【短編小説(現ファ)】雨、落ちる。 10000字
[HL:雨は世界に垂れ落ちる。2つに分かれていたとしても]
明日の新連載の予告的短編。たまちゃんのシリーズはいつもカフェで始まる。
Prologue.雨の幽霊
「環、お願いがあるんだけどさ」
「うん? ああ、智樹か」
円城環は顔を上げて見知った顔を確認すると、再びタブレットに目を落とす。
ここはクウェス・コンクラーヴェという少々お高めでウッディな、いわゆるお洒落カフェ。その日もランチも過ぎた時間帯だというのにざわざわと混み合っていた。そして環の定位置たるこの席は、店内でも更に奥まった一角にある。日中、環はたいていここで雑誌の原稿を書いている。
「何? 幽霊でも出たの?」
「うん? まあ、出たような、予感?」
「珍しく煮えきらないな」
「見てないから」
環は再びタブレットから顔を上げた。
少しくすんだ明るい金髪をマンバンに結んだ彫りの深い幼なじみは、憂いを含む妙に色気のある瞳で環を眺め下ろしていた。
この男、公理智樹は幽霊が見える。見えるのに見てないというのなら、見えないのだろう。ニホンゴ的におかしいなとは思いながら、環はその意味を考える。
智樹はカリスマ美容師なんてチャラい仕事をしている割には生真面目な奴だ。変な嘘をつかない。酒乱ではあるが、今は酔っ払ってはいなさそうだ。これもまた酒を飲まなければいい奴という駄目な部類だな、と思い直す。
「つまり、……透明な幽霊?」
「透明? いや幽霊はいなくってさ、なんていうか音が聞こえるんだよ」
「音? ラップ音とか?」
パチパチと家が鳴る現象は、木材の収縮や微振動などでよく起こる。
「いや、水の音。ぽたぽたとかジャーとか」
「配管でも壊れてんじゃないの? あとは……ひょっとして低周波とか?」
低周波は普通人間には感じないが、智樹なら何か感じるのかもしれないと思っていると、智樹は困ったように秀麗な眉根を寄せた。
異音が聞こえるくらいじゃ記事にならない。環の興味は半ば失せていた。
環の仕事の1つは季刊異界という極一部にしか知名度のないサブカル雑誌のライターだ。奇妙奇天烈なオカルト記事を日々このカフェでクリエイトしているが、真実に幽霊がいるというならまだしも、異音くらいじゃコマの繋ぎにもならない。
「どうだろ。でも晴れてたんだよ? それにあの音は幽霊な気がする」
「音が、幽霊? 幽霊が音を出している、でもなくて?」
「あ、そう、それだ。音が幽霊」
智樹はやはり、わずかに自問自答しながら環を見下ろした。
大抵の幽霊が見える人間というのは、その目の網膜によって幽霊を視覚的に認識する。そして特定の人間にとっては、その触覚によって幽霊に触れることができるとも聞く。とすればその鼓膜の作用によって音の状態の幽霊に触れて聞くことがありうるのか? 音というのは鼓膜を揺らす物理作用だ。
環はラップ音というものの性質について改めて考え始めた。
「よくわかんないんだけどさ、お前が言う音は雨の音なんだろ?」
「そうそう」
「それじゃあ人間じゃなくて雨の幽霊?」
「えっ? あっ雨の幽霊だから姿が見えないのかな?」
智樹は首をかしげた。
雨が幽霊になったりするのだろうか、と環も首を傾げた。
智樹の言うことは時折よくわからない。けれどもそれはお互い様だ。他人の知覚し得ない感覚を説明するには、他の似た感覚に寄せて説明せざるを得ない。特に智樹は感覚派というのか、なるべくそのままを伝えてくる。だからその器官を有さない環にはうまく理解できない。
「ともかくちょっと見て欲しいんだよ。ただの幽霊なのかどうか」
「ただの幽霊かどうか?」
「そう。なんか変な感じがするんだ。環のやる魔法みたいな」
環は世間の付き合い的にだいたいはやむを得ず、副業として呪術師だとか呪い師だとかをやっている。客観的には一般物理と少々異なる現象を引き起こすが、説明が面倒なので智樹には雑に魔法と言ってある。
「お前、魔法わかんないだろ」
「うん、だから、『みたいな』」
「……仕方がないな」
環はふう、と雨のように湿った息をついた。
1.雨の拍動
智樹の運転する車に乗り込み、向かった先で環は呆然とし、珍しく間の抜けた声が出た。目の前には冒険アニメに出てきそうな鬱陶しい樹林、そしてその隙間からチラリチラリと灰色の建物がのぞいていた。
「智樹、何でこんなところに立ち寄った」
「それがさぁ、酔っ払って気がついたらここにいたんだよね」
「酔っ払って気がつく距離じゃない」
環がそう言ってはみたものの、智樹は酒乱だ。酒を飲んで意識を失い、変な場所で目が覚める。そんなことは日常茶飯事で、いや、それにしたってここは智樹の自宅や店のある辻切区から車で1時間はかかる。
そう逡巡する環の目の前には廃墟、もっと言うと廃校がそびえ立っている。
まだ明るい陽が差し込む中、鬱蒼とした木立をかき分けて進み、その奥に隠れていていた鉄筋コンクリート3階建の建物は、それなりに朽ちていた。一歩足を踏み入れればガラスの破片がザラリと散乱し、深くクラックの入った壁からはパラパラと欠片が零れ落ちる。注意深く割れた窓から入り込んだ廊下や教室の天井は植物の浸食で所々破壊され、その向こうの鉄筋の骨組みが顕になっていた。灰色の塗壁には経年による大きなひび割れシミができている。
ちなみに智樹は理科室の実験台の上で目が冷めたらしい。
「変なところで起きることはよくあるんだけどね」
「勘弁しろよ。それでここには幽霊がいないのか? 逆にいそうだけど」
「いないことはないけど、普通に薄いのがいるだけ。まぁ昼だし?」
確かに幽霊が出るなら夜だな、と環は思い直す。
『普通に薄い』の部分はスルーした。これは智樹の感覚によるもので、どうせ聞いてもわからない。
「水の音もここで?」
「うーん、多分」
「多分? そういえば幽霊は気にならないのに雨音は気になるのか?」
「ああほら、今も聞こえるじゃん?」
「俺は幽霊は見えないし、聞こえない」
環は少々忌々しいとも思いつつ、けれど自身が感知できないということは、やはりその『音自体』が幽霊なのだろうかと思い直す。音が独立して幽霊になるなぞありうるのか。雨音が幽霊になってどうする。
環には俄には信じがたかったが、智樹は頷き、両手をその両耳に覆うようにそっと当てた。
「多分あっち」
「わかるのか?」
「多分だけど。音の幽霊っていうのならさ、よく聞けばわかるかと思って」
「お前が何を言ってるのかわからないよ」
環は智樹の後に付いていく。薄暗い学校だ。背の高い智樹についてくなら周りなど見えない。時折突然現れる障害物を避けながら、たくさんの廊下をくぐり抜けてたどり着いた先は昇降口だった。
「ここが一番聞こえるのか?」
「聞こえない」
「どっちだよ」
「音がいっぱいすぎてよくわからなくなった。ね、雨って空から降ってくるけどさ、その前って海からくるんだっけ?」
昇降口はやたらに広く、何台かの靴箱が倒れて朽ち、湿った臭いを漂わせていた。そして所々、外から侵入したのか蔦が這っている。その出口の先は中庭に繋がっているようだ。中庭といっても生い茂った木々に覆われ、その先は見えない。
「海水が蒸発してできた水蒸気が集まって雲になり、それが冷えたり山にぶつかったりして雨滴になって落ちてくる」
「ふうん? さすが大卒」
「これは小中くらいの知識だよ」
「そうするとこの水の音の幽霊は太平洋から来たのかな」
「近くの池の水が蒸散したのかもしれん」
「浪漫ない」
わずかに不貞腐れる智樹の言を聞き流しながら、環には確かに気になることがあった。
ここはなんだかおかしい。薄っすらと世界の重複を感じる。
世界の重なりの評価という点で、環と智樹の意見は似通っている。
智樹にとって人が生活する世界と霊というものが存在しうる世界は薄氷のように幽けき膜で隔てられている。智樹のようにその感触に鈍感な者は、気付かぬうちに踏み越えてしまう。だからなるべく気をつけて、智樹は何か違うなと思うものには近寄らない。
一方の環にとって世界とはもとより複層的だ。人を含めた様々なものは、その多くの世界にまたがって存在している。だから神社や暗がりといったその境界が通常より曖昧なところでは、人はその隔たりを容易に踏み越えてしまう。
つまるところ、この場所は智樹にとっては世界の境は既に破壊されていて、環にとっては別れているべき複数の世界が溶け合っていた。
「お前はいつもよくこんな変な場所を見つけてくるね」
「アハハ」
「それでどこが無視できないわけ?」
「んーとね、あっち」
尋ねては見たものの、環は何となく予想はついていた。
この先に可哀相な何かがあるのだ。智樹が妙なことに首を突っ込む原因の半分は、智樹自身の性格にある。中途半端に優しい智樹は、単純に可哀想なものを放ってはおけない。
足取りに迷いのない智樹の背中を追って昇降口を抜けると、薄っすらと絹のような雨が降っていた。それが環の髪と肩口を柔らかく濡らす。けれどその湿度は腰より下に伝わることなく蒸散する。既に環たちの現実世界ではあり得ない事象が起きている。
警戒しながら中庭を見渡すと、しばらく先に一本の大きな木が生えていた。ソテツのような木質化した太い幹の所々から、細い桜のようなたくさんの枝が生えている。高さは4メートルほど。最も様子が異なることは、その茶色の表皮はドクリドクリと波打っていた。
この木は現実世界には存在し得ないけれど、2人にとっては通常覗き見うる範囲の奇妙な光景の1つ。環は昇降口を超えた時点でいくつか世界の位相を超え、既に現世と異なる異界に移動したと肌で感じていた。
「ほら、誰か寝てる」
「なんだこれは」
環の眉根に皺が寄る。
その木の真ん中あたりには、人の上半身、頭から胸までが枝のように木の外に突き出しているように埋め込まれていた。
ちょうど環と目線が合う程度の高さで、下半身はきっと木の内側なのだろう。木と人体の境目は曖昧だ。おそらく人ではない。その皮膚はやや青みがかっているし、その表皮はしっとりとしめり、どこか粘着質そうなゲル状のもので覆われている。環はその表面を丁寧に目で負うと、その人間の鼓動が木の表皮の拍動と同期していることに気がついた。とすればやはり、生きている。この人間も、木も。
環は一瞬、その人間に触れたものだか躊躇した。けれども智樹は躊躇も何もなくその首筋に触れた。そしてその人間の瞳が薄っすらと開き、パラパラと降る雨の音が強くなった。
その人間はゆっくりと左右、というより2人を不思議そうに眺める。
環が試しにその眼の前で右手をゆっくり動かすと、その瞳はゆっくりとその動きを追う。
「この子、話は全然通じないんだけどさ、なんか窮屈そうだなと思って」
「またそんなことを」
そう呟きつつ、環は智樹の言に違和感を覚えた。環にはただ木の枝として生えていて、窮屈そうには思えなかったから。
「お前にはどんなふうに見えるんだ?」
「青い子供が木に埋まってて、苦しそうなんだ」
「大まかなところでは一致するな、俺は別に苦しそうにはみえないが」
「そうなの?」
環と智樹は物の見え方が異なる。
それは多分アプローチの違いからくるもので、見え方が異なるということはこの人間は環と智樹で存在の現れ方が異なるということだ。だから環は触れるのはやめた。智樹の感覚器官で接触して問題がなくても、環が接触すると危険なことは往々にしてある。
「それで他には?」
「他? 多分この子が嫌な気分になったらパラパラっていう音が強くなる」
「ああ、だから雨音の幽霊なのか。じゃあこの眼の前の青い人間は幽霊じゃないのか?」
「なんで?」
智樹は実に不審げな表情で環を見つめる。
「この子は幽霊って感じじゃ全然ないじゃん?」
とすれば智樹には普通の子供に見えている。とすれば、幽霊と感じるものは別にある。
「へぇ。じゃあお前には木の脈動と雨が見えてないのか」
「雨? 雨が降ってるの?」
「ああ。さっきからな。それでお前はどうしたいの?」
「この子をここから出してあげたい」
「なんで」
「可哀想だから?」
智樹はさも当然のように発する。
「お前の行動原理はだいたいそれだな」
智樹は再び不思議そうに、肩をすくめる環を眺めた。
やはり智樹は中途半端に善人だ。可哀想な、特に人間や動物であれば助けたくなる。時には妖怪の類ですら。
環は改めて目の前の、智樹が言うには人間を見る。環にはその眼の前の存在は人間には見えなかった。いうなれば妖精とか妖怪だ。なぜならその子、というより木が脈打つ度に雨がどくりと揺れるからだ。つまりこの空間を部分的に支配している。仮にこの人間が俺たちと同じ世界の性質を持つとしても、この世界に既に根を張り、既に俺たちが住む現実世界ではあり得ない存在と成り果てている。
2.雨の境界
環は辺りを見回した。状況を把握する必要がある。
環にとって、様々な世界は重複して存在する平行宇宙のようなもので、薄いオブラートが何枚も重なるように世界を分けて隔てている。その隙間には濃淡あるいは距離の隔たりが存在し、あまりに近すぎれば世界を越えたことに気がつかない。それがいわゆるデジャヴとかジャメヴといったものだ。そしてあまりに世界が離れ過ぎると世界の様相は全く異なり、時には物理法則すらもずれが生じる。それがいわゆるあの世に紛れ込んだとか妖精の世界に入ったといったとか、神隠しの類のものだ。
とはいえこの中庭はそこまで離れてはいない。せいぜい数枚程度の世界差だろう。
ここは環たちの住む現世の位相では廃校となっている。こんな山中にただぽつりと残されていることからも、既に廃校自体が現世から1つ2つは隔てた異界の先にあるのだろう。
そしてこの青い人間のいる位相は座標上は同じ位置に存在しても、現世とは既にかなりの隔たりとずれが生じていて、そのためここから現世を認識することはできない。
その証拠に、昇降口を振り向いてもそこに校舎は存在せず、青々とした森がただぼんやりと広がっている、ように環には見えた。
「おい智樹。お前に校舎は見えるのか?」
「もちろん? 見えなきゃ帰れないじゃん」
「よかった。俺は見えない」
「え? じゃあはぐれたら困るね」
環はやはり自分が見えているものと智樹が見えているものにズレがあると認識した。
「戻るには戻れる。じゃあ認識をすり合わせるか」
環は懐からメモ用紙を取り出し、すらすらとペンで文字を描く。
9枚作り、それを木の周りの地面に等間隔に8枚置いた。
「木はこの範囲内でいいかな?」
「うん。だいたいそんな感じ」
「じゃぁお前が見えるその子の額に1枚貼って」
「……怒られたりしないかな」
「知らん」
その紙は環の認識と少しずれた位置に、中空に浮いて止まった。そして木の拍動は早くなり、雨脚が急に強くなり、まるで嫌がるように眼の前の木にバラバラと雨粒が打ち付けられた。環の体に打ち付ける雨量も増加し、なんだかそれは全てをこの世界に止めようとするようにベトベトと鬱陶しい。
「わ、雨の音が強くなった」
「智樹が見ているのは幽霊じゃなくて人なんだよな? 妖怪の類でもなくて」
「うん。青いけど人間、だと思う」
「俺にとっては青い時点で人じゃないんだけど」
「えっと、魂が人間、ぽい空気?」
浮いて見える紙と木の隙間に、その魂とやらは存在するのかもしれない。
「その紙は現世の紙で、現世のペンで字を書いたから、現世に繋がっている。だからこの人間にとっては現世は苦しいかもしれない。それでもいいのか?」
「うん。帰りたい、ぽい?」
環は智樹の言葉に頷いて更に辺りを観察する。雨は降っているものの、地面に水たまりは発生していない。環に降る雨も膝程度までには達するが、それより下に至る前に乾いて消滅しているようだ。
「奇妙な雨だ。雨は幽霊、なのか」
環は独りごち、懐から3センチ四方の容量の小瓶を2つ取り出し、その1つに土をわずかに採取する。
「何やってんの?」
「試料採取だよ。見分けをつけるのに必要なんだ」
環はもう1つの小瓶を中空にかざして雨粒を集める。現世から持ってきた瓶だから、異界の雨を集められるんだろうかと疑問に思いながら。
「よし、じゃあ校舎に戻るぞ」
「なんで?」
「この人間は世界の隙間に引っかかっているんだよ。俺たちの世界に居たこの人間と、この世界のこの木は性質が似ている、多分。それでたまたま同じ地点に同時に存在したからくっついたんじゃないかな」
「全然似てなくない?」
「外見はな。けれどもようは、これが神隠しだ。この人間と木と切り離す」
「りょ」
環はいつも無意味な説明はしないし、智樹も目的が達すれば構わない。こういうことは基礎知識がなければ話したってわからない。それに智樹も理屈を知りたいわけじゃなく、ただ、その人間を何とかしたいだけなのだ。
中庭と昇降口の間に存在する世界の境界を超えれば環の視界は急に暗くなり、廃校の踊り場が現れた。その境目を確かめて、環は落ちていた木切れをその境界線上に置き、目印に文字を書き付ける。
「智樹。言っておくが、うまく行っても必ずしもお前の思い通りになるとは限らないぞ」
「わかってる。なるようにしかならないよ」
「それならいい」
環は昇降口の少し外側に置いた目印を指す。
「このラインから昇降口側はほとんど現世だ。音の境界を探せ」
「音?」
「お前さっき、ここは音がしすぎてわからないって言ってただろ? 今もか」
「うん」
環は耳をすましたが、境界を越えた以上、環の耳に雨音は既に聞こえなかった。
けれども智樹の認識する青い人間の魂は、智樹の聞こえる雨音にこそ連動しているのだろう。環の推論では、この大きくズレた位相の隙間にあの人間の雨が届き、その音が雨音として智樹の耳に届いているのだ。
この世界を越える実態を伴わない雨、青い人間の涙こそが、智樹にとって幽霊なのかもしれない。
「音が途切れるところが境界だ。だからその境界に沿って世界を切断する。俺はここでは雨音は聞こえない。だからお前が聞き分けて、俺がそこを切っていく」
「面倒くさそう」
智樹は口をへの字に曲げた。
「本当に面倒くさいんだよ。嫌なら帰るぞ」
「ごめんごめん。でもそこかしこから聴こえてくるんだよ、本当に」
「じゃあ聞こえない車近くまで戻れば良い」
「そこまで遠くはないような?」
3.雨の切除
結局、2人は5時間ほど廃校をさまよった。
音がするかどうか。その判断は通常でも極めて繊細な判断を要する。辺縁にいけばいくほど、定かではなくなる。
智樹のつぶやく『音がするような』とか『しないような』といったあやふやな言葉で世界をわたり、ようやく法則を見つけた頃には日が暮れかけていた。当然廃校に灯りなどない。車に乗せてあった懐中電灯で辺りを照らす。世界の明度は更に落ち、見上げた鬱蒼と茂る林に覆われ月明りも期待できなさそうだ。環は暮れきる前に当たりがついて良かったと胸を撫で下ろした。
正直朽ちた廃校は物理的に危険だ。けれども智樹にとっては物理的危険よりもっと気にすべきことがあった。
「酒飲みてぇ」
「今飲んだらぶっ殺すぞ」
「だってそろそろ幽霊出る時間じゃん。帰りに道路に幽霊が飛び出したら轢いちゃうじゃん? びっくりして事故るから嫌なんだよ、酒飲んでない限り夜に車に乗りたくない」
公理智樹は酒乱である。
夜になると幽霊が現れ絡まれすぎるので、酔っ払って前後不覚になるのを毎日の習性にしている駄目人間だ。ろくでもないが、智樹の目を考えると心情的には仕方がない、と思うのは環くらいだった。
けれども環も飲酒運転を是とするわけではないし、環は免許を持っていない。
だから環は既にここで一泊することを決めていた。今日は飯抜きだと残念な気分に陥っていることを、その無表情の下に隠す。
「それってクレンザーなの?」
「意味合い的にはそうだな」
環は理科室に残っていた数少ない割れていないビーカーに車から持ち出したペットボトルの水を入れ、持ち歩いているペンの1本を解体してそのインクを投入すると、じわりと何かが水に染み出す。懐から取り出したたくさんの小さな石をより分け、いくつかの粒をビーカーに投下すれば奇妙な匂いが漂い始める。それを2つのビーカーに均等に分ける。
「調整してるからさ、あの異界の匂いと同じ匂いになったら教えてくれ」
「異界の匂い? 匂いなんてわかんないよ」
「さっき雨を採取しただろう? それとなるべく似た匂いにしろ」
環は智樹に空に見える小瓶を渡すと、智樹は小瓶の口を掴んで掻き回すように軽く回した。環には既に小瓶の中の水は見えなかったが、智樹には確かに見えているようだ。
「わかるかなぁ?」
「ここでは俺には雨が見えない。幽霊になっているからな。智樹が判断するしか無いんだよ」
難しい顔をしながら小瓶に鼻をくっつける智樹を観察しながら、環は慎重に少しずつ石を足したり引いたりしていく。智樹の様子からはやはり一定の匂いの区別はついているのだろう。環にはその差異は全くわからなかったけれども。
「これで同じだと思う」
「そうか? なるべく合わせた方が成功率が高い」
「うう、さっぱり同じ匂いに思えるんだけど。それでそれ何?」
環はもう1つの小鬢を取り出した。環にはカラに見えるが、智樹には土が見えているのだろう。そうすると、土の幽霊なのかと環は混乱する。
「異界の土だ。土は濡れていなかった。だから雨はあの人間が作り出すこの現世に属するもので、土は異界に属するのものだ。俺もあんまり鼻がいい方じゃないんだけどな」
「あの子が?」
環は智樹が水を嗅ぎ分けたのと同じように、土の匂いを嗅ぎ分ける。自分でやる分には手慣れているから、智樹の3分の1ほどの時間でその作業は終わった。そうして目を上げて見渡せば、割れた窓の向こうの世界はすっかり真っ暗で、環はため息をつき、智樹は悲鳴を上げた。
「さっさと終わらせよう。手順を説明する」
「早く帰りたい。お化けが出る」
「まず昇降口に一番近い水場に異界を祓う水を流す。それが浸透し、この学校から異界を祓いきる前にもう一度異界に入ってあの木に現世を祓う水を流す。そうするとその青い人間の現世に所属する部分があの異界の木から分離する。それを捕まえて、ようはその人間を担いで廃校まで逃げる。異界と現世の両方が完全に分離する前にだ。急がないと異界に取り残される、OK?」
「ん。急がないと駄目なんだね」
智樹は力強く頷く。よくわかってはなさそうだが、取るべき行動を把握できていれば問題はない。
智樹は魂がどうのとよく分からないことを言っていたが、あの木の人間は幽霊ではないとは明言していた。とするならば、その青い人間は肉体と魂がセットで異界に捕らえられている。
そして異界側で青い人間が降らせた雨は世界の境界に染み渡り、廃校側の排水管にまで流れ込んでいた。智樹が聞いたのはその配管を流れる雨水の音や、腐蝕した配管やその切れ目からぽたぽたと流れ落ちる水滴音で、それは異界側で降った雨の音だ。だから異界に近い昇降口では音が反響し、重複しすぎて何が何だかわからなくなる。
「これで理屈は全て通ったはず、だよな」
昇降口近くに洗い場をみつけた。
そこに環が土の匂いから調合した異界を祓う水を流す。そうすれば配管を伝って現世と異界が混ざりあった雨のうち、異界部分だけを打ち消しその繋がりを断ち切る。智樹がその耳で調べた範囲では、配管は思ったより遠くまで伸びている。だからこの水が染み渡り、この廃校から異界を消し去るまでしばらく猶予はあるだろう。けれども決して余裕はない。
「最終確認だ。あれを現世に連れ来る、でいいんだな?」
「うん。あの子はそう望んでた。帰りたいって」
「わかった。いくぞ、智樹」
「OK」
環が意を決して昇降口から異界に飛び出すと、雨は一層激しく、バラバラと散弾銃のように環に降り注ぐ。これはあの青い人間の悲鳴だな。そう思いながら雨の中を走り抜けて木まで到達し、さきほど周囲に敷いた紙片を確認する。環にはこれほど雨脚が強く感じられるのに、紙片は全く濡れていなかった。
その紙片に沿って環は智樹が水の匂いから調合した現世を祓う水を流す。これによってこの異界に混じり合った現世の成分が祓われ剥がれ落ちるはずだ。
そしてそれを表すように、智樹が青い人間に貼り付けたはずの中空に浮かぶ紙片がぐらりとゆれ、透明なそれを智樹は抱き止め担いで走り出し、そして慌てた声を上げた。
「どうしよう! 昇降口が分かんなくなった!」
「異界側から現世の縁を断ったからな。現世の昇降口に目印を付けてある。こっちだ」
環の目には先程昇降口に設置した文字を描いた木切れだけがはっきりと見えていた。世界の目印のためにそれを置いたのだ。木切れを飛び越えると視界は急に暗転し、激しい雨音が聞こえた。
「えっ? 雨音? 世界は切れたんじゃ」
「落ち着け智樹。これは現世の雨だ。俺にも聞こえる」
「そ、そっか。よかった」
環にはこの世界の雨の音が確かに聞こえていた。振り返ると真っ暗な中庭の先はただの空き地に見え、森など影も形もなかった。環は現世に戻ったことを確認し胸をなで下ろす。
そして再度振り返り、智樹の担いでいるものを見た。ようやく環は智樹が見ていたものを見ることができたのだ。
「何とか間に合ったな。そこに下ろせ」
Epologue.雨、上がる
智樹が昇降口の床に横たえた人間は未だ異界の影響を受けているようで青い。けれど纏う青い粘液が次第に薄れるにつれて、その姿は白く変化した。そうして白い骨とボロボロの服が現れた。
木に埋まっていたからよくわからなかったが、着ているのは制服のようだ。この廃校の生徒だったのかもしれない。
「やっぱり死んでたな」
「そう……だね」
「ここが廃校になって荒れ果てる程度の時間は経過してたはずだから」
「うん。でもまぁ、ちゃんと幽霊になったから大丈夫だよ」
智樹の視線はその白骨死体から次第に上の方に上がっていく。幽霊になったから大丈夫、というのはよくわからないが、上に上がるということは昇天したということだろう。おそらくこの世界の流れに戻ったのだ。
あの異界に囚われ続けるのと、この現世でその魂を巡回させるのとどちらがよいのか、環にはわからなかった。けれどもこの人間がそれを望んだのであれば、それが一番良いのだろう。幽霊の見えない環は勝手にそう解釈した。
ともあれこれで智樹の頼みは全て解消したはずだ。問題はこの現状だ。そう思って辺りを見渡しても、そこにはただ、真っ暗闇が広がるだけだった。そうして環はこの後の面倒な会話を想像して、取り合わないことに決めた。
「じゃ、帰ろうか」
「断る」
「え、なんで」
「お前は酒を飲まないと運転しない。俺は運転できない」
「ちょ、ちょっと待って。事故ったことはないよ?」
「未来と過去は違うんだ、バカ」
「え、まじで。ここで泊まるの? 本気? ナイナイ、無理。夜の学校って絶対幽霊でるじゃん!」
智樹が悲痛な声を上げたが環に許すつもりは全くなかった。
「大丈夫だ。ここはあの異界に侵されていた。ここで存在を維持できるのはよっぽどな奴しかいない」
「やだ! よっぽどなのが出たら困る!」
「知るか。俺は見えないからな。不貞寝する」
「ちょっと! ちょっとまって!」
環は追いすがる智樹を無視して懐中電灯を頼りに理科室に移動し、その実験台の上に転がると、その日の緊張と疲れも相待りいつしか寝息をたてていた。環は一度寝始めると起きるまで起きない。ニホンゴ的におかしいなと思いつつも、智樹は絶望し、一縷の望みにかけた。その叫びが静かな廃校に響き渡った。
「起きて! 起きてよ! まじで!」
Fin
そんなわけで、新しい連載は環ちゃんと智ちゃんがサスリクヴァという魔法使いなVtuberと闘う話です。いつもどおり宣伝は一話と最終話しかしないのですが、よろしければ是非~。
★表紙

★似た系列の話
幽霊が見える智樹が幽霊に絡まれる話。よく絡まれてる。
★短編小説のマガジン
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