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J-POP誕生前夜の時代「J-POP -1.0(マイナスワン)」

「J-POPが生まれた日」はいつなのか。

いま世界中から注目を集め、K-POPの次なる音楽トレンドと目されている「J-POP」。この潮流を僕たちは「J-POP 3.0」と位置付けています。

なぜ「3.0」なのかについては前回記事で解説していますが、「昭和歌謡が突然J-POPになったの?」と疑問に思う若い世代も少なくないはず。

日本のポップ音楽が「J-POP」と呼ばれる以前の80年代、若手アーティストたちは既存の歌謡曲やフォーク・ロックの文脈を引き継ぎながらも、歌詞やサウンド、ライブ・パフォーマンスにおいて前衛的・革新的なアプローチを模索していました。

そんな時代を、J-POP誕生前夜「J-POP -1.0(マイナスワン)」の時代と位置付け、その見取り図を解説したいと思います。

筆者プロフィール:照沼健太
MTV Japan、株式会社インフォバーンを経て独立。テレビ東京やNetflixのメディア運営、レディオヘッドらのCD封入解説文、HIKAKIN・米津玄師・押井守・藤本タツキなどのインタビューを担当。2023年末からYouTubeチャンネル「てけしゅん音楽情報」を運営(2025年2月末時点で登録者数約5万人)。


1980年代:「歌謡曲からの脱皮」の時代

70年代まで主流だった歌謡曲やニューミュージックが、ロック、ポップス、ダンスミュージックなどと混在・融合した80年代。

当時まだ「J-POP」という言葉は浸透していませんでしたが、エレキ化したRCサクセション、“J-ROCK”の始祖とも言えるBOØWY、ロックとポップスが融合した王道J-POPの雛形的なレベッカなど、ロックバンドが若者から圧倒的支持を得て躍進していました。

また、ダンス/クラブミュージックにつながる文脈ではTM NETWORKが活躍し、これらのバンドブームが着実にJ-POPの下地を作っていきました。

そんな「J-POP -1.0」時代を象徴する存在が、3人の同い年のソロアーティストたちです。

尾崎豊:行き場のないユースカルチャー

「15の夜」や「I LOVE YOU」に代表されるように、尾崎豊は10代の少年少女が抱える孤独や焦燥感、社会への反発をストレートに歌い、多くの若者から熱烈な支持を獲得しました。

ロックを基調としつつ、フォークやバラードなど多様な音楽性を持つ彼の楽曲は、アイドルや歌謡曲が主流だった当時の音楽シーンにおいて異彩を放ちました。思春期の葛藤を普遍的に描きながらも、教育や社会への違和感を鋭く切り取るその歌詞は、今なお多くの共感を呼び続けています。

若くして亡くなったことによる伝説性も相まって、尾崎は「J-POP」成立以前の日本の音楽シーンを象徴する存在であり、「J-POP -1.0」とも呼べるような文化的ムーブメントの象徴と言えるでしょう。

吉川晃司:ロックとポップのファッションアイコン

一方、吉川晃司は独特のビジュアルと演劇的なパフォーマンスによって、ロックに華やかなエンターテインメント性を持ち込みました。

デビュー曲「モニカ」や代表曲「LA VIE EN ROSE」は、キャッチーなメロディとダンサブルなビートで人気を博し、テクノやニューウェーブなど80年代の海外トレンドを巧みに取り入れた音作りも特徴的です。

また、デザイナーズブランドを取り入れた前衛的なファッションや、ライブでの派手なアクションも彼の代名詞。そうしたスタイルは、歌謡曲から脱却しようとする当時の音楽シーンに新たな価値観を持ち込み、後のJ-POPにおけるジャンル横断的な潮流を予感させるものでした。

岡村靖幸:ダンスポップとセルフ・プロデュース

そしてもう一人のキーパーソンである岡村靖幸は、打ち込みを主体としたサウンドにファンクやソウルのエッセンスを加え、日本語ポップスの新たな地平を切り開きました。

「Out of Blue」や「だいすき」などの楽曲には、当時としては革新的なダンサブルなリズムと、甘酸っぱいメロディ、耳に残る中毒性のあるフレーズが散りばめられています。

自作自演・セルフプロデュースによるスタイリッシュなアレンジやエレクトロニックなサウンドメイクは、従来の歌謡曲の枠を超えた斬新さを持ち、ビジュアル面でも独特のセンスを発揮。

そのDIY的なスタイルは、のちの米津玄師やYOASOBI、imaseといったDTM世代のJ-POPアーティストたちの系譜に、先駆者として連なる存在だと言えるでしょう。

もうひとつの「J-POP -1.0」

そして「J-POP -1.0」を語る上で絶対に外すことのできないアーティスト、アルバムがあります。それが……

浜田省吾です。

浜田省吾が1986年に発表したアルバム『J.BOY』は、「J-POP」という言葉がまだ存在しなかった時代に、2枚組の大ボリュームで“日本の若者”を正面から描いた、まさに「J-POP前夜」のマイルストーンとも言える作品です。

タイトルの「J」はJapaneseの頭文字であり、日本で生きる若者の葛藤や夢、そして社会への違和感を投影した言葉として使われました。

1986年というバブル景気直前の高揚感と不安が入り混じる空気のなかで、『J.BOY』は“頼りなく豊かなこの国”に生きる若者の姿をリアルに描き、聴く者に「自分たちは何者なのか?」と問いかけます。

リリースの翌年には国鉄がJRに、1988年にはJ-WAVEが開局、そして1993年にはJリーグと、次々と“J”を冠するプロジェクトが登場。音楽の世界でも「J-POP」という言葉が使われはじめ、浜田のこの作品がその萌芽と重なるのは、偶然以上の何かを感じさせます。

また、ここで無視できないのは尾崎豊との繋がりです。

本作『J.BOY』完成直後にその音源を聴いた尾崎が「自分のことを歌われているみたいだ」と感じ、浜田省吾はそれを肯定したと言われています。

J.Boy 頼りなく豊かなこの国に
J.Boy 何を賭け何を夢見よう
J.Boy…I'm a J.Boy.
J.Boy…
J.Boy…

浜田省吾「J.BOY」

つまり、「J-POP」とは、一朝一夕で誰か1人の天才が生み出したものでもなければ、マーケティングの産物として生まれてものでもない。

さまざまな出自と世代のアーティスト、オーディエンス、彼らの周りにいたあらゆるポジションで音楽に関わり続けた人たちが作り出したものだと捉えられるのでは無いでしょうか。

J-POPの源流を見つめる

もちろんこれらはあくまで一つの視点であり、概略です。

しかし、80年代の音楽が、もはや「歌謡曲」という言葉では括りきれないほど多様で、新しい創造の萌芽に満ちていたことは間違いありません。

RCサクセションやBOØWYといったバンドの活躍によって、若者がロックを自らの表現手段として手にし、吉川晃司や岡村靖幸が海外トレンドと日本的なポップスを掛け合わせることで、バンドサウンドからさらにもう一歩飛躍したダンサブルなアプローチを可能にした。

そして浜田省吾がアルバム『J.BOY』で描き出した“日本人として生きること”への問いかけが、後に「J-POP」という名称にも通じる「J」の必然性を示唆した。

これらの動きが複雑に絡み合いながら、80年代後半から90年代にかけての「J-POP誕生」への道筋が徐々に整えられていったわけです。

日本のポップミュージックは決して一本の直線で説明できるものではなく、無数の音楽的・文化的交差点を経て形成されてきたもの。

「J-POPが生まれた日」は、ある特定の瞬間を指すわけではありません。むしろ、数えきれない試行錯誤や革新、そして思春期の衝動や時代の矛盾といった「リアル」が複雑に折り重なった先に生じた、必然の到達点とも言えます。


以上はあくまで全体を俯瞰するための大雑把な概論ですので、各時代についての詳しい分析や特筆すべきアーティストや作品、話題、そして「J-POP 3.0」の最新情報などは別途記事や動画にしていきたいと思います。

ぜひ、YouTube「てけしゅん音楽情報」のチャンネル登録と、このnoteのフォローして、次の更新をお待ちいただければ幸いです。

(照沼健太)


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