙を破った。
「ブロック」
「……はい?」
「遠山と窒素を吸引してた時、ブロックに腰を下ろしていたな?」
「……ええ」
「あの夜、畑の中で偶然見つけた?」
「……はい」
「嘘だ」
佐岡の視線は鋭さを増していた。
「いつもあそこで窒素を吸っていた。ちがうか?」
「……」
「答えろ」
「……そうです」
事実だった。
窒素吸引の際、元哉は自宅では絶対にしなかった。
万が一、漏れたら面倒だからだ。
ガス漏れ検知器が、窒素ガスには反応しないことは、ネットで調べて知っていた。だが、それでも万が一を考えて、外での吸引にこだわった。
暑い夏の時期に、わざわざ外出していたのはそのためだ。
佐岡の指摘とおり、元哉は何度も遠山を窒素吸引に連れ出した。その際、近隣住民に怪しまれず、なおかつ座れる場所として見つけたのが、あの畑の中のブロックだったのだ。
「なぜ嘘をついた?」
「……」
「言え」
「……怖かったからです。ばれることが」
この男の特徴なのだろうか。
声が低く、しゃべり方はゆっくりで、抑揚がない。
藤村と違い丁寧な言葉を使わないので、ぶっきらぼうに聞こえる。
「遠山にも、窒素を勧めたな?」
「……」
「そうだな?」
有無を言わせぬ迫力があった。
「……はい」
「話せ」
「一緒に飲んでる時に、窒素吸引の話をしたら、やってみたいと。それで分けてやったんです。そしたら、あいつもはまっていきました」
「遠山が死んだ夜も、二人で吸ってたな?」
「はい。でも、勘違いしないでください。私は強制していません。あいつが欲しいというから、分けてやったんです」
「窒素の缶は、どこだ?」
「家にあります」
「見た目は?」
佐岡の横で、元哉の説明を藤村がメモしていく。
「散歩のとき、缶をどう持ち出した?」
佐岡の尋問は続く。
「どう、ですか?」
「そうだ」
「えっと……。バッグに入れました」
「どんな?」
とっさに、元哉はあるトートバッグの特徴を伝えた。
「それも家にあるんだな?」
「あります」
佐岡の鋭い視線は、注がれたままだ。
「そのバッグに、缶をそのまま入れたのか?」
「はい」
「他に、バッグには何が入っていた?」
「財布くらいです。スマホはポケットに入れましたし」
「本当にそれだけか?」
「……」
「他にもあったんじゃないのか?」
「……」
「答えろ」
「……さあ。覚えてないです。あったかもしれないし、本当にそれだけだったかもしれません」
「あの日の夜以降、そのバッグを使ったか?」
「……いいえ」
「使っていないんだな?」
「はい。大きめなので、普段使いはしないんです。あの夜は、缶を入れる必要があったら、引っ張り出してきました」
背もたれに体を預けた佐岡を見て、再び藤村が質問を口にする。
「ところで、オワダさんに指示するときは、会社で伝えていたのですか?」
「いえ。それだと誰かにばれる可能性があるので、スマホのショートメッセージを送っていました」
「ショートメッセージ? ラインではなく?」
「はい。あいつ、ラインをやらないんですよ」
「社用と私用、どちらのスマホを使っていましたか?」
「会社のです。私用の携帯は、あいつが奥さんに見られる可能性があるからとのことでしたので」
「窃盗指示について、会社では口頭でやり取りをしたことはなかったんですね?」
「最初の一回だけです。あとは、メッセージでした」
「具体的に、どんなメッセージを送っていたんですか?」
「簡単な隠語を使っていました。窒素はゴール、缶の本数はゴール数です。南米出身のあいつはサッカーが好きなので、そろそろゴールがほしいな、ツーゴールは決めてほしい、みたいな感じでした」
「返信は?」
「オワダは返信してきません。メッセージに対してリアクションするだけです」
証拠が残らないよう、メッセージは常に削除していたと付け加えた。
「オワダさんは、もう窃盗はしたくないという類の意思表示を、あなたに対してしたことはありましたか?」
「いいえ」
「あなたの指示には、常に従順だった?」
「少なくとも、私にはそのように見えました」
「ばれなければ、ずっとオワダさんに指示し続けていたと思いますか?」
「わかりません。先のことなど深く考えずに、続けていましたから」
「いつかばれてしまうとは、思いませんでしたか?」
「思いませんでした。最初のうちは不安がありましたが、まったく疑われなかったので、当たり前になっていきました」
「遠山さんも窒素を摂取していたんですよね?」
急に藤村が質問を変えた。
「ええ」
「遠山さんは、窒素が盗品であると知っていましたか?」
「さあ。ただ少なくとも私は、盗品だとは言っていませんでした」
「なんと伝えていたのですか?」
「会社で余ったやつをもらってきたと」
「遠山さんは、それを信じていましたか?」
「わかりません」
「遠山さんのほうから、もし盗品なら吸引はしない、といったような主張はありましたか?」
「ありませんでした。たぶんあいつは、出どころなんて、どうでもよかったんだと思います」
「そうですか」
「あの、なぜそんな質問を?」
もうこの世にいない人間じゃないか。
そう言いかけて、元哉は口を閉ざす。
「遠山さんは、盗品(とうひん)等(とう)無償(むしょう)譲受(ゆずりうけ)罪(ざい)に該当する可能性があるからです」
「トウヒン……。なんですか、それ?」
「盗品だと知っていながら譲り受けた場合、罪に該当する場合があります。もしくは未必(みひつ)の故意(こい)といって、盗品と知らずに受け取った場合でも、犯罪に該当することもあり得ます」
「でもあいつは……」
元哉が言い終える前に、藤村が答える。
「はい。たとえ故人であっても、書類送検はするんです。その後、被疑者死亡で不起訴となります」
「……そうなんですか」
「ところで、あなたは遠山さんと何で連絡を取っていましたか?」
「……ラインです」
「社用と私用、どちらのスマホで?」
「私用です」
質問しては、藤村はメモを取っていく。
「あなたとオワダさん以外で、窃盗に関わった人物はいますか?」
「いません」
「本当ですか?」
「本当です」
「では、窒素以外に会社から盗んだものは?」
「そんなの、ありません」
少し間を置いて、藤村はまた質問の方向を変えた。
「海外事業部長という要職にありながら、会社のものを窃盗する。しかも自分の手は汚さず、社員の弱みに付け込んでやらせていた。それについて、後ろめたさはありませんでしたか?」
「……ありました」
「ありながら、どうして続けていたのですか?」
まるで、社長の朝比奈から問い詰められているような気分だ。
「ばれさえしなければ、大丈夫だと思っていました」
「今、どんな気持ちですか?」
「……深く反省しています」
「本当ですか?」
「はい。心の底から」
「朝比奈社長に対しては、どんな気持ちですか?」
「私を採用してくださったのに、恩を仇で返すようなことをしてしまい、会わせる顔がありません」
「もし損害賠償を請求されたら、きちんと支払う意思はありますか?」
「……あります」
メモを終えると、藤村は佐岡に何やら問いかけた。
佐岡が、首を横に振る。
「一旦、終わります」
元哉は、留置場に戻された。
