【短編小説(現ファ)】除霊始めました 9500字
[HL:俺が除霊できるってみんな言うけど、みんなでからかってるんじゃないの?]
ちょっと長いので目次を作ります。
Prologue.おかしな陰陽師
友人の土御門太郎に会いに土御門神社を訪ねると、清涼に佇む山門に貼られた珍妙な張り紙が夏の熱い風にひらひらと揺れていた。
『除霊始めました』
なんだこの冷やし中華始めましたみたいなのは。
その達筆の筆書きはそれだけで威厳を溢れさせる雄渾なものであったが、それを書いた太朗本人の混乱した内心を想像すれば、ひどく残念な気分に陥る。
ぼんやり眺めていると汗が吹き出し、シャツの首元を濡らす。早く中に入れとでもいうようにクマゼミが一声うるさく響き、やれやれと思いつつ山門に足を踏み入れた。
除霊、ねぇ。
それは改めて募集すべきことなのか。心底そう思う。太郎はこの緑の深い神社で宮司をしている俺の幼なじみだ。今日も案の定、社務所で1人、のんびりとほうじ茶を飲んでいた。長めの髪を頭の上の方で適当にくくり、トノサマバッタと縦書きされたTシャツにチノパンで扇風機の前でだらけている。
宮司ならせめて服くらいはきちっとしとけとは思うが、この神社はそもそもあまり人が来ない。問題はないのだろう。
「あれ? 金井じゃん」
「何だよあの張り紙。お前、普通に仕事で除霊やってんじゃん」
それが主に、俺が残念だなと思う理由だ。
「そんなこといってもさぁ。わかんないんだもん」
太郎は口を尖らせて悪態をつく。いつも思うが子供っぽい。
この土御門太郎という幼馴染は随分と変わっている。神社の宮司は仮の姿、とまでは言わないまでもおまけの姿、その収入の大部分を凄腕の陰陽師として稼いでいる。
その仕事は主に県や市、区、町といった行政から直接請け負う。だから近隣住民としては、太郎は宮司だからお祓いくらいはしているだろうという認識は持っていても、陰陽師だなんて人の道に外れた仕事で荒稼ぎしているとは露とも思っていないのだ。
けれどもまさに、太郎はその『陰陽師』という部分が理解できない。
なにせ太郎は退魔の力は6代前の先祖返りといわれるほどに強大であるのに、覚知というか認識というか、ようするに太郎には霊や化け物を見るための霊感というものがまるでない。
そして頼まれて除霊をしても、漫画なんかでよくあるようにMP的なものを消費したりも疲れたりもしないらしい。なので太郎にとって除霊という行為は、ただテケレッツノパァとでも唱えるのと同義なのだ。
それでいて適当に唱えた祝詞はその強大な退魔の力で絶大な効果を発揮し、目の前で展開する不幸やら呪いやらを綺麗サッパリスッキリバッサリと胡散霧消させるものだから、理不尽この上ない。
けれども太郎はその退魔の結果もまた同様に認識できない。だから依頼者にありがとうございますと頭を下げられると、流石にそんなことはないだろうと思いつつも、県ぐるみで騙されているのではないかという一抹の不安が拭えずにいつもビクビクしている。
太郎の力は間違いなく有る。馬鹿みたいに本物だ。
なにせ俺はその不幸の根源も、それがきれいさっぱり消滅したことも見えるのだから。
1.その不穏な家
「それで何でまた、除霊始めるなんて馬鹿な張り紙をしたんだ?」
「馬鹿って……だって近所の人なら嘘ついたりしないじゃんか、と思って」
「嘘ねぇ。で、除霊ってどうするつもりなんだよ」
「祝詞は知ってるから」
太郎はなんだか不満げにそう呟く。宮司なんだから知ってて当然だ。
「汎用の禊祓詞でやるのか? それでお客さんは来たの?」
大抵の神社では『高天原に神づまります』から始まる汎用祝詞で神々に祈ってお祓いをする。確かにこの太郎が唱えれば、それだけで大抵のものなら祓えるだろう。
けれども太郎は眉をへの字に曲げて自信がなさそうに俺を見上げた。
「三田のばあちゃんが最近肩こるっていうから祝詞を唱えたら治ったって言われて蜜柑もらったんだよ。やっぱ俺、かつがれてるんじゃないの?」
「……効いてるって言われても信じないくせに。三田のばあちゃんにとってお前は孫みたいなもんだろ。喜ばれてるんならいいんじゃないの?」
三田のばあちゃんとは土御門神社も端っこに加わる辻切銀座商店街のお茶屋で隠居を決め込んでいる古株だ。俺たちが赤ん坊の頃からすでに婆さんだった。
「それもそうかなぁ、うん。それで何か用なの?」
「何かって、お前がこの間請け負った仕事の話だよ」
「ああ、何を唱えればいいの?」
今度はきょとんと俺を見上げた。
頼まれて仕事の下調べをしたというのに、ひどい言われようだ。少しだけイラっとくるが、気にしても仕方がない。
太郎が県や市といった大きな依頼先から除霊を頼まれると、決まって民俗学者の俺に『何を唱えたらいいの』とオロオロしながら聞きにくる。それで俺が文献やら歴史やらを紐解いて、事件に適する祝詞を選定する。太郎が『それじゃぁ』と言って適当に唱えた祝詞で事件は解決大団円。太郎的には適当に呟いただけで大金が転がり込む。仕事という実感もまるでないし、狐につままれたような気分だということは知っている。なんだかやるせない。
今回は市の払下げ地に拡張途中の遊園地の地下から遺跡が出土し、それ以降工事業者に怪我人やらが出るそうだ。でもまあ今回もその正体は知れたから問題はないだろう。
今はそれよりこの馬鹿な試みだ。
「お前は信用できそうな近所の人にちゃんと除霊できたよ良かったねぇとか言われたいだけだろ?」
「うぐ」
「でもな、大抵の人間は霊なんて見えないから徐冷したかどうかなんて判断がつかないだろ? 第一お前も見えないじゃないか。確認のしようがない」
「お前も市と組んで俺をからかってるんじゃないの」
胡散臭そうな、少しびくびくした目で太郎は俺を見上げた。
「そんな馬鹿馬鹿しいことするか。それに効果がなけりゃ市だってあんな大金を前金で振り込んでくるはずないだろ」
「俺でマネロンしてるとか。詐欺の片棒担いでる気分だ。もう神社やめて普通に就職したほうがいい気がする」
「ばーか。マネロンは回収するまでがセットなんだよ。それになぁ……お前のその性格じゃ就職は無理だ。バイトだって3日も保たないじゃないか」
太郎は後ろ向きな社会不適合者だ。大体のことを悪く解釈してコンビニバイトですら客に嫌われてるのではと思い込み3日でやめた。
そんなことを思っていると社務所のインターフォンが鳴り、返事も待たずにパタリと扉が開かれる。
「太郎ちゃん、いるかな」
「ああ、草刈さん。お入りください」
「表の張り紙のやつだけどね。おっ、金井君、久しぶり」
草刈さんは面倒見のいい近所の金物屋のおじさんだ。昔からフラフラしている太郎を何くれと構っている。
それで草刈さんの知り合いの大家が『人に貸してもすぐ出ていく困った家がある』という話を持ってきた。部屋の中のものが勝手に動いたり変な音がして、気味が悪くて長くても3ヶ月ほどでみんな退去するらしい。
「へぇー! そんなことって本当にあるんですね」
「お前、それを除霊する仕事なんだろ? 面白がってどうする」
「そうだよ太郎ちゃん。やってみるかい?」
草刈さんは大丈夫かなあという様子で目を丸くした太郎に問いかける。太郎のこの反応じゃぁ不安がられても仕方がないというものだ。
太郎は結局のところ、怪奇現象自体は大好きなのだ。自分に何らかの力があるとは思えないだけで。
だから草刈さんに鍵を借りてきてもらい、3人でその一軒家の前に立った。
そこは逆城町外れのこじんまりとした平屋の家。築はそう古くはなさそうだが、外から見ただけで胡乱な雰囲気が漂っていた。
……なんだか嫌な予感がする。
「普通の家ですね」
けれどもやはり、太郎は何も感じないらしい。
「そう? 私はちょっと気持ち悪いかな。太郎ちゃんは何も感じない?」
「ええと、特には」
前の入居者は1週間前に退去し、既に清掃も終え、現在は空き家ということだ。
草刈さんは太郎が凄腕の陰陽師とは知らない。大家との間でも、とりあえず宮司にお祓いをしてもらえれば少しはましかという感覚で話をしたそうだ。だから本格的な除霊を求めているのでもないらしい。
カチャリと回された玄関から入ったその家には、期待した空室の空虚さなどは微塵もなく、得体の知れない何者かの生活臭が溢れかえり、俺は思わず仰反った。草刈さんも同じものを感じたようで、ぐぅとうめき声を上げている。
「何もないねぇ」
「お前、本当に空気読まないな」
「え。何かいる? とりあえずお祓いするよ」
確かに物理的には物も何もない空き家ではあるのだが問題はそこではない。
太郎はリビングでごそごそと持参した紙袋から神主の装束を取り出していそいそと着替え、手にした御幣を祓い給え清め給えとバサバサ振る。
その祓いによって清浄な風は吹き込んだのだが、すぐに得体の知れぬ気配に埋め尽くされた。
「ねぇ、祓えた?」
「まだだな」
「一瞬なんか綺麗になる感じはしたよね?」
「じゃあどうすればいいの?」
「いきなり来てわかるわけないだろ」
そう答えると、太郎は困惑したように眉尻を下げた。
結局こいつは俺に結果を聞くんだよな。俺以外に明確に回答したりはしないから。
2.大変な除霊
「それってどうやったらわかるのさ」
「いつも俺がお前のためにやってるように、調査をするんだよ」
とはいってもここはただの民家だ。とすれば仮に何か霊何かがいるのだとしても、この家に関わることくらいだよな。
「草刈さん、この家に曰くとかはないの? 昔、人が死んだとかさ」
「大家さんもそこは1番気にしてるんだけどさ、ないんだよ。この家が建ってから誰も死んだりしてないし、建つ前は田んぼらしくてやっぱり何もないのさ」
「ですよね」
逆城町は古くからの門前町でなんやかやと曰くがある場所も多いのだが、俺のフィールドワークの知識でもここの辻切南は江戸時代より前から由緒正しく田んぼだった。遺跡があるとか災厄が起きたとか、そんな過去にも記憶はない。
けれども太郎はキラキラした目で俺の袖を引っ張る。
「ねぇ、俺さ。音がするの聞いてみたいんだけど」
「はぁ?」
「だって音がして物が動くんでしょう? 誰も住んでないから泊まったっていいじゃんか」
「そりゃぁねぇ、今日明日で鍵返さなきゃいけないってもんでもないけどさ」
草刈さんは眉をさらに下げ、俺を見つめる。
「俺は帰るぞ。付き合ってられん」
「えぇ~」
面倒だっただけではなく、何やら嫌な予感がした。ここにいるとよくないことがわかる。
俺は訳の分からないことに巻き込まれやすいのだ。『巻き込まれ体質』だとうちのゼミの奴にも言われた。太郎は放っておいても色んな意味で守りが効いているから置いて帰っても大丈夫だろうけれど。
「でも泊まりたいもん」
「太郎ちゃんは仕方ないねぇ。じゃあ後で布団を運んできてあげるよ。あと電気と水は止まってるから夜は真っ暗だし、風呂トイレは近くの銭湯と公園のトイレを使うんだよ」
「えぇ。金井、充電器貸して」
「仕方ねぇな」
馬鹿野郎帰るぞと怒鳴りつけても構わないが、それをすると半月は根に持ってブツブツ言うのだから始末が悪い。やけにはしゃぐ太郎を置いて帰って迎えに来た翌朝、太郎は興奮冷めやらぬ様子で俺の肩を揺さぶった。
「なんか出た! なんか出たよ! ねえねえお化けだよ! 本当にいた!」
「ふうん、お化けねぇ」
太郎の言葉で俺はますます嫌な気分に陥った。
太郎は本人がどう思っていたとしても、超が付く程の陰陽師だ。そして妖かしの類が見える俺はここは何だか嫌な感じはするけれど、そこまでヤバい気配は感じない。先週見に行った、というか今から行く遊園地の現場はこの世の終わりかというほど悍ましい気配が辺り一帯を汚染していたが、ここはまぁ、いうなればちょっとだけなんか嫌だな、という程度なのだ。
「こんな除霊感があるの初めてだよ! 初めて仕事する感じ! そんで何唱えればいいの? 屋船命のやつ?」
「そりゃ地鎮祭用だろ。家建てる許しを得るわけじゃないんだからさ」
「んーそっか。じゃぁ何」
「ここは諦めたら?」
「ええなんで。やだやだ。絶対祓う。祓うんだから!」
太郎はばたばたと手足を動かした。全く聞きやしねぇ。
本当に面倒だな。この家をどうにかする道筋はわからなくもない。けれどもこんな馬鹿馬鹿しい話ったらない。大家は喜ぶかもしれないが、太郎にはなんのプラスにもならない。それが目に見えている。
けどまぁ、よく考えたら太郎が初めてこれ系の仕事を自分取ってきてまともに金をもらおうとしているわけだから、それはそれでいいのかもしれない。そう気を取り直す。
仕事に対する成功体験? そういうものが太郎に必要な気がする。毎回毎回手伝わされるわりに騙されてないのかと愚痴られるのには飽きてきた。そろそろ陰陽師という自覚を持ってほしいが……役にたたないんだろうな。
「うまくいかなくても俺のせいじゃないからな。怒るなよ。その条件なら手伝ってやる」
「祓えなくても怒ったりしないよ。金井のせいじゃないもん……」
そういう意味で言ったんじゃぁないんだがな。
太郎が妙におどおどと俺を見るのは自分にはお祓いなんてできないよな、という自信のなさが根底にあるからだろう。お前の力だ、と言っても一向に納得しないのだ。
「じゃぁ今晩は一緒に泊まるよ。1泊だけだからな」
「そう? よかった。助かる。実はちょっと怖かった」
「それでどこらへんから音がしたんだ」
「んと、あの辺」
それで太郎が指差したのはリビングに繋がる和室の押入れの上部辺りだった。
なるほどね。想像が確信に変わる。
「それより先に市の仕事を片付けようぜ。車出してやるからさ。それで夜に帰ってくるからな」
「わかった」
装束に着替えさせて車に乗せて、地獄の釜かと思うほどの瘴気漂う掘削地で俺が調べた祝詞を唱えさせると、それは綺麗さっぱり消え失せた。本当にもう全く。
俺が指示して掘らせたところから出てきた小さな木棺を太郎に持たせる。工事の人間も木棺の禍々しさと清められた空気の違いがわかるのか、感謝をその表情に滲ませながら太郎に深く頭を下げた。
太郎も何がなんだかわからないままペコリと頭を下げた。
「ねぇね、なんでこれがあそこに埋まってるってわかるのさ」
「みるからにヤバそうな瘴気が土中から漏れ出てたからな」
「徳川の財宝とか見つけらんないの?」
「俺は金属探知機じゃない」
この木棺の中身はおそらく古い神に奉られたなにかの術具で、霊障がないほどに太郎が清めたら俺がもらって研究材料にするのだ。太郎としては適当に神棚において朝晩水を替えるだけの簡単なお仕事らしいが俺には正気の沙汰とは思えない。
市役所に寄って完了報告を済ませる。
担当者が現地確認をした後、太郎に大金が振り込まれる寸法だ。だから今日は前祝いで、チェーンの焼肉屋で少し遅い昼飯をご馳走になり、土御門神社まで送ってほそぼそとした日課の仕事をさせて、夜に件の一軒家に舞い戻るのだ。
「晩飯は弁当を予約しとくから食わずに待っておけよ」
「はーい」
本当の重大な問題はすでに終わった。こっからは実にどうでもいい時間の始まりだ。
3.その家に潜むもの
日常の些事に追われてその家に舞い戻ったのは、夜21時だった。
風呂も済ませて来たものだから、この時間になってしまったのはやむを得ない。この辺りは住宅街も外れで、既に随分と静まり返っていた。太郎以外は。
「ねえ、お腹すいたお腹すいた」
「わかったよ煩いな。すぐ飯にするからさ」
途中でピックアップした弁当からは香ばしい匂いが漂っている。バタバタと玄関扉を開けると、やはり昨日と同様、何者かの息遣いを感じる。昨日大騒ぎしたであろう太郎に辟易してどこかに去ったりはしなかったのか。いなくなっていればよかったのに。
軽くため息をつきつつ、真っ暗な中で持ち込んだ電池起動のLEDライトのスイッチを押すと、小さな明かりがぽぅと無人の家の中で広がる。他人の家に押し入ったような、なんだか嫌な感覚がするが、太郎は露ほども気にせず嬉々として弁当を開ける。ふわりと香ばしい香りが広がった。
「う! な! どーん! 美味しそうだねぇ」
「大人しく食えよ」
「だって南川の鰻丼でしょう? 上がる上がる」
南川というのは創業云十年というこのへんで有名な鰻屋だ。
蓋の内側に閉じ込められた蒸気と共に少し焦げたタレの香りとふっくらとした鰻の香り、それからきりりと炊き上げられた米、それらが一体に蒸らされて渾然一体となって鼻腔に触れるだけでヨダレが溢れ出すというものだ。
そしてガタリと音がした。
「ひゃっ何、何なの?」
「お前この家にお祓いに来てるんだろ」
「えっえっ、じゃあお化け? お化けが出たの?」
太郎はじたばたと俺の後ろに隠れた。ますます馬鹿馬鹿しい気分に陥る。
鰻の香りの充満する暗いリビングに緊張が満ち、ないな。
音がしたのは昼に太郎が指摘した和室の押入れの方角だ。暗闇での追いかけっこはごめん被る。だからお越し願えるのが1番いいと思っていたようだが、上手くいった、のかな。
太郎に静かにするよう手で指示し、太郎を引っ張って玄関口まで戻ってガチャリと扉を開ける。外に出たように装い、足音を立てずにリビング入り口まで戻って様子を伺う。
「あの、鰻丼冷めちゃう」
「ちょっと静かにしろ」
ねぇねぇと袖をゆする太郎を宥めて10分ほど、また、カタリ、と音がした。
太郎がヒィと小さく叫び、南無阿弥陀と唱え出す。本当にうるさいなぁ。
だんだん闇に目が慣れてきた。眼を凝らしていると、ドンと何かが落下するような音、ガと引っかかる音がして障子がするりとスライドし、そこからぬるりと黒い何かが這い出る。
「伽耶固、伽耶固だよ、怨呪! 何唱えればいいの⁉︎」
「テレビ局にでも聞けよ。それより黙れ、気づかれるだろ」
その闇に紛れた何者かは畳に腹がつくほど体勢を低くしながらぞりぞりと床を這うようにリビングに現れ、ライトの端にその細長い指とバリバリに剥がれかけたマニキュアが赤く照らされた。そして引きずるように長いぼさぼさの髪の間でわずかに光に照り返された痩せこけた頬は確かに映画の伽耶固のように白い。
そしてその指先がさらに前に押し出された時、太郎が飛び出した。
この伽耶固もどきが何なのかはもう太郎にもわかっただろう。
「これは俺の鰻丼なの! あげないからね!」
「……ごめんなさい」
「……俺のをやるよ」
LEDに哀れに照らされたのはボロボロの風体の20代の女だった。当然ながらお化けではない。お化けなら太郎が南無阿弥陀仏と唱えた瞬間、消し飛んでいる。
女は鰻丼を食わせたら泣きながら身の上話をこぼし始めた。
この家に住み着いたのは3年ほど前。食い詰めてクリームシチューの香りがした暖かそうなこの家にふらふらと忍びこむと誰もおらず、思わず盗み食いをしていたら奥から人がやって来る気配がしたから急いで押し入れに隠れ、その天袋が開くことに気がついてそのままそこで隠れ住んだそうな。
住人が寝静まった夜や全員が外出した昼にこっそり下りて冷蔵庫を漁り、トイレを借りていたらしい。時にはシャワーも。
図太いな。
そもそも素で退魔の力に溢れる太郎の近くで霊障を起こせるなんぞ神代から存在するような強大な霊や大妖くらいだ。そんな雰囲気もないただの一軒家で音がするなら、それは純粋な自然現象か人間の仕業だ。押入れには天袋があって屋根裏に上がれる仕組みになっていることが多い。だから太郎が押し入れから音が聞こえたと言った時点で、屋根裏に誰かいるんだろうなと思っていた。
けれども誰がいるかわからない。危ないやつかもしれない。だから様子のわからん屋根裏に上って捕まえるのは御免被る。
草刈さんに伝えてお仕舞にしようと思ったけれど、それじゃ太郎の気がすまないだろう。なんとなく匂いでつられて降りてきたりしないかなと思ったわけだ。まさか本当に降りてくるとは。
案の定、太郎は酷く残念そうな複雑な声で呟いた。
「じゃあお化けなんていなかったんだ」
太郎は自分に霊能力があるとは思えないけどあったら格好いいなと思っている。
全く馬鹿馬鹿しい話だ。だからまぁ、ちょっとは溜飲が下がるようにしてやるというのが友達の役目だろう。
「いないわけでもない」
「でもこの人お化けじゃないじゃん」
「すみません……」
「いや、あんたが謝る必要はない。こいつの誤解なんだから。なあ、それより天井裏に上がってもいいか」
「それは……はい」
Epilogue .怪異の原因
LEDの懐中電灯を引っさげて天袋から天井裏に渡る。押入れの中は予想通りリフォーム済みで綺麗だったが、天井裏も予想外に埃はたまっていなかった。
その代わりに妙な生活臭が漂い、3年間のうちにこの女がどこからともなく手に入れたのか、毛布やら雑誌やらなんだかよくわからないものが溜め込まれていた。使用者が女性だからかそれなりに綺麗には片付いている。
結局のところ、この家には俺に嫌な予感をもたらすもの自体は存在するのだ。何となくその場所はわかる。だがライトを当ててもよくわからない。
「何してんの?」
「この柱のところ」
「うわ。何これちょっと気持ち悪」
「何がある?」
「何ってカタツムリ? でも違うかも。尖った巻貝? 白くて変な色」
「巻貝? 陸丁子貝の仲間か何かかな」
ともあれ俺が見えずに太郎が見えるというのなら、その貝が俺の認識にエラーを発生させているのだろう。蛤は蜃気楼を吐くというが、そういう類のものかもしれない。それで太郎はその超絶な退魔力で、貝のもたらすエラーの影響を受けない。だから普通に見えるのだ。全く変な話だ。
「それが気持ち悪さの原因だ。捕まえろ」
「ええ、やだよ気持ち悪い」
「残念ながら俺には見えないんだ」
「またまた。俺をからかってるんでしょう?」
「そっちのお姉さんにも見えないよな、ここにいるカタツムリ」
「あの、何か……いるのでしょうか」
「……本当に?」
太郎は随分不審げな顔をしながら虚空から何かをつまみ、そこら辺にあった瓶にいれる。俺には透明な瓶にしか見えないが、たしかに気持ち悪さは柱から瓶に移っていた。
「よかったな。これで解決だ」
「解決? 何が? お姉さんは人間で、カタツムリを捕まえただけでしょう?」
「けれども大家の困りごとは解消した。今後この家で変な物音はしない。役に立ててよかったな」
「本当に? 全然スッキリしない」
それで翌朝、草刈さんを呼んで屋根裏に人が住みついていたと話す。
草刈さんは随分驚いていたが、女は身寄りも行きどころもないらしいから、草刈さんがしばらく面倒を見ることになった。
「まぁ、お祓いとはちょっと違ったけど解決してよかったよ、本当に。ありがとう、太郎ちゃん」
「お祓いもしたもん」
「そうだね、太郎ちゃんよく頑張ったよ。格好よかったよ」
太郎は近所の人間には孫のように可愛がられている。
「むう。そうだ、草刈さんこれ見える?」
「瓶? 何かいれるのかい?」
「見えない? 小さいの」
「なんだろうねぇ。老眼ではないと思うけどね」
草刈さんは目を細めたりしていたが、それはやはり太郎にしか見えないらしい。
それで土御門神社には太郎にしか見えない巻貝が住み着き、瓶に入れられた葉っぱがたまにパリパリと自動的に欠けていく奇妙な姿が見られるようになった。
「でも俺がお祓いしたんじゃないじゃん」
「ちゃんと祓っただろ、そのカタツムリ」
「瓶に入れただけじゃん」
「お前にしかできないことだよ」
「やっぱり皆で俺をからかってるんでしょう?」
「信じるかどうかはさておき、解決はしただろ。女の人見つけたしな」
「う、うん」
太郎はまた随分腑に落ちない顔をしていたが、それからしばらくしていつもより大分安い金額が太郎の口座に振り込まれたそうだ。
ともあれ太郎が初めて自らの手で結果には納得できる金を稼いだのだから、それはとても有意義なことだ。
了。
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金井君がパンダに追いかけられ……ます。
