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『教養としてのアート』をいくら学んでも、ミン・ヒジンにもジョブズにも近づけない。

「指示待ち人間」の価値が急落しています。

逆に言えば、実はこれまで「指示待ち人間」って価値がありました。

リーダーがヴィジョンを描き、プロデューサーがそれを実現するための条件を整えた後、作業を実行するための必要メンバーだったからです。

でも、AIが不眠不休の実行部隊となったばかりか、主体性を持ち始めている2026年。すさまじい勢いで「指示待ち人間」の価値が急落しています。

この話、テック系やビジネス系のメディアではもう何百回と語られています。

先日、大好評をいただいた記事「2026年『人生立て直す』系コンテンツがやたらバズってる件について」で紹介したアメリカのクリエイター・起業家Dan Koeも

「今後10年で最も大切なスキルは主体性だ」

と断言していました。

僕もこれには完全同意です。

もはや「やりたいことがある」のは前提で、次の瞬間には「やっている」人と、「やりたいんだよね」と言ってる段階の人との距離はどんどん開いていく

これは以前からそうでしたが、AIの登場によってその距離は指数関数的に広がっていくことになりました。

(ちなみに僕はDan Koe記事を読んで「Agency(エージェンシー)」という言葉の意味をちゃんと知りました。「自分で選び、決め、行動し、その結果に影響を与える力」だそうです。エージェントとマネージャーの違いも理解しやすいなと思いました)

写真:照沼健太

でも正直、よく実感が持てない人も多いはず。

「主体性が大事」。

言いたいことはわかります。じゃあ具体的にどうすればいいの? という問いに、まともに答えている記事はほとんどありません。

僕はカルチャーの現場にいる視点から、この問いに答えたいと思っています。

なぜなら、ちょうど象徴的な事件が起きたからです。

それが、ミン・ヒジンのooak records騒動。NewJeansを手掛け、K-POP史上最も注目されるクリエイティブディレクターが、新レーベルの船出で「AI疑惑」の集中砲火を浴びました。

この騒動には「AI時代、僕たちに何が問われるか」が全部詰まっています。

筆者プロフィール:照沼健太
ポップアート2.0作家、YouTuber、音楽家。テレビ東京やNetflixのメディア運営、レディオヘッドら数々のアーティストのCD封入解説文、HIKAKIN、米津玄師、押井守、藤本タツキなどのクリエイターや多くのビジネスパーソンの取材を担当。2023年末からはYouTubeチャンネル「てけしゅん音楽情報」を運営(2025年9月末時点でチャンネル登録者数約6.8万人)。

ミン・ヒジン騒動が暴いた「AIバイアス」

まず、何が起こったのかを整理します。

2026年2月5日、ミン・ヒジンが率いる新レーベル「ooak records(オーケイレコーズ)」が、公式SNSで約23本のショートティーザー映像を連続公開しました。ソウル、東京、シカゴなど世界各都市の「架空のレコードショップ」をテーマにした映像群で、途中には「2008〜2013年生まれの男性募集」という電光掲示板も挟み込まれています。

つまり、新ボーイズグループのグローバルオーディションを示唆した内容だったわけです。暗に「これが刺さる/わかる人たち、応募してね」って感じもあるでしょう。

ミン・ヒジンといえば、SMエンターテインメントのクリエイティブディレクター時代からK-POPのビジュアル基準を塗り替えてきた人物です。HYBEに移籍後はADOR代表としてNewJeansをプロデュースし、音楽だけでなくビジュアル面での「美的感覚」が世界的に評価されてきました。その彼女の新レーベルの「第一声」です。期待値は当然、異常に高かったわけです。

しかし、映像が公開された瞬間から批判が噴出しました。

韓国MBC系のiMBCは「ミガム(美的感覚)を強調していたミン・ヒジン、量産型AIショーツがベストだったのですか?」というコラムを掲載。「光や煙の表現が不自然、建物の質感がMidjourney(※有名な動画系生成AI)的、構図がテンプレ的」といった指摘が次々に上がり、「全部AIで作った量産ショーツだ」という批判が一気に広がりました。

これに対してミン・ヒジン側は、次のように明確に回答しました。

「AIは全体のプロセスの中で小さな一部にすぎず、ほとんどは手作業です。実際の撮影から2D/3D作業、モーショングラフィック、サウンドデザイン、カラーグレーディングまで、全部人間の作業です」

制作クレジットには、NCT WISHのMVやNewJeansのコンセプトフォトを手がけた映像監督やフォトグラファーの名前が並んでいます。重要なのは、ミン・ヒジン側が「AIは一切使っていない」とは言っていない点です。「AIはプロセスの一部。だが全てではない」と明言しています。AIを否定するのではなく、ツールとして位置付けたわけです。

正直、僕はこの件にがっかりしました。ミン・ヒジンにではなく、この件について批判していた人たちに、です。

だって、批判の大半は、映像の質を冷静に評価したものではなかったと思うから。

写真:照沼健太

よく見てみてください。批判のロジックはこうです。

  1. 「AIっぽい質感が見える」

  2. 「AIで作った作品だ!」

  3. 「手抜きだ」

  4. 「クオリティが低い」

この連鎖、おかしくないですか?

「AIっぽい質感がある」と「クオリティが低い」はまったく別の話です。

それなのに、AIの痕跡を検知した瞬間に、全体の評価が崩壊する。プロセスの全体像を見ずに、「AI」という単語だけで反射的に全否定してしまう。

まさに「AIバイアス」。日本のSNSでもアニメ・イラスト界隈で多くみられる現象です。

これ、音楽の世界ではとっくの昔に前例があります。オートチューン(Auto-Tune)というピッチ補正テクノロジーが登場した時のことを思い出してください。「オートチューン使ってる=歌が下手」「魂がない」という偏見が蔓延しました。

さらに2000年代後半、ケロケロした声に変換させるエフェクト的なオートチューン使いが広まると、その代表格であるT-Painは嘲笑され、オートチューンを使ったアーティストは「本物じゃない」とレッテルを貼られました。日本だとPerfumeもそんな感じがあったと思います。

でも今はどうですか?

オートチューンを使わないアーティストの方が珍しいくらいです。かつてのBillboardのHot 100を見れば、大半の楽曲に何らかのピッチ補正が入っています。かつての「悪」は、今やスタンダードになりました(アニメの世界でも「セル画からデジタルへ」、漫画では「紙の原稿からデジタル作画へ」といった転換でも似たようなことがありました)。

ツールへの偏見は、毎回同じパターンで現れて、毎回乗り越えられてきました。

問われるべきは、ツールの是非ではない。

「AIっぽい」というだけで中身を見ずに否定してしまう、受け手側のリテラシーの方です。

実際、今回のミン・ヒジンとOOAK Recordsの件についても、プロフェッショナルをはじめとしたクリエイターたちからは擁護の声が上がっています。

「もうAIを使ってるなんて当たり前なのに、ミン・ヒジンばかり批判されるのはフェアじゃない」

そして、AIを使ったことのあるクリエイターなら誰でもわかるはずですが、あの作品群は簡単に作れるものではありません。

(大声では言いませんが、現在進行形で大ヒットしている日本の某アニメ作品にだって、生成AI使われてますよ。気づいてないだけで)

2026年には、3種類の人間がいる。

写真:照沼健太

ミン・ヒジン騒動への世間の反応が面白いのは、AI時代における人間の3類型がそのまま映し出されていることです。

先ほど紹介したDan Koeは「2026年のAIシフト」について書いた記事で、現代人の3類型を定義しています。

  1. 抵抗者(Resisters)

  2. 待機者(Waiters)

  3. 実験者(The Curious)

僕はこの分類がミン・ヒジン騒動に驚くほどぴったり当てはまると感じました。

抵抗者(Resisters)

「AI使った時点でアウト」と全否定する人たちです。

ミン・ヒジン騒動でいえば、iMBCのコラムに乗っかって「量産型AIショーツ」と断じた層がこれに当たりますね。

「美的感覚を強調していたのに、AIに頼るなんて」「これまでのSM・ADOR・NewJeansで見せてきたユニークさがない」——批判の中身をよく見ると、「AI」という単語に反応して思考が止まっています。

Dan Koeはこう書いています。「彼らはアイデンティティを過去のやり方に結びつけている。新しいツールを自己への脅威と見なす」と。

抵抗者が怖いのは、自分が抵抗者であることに気づいていない点です。「AIに反対する自分」がある種の正義感になっていて、それ自体が一つの同調圧力になっています。

待機者(Waiters)

この騒動を他人事として眺めている人たちです。

「ミン・ヒジンのAI疑惑? ふーん、大変そうだね」で終わり。自分の仕事や創作にAIがどう影響するかは考えません。

Dan Koeはこの待機者について厳しいことを書いています。「これまでの技術シフトでは、数年待っても追いつけた。差はリニアだった。しかしAIは違う。差は指数関数的に開く」と。

実際、僕の周りでも「まだ自分には関係ない」と言っている人や「クオリティーが足りない」で保留している人と、すでに日常のワークフローにAIを組み込んでいる人の間に、目に見える差が開き始めています。怖いのは、この差が時間とともに加速的に広がることです。2027年に「そろそろやるか」と思った時には、実験者との差が取り返しのつかないものになっているかもしれません。

実験者(The Curious)

「AIはツール。どう料理するかが実力」と本質を見ている層です。

ミン・ヒジン騒動に対する韓国ネットの反応の中で、僕が最も知性を感じたのはこの層のコメントでした。

「デザイン業界は今どこもAI使ってるのに、なんでここだけ大騒ぎしてるの?」 「AI使ったとして、それ自体が悪いわけじゃない。どう料理するかが実力でしょ」 「あれを"AI一発10分でポン"だと思ってる人は、AI制作やってみたことないでしょ」

冷静ですよね。AIの有無ではなく、アウトプットの質で判断するという態度。これが実験者のスタンスです。

……ぶっちゃけ、この騒動を聞いて、どの反応をしましたか?

もし正直に「AIっぽいな、ちょっと微妙だな」と思ったとしても、それは別に恥ずかしいことじゃありません。

大事なのは、その反応が「AIっぽいから」なのか「映像として質が低いから」なのかを、自分の中で区別できるかどうかです。

僕の答えはこうです。

「まだ存在しない/これから生まれるボーイズグループのオーディション告知なら、世界のどこかに存在しそうだけど存在しない場所・イメージをAIで作るのは、見事なコンセプトメイク。その上でクオリティーや一貫性を保つための手仕事がしっかりと効いている」

そりゃ、全部セットで作れたら理想かもしれませんが、ティザー広告で数十店舗もの景色を作るのは無理。むしろあれだけのバリエーションを作れたのはAIがあったからこそ。つまり、これからの時代のボーイズグループを作ろうとしていることの表明なわけです。

ちゃんとしたクリエイターなら、それくらいのことは考えて仕事します。

AIが「実行」する時代、人間に残るのは「熱」

写真:照沼健太

今が人類史上最大の転換期なのは確実です。

でも、必要とされるスキルがテクノロジーによって「上位レイヤー化」する現象は、歴史上何度も繰り返されてきました。

15世紀のヨーロッパでグーテンベルクの活版印刷術が発明され、写字生は印取って代わられ、やがて「編集者」という新しい仕事が生まれました。編集者の仕事は写字ではなく、何を印刷する価値があるかを判断することです。

18世紀後半から19世紀にかけての産業革命期、手織り職人は機械に代替され、「機械オペレーター」になりました。オペレーターの仕事は糸を紡ぐことではなく、機械をどう制御するかを設計することです。

毎回、同じことが起きています。「実行」が自動化され、「判断」の価値が上がる。

もちろん音楽の現場でも同じことが起きていて、1980年代のリズムマシンやサンプラー、90年代のDTM、00年代のインターネット普及がそれにあたります。

そして今、AIが作曲支援、編曲提案、映像生成をこなすようになり、「作る」こと自体のハードルは劇的に下がりました。

でも同時に、「良いものを選び取る力」の希少価値が爆上がりしているんです。

再び、Dan Koeは先ほどの記事の中で書いています。「誰でも30秒で2,000語を生成できる。平凡で忘れられるライティングは、月額20ドルのChatGPTサブスクで手に入る。ベースラインは氾濫した。しかし天井は動いていない」と。

平凡と卓越の差を分けるもの。それが「Taste(テイスト)」であり、「熱」です。

ここでの「Taste」は、単なる「好み」や「センス」とは違います。僕が定義したいTasteとは、偏愛の蓄積による直感のこと。何千時間も好きなものに没入した人間だけが持つ、「これは良い」「これは違う」を瞬時に判断できる力。理屈ではなく、身体で分かる感覚。

言い換えれば、「熱」です。自分の内側の熱をセンサーに、相手や作品の熱を感じ取る力。

この「Taste/熱」は、本質的に技術論を貫通します。

ミン・ヒジン騒動で「AIっぽいからダメ」と言った人は、表層的な「手作りか、AI製か」というプロセスの判定に終始していて、最終的なアウトプットが良いか悪いかという本質的な判断に至っていません。

AIで素晴らしいアートを作れないなら、あなたは最初からアーティストではなかった。単にPhotoshopというツールが上手だっただけだ。ツールは置き換えられる。ビジョンと主体性は置き換えられない」と、Dan Koeはもっと踏み込んでいます。ミン・ヒジンの件はまさにこの好例ですよね。

カルチャーの世界では、昔からTaste/熱こそが基本でした。レコードレーベルのA&Rは、何千ものデモテープから「これだ」という一曲を選び出します。映画プロデューサーは、何百もの脚本から「今作るべき物語」を見極めます。キュレーターは、何万もの作品から「この文脈に置くべきもの」を判断します。

ビジネスの世界が、ようやく同じ地点に追いついてきたのかもしれません。

AIが実行を代替する時代。誰もが「作れる」時代。残るのは、何を作るべきかを判断できる人間です。その判断力の源泉が、「Taste/熱」です。

主体性の時代。なぜ「好きなもの」に本気の人間が最強なのか?

写真:照沼健太

なぜ、世の中はAIの成果物に対してこうも自信を持って判断できないのでしょうか。

どうして「AIっぽい」という表層に引きずられ、自分の目で良し悪しを決められないのか。

僕の仮説はこうです。自分自身のTasteが「借り物」だから。

誰かの評価基準を借りてきただけで、自分の中に判断の根拠がない。だから「AIっぽい」という外部のラベルに頼るしかなくなります。iMBCが「量産型AIショーツ」と名付けてくれたから、安心してそのラベルに乗っかれる。でも自分一人で「この映像は良いか悪いか」を判断しろと言われたら、途端に自信がなくなる。

Tasteが借り物の人は「判断を外注」するしかないんです。

別にそれ自体を否定するつもりはありませんが、もっとこの世界/現在を楽しむには、判断を外注してる暇はないと思います

では、Tasteはどうすれば鍛えられるのか。

写真:照沼健太

ここで、近年ビジネス界で流行している「リベラルアーツ」に対する僕の正直な違和感を書かせてください。ってか、普通に真正面からの批判です。

「ビジネスに活かすためにアートを学ぼう」「経営者こそリベラルアーツを」という風潮がここ数年続いています。山口周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』あたりから火がつき、ビジネス書の棚には「教養としてのアート」「経営とデザイン思考」といった本が並ぶようになりました。

誤解のないように言っておくと、山口さんの本自体は良い本だと僕は思っています。リベラルアーツにも基本的に同意します。

問題は本の中身ではなく、この本を「読んだ」あとの態度の方です。

  • 「ビジネスに役立つから」アートに触れる。

  • 「教養として必要だから」美術館に行く。

  • 「差別化のために」哲学を読む。

  • 推薦リストに載っていた名画を10枚見て、「美意識、鍛えたな」と満足する。

この時点で、カルチャーへの向き合い方が「指示待ち」と同じ構造になっていることに気づきませんか? リーダーでも、エリートでも、ない

誰かに「これを学べ」と言われて学んでいる。ビジネス書の推薦リストに載っていたから名画を見に行く。

それは主体性の対極です。

この態度を見ると、僕は村上春樹の『ノルウェイの森』に出てくる永沢さんという人物を思い出します。魅力的であると同時に、心底、本当に大嫌いなキャラクターです。

永沢さんは東大法学部のエリート学生で、容姿も知性もカリスマ性も申し分ない。物語の中で最も「スペックが高い」人物です。彼には有名な読書ルールがあって、「死後30年以上たっていない作家の本は読まない」と公言しています。理由は「時の洗礼を受けていない作品に貴重な時間を費やしたくない。人生は短い」から。さらに「みんなと同じ本を読んでいたら、みんなと同じようにしか考えられなくなる」とも言い放ちます。

一見、カッコいいんですよね。知的で、合理的で、自分の基準を持っている。

でも、永沢さんのアートとの向き合い方の本質は、「効率的な情報摂取」です。 歴史が保証した名作だけを選び、自分のシステムに有用な知見だけを抜き取る。感動や共感といった「コントロールできない」体験には近づきません。同時代の作品が持つ混沌や、まだ言語化されていない痛みには触れようとしません。

これ、「ビジネスに役立つからリベラルアーツを学ぶ」という態度と、構造的にまったく同じだと僕は思うんです。

そして村上春樹は、永沢さんのこの態度がどこに行き着くかを、残酷なまでに描いています。永沢さんの恋人・ハツミは、彼の弱さも冷酷さも見抜きながら、それでも彼を見捨てきれなかった女性です。彼女は永沢さんの「人を道具として扱うシステム」の中で消耗し、物語の外側で命を絶ちます。

僕はこのハツミの死が、単なるプロットではなく、象徴だと思っています。

永沢さんの「感情をノイズとして切り捨てる合理主義」、「アートさえも自己差別化のツールとして管理する態度」——それは、ハツミのような人間が持つ美しさ、つまり不器用でも他者に向き合おうとする誠実さ、コントロールできないものを恐れずに抱きしめようとする勇気を、殺すんです。

「教養としてのアート」を効率よく摂取する態度は、永沢さんの読書術と同じです。そしてその態度は、Tasteの源泉になる「偏愛」——コントロールできない、非合理で、時間のかかる、でもだからこそ本物の感覚——、つまり「熱」を、静かに殺します。

Dan Koeが定義する「主体性(Agency)」とは、「許可なく行動し、失敗から修正し続ける力」のことです。彼はこう書いています。

「主体性とは、単なる行動ではない。反復への尽きることのないコミットメントだ。学びと実行を同時に行い、失敗を修正する。心地良い同調に引き戻されることなく、何度でもやり直す」

カルチャーに深く関わってきた人間、とくに何かを生み出し続けてきた人間は、これを自然にやっています。

好きなものを掘る。自分の視点を持つ。発信する。誰にも頼まれていないのに深夜まで音楽を掘る。そして自らの作品も作り始める。これ自体が主体性の最も純粋な形なんです。

そして、この「偏愛の蓄積」こそが、Taste/熱を鍛える唯一の方法です。

写真:照沼健太

ビジネス書の推薦リストから名画を10枚見た人と、好きなジャンルの映画を1,000本見た人では、Taste/熱の総量と解像度が桁違いです。

なぜか?

前者には「自分はなぜこれが好きなのか」という内省のプロセスがないからです。チェックリストを消化しているだけで、偏愛が蓄積されていないんです。

熱量のないフェイクの教養は、Taste/熱を鍛えません。 むしろ「正解を効率よく摂取する」という受動的な姿勢を強化してしまいます。それはAI時代に最も脆い態度です。

なぜなら、「正解の効率的な摂取」はまさにAIが最も得意とすることだからです。

つまり、ビジネスパーソンが本当にTasteを磨きたいなら、「ビジネスに活かす」という目的を一度捨てて、純粋に好きなものに没入する必要があります。 遠回りに見えて、それが唯一の道です。

ミン・ヒジンの本来の強みも、まさにここにあります。

彼女の武器はPhotoshopの技術でも、映像編集のスキルでもありません。何十年も偏愛を蓄積してきた結果としてのTasteです。80年代〜90年代のサブカルチャー、写真、ファッション、映画——彼女がADOR時代にNewJeansで見せた世界観は、そうした偏愛の集積から生まれたものでした。

ツールがAIに変わっても、その蓄積は消えません。逆に、蓄積なしにAIだけ使っても量産品にしかならない。

AI時代のアドバンテージは偏愛の蓄積。これだけはAIにも、一夜漬けのリベラルアーツにも代替できません。

「AIっぽいからダメ」と思った瞬間、あなたは抵抗者になっている。

「ビジネスに役立つから」カルチャーに触れている時点で、Tasteは鍛えられない。

これが結論です。

というわけで本題はここで終わりですが、次の項目では

  1. 経営者/管理職

  2. フリーランス

  3. 会社員/従業員

それぞれの立場で、主体性とTaste/熱をどう鍛えていけばいいのか、僕が考える具体的なアクションを書いていこうと思います。

では、今すぐ何ができるのか?

前章までの議論を踏まえて、ここからは立場別に具体的な話をします。

「偏愛が大事」「主体性を持て」——それはわかった。じゃあ、明日と言わず今すぐ何をすればいいのか。

それを3つに分けて考えていきたいと思います。

  1. 経営者/管理職の場合

  2. フリーランスの場合

  3. 会社員/従業員の場合

なぜ経営者から話を始めるのかというと、これからの時代AIを使うには経営者/管理職の視点が誰にでも必要となるからです。

経営者/管理職の場合

まず問いたいのは「あなたの組織が主体性を殺す構造になっていないか?」ということです。

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