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「一八六九年、フランスの神経学者シャルコー(Jean-Martin Charcot)により、筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis:ALS)ははじめて報告された。その後、現在に至るまで依然として根本的治療法がなく、医学の敗北の象徴として、その治療法を見出すことは医学の最上の命題のひとつともいわれている。」
 
「筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis:ALS)は成人発症の神経変性疾患であり、全身の上位および下位運動ニューロンが選択的かつ進行性に変性、脱落していく疾患である。症状としては全身骨格筋の進行性の筋萎縮と筋力低下が主体であり、四肢体幹の筋力低下、構音障害、嚥下障害、呼吸筋麻痺などを生じる。発症年齢は20~80歳代にわたり、近年の報告では発症のピークは70歳代前半で、男女比は3:2であり、日本におけるALSの発症率は2.2人/10万人/年、有病率は9.9人/10万人と推計されている。発症から平均3~5年で死亡するか長期の人工呼吸器装着が必要となるが、ALS患者の臨床像、経過は非常に多彩であり、イタリアからの報告では、13.3%の患者は発症から10年以上生存すると報告されている。」

「週刊 医学のあゆみ」Vol.272 No.6 2020/2/8
(医歯薬出版株式会社)

 私は女のほうが多い環境で育ち、性質上冷酷にして非情なところがあるので、女が泣くのを見ても、何とも思わない。大体女というのはすぐに泣く生物である。中には、周りがおろおろするのを見透かすようにしてわざと泣く奴もいる。女が泣いているときは、放って置けばよい。そのうちケロッとして、すっきりした顔になる。だが、女が怒るときは、注意したほうがいい。何か余程のことが起きている可能性が高い。

 一方、男というのはすぐに怒る。怒鳴ったり喚いたり、中には暴力をふるう馬鹿もいる。こういうときは、放置して、近寄ってはならない。そのうち何ともない顔をして、元に戻る。しかして、男は中々泣かない。男が泣くときは、何か重大なことがその身の内にある。私が人前で泣いたのは、中学一年の時が最後である。いや、ちがう。最近もあった。二年前に、妻が病気で介護が必要なこと、介護と仕事の両立が困難なこと、そして何より、自分の心身の疲労が甚だしく、仕事を休む必要があるということを、当時担任をしていた生徒たちの前で話した時に、ほんの少しだけ泣いた。

 女はすぐ泣く、男はすぐ怒るというのは私の一般論であるが、これはあまり鵜呑みにしないほうがいい。というのも、精確にいうと、男も女も、人によって違うからである。

 おかあは、私の女は、滅多に泣かなかった。おかあが泣くのは、私に酷く虐められたときや、何か余程重大なことがあるときだけである。そして、おかあはすぐに怒る。空腹だったり、部屋が散らかっていたり、息子がいつまでも歯磨きをしなかったりすると、ブチ切れる。東京で劇団に所属し、俳優もしていたおかあは、声が太く、よく通る。まるで舞台から、観客のこころの奥深くまで届くように。その声で喚き散らすものだから、近隣一帯に響き渡る。鳥堀に居た頃は、それがとても恥ずかしかった。沖縄に戻って来たばかりの頃のある日の昼、おかあは当時三歳の息子と、私の母から差し入れされた弁当のオカズの取り合いをして本気で怒り、大声を出した。「おい……いい加減にしてくれや……」と私は頭を抱え、深いため息をついた。おかあは無言で、恐ろしい顔で息子から取り上げた唐揚げだか魚フライだかをもぐもぐと食べていた。

 思えば当時、おかあはすこし変だった。一人ぼっちだった。

 おかあはF岡県M司港の出身。大学まで同地で過ごした。上京してからは私と同棲し、西武池袋線のひばりヶ丘、妊娠して子を産んでからは隣の保谷、西東京市に住んだ。ちなみに上京当初私は無職で、おかあに養ってもらっていた。

 その頃は西東京市という市はなく、保谷市と田無市であったが、後年これらが合併し西東京市になった。東京は京の東という意味だと思うが、その東京の西にあるのが西東京である。行ったり来たりみたいな名だと思った。

 沖縄に戻ったのは私の年来の希望でもあったが、「子育ては沖縄でしたい」と言ったのはおかあである。とはいえ、おかあには沖縄に家族いがいの人脈はない。来沖してすぐに働きはじめ、無職の私と息子を養ってくれたが、職場に友だちがいるわけでもない。

 その頃おかあはよく映画を観に行っていた。あんまりにもしょっちゅう行くので多少苦情を言うと、「わたしにはこれしか楽しみがないんだよ」と大きな声で怒った。

 しばらくしておかあはジョギングを趣味とした。とにかく体が頑丈で、体力もある人である。ジョギングはマラソンになり、その年の那覇マラソンに出場して、簡単に完走した。社交的な人なので、マラソン仲間もたくさんできた。

 おかあはみるみる、異様なほど体力・持久力を身につけ、沖縄だけでなく、全国各地の大会に出場するようになった。さらに、百キロ以上を走る、ウルトラ・マラソンにも出場するようになり、わたしの夢はギリシャのスパルタスロンに出場することだ、と言うようになった。このスパルタスロンというのは、アテネを出発し、スパルタまでの約二百四十六キロを三十六時間以内に走破するレースである。私はちょっと、というかかなり気味が悪かった。

 大会の成績も優秀なので、ウルトラ・マラソンのチームに目をつけられ、そのチームに入った。ニ〇ニ〇年の九月二十九日の夜、この日はあかあの誕生日であったので、私たち三人家族は、儀保の焼き鳥やで、ささやかな酒宴をもうけた。おかあ、私、そして息子の三人である。

 そこで、おかあは急に、というか決意を込めたような感じで、こう言った。

「おかー、もっともっと、走りたい。ウルトラ・マラソンにも、もっとまじめに取り組みたい」

 この願いを、そのとき私は却下した。

 気味が悪かった。
 
 家の近くに保育所がある。ここの子どもたちが集団で、保育士に引率されて散歩しているのを見かけるときがある。

 四十五年前、私もあのようであった。子どもというのは、今も昔も全く変わらない。ちょこちょこ歩いている。笑っている。おしゃべりをする子もいるし、進行方向とは別のところを見ている子もいる。全体的に落ち着きがない。

 山田風太郎がエッセーか何かで、今の私と同じ感慨(かんがい)を述べ、太古より子どもが変わらないのはもったいないような気がする。文明・文化が過去の蓄積をもとに進化するように、子どもも、生まれたときからその蓄積を学んだ状態で生まれれば、経済的ではないか、というようなことを書いていた。

 確かにそうだが、そうとも云えない。世の中そんなに甘くない。文化はさておき、文明は無暗(むやみ)矢鱈(やたら)に進化する。それを担う私たちにしてからが予測が付かない。この、たえざる変化についていくためには、新しい世代は、全く新しい方がよい。経験や学びは、邪魔である。その時々を、その時々のまま見聞(けんぶん)し、これを経験し、学ぶ真っ白なノートが、新しい世代には必要なのである。

 一方だからこそ、子どもというのは半獣半人のようなもので、これを人間のようにするためには、教えが必ず要る。保育士や、その他の周りの大人たちは、気づいていないかもしれないが、実は途轍(とてつ)もない責務(せきむ)を負っている。

 子どもというのは可愛いが、同時にかしましいし、うっとうしい。天使のようでもあるが、時に悪魔のようでもある。これらが大人に成るのは、中々大変な、難儀な事業である。親はなくとも子は育つが、親が全くいなければまともには育たない。みなし児(ご)であれば、親のような大人が必ずいなければならない。しかも親はひとりでは足りない、すくなくとも二人、できうればもっと、大人の親が複数いたほうがよい。
 
 病気のおかあは、どんどん身体が麻痺していった。しゃべることができない。杖を使わなければ歩けない。やがて歩行器を使うようになり、次には車椅子になる。

 自分で食事ができなくなる。自分で飲むことができなくなる。補助用の食器を使うようになり、次にはもう手助けが必要になる。

 子どもがどんどん成長するのとちょうど逆に病状が進んでいく。一人息子を育てたように、私はまた子育てをしているのだと思った。介護というのはやることは子育てと全く同じである。違うのは、身体はもう大人である、また、この病気においては知能や記憶、人格はそのままであることである。

 子育てには子の成長という目に見える成果があるが、介護の成果は見えにくい。みえにくいのだが、あることはある。

 おかあの世話をしながら、私は霊を育てているのだと思った。死後を育てる。

 育児を放棄すると、子は歪む。同じように介護を放棄すると、霊は悪霊となる。その影響は死後(後世)にも及び、介護者やその家族の記憶も呪われる。

 私はそれを畏れ、自分なりにおかあを支えた。その行為は、自分のこれまでを振り返り、また人類史を思い出すものでもあった。

 人間というのは何なのか。生きる意味とは何か。想像ではなく、行為・行動の中でそれを考えることができた。

 介護については、色々なことが有り過ぎて、いちいち書くと長大なものになってしまう。なので、次に各エピソードを短く紹介する。エピソードには題を付す。題に、事件と付いているものは、私とおかあが喧嘩したことを示す。

§

平将門(たいらのまさかど)事件

 おかあがベッドに横になるとき、足をのせるために布団を置いているのだが、この布団を丸まった状態ではなく、ちゃんとたたんで平(たいら)にしてほしいとおかあが要望することを云う

 
マリー・アントワネット

 起きるのも寝るのも、あるくのもたべるのも、トイレも、すべて人にたすけられて行う様子。

 
ペンギン事件

 おかあは生来頑健で、代謝がよく、非常に暑がりである。そのためクーラーの設定温度が極端に下げられており、同室の家族や来客は寒さに震えることが多い。あんまり寒いので、私は「手前(てまえ)はペンギンか、コラ」と怒ったことがある。また、設定温度二十三度以下を示す基準としても使用される。「暑いの?じゃあペンギンにしとくね」など。

 
即身成仏(そくしんじょうぶつ)

 便意があるわけではないが、そのうち訪れる便意に備えて、おかあがトイレに座ったままでいること。長い場合は数時間におよぶ。涎(よだれ)を拭くためのタオルと、無聊(ぶりょう)を慰めるスマホが必須である。

 
無慈悲事件

 仕事から帰ったばかりの疲れている私にたいして、あれをしてほしい、これをしてほしいとすぐに要求する様子。

 
やってる感事件

 おかあの介助者へのおもいやりであるが、起き上がるとき立ち上がるときに、みずからそうしようとする様子、結果的には危険であったり不具合が生じたりする、無駄というか、邪魔である。

 
汲めどもつきぬ泉

 おかあの涎(よだれ)のこと。これは常に流れ出し、やむことがない。

 
現代アート

 食事中のおかあの様子。また食卓の様子。あちこちが汚れ、穢(けが)れ、ティッシュが散乱し、しとどに濡れている。

 
現代舞踏

 運動神経の麻痺したおかあが動こうとする様子。

 
和姦内(わかんない)

 わからないの意。「手前が何を言っているのか、全然、和姦内」など。

 
即(そく)尺(しゃく)

 すぐにの意。また即身成仏ではなく、便意の小の、尿意の意。「成仏ではなく、即尺ですか」など。

 
誰も悪くない事件

 不可抗力のようにして起こる小、大の便の粗相(そそう)のこと。

 
思いやり事件

 何の意味も無く、邪魔でありまた邪悪なこと。日常生活においては何かを思うような暇はほとんどなく、実務的な要請が次々と起こるばかりである、ということ。「思いやりなど、いらない。おれたちが欲しいのは、実効性のある、補助だ」など。

 
呪い

 私たち夫婦の生活全般の様子。

 
感謝

 ありふれていること、誰にでもできること。たとえ体が動かない者でも、人に対してできること。

 
指示待ち人間の逆事件

 指示ばかりして、かしましい様子。

 
スケベ椅子

 シャワーキャリーのこと。立位にならずとも陰部を洗えるように座面が抉(えぐ)れ、スケベ椅子状になっている。

 
告朔(こくさく)の餼(き)羊(よう)事件

 おかあがトイレのあと手を洗うこと。用便後、その股間やお尻を拭うのは私やヘルパーの仕事で、本人が手を洗う必要はないように思えるが、おかあは洗いたがるし、一応習慣として行っていること。
 告朔の餼羊とは、『論語』出典。子(し)貢(こう)が「毎月ついたち(朔)に羊を生贄(いけにえ)にして、祖先の霊に報告奉(たてまつ)る儀式がありますが、これ、儀式はちゃんと行われてないし、羊だけが供えられているだけで、もったいなくないですか。やめませんか」と孔子に相談すると、孔子は「あのねえ、あなたは羊がもったいないという。しかしわたしは、その儀式、礼が失われることがもったいないと思うよ」と言った。羊の生贄だけでも続けておれば、儀礼が復活することもあるかもしれない、と孔子は教えたのである。
 子貢が言っていることは、たとえば、最近は親族のものたちの集まりもわるいし、盆のウンケー(迎え)やウークイ(送り)はやらなくてもよくね、出費も嵩(かさ)むし、ということである。とんでもない話である。

 
枕草子事件

 おかあの施設でのベッドメイキングにおいて、枕の位置は最重要である。自分で身体を動かすことができないため、初期値を固定、安定することは死活問題に属する。その位置は一ミリ単位で、厳格に守られる。
 属して、座(すわり)物語(ものがたり)事件もある。車椅子の座位は、自分で調整することができない。そのため、何度も座り直しのサポートを必要とする。何度も、何度も。

 
死体

 部屋に沢山ある、おかあのぬいぐるみの様子。

§

 ある日(その頃はもう寝るのも起きるのも食べるのも排泄も全てにおいて介助が必要であった)

 座っているおかあから不快なにおいがした。糞便をもらしたのである。

 大丈夫。とおかあに言った。私は自分にも言い聞かせたのである。

 まず車椅子のままトイレに連れて行く。壁に寄りかからせて立たせ、汚れた下着をおろす。股や尻、太腿をウエットティッシュで拭い、車椅子をシャワーキャリーに変えて風呂場に行く。風呂場の介護用のつかまり棒に寄りかからせて立たせ、尻、陰部を洗う。

 大丈夫、大丈夫。

 きれいになった下半身をバスタオルで拭く。あとは新しい下着とズボンを穿かせたらおわり。

 と、おかあが「ひぃ、ひぃ……」と咽び泣く。

「どうした?」

「ひぃ、ひぃ、ひぃひぃ」

 おかあの顔は赤く、汗をかいて首を必死に振っている。

 わからない。

 ぶっ、と音がして、バスタオルと床、私の手と腕に糞便がぼとぼと落ちてくる。

 この時ちょうど、リヴィングの方から「ぐえっ、ぐえっ、ぐえっ、」と猫が吐く音が聞こえてきた。

 このあとやること。

 と私は考えた。まずはおかあをもう一度シャワーに入れること。そして着がえ。トイレと浴室、脱衣所の糞便の処理。それから猫の吐瀉物の掃除。

 おかあと二人きり。広大な宇宙のなかで漂流する宇宙船にいるような気がした。助けは来ない。

 ニ〇二十三年(令和五年)の十二月三十日の夜、私は完全にダウンし、部屋に引き籠もって死んだように横になった。もうお手上げだった。

 年明け早々、おかあは施設に入ることになった。

 私は白旗を上げたのである。新年から、二月ぐらいまでの記憶はあまり無い。

 私のこころは、真っ暗だった。
 
 文字というのが発明されたとき、鬼が泣いたという。というのも自分たちの正体があらわにされたからである。

 これまでは、ただ不明なものとして好き放題にしていた鬼たちは、文字によって名づけられ、その姿に意味が与えられた。

 泣いた赤鬼。もしくは青鬼。

 おかあは、私の最愛の女は、不明な病に憑りつかれて鬼のようになった。ことばを話すこともできなくなり、先史時代に祖先返りをするようであった。

 おかあは一匹の鬼に、修羅になった。

 ことばを奪われたものは鬼になる。こどもになる。私は、この鬼、このこどもをこよなく愛した。常に。愛した。

#私小説
#水仙

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