【短編小説(明治ファ)】 恋の矢 ~明治幻想奇譚 12000字
[HL:あすこにすれ違う二人が御座いますれば、引き寄せてしんぜようかと]
長いので目次。
第1話 春の風と恋の矢
明治17年の晩春。
常城神社の森は宮司がほどほどに管理をしていたが、それでもこの季節は落葉が降り落ちその境内は鬱蒼としていた。その中で男女が、厳密に言えば女がしゃがみこんで木の実やきのこを拾い集め、男がつまらなそうにそれを眺めていた。
「凛。そろそろいくぞ」
「広道様、お待ちください。あ」
小さな木の根につまずいた凛を広道が抱き止めれば、草木の香りがふわりと漂う。すみませんと謝る凛を押しとどめ、空を見上げればわずかに陽は傾いていた。自然と広道の眉根に深い皺がよる。予定より随分時間がおしている。
「そろそろ帰らねばならん。夕餉の用意に間に合わぬだろう」
「大丈夫です。本日は牛の煮込みで既に仕込んで御座いますし、その他の副菜も全て完成しておりますので、配膳するだけです」
凛は自信ありげにそう述べた。
凛は久我山医院の料理番だ。毎日40人分ほどの料理を作る。それを一手に引き受けている。それなりに大仕事だが、凛はその仕事が好きなのだ。だから全く苦にならない。夕刻はいつもなら下ごしらえなどに大わらわな時間であるところ、たまたま久我山家次男の広道が帰宅していたものだから、その日の献立を煮込みと簡単な副菜に変更し、連れ出してもらっていた。見方によっては逢引というやつだ。
広道は無言で凛の手を引き、足元に石があるだの段があるだの注意を与えながら手水舎まで導き、袖をまくらせた手に柄杓で水をかける。
「ありがとうございます」
「構わん。今日はもう終わりだ。そろそろ俺の目も効かなくなる」
「あら。そんなに時間が経ちましたか」
「おそらく四時すぎだろうが、戻れば陽は落ちているかもしれん」
凛は手ぬぐいを使いながら、ふふふと微笑んだ。
「医院まで戻れば私ができますので」
広道の険のある目元を見えていない凛は、そのように答えた。けれども広道はそれも気に入らなかった。
そんな二人を二柱が眺めていた。
一柱は二人のいるこの常城神社の主神。もう一柱は主神にとっては最近沸いた賢しらな羽虫と思われている者だが、主神は面白そうだからと何くれとそれに色々、このあたりのことを教えていた。その柱も細かいことを気にするタイプでもなかった。そして主神は、その羽虫が二人を見てよからぬことを考えている、と何となく感じ取っていた。主神は腕を組み、ニヤニヤと面白そうにそれを見つめる。
「おいクピド。何をするつもりだよ」
「あすこにすれ違う二人が御座いますれば、引き寄せてしんぜようかと」
その声に主神は外を眺めた。手水舎を出ようとする二人の片方からはその差配する医薬の気を感じ、もう片方からは同じく草木の香を感じた。そしてクピドと呼ばれた方も、その二人から差配する愛の気配を感じ取っていた。
けれどもクピドがこの国に現れたのは極最近であり、この国の人間の機微というものが未だよくわからなかった。レディファストの国から訪れたクピドには、仏頂面の広道がその内心を隠して凛を嫌っているような態度を取っているようにしか見えなかったのだ。クピトは自らの役目を恋の仲立ちと自認している。
「あの御仁の様子では、嫌っているようにも見えましょう」
けれども日の本の存在である主神は、なんとなく日本人の感性として、二人が過不足なく好き合っているのだろうなと感じていた。
「ふうん、それでお前はどうするつもりなのだ」
「取りいだしたるこのクピドの弓にて射ますれば、たちまち目の前の相手に思いを寄せまして御座候」
そしてクピドはその背から小さな弓矢を取り出し、構えた。瞬く間に狙いすまして矢を放ち、けれどもその瞬間、凛がよろけたのだ。主神がこっそり強い風をふかせたのだとは、クピトは気づかなかった。
「あっ狙いが」
「あぁあ~、一体どうするつもりだい?」
「……仕方が御座いません。私めが顛末を然と確認して参りましょう」
何より、二柱とも、極めて悪戯好きだったのが運の尽きだ。
「どうした、凛」
「いえ、広道様、立ちくらみでしょうか」
「今日は随分歩いたからな」
広道はそれとなく凛の首筋に手を当て、やや熱を持っているのを感じた。そのためか、凛の呼吸が僅かに早くなっていることに気が付いた。広道は医者であるが、その専門は外科である。内科を専門とする兄の実道であればわかるだろうと思い、さわさわと揺れる野草の籠ごと凛を抱え上げ、神社前に待たせていた馬車で帰路を急いだ。段々と暮れゆく日が、広道にはやけに不穏に思えたのだ。とはいえ急がせた馬車は30分ほどで久我山医院にたどり着く。
「ふむ。まあ風邪の初期症状だ。幸い今日の夕飯は既に用意してくれている。あとはゆっくり休めば良い」
「ありがとうございます、実道先生」
凛は深々と頭を下げた。
「それよりお前だ広道。顔が赤いぞ。測ってみろ」
御一新後に独逸から輸入された貴重な水銀式体温計が気軽に宙を舞い、広道の体温を38度4分と計測した。凛の熱より1度は高い。
「お前こそ休んではどうだ。そもそもお前のことだ。大学病院から休めと追い出されたのだろう? 案外お前の風邪が凛に移ったのかもな」
「む。大分復調したぞ」
「ぶりかえしたんだろう。伊予をつけよう」
「勘弁してくれ」
広道はわかりやすく顔をしかめた。伊予とは実道と広道の妹で、この久我山医院で看護婦をしている。患者の健康管理には極めて厳しい。つまり広道が院内を彷徨い歩いて不用意に風邪引きを増やさないようにとのお目付け役である。
第2話 夜の風と草木深し
広道は、今回の休暇の理由に病院からそんなことを言い渡された記憶があるのを僅かに思い出した。広道が大学病院から追い出されるのは、体調不良か休暇を取らなさすぎで周りの示しがつかぬかの何れかが原因なのだ。そしてその夜、広道を探し回る伊予の声が医院に響き渡った。
「広道兄さん、こんなところで何をしてるんですか!」
「凛が採取した野草を植えておかねばと思ってな」
広道は医院の敷地ではあるものの、少し離れた所にある薬草園で本日凛が採取した野草類を植え替えていた。凛は珍しい草木を見つければ、採取して増やそうとする性質がある。今日もそれで随分と、予定にない徘徊をしたものだ。凛は凛とて毎日食事番として忙しく立ち回っているものだから、そのような機会を自由に許す広道の帰還を待ちわびて、ここぞとばかりに野草を探し回るのだ。
「そんなに適当に植えたらわからなくなるでしょう?」
「凛の畑はどうせこの散らかったあたりだろう?」
「そこは畦です。凛さんの畑はあちら側」
伊予がカンテラを持ち上げて照らした先は、茫々と草木が生い茂り、一部は密林のようになっていだ。
「これだけだ」
広道は野草の入った籠を持ち上げる。どうやら意思は固いらしい。伊予にはここで広道を無理に部屋に戻したところで、夜中に広道が再び抜け出してまた植えるだろうことも見えていた。仕方なく伊予もかがんだ。
「伊予?」
「早く終わらせましょう。二人でやったほうが早いもの」
「すまないな」
「兄さんに感謝されるのは気持ち悪いです」
そうして遠くから新しいランプを下げた3人目の影が現れる。広道の眉間に再び深い皺が刻まれた。
「凛、俺が植えるから寝ていろ」
「兄さんも寝て下さい」
伊予も広道を怒鳴るが、どこ吹く風だ。
「広道先生、その草はその植え方じゃ駄目なのです」
三者三様に溜息を付き、凛も広道も植え終わったら寝ると伊予に誓い、凛の指示に従い、そのやけに生命力の溢れる野草を植える作業を黙々と再開した。
クピトはその様子を医院の屋根の上から眺めていた。そしてどうしようかと考えあぐねていた。
クピトは自らの目的を再確認する。あの凛という女と広道という男を添い遂げさせようと思っているのだ。そして目の下にいる伊予という女は広道の妹らしく、みな同じこの建物に住んでいるらしい。そうして再び矢を番えた。そして今度こそ中てようと、狙いを絞って放つ。
「あっ」
けれどもその瞬間、再び強い風が吹き、再び矢が逸れた。
「はぁ。なんだか私も熱が出てきたように思います」
「伊予もよく寝たほうがいい」
「風邪っぴきの兄さんに医院を徘徊させるわけにはいきません! これだけは私の役目です! 兄さんを野放しにはさせませんからね!」
「怒らなくてもいいじゃないか」
クピトがオタオタしているのを影からニヤニヤと見ているものがいた。常城神社の主神、少彦名命だ。この少彦名は極めて小さい。だから様子を見に行くというクピトの羽に潜んでついていくことなど造作もない。
けれども少彦名はその薬草園に目を見張っていた。
薬草園は二つの区画にわかれていた。整然とした区画と雑然とした区画だ。目を見張ったのは雑然とした区画のほうだ。そこには雑然というよりは渾然一体と、さまざまな癖の強い、本来同じ畑に植えることができない類の草木までがその生命力を発露させて同居していたのだ。中には神威すら感じるものすらある。神というものは我の強いもので、本来その眷属たる草木が仲良くするはずがない。
なのに今も、この凜という女は常城神社から抜いてきた少彦名の神気を帯びた草木を、絶妙な配置で植え付けていく。少彦名には凛はあたかもこれらの草木の巫女か何かのように思われた。
そして少彦名は整然とした方の畑を見た。
ここは医院らしい。雑然とした区画で生える草木の作用は、個別性が強いだろう。医薬として用いるには、安定して予測しやすい作用をもたらす管理された畑で栽培するというのが理にかなっているように思われる。
少彦名は医薬と穀物、知識と呪いの神である。だからそのご利益でも与えようと、簡単な加護を与えることにした。そして満足して神社に帰ってしまった。
その翌朝。広道は一応は大人しく、実道の診察を受けていた。
「広道。具合は本当にいいのか」
「ああ。ピンピンしているとも」
「それでも今日くらいは安静にして下さい。広道兄さんが医院内をうろつけば体調を崩す人が増えます」
「失敬な。この顔は地顔だ」
広道は額に皺を浮かべ、伊予を睨み付けた。正確にいえば睨みつけているように見えるだけで、本人にそのようなつもりは全くない。けれどもそれが暇にあかせて案内をうろつけば、その鬼のような表情を眺めれば、安静に入院している患者が体調を崩すのだ。
「体調がよいのならば、広道に仕事がある。先程神津病院から連絡が来た。昨夜、四風山の採石場が崩れたらしく、多数の怪我人が出たそうだ」
「何。ならば俺は戻らねばならん」
ガタリと広道が席を立つのを実道は制する。
「不要だそうだよ。神津病院ではすでに入院患者で溢れ、受け入れられない。それどころか薬も足りないらしい。それで君のいるうちに助かりそうもない患者を送りたいそうだ」
「なるほど。腕がなる」
広道はやる気に満ちて袖をまくる姿に伊予は溜息をつく。
「広道兄さん、そんな顔をするから患者さんから心臓が止まりそうだなんて言われるんですよ」
そこからはまさに戦場だった。久我山医院に広道がいるということで、助かりそうにない患者ばかりが回されてくる。広道は旧藩立病院、つまり現神津大学病院の外科部長だ。つまりこの神津で最も腕が立つ。そして久我山医院には伊予がいた。
伊予はこれでも18の時に西南戦争に官軍看護婦として従軍している。よほどの惨状にも耐性がある。そして兄妹のこと、病み上がりにもかかわらず、息のあった様子で瀕死の患者を次々と捌き、大半の見込みがないと思われた患者ですらも、一命を取り止めさせたのだ。
第3話 眠りの風と白い医院
その夜のこと。
疲労で僅かに顔色を悪くした広道と伊予がそれでも毅然と食堂に現れれば、実道が夕食を取っていた。久我山医院の夜は、夜間の見回りやらなにやら其々に予定が組まれている。久我山家では朝はなるべく揃って取ることにしているが、夜は別々だ。広道は食堂内を見回した。
「二人とも、お疲れ様。力になれなくてすまないね」
「問題ない。お前も伊予がいないと大変だろう」
「全くね。けれども君たち二人の大変さには及ばないだろう」
なんだかんだと久我山一家は仲が良い。
実道は先代をもこき使い、伊予と数人の看護婦が抜けた穴を埋めたのだ。
「ところで凛はどうした」
いつもであれば久我山家の食卓は、いつ人が現れてもいいよう凛が待機し、給仕をしている。
「ああ。凛は急に入院患者が増えたからね。食事の用意で手一杯だ。今はようやく一息ついて、薬草園を見に行っている」
「そうか。では見に行ってみよう」
どうせ凛が食べるのは最後だ。広道はそれであれば一緒に食べればよいと考えた。伊予と実道はいつも、それを眉間のシワを減らして凛に直接言えばよいと思ってはいるのだが、いくら言っても誰にも伝わらぬので最近は放置している。
その夜は洋々と晴れ、ぽかりと月が出ていた。ランプもいらぬほどだと思いながら広道はその道を進み、そして薬草園の前に棒立ちになっている人影を見つけた。
「凛、どうした。そんなところで」
「広道様、一体何があったのでしょう」
「何が?」
広道は目を眇めたが、その差異はわからなかった。広道は内科を主とする実道と異なり漢方などはまるでわからないし、凛と異なり食用草についても知りはしない。そういえば、昨日見たのより心なしか大きく育っているような気はしなくはない。けれどもそれとて変わりないと言われれば大人しく納得する程度のものだ。
「すまないが、俺には植物はわからん」
「いえ、これは多分私にしかわからないでしょう」
「うん? 妙な匂いでもするのか?」
凛は目が見えない。だからその鼻と耳で全てを把握する。どこに何があるのかさえ。
そしてその困惑は、広道でもその声から聞き取れた。
「匂いが普段の倍は漂っております。ざわざわととても騒がしい」
「害虫か、或いは草木の病でも発生しているのか?」
「いえ、寧ろ逆です。全てが強度の循環をなしております」
「それは良いことではないのか?」
「いえ、過ぎれば全ては毒となる。薬と同じです。一体どうすればいいのでしょう。元に戻って欲しいのに」
その瞬間、広道は奇妙な声を聞いた気がした。それが何だかわからず戸惑っていると、途端に隣で凛が倒れた。
「おい、凛? 凛、どうした……糞」
広道は急いで凛を抱え上げ、医院に駆け戻る。
「ふむ、疲労かな」
「疲労だと? 凛は突然倒れたのだぞ」
「疲労とは、往々にしてそのようなものだよ」
広道は私服に着替えた実道の私室に押しかけて診察を強要すると、実道はあっさりとそのように答えた。けれども広道は心配で仕方がなく、思わず声を荒らげた。おそらく初見の者なら失神しそうな勢いであるが、幸いにも兄である実道は慣れている。
「怒るな広道。私は凛の客観的な症状からの診断を述べている。今は滾々と眠っているようだが、熱も脈も異常はない。患者が激増して仕事が増え、疲れが溜まったのだろう」
「しかし」
「ではお前は何と見るんだ、広道」
実道にそう言われ、広道は二の句は継げなかった。確かに客観的な凛の様子には、取り立てて異常はない。広道は実道が不要だと述べる様々な検査を施したが、やはり異常は検出されなかった。
けれども凛は翌朝も目覚めることはなかった。
食事については仕出しを外注すればよかったが、広道はなるべくを凛に付き添うことにした。予断を許さぬ患者はあったものの、当初の慌ただしさは既に鳴りを潜め、あとは手慣れた回診をこなして異常がないことを確認すれば足りた。
それが5日に及んだ時、広道の目には深くくまが浮かび、広道をよく見知った看護婦ですら、すれ違いざまに悲鳴を上げるような有様になった。
「兄さん、寝て下さい」
「医院の患者の病室には入っていないはずだ」
「兄さんが点滴の薬液を取りに来る度に医局が阿鼻叫喚です。それにお怪我の方々が目を覚まされて最初に兄さんが視界に入れば、あの世に行ってしまいますよ。それにもう随分食事を取ってないでしょう? 骨が浮いてまさに死神にしか見えません」
広道は正しく伊予を睨みつけたが、すでにひと睨みするだけで地獄の獄卒も逃げ出すような風情である。
そして7日目だ。
「凛さんの様態は安定しています。何故か衰弱もしていません。兄さん、仕事に戻って下さい」
「馬鹿な。凛を置いて病院に戻れるか」
伊予は溜息をついた。そしてキッと広道をにらみつける。
「いい加減にして下さい。もう何とかできるのは広道兄さんだけなんです」
「何とか……? どういうことだ」
広道は困惑げに伊予を眺めた。
「実道兄さんも倒れました。いえ、凛さんと同じように滾々と眠っています。けれどもそれは実道兄さんだけじゃない、今のこの久我山医院にいる者は私たち以外全てです」
第4話 呪いの風と薬草園
伊予の突然の言葉に、広道の頭は当初、話の理解が追いつかなかった。
凛が眠りについて3日経った頃には広道が受け持った全ての患者は安定し、だからこそ広道は何かあれば呼べとだけ伊予に伝え、凛の部屋に籠もるようになった。明晰な広道には珍しいことだが、それほど凛のこと以外が目に入らなかったのだろう。
けれども伊予の話では、5日目から院内に昏睡の患者が出始めたという。
「昏睡?」
「ええ。凛さんと同じように眠り、しかも衰弱もしない患者です」
7日目に至り、院内で朝目覚めたのは伊予だけだったという。そんな馬鹿なと思い院内を見回れば、たしかに伊予の言う通り、全ての人間が眠りこけていた。そして奇妙なことがあった。看護婦もみな倒れているため広道が患者の怪我の治療にあたったところ、傷が塞がり何故かほぼ完治していたのだ。
「ありえない。傷自体は縫い合わせはしたが、何故これほど綺麗にふさがっている?」
その回復は広道の経験とも大きく背き、広道をしても異常としか思えなかった。
「わかりません。実道兄さんが最後まで解明にあたりましたが、今朝起きてきませんでした」
「実道が? あいつは病など得ぬと思っていたが」
広道は目の間の険を深め、伊予は患者がみな昏倒していてよかったと溜息を吐いた。
伊予は広道に、几帳面な文字で記載された実道の診療録を渡す。意識を失うことは格別、体の代謝は向上し、病などは内科の病気においても回復していることがその内容から読み取れる。
病は癒える。けれども意識を失う。
その不可解な作用が一体どのような意味を持つのか、広道は頭を捻った。一つだけ、思い浮かぶことがある。けれどもその前に確かめねばならないことがあった。
「欠損が回復した患者はいるか」
「欠損? ……いえ」
「最初に倒れたのは凛だな」
伊予は頷いた。凛が眠り、しばらくして眠る者が増え始めた。伊予もそれに思い当たった。
広道と伊予は実道の記録から昏睡の傾向を探った。
そこから浮かび上がったのは、おそらく凛の次に眠りについたのは広道と伊予の対応した事故の患者であるということだ。
当初は院内の内科の患者が最初に昏倒したものと思われていたが、外科の患者は重症故に、眠り続けていてもおかしくはない。むしろ眠って体を休めるのがよい。それに伊予は看護婦であって医者ではない。だから様態が安定していれば通常通りの看護を行い、それを超えることが起こらねば特段に医者である実道や広道に改めて報告することもない。
そして広道が確認した所、外科の患者は異様な速度で回復していた。
「広道兄さん、これは……」
「検証が先だ」
次に広道は伊予とともに、実道の記した内科の診療録をさらう。実道らしく、実に事細かにその推移を記載している。その診療録の仔細さは、いつも以上だ。
広道は診療録を重症と思う順に並べた。そしてその順番は、1割ほどの例外を除き、眠りについた順番とほぼ一致していた。そして早く眠りについたものほど、回復著しい。
伊予と広道がそのような調査を行っているころ、クピトは頭を抱えていた。
クピトは分類としては神やモノノケと呼ばれる人ならざるものの端くれだ。だからその異常が明確に見えていた。そしてその結果に慄き、ようやく自分がなにをやったか認識した。
異常の発端はやはりクピトの矢である。
クピトの能力は、射たれた者が最初に見た者を愛する矢を射ることである。そしてクピトはその矢を目的、つまり広道に当てようとしていたが、失敗した。しかも2回も。そして広道の代わりに射抜かれたものが問題だ。まさかこんな結果になるとは露とも思っていなかったのだ。
クピトには見えていた。目の前の薬草園の惨状が。
そこは凛が育てていた密林のような区画。そこに生える様々に特殊で、そして強い力を持った草木が一つに絡み合い、神威が高らかに吹き上がり、新たな神とも言える存在を生み出そうとしていたのだ。
確かにそれはもともとクピトの矢の生み出した効果である。けれどもクピトには既にどうしようもなかった。クピトには愛しわせることはできても、その反対、例えば別れさせることはできないからだ。結局その1週間、クピトはなんとか木々の成長を止めようとし、ぷちぷちと抜いたりもしていたが、後から後から生い茂る勢いにとても追いつかず、無理だった。
だからとうとう1週間目にしてクピトは常城神社に逃げ帰り、少彦名に解決を願い出ることにしたのだ。
それと入れ替えに広道と伊予は薬草園に足を踏み入れた。そうして二人は呆然と見上げた。
「何がどうなっているんだ」
一週間前は確かに密林のように草木が生い茂っていたが、今ではそれが寄り集まり、直径が2メートルはあろうかという巨大な木と化していた。そして満開に花が咲き誇っていた。その例えようが難しくあふれかえる香りは最早、広道には異常のものとしか思えなかった。
「兄さん、これが今回の原因だというの?」
「おそらく。凛はここで異常を感じ、その直後に昏倒した」
「そうすればあの木を切り倒せばみんなは目を覚ますの?」
「待て、広道。それは許さん」
振り向けば実道が立っていた。そして広道は実道をにらみつける。
「実道兄さん! 起きたの!?」
「伊予、心配する必要はない。どうせ実道は自分で試しただけだ」
この兄弟は奇妙に仲が良い。だから互いの考えそうなことくらいわかるのだ。そして互いに相手をそれなりに尊敬し、尊重しているものだから、普段は言い争いになることもない。しかし広道にとって、今回はその普段から外れ、心底忌々し気な声がもれた。
「ああそうだね。実験のために軽い下剤を飲んだだけだ。伊予、心配はいらないよ」
実道はいつもどおり優し気な表情を浮かべ、二人を眺める。
「下剤……?」
伊予は兄の無事に安心し、そして唐突に出た下剤という言葉に混乱する。
「伊予、医局には薬など大量にある。実道が飲むのなど容易だろう」
「兄さん、それにしたって、どうしてそんな」
「実道。これは医療ではない。呪術の類だ」
広道は強い口調で声を放つ。
伊予にとって、呪術という言葉は外科医である広道が口にするのに相応しくない言葉に思われた。けれども広道は真に患者の回復のみを希求する。これまでも従来の医学で足りなければ怪しげな民間療法も検討し、時折大学病院から無理やり休みをとらされていることも知っている。だからその解決の方法を医学的常識で安易に切り捨てるようなことはない。
けれど呪術などと、と伊予が驚いていると、実道は当然のように口を開く。
「医療の歴史はもとより呪術に端を発するんだよ、広道。委員の患者はいずれ、完全に回復し、起き上がるだろう」
実道は悠然とほほ笑み、広道は明確に睨みつける。
「ここは医院だ。物質の何が治療という機序をもたらすのか、検証がなされていない。副作用があればどうする。我々が医者を名乗る以上、検証する義務がある」
その答えを実道は鼻で笑う。
「病は治ればよい。その効果が病を治すのならば、眠り続けるという病すら最後には治すはずだ。私が起きたのが何よりの証拠だよ。この木をどうこうしようというのは愚の骨頂だ。医学の発展が大きく進む」
「馬鹿な」
「そもそもだな。例えばお前が用いる麻酔さえ、何故体が痺れるのかの理由などわからないはずだ。なのに使っている、それは『効果があるから』だ」
広道は大きくかぶりをふる。
「麻酔は多くの症例でその効果と危険性が検証されている。だがこの事象、『効果』の保証はどこにある。確かに現在、患者は回復している。そしてお前は目が冷めた。けれどその原因がこの木にまつわるものかはわからない。そもそもお前以外の人間は未だ目覚めていない。どんな副作用があるかもわからん」
実道は目を細め、口角をわずかに上げ、途端に実通の顔から仁医の仮面がするりと剥がれて昏い喜悦が僅かに浮かぶ。
「広道。医学とは、人を治すものだ。あまたの人体実験によって切り開かれてきた。治ればそれでよい。これは圧倒的な回復効果をほこりうる。しかも病の種別は問わない。解明すれば、いわゆる万能の薬というものができあがるのかもしれん」
「実道、お前のやろうとしていることは、この医院の患者を利用した一か八かの人体実験だ。現在一時的に回復の効果を得ているだけかもしれぬ。だが今後は? どのような副作用があるかも皆目検討もつかないだろう。そんなことに凛や俺の患者を巻き込めるか」
第5話 いたずらな風と新しい目覚め
広道は今にも閉じそうな寝不足の目で実道を睨みつける。そして実道は広道の様子を観察する。つまり、交渉の可能性を探った。
「そこが問題だ。前提として、1つ取り除かねばならぬ不確定な事象がある。それは広道、お前だ。お前は何故動いている」
「何?」
「お前は私の記録からこの事象のその機序を既にある程度理解したのだろう? 重症者を眠りにつかせ、代わりに病を治す。その体の働きを増強し、回復を早める」
広道は頷いた。
広道が確認したところでは、本来よりよほど早く皮膚が繋がり、体内に血管が造成され、正しく身体が運行している。この回復の現象が生じたのは広道の患者からだ。広道の患者は極めて重体な者ばかりで、当然のように昏睡し、そして急激に回復している。
そして実道は広道を指差す。
次の実道の言葉に広道は困惑した。
「お前の顔色を見れば、お前は倒れてしかるべきだ。なのに何故倒れない。そして内科の人間で一番最初に眠りについたのは重症な人間ではない。寝たきりの人間が眠りについたのは、おそらく最後だ」
それは広道も実通の記録から認識していた。
一割の例外だ。けれども広道にもその原因はわからなかった。
「私はね、あたりをつけた。昏睡をした人間の行動を調べたのだ」
「行動?」
「そうだ。最後に行き着いたのは、その患者がどのような者かだ。内科で一番先に倒れたのは、最も直近、お前を見て気絶した患者だ。広道」
その言葉に伊予は目を丸くした。
「そういえば……。確かにそうです」
「おい」
「広道兄さんを見て気絶した人たちが一番最初に倒れています!」
「そういうことだ。広道、何故だかお前は昏倒から除外されている。そして昏倒と治療はお前が関与した者を中心として広がっている。お前はどうやって患者を選定している。いや、どうやって操っている」
その実通の予想外の言葉に、広道も僅かに目を開いた。
「操っている、だと? 俺が」
「昏倒させ、回復させる患者を選んでいるのはお前だ、広道」
広道は困惑した。けれどもその内容を吟味し、客観的には広道が行ったと思われてもしかたがないのかもしれないという結論にたどり着く。けれど広道にはそのような認識は全くない。
「俺にわかるわけがないだろう」
その時、広道の耳に声が聞こえた。鈴のなるような声だ。
『君たちは実に優秀だねぇ、おっと、お静かに』
思わず声を発そうとした広道は思いとどまり、口の中で、誰だ、と小さく呟く。
『君たちは先週うちから草木をもってったろう? そこの神だ』
「祟りか」
『違う違う。持ってってもらう分にはかまわないが、少し手違いがあってね、それをもとに戻そうと思うのだが、念のためその結論でよいか確認をしに来た。ここに植えたのは君たちのようだからな』
「何故俺に聞く。……凛が昏睡してるからか」
『まぁ、そうともいうね。さて、どうする』
その神と名乗る涼やかな声は、医学的常識に基づけば否定すべきなのだろう。事実、広道はこの現象は高い確率で疲労による幻聴であると結論付けている。そしてその名乗りから、その根本原因が常城神社の野草の採取であることを連想する。そこからその薬草に幻覚作用があり、不慣れな下働きが凛の作る料理に混入した可能性をはじめ、様々な合理的な可能性を脳裏で計算する。けれどもそれ以外の非合理の可能性も、排除しないのが広道だ。
自らが観測できない常ならぬ現象が生じた可能性、そして最終的にその原因となる何者かが存在したとしても矛盾しないとの仮説をも立てる。そもそもがこの昏倒と超回復こそも、そして自らが扱う病すら、常ならぬ現象なのだ。
「実道。お前の結論は、この昏睡の効果は回復力の増強、なのか」
「……そうだな。ああ、お前もどうせ気づいたのだろうが、もともとないものは回復はしない」
広道は心のなかで頷いた。結局広道にとってこの不可解な現象がどのような理屈でもって回復するのかといった機序は、意味がない。
「やっぱりお前を説得をするのは無理か」
広道の瞳をまっすぐ受けて、実道は諦めたように呟いた。
この昏倒は病を治す。けれども欠損は病ではなく、元より目玉のない凛は回復のしようがない。つまり、この昏倒の効果が回復を求めるものであるのならば、凛は永遠に目を覚まさない。治すべき対象を見失っているからだ。
「切る」
『それには及ばない』
その瞬間、耳をつんざくような音がして、広道は思わず耳を塞いだ。見れば伊予も塞いでいて、けれども実道は不思議そうに突っ立っていた。そしてその視線が広道の頭上にふわりと持ち上がる。広道が振り返れば、薬草園に生え伸びた巨木は生き急ぐように次々と新芽を生やして燃えるように狂い咲き、そしてついには萎びていき、気がつけば元の密林のような状態に戻っていた。
実道は残念そうに呟いた。
「何かが終わってしまったね。何もかもが唐突だ。せめて研究がしたかったのだがな。それで広道、結局何だったんだ」
「俺にもわからん。けれどもこれで凛は目覚めるだろう」
「そうだね、残念……とはいわないよ」
そうして医院は通常に戻った。奇跡的な回復という結果が残された分、それはそれで一つの騒ぎになるのだが、これはまた別の話だ。
常城神社ではいつもどおり、ぽかぽかとした日差しが降り注いでいた。
「吾輩が射たもののせいなのでしょうか」
「そうだね。お前は最初にあの子らが持っていた草木を、そして次はあの園の地面を射た。そこから生えた木々は最初はあの男を見、その望みを叶えようと女の目を治そうとしたが治せず、代わりに男の関与し治そうとした全てを治そうとしたのだろう」
少彦名は最後のひと押しをしたのが自分の加護であるのだろうことは、話すつもりはなかった。
「あの医院は大変賑わっております。そのままでもよかったのではないので御座らぬか」
少彦名は巨木を思い出し、あれは実に見事だったと思い直す。
「クピト、人というものはな、あるがままというのが一番面白いのだよ。けれども人の子らを随分と騒がせてしまったな。この落とし前はどうつけるべきか」
「少彦名様、そのような場合はこのように申せばよいのです」
もし私たち影法師がお気に召さなければ、こうお考え下さい。そうすればすべて円く納まりましょう。皆様方は今までずっと居眠りをされ、その間にいろいろな幻をご覧になったのです。
Fin
この話は好きなんだけど、もっとビジュアルによせたいなぁという気分。
そのうちまた改訂しよう。
注記:シェイクスピアの真夏の夜の夢は、真夏ではなく夏至前なので、季節はそれにのりました。
現代の神津の地図です。
久我山医院は神津北で現代も続いていて、常城神社は辻切区のヒルズの近くにあります~。

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あれ? Upしたのに久我山兄弟が出てくるのってないな。もってきてないや。
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