【短編小説(現ファ)】 ムギと姉と金木犀の絵 5800字
[HL:描きたくて、描けない]
「幹谷君はもっといろいろな絵を描いたらどうかな。もっとバリエーションというか」
「はぁ」
「とにかく、もっと挑戦してほしいんだ。君は画家になりたいんだろう?」
「……はい」
幹谷頼久の抑揚のない答えに、担当教授はため息をついた。百年に一度の天才といわれ鳴り物入りでこの芸大に入学当初、幹谷は様々な絵を描いていた。写実的なのにどこか幻想的、ダイナミックなカラーリングでこの世に存在しない何かが目の前に顕現するような圧倒的な絵だ。だから誰もがピカソやモネにならぶ巨匠が日本から誕生すると思っていた。
けれどそれは巨大で美しい線香花火のようなものだったのかもしれない。その素晴らしい才能は激しく人を魅了し、そうしてしぼんで誰にも見えないどこかに転げ落ちてしまったのだ。線香花火の玉が真っ黒になって夜に紛れて見わけがつかなくなったように。
2年後期の今では幹谷は猫ばかり描く。確かに幹谷の描く猫は魅力的だ。けれど画題自体も誰でも書くようなありふれたものだし、第一普通の猫の絵にしかみえなかった。その猫からは偉大な画家の片鱗は、零れ落ちてこなかったのだ。
つまり今の幹谷は本来持っていた才能を十分に発揮できず、又は枯れはてている。数々の学生を社会に送り出してきた担当教授にとって、巨匠となるどころか絵一本で食っていくこともできないと思わせた。何故なら企業に入っても猫以外の絵が描けないなら、絵描きの仕事はない。けれど普通に就職するには、幹谷の才能はもったいなさすぎた。
それ以上何と声をかけていいのかわからないまま口ごもっていると、幹谷の足元で絵のモデルとなっている猫が小さくあくびをした。ムギという名前のおとなしい三毛猫だ。3か月ほど前から幹谷について、芸大までくるようになった。幹谷は猫を見て、そうして視線を上げずに呟く。
「……やってみます」
その返答はいつもと同じで、やはり猫しか描かないんだろうなと思わせた。
面談室から出ると世界は明るく、幹谷は僅かに目を潜める。淡い日差しが様々な角度で反射して、世界に複雑な輝きを浮かべている。黄色く染まる銀杏の並木は目の前の地面に黄色とも茶とも呼べない影をそっと落とし、ゆらゆらと世界をざわめかせる。その風景に幹谷もまた、小さくため息をついた。その揺れ動きが少しだけ、厭わしかった。
「ムギ、君だけを描いてちゃダメなんだってさ」
「ナァ」
短い脚でトテトテと並走しながら、ムギは幹谷を不思議そうに眺める。大学の共用のアトリエに向かい、キィと軋むにロッカーからスケッチブックを取り出す。
「幹谷じゃん。また先生に怒られた?」
声の方を見れば美大予備校からの友人の厚木一幸で、声は自然と不貞腐れた声が出る。
「仕方ないじゃないか」
それはもう、ため息が吐くほど繰り返されたやり取り。幹谷もムギ以外を描きたくないわけじゃない。ムギ以外の他のものが描けないだけで。けれど教授にやれといわれたのだから、一度は試してみようと思っていた。幹谷自身もこの閉塞したどんずまりの現状をなんとかしたいとは思っていた。そうでなければ、すべてを諦めるしかないから。
何を描くか見渡して、厚木のキャンバスが目に入る。壺。そうして部屋の中央に視線を動かすと、描かれたのと同じ壺が置かれている。両方とも動かなさそうだ。視線に気づいたのか厚木は肩をすくめる。
「いい加減そろそろ何か、描いたら」
「お前を描いてもいいんだよ」
「や、それは勘弁して、マジで」
本気で嫌がる厚木に幹谷は小さくため息をつき、無意識にムギをスケッチしようとして手を止めた。
「ムギ以外、か」
ベランダに向かい、のぞく桜の枝を描くことにした。春以外の桜は黒ばんでごつごつして、動かなさそうだ。それに桜の枝ならきっと、一本増えた所で問題はない。鉛筆を紙に滑らせる。直線的なものを描くのは久しぶりだ。ムギは丸いから。それでしばらく書き込んで、手を止めた。まるで紙から飛び出してきそうな桜。だからしばらくその変化を眺め、消しゴムで一部を消せば、背中から声がかかる。
「勿体ない」
「見てたのか」
「……本当に描かないんだな」
「うん。ムギ以外は、うまく描けない」
厚木は幹谷の足元に寝転ぶムギにおそるおそる手を伸ばし、そしてひっこめる。
「触ってもいい?」
「どうかな。どうなってもしらないけど」
「やめとく」
ムギは幹谷が子どものころから家で飼っていた猫で、幹谷の姉が特にかわいがっていた。子どもの頃もこんな風に学校についていこうとして困ったらしい。
「お前さ、本当に就職すんの?」
溜息はたくさんの諦めの一緒にその重さで床に落ちた。
「仕方ないよ。俺はムギしか描けない。だから卒業したら絵をやめる」
「待てよ」
声の温度の差に振り返れば、厚木は唇をかみしめていた。そうして暗いアトリエに、静かに陽が落ちかけていることに気が付いた。ちらりと覗く窓の外の桜の枝も先ほどよりも黒い。
「お前、絵を描くの好きなんだろ。だから美大入ったんだろ。お前が描くのやめちまえば、俺はもうお前に勝てないじゃないか」
「厚木……」
「俺はお前に一度も勝ったことがない。だから、嫌だ」
絵が勝ち負けでないことは厚木にもわかっていた。そしておそらく一生勝てないだろうことも既に悟っていた。幹谷の絵は既に幹谷しか形作れない一つの世界で、だからこそそれが失われることに我慢がならなかった。
「仕方がないじゃないか。描けないんだ。姉さんを描かないと、きっと前に進めない」
「じゃあもう一度だけ試そうぜ。駄目ならまた……俺が消してやる」
幹谷は眉を顰める。以前厚木が幹谷の絵を消した時、二度とこんなことをするなと宣言したのを思い出す。あの時厚木は幹谷が描いた姉の絵を消した。けれどあの時は仕方がなかった。だから幹谷も厚木を責めるつもりはさらさらなかった。
「どういう心境の変化?」
「ただ、嫌なんだよ。お前が絵を描かないのは」
約束した日、幹谷の家に向かう厚木の足は重かった。
並木道を見上げれば、かさかさと揺れる色づいた葉は、吹き寄せる木枯らしの動きに紛れて世界の境界を曖昧にした。さらさらとすべての色を不確かにする銀杏や楓並木の絶妙なグラデーションとゆらぎは、幹谷の絵の具を思わせた。幹谷の絵は、その色は移ろって見える。そして以前絵が描けなくなったと呟く幹谷の家に行った記憶を思いおこし、胃が逆流しそうになる。踵を返そうか悩む。けれども足を進めた。嫌だったんだ。そんな蓋をしたい記憶よりも、幹谷が絵をやめることは。
だから意を決してインターフォンを押した。
「やあ、いらっしゃい」
ガチャリと開かれた扉の奥に、厚木が警戒していたものはいなかった。けれどたくさんのムギの瞳が一斉に厚木を見上げ、思わず後ずさる。
「……増えたな」
「これでもいろいろ描こうとはしたんだよ。でもムギしか描けなかったかや。これでも10匹に抑えてる」
その数こそが、幹谷の苦悩と葛藤の表れだ。描きたくないわけじゃない。
厚木はそう思いながら猫の海をかき分けて幹谷がアトリエにするリビングに足を踏み入れ、現れた顔の欠けた女性の絵に凍り付き、そしてその左右の積みあがるほどの猫の絵が目に入る。ほとんどの猫は顔の一部が白く欠けていた。幹谷はそんなことは気にせず温かいほうじ茶を入れ、湯気がふわりと世界を白くあたためる。
「残してたのか、あの絵」
「安心して。今はムギしか描かないから」
「ああ」
そう呟いてなにげなく足元を見れば、テーブルと椅子を囲むように二人を見上げるムギの瞳に根源的な恐怖を感じ、逃げるように目の前の幹谷を見つめる。
「絵、描きたいんだろ、本当は」
「描きたいか描きたくないかでいえば、描きたい。けど描けないんだよ。ムギだけ描けるのはムギが姉さんにつながっているからだと思う。そうだな、姉さんの絵を描き終わらないと、他の絵が描けないんだ。俺の絵を一番応援してくれて、美大に入れてくれたのが姉さんだから。そうしないと自分の中の区切りがつかない。けどもう姉さんを描くつもりはない。だからもう、全部おしまいってこと」
おしまい。
「なぁ、お前の姉さんはお前が絵を描くのを止めさせたいんじゃないんだろ?」
「そうだね。でもよくわからなくなった」
幹谷が振り返る背後には、今も顔のない姉がキャンバスの向こうから俺たちを眺めている。確かに半年前にみたあれは、人じゃなかった。あの絵の女性の顔の真ん中の白は、厚木がつけたものだ。
「今日は……そうだな。金木犀でも描こうか。秋っぽいし」
人でないことに厚木は安堵する。
秋。このリビングに差し込む光は明るく優しい。今年の夏はことさら暑かった。けれど夏の灼熱は静かに去り、この部屋の隅にもしずしずと秋の温度が降り積もっている。やがて冬がくるだろう。そのような時間の移ろいを感じる季節。
幹谷はスマホをいじって一枚の金木犀の写真を厚木に見せる。どこかの家の庭で、一本の金木犀の木が小さな花の集まりを優雅に吊り下げていた。その写真の穏やかさに、厚木はほっとした。
「これならきっと、前のみたいにはならないから」
幹谷はイーゼルをたて、筆を握る腕はわずかに震えていた。そうしてパレットに赤と白と緑と黄が置かれ、混ぜ合わさってキャンバス全体をオレンジ色に染めていく。
「この金木犀はさ、俺の実家に植わってたやつなんだ」
そのどこか懐かしそうな言葉にキャンパスの中の景色は柔らかく変化し、その奥から秋の風が吹いて落ち葉の香りが漂ってくるのを感じた。
「なつかしいな。案外伸びるのが早いから、伸びすぎると姉さんが適当に剪定してたんだ。ムギはあんまり近寄らなかった。匂いがだめだったのかもしれない」
「へぇ。金木犀、結構臭い強いからなぁ。俺は苦手だ」
「そういう人も多いよね。でもうちの金木犀はあんまり嫌な臭いはしなかった。けど実家はもうないんだ。両親が死んでから手放して、この家に姉さんと引っ越してきたから」
そういえば高校くらいの時に両親が亡くなって、姉弟でこの家に引っ越してきたと聞いた。
パレットに茶色と黒が追加され、金木犀の幹がキャンバスの中を伸びていく。その上に鮮やかに緑の葉が描かれ、そうして最後に小さなオレンジ色と黄色の小さい花々がキャンバスに膨らんでいくうちに、次第に金木犀の香りが漂ってくる。その香りは不思議と甘すぎず、厚木にとっても嫌な臭いとは感じなかった。その分、酷く嫌な予感がした。見下ろせば、3匹のムギが金木犀の絵を遠巻きに、足下で寝ころんでいた。
花びらに白や黒で影が入るたびにその表面はふわりと風で揺れ、秋の光を反射してそよぎ、厚木は思わず目を細める。
そうしていつしか耳の奥にピピピというカネタタキの音やチロリンというマツムシの音が僅かに聞こえ始めた。
「大丈夫そうだ。そう変なことにはなってない」
「十分変だよ。けど前回よりは……」
厚木はしまったという風に口を閉ざす。
「姉さんはもう描かないから」
幹谷の声は、氷のように冷たく震えていた。
幹谷は姉ととても仲が良かった。たった二人の姉弟だった。
1年前に姉がムギと一緒に事故に巻き込まれて死んだ時、幹谷は酷く憔悴して、全身全霊で姉の絵を描いた。心配した厚木がこの家を訪れた時、倒れた幹谷を女がただ、見下ろしていた。それは幹谷が厚木に見せた写真に写った姉にそっくりで、そして決して人ではなかった。だから慌ててイーゼルに立てかけてあった姉の顔を白で埋めて救急車を呼んだ。
その時の感覚が厚木の全身を震わせる。そうしてその気配がどこからかひたひたと近づいてくる。画面に姉はいないのに。
けれどふと、気が付いてしまった。この極めてファンタジックにリアリティをもたらす金木犀の絵の奥には、この写真を撮った幹谷の背後にはあれが、幹谷の姉がいる。そう直感してしまった。おそらく同時に、幹谷も気がついたのだろう。その手に力が入り、何かが込められ、気づけばキャンバスの端からじわりと黒い何かが絵の中に現れ、いつしか目の前にすらりと立っていた。
それは厚木に根源的な恐怖を齎した。かつて生きていた幹谷の姉。そして死んでしまった幹谷の姉。生と死のはざまにある架空的なその姉という概念は、厚木の精神にとって到底許容できないものだったからだ。そうして幹谷に強い執着を抱いていると感じた。今も。
本能的に筆をとる。けれど今回は姉はこの絵には描かれていない。だから何を消していいのかわからなかった。けれど逡巡する間にも姉は幹谷に手を伸ばす。
「姉さん……」
「幹谷。しっかりしろ! 逃げるぞ!」
厚木は幹谷と姉の間に必死に割り込んだけれど、姉は厚木の体をすり抜け更に幹谷に手を伸ばす。その感触にぞわりと皮膚が泡立つ。
「姉さん、会いたかった」
「幹谷! 駄目だ!」
その呼びかけに、幹谷はふと、厚木に視線を戻し、わずかに頷く。
「大丈夫だよ、厚木。前は体を直接描いたから駄目だったんだ。俺がこの絵に描いたのは姉さんの魂だから」
「魂……」
幹谷は懐かしそうにおぼろげな姉に微笑む。
「姉さん。俺はお別れがいいたかったんだ。この間はきっと姉さんは俺を心配してくれたたんだろ? 一人ぼっちになったから」
「幹谷……」
そうして厚木は自分を貫く影がもたらす感情が、つよい不安と心配であることにも気が付いた。そうして申し訳なさ。それから幹谷の絵がとても好きだってこと。
「でも大丈夫だ。だから心配しないで」
しばらく動きを止めていた姉の腕は、幹谷の頭をそっと撫でて揺らいだ。
「そっか。ありがと」
幹谷の細められた瞳から、涙が一筋こぼれた。それはリビングに差し込む秋の優しい光のようで、そうして次第に姉の影は薄くなり、ゆらゆらと揺れる優し気な金木犀だけが残った。その金木犀は確かに幹谷の絵で、幹谷の世界が閉じ込められていた。以前描いていた絵と同じように。
そうしてたくさんのムギが一斉に足元でナァとなき、厚木は構えていた筆を取り落とす。するとたくさんのムギは次々と姉と同じように消えていき、足で耳を搔いている一匹だけが残った。ふと顔を上げれば、一枚を残してムギの絵にはすべて中心に白が入れられていた。
「いいのか?」
「いい。これで姉さんも寂しくないよ。俺は別のを描く」
そう呟いて、幹谷は大きく伸びをした。その目からはこの一年程感じていた翳りは失せて、前を向いていた。だからもう、大丈夫な気がした。
「さて何を描こうかな」
「俺だけは描かないでくれよ。俺が二人いるなんてまっぴらごめんだ」
「どうしようかなぁ」
Fin
ヨルシカのへびの気分で書きました。
最後ちょっとしまらないので、変更するかも。
とりあえずエアな表現があるけど現ファにしたけど、俺も絵によっては音が聞こえたり匂いがしたりするから、普通のドラマでもいいかもしれない。つか印象派の絵ってちょくちょく揺れて見えるよな。
参加しますー。
#灯火杯4th
ご紹介ありがとうございましたー。
世界観という意味で神津っていう共通の箱庭はあるけれど、それぞれすきかってな方向に向いて書いてるんで特に世界観というものはないかも。シリーズはさすがに世界観は共通してるけどシリーズによって向いてる方向はやっぱりばらばらな気がしました。
★同じ話
締切1時間前にかいたバッドエンドな夏Ver。創作がテーマなのに描けなくなっちゃだめだよなっていう。Talesのほうは投げ込むだけで見てないので無反応です。ご了承ください。
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