終わる前に、もう一度だけ 第4話|終わらせたのは、僕だった
【タイトル下短文】
救えなかったのではない。
終わらせたのは、僕だった。
【本文】
終わる前に、もう一度だけ
第4話|終わらせたのは、僕だった
青が、まだ消えなかった。
水瀬蒼介の処理は、保留になった。
消去でもない。
保存でもない。
ただ、再判定待機。
蒼介の指は、承認パネルから離れていた。
押さなかった。
でも、選んだわけでもなかった。
完成局の端末には、無機質な文字だけが浮かんでいる。
保留処理。
再判定待機。
対象作品、監視継続。
それで、蒼介の案件は一度止まった。
けれど、完成局の警告表示は消えなかった。
記録外干渉。
接触なし。
原因不明。
表示の中心にあったのは、蒼介ではない。
神崎透だった。
完成局が次に見ていたのは、未完成の絵ではなかった。
透の右手だった。
透は、自分の指先を見た。
青が、まだにじんでいる。
蒼介の作品には触れていない。
蒼介本人にも触れていない。
未完の欠片を開いてもいない。
ただ、そばにいただけだった。
それなのに、完成局の承認パネルは揺れた。
触れなければ、安全。
そう思おうとしていた。
でも、その言葉はもう使えなかった。
黒い制服の男たちは、透に触れなかった。
ただ、出口へ向かう導線だけが静かに閉じられていく。
右の通路。
封鎖。
左の扉。
封鎖。
背後の会場。
入室制限。
出口前の表示が赤く変わった。
一時封鎖。
対象確認中。
逃げるな、と言われたわけではない。
けれど、透が進める方向は一つしか残っていなかった。
黒い制服の男たちの端末が、すべて透の右手を向いている。
画面には、同じ表示が浮かんでいた。
強制停止準備。
未実行。
その文字が、まだ変わっていないだけだった。
「確認が必要です」
白瀬エレナは、いつもと同じ声で言った。
命令には聞こえなかった。
だから余計に、命令に近かった。
「俺に拒否権はありますか」
透が聞いた。
エレナは即答した。
「あります」
透は出口を見た。
赤い表示は消えない。
一時封鎖。
対象確認中。
エレナは続けた。
「拒否した記録が残ります」
透は、何も言えなかった。
選べる。
けれど、選んだことも記録される。
選ばないことも記録される。
完成局の選択肢は、いつも白く整っている。
その整い方が、透には怖かった。
解析室は、会場よりも狭かった。
椅子が一つ。
机が一つ。
壁に埋め込まれた白い端末が三つ。
拘束具はなかった。
鍵も見えなかった。
けれど、扉には取っ手がなかった。
透は、それを見てから椅子に座った。
解析室という名前だった。
けれど、そこにあったのは検査機器ではなく、記録装置だった。
右手の熱。
指先の輪郭。
承認パネルが揺れた瞬間の波形。
透が何をしたかではなく、透のそばで何が起きたかを、すべて数字に変える部屋だった。
エレナは透の向かいに立った。
「処罰ではありません」
「じゃあ、何ですか」
「記録確認です」
エレナは端末に指を置いた。
「記録外干渉は、完成局の処理体系に存在しない分類です」
白い画面に、蒼介案件のログが流れていく。
接触なし。
干渉発生。
承認パネル表示異常。
文字認識不能。
「存在しないものは、処理できません」
エレナは淡々と言った。
「だから、記録するんですか」
「はい」
彼女はうなずいた。
「記録できれば、次からは処理できます」
透は右手を握った。
その言葉は、脅しではなかった。
たぶん、完成局にとってはただの手順だった。
けれど透には、自分の輪郭を白い線でなぞられているように聞こえた。
解析は、まだ始まっていなかった。
それなのに、透の右手の青が濃くなった。
エレナの指が止まる。
「……まだ、照合前です」
画面の端に、凍結フォルダが浮かび上がった。
まだ世界ではなかったもの。
透の喉が乾いた。
見ていないことにしてきた名前だった。
何度も。
ずっと。
紗和の会場でも、端末の端に一瞬だけ映った。
蒼介のパネルが揺れた時も、青の奥に同じ気配があった。
閉じてきた。
見なかったことにしてきた。
けれど、右手は覚えていた。
「これは」
エレナの声が、わずかに低くなった。
画面に警告が重なる。
アクセス拒否。
上位承認が必要です。
承認者名の欄に、二文字だけが浮かんだ。
依月。
次の瞬間、その表示は白く塗りつぶされた。
透は読み取ったはずだった。
けれど、頭の中には残らない。
知らない名前だった。
少なくとも、覚えている名前ではなかった。
それなのに、右手の青だけが一度、遅れて痛んだ。
記憶ではない。
警告でもない。
身体の奥だけが、その名前を知っているような痛みだった。
透は画面を閉じようとした。
指が動かない。
画面が白く滲む。
白い端末の一つに、別の光が混じった。
卓上ライトの黄色。
コーヒーカップの縁。
折れた紙の端。
どれも一瞬で消えた。
けれど、解析室の白さだけが、少し汚れたように見えた。
最初に戻ってきたのは、映像ではなかった。
匂いだった。
冷めたコーヒー。
長くつけっぱなしの卓上ライト。
熱を持った端末。
紙の端を何度も折った跡。
それは、何の変哲もない夜だった。
雨は降っていなかった。
特別な音楽も流れていなかった。
誰かが泣いていたわけでもない。
ただ、同じ画面を、二人で見ていた。
朝倉叶は、机の前に座っていた。
顔はよく見えなかった。
見ようとすると、輪郭が滲む。
けれど、手元だけははっきり覚えている。
叶は、書き直したページを消さない人だった。
一度目の文。
二度目の文。
三度目に書いた、ほとんど同じ一文。
全部を残して、横に並べる。
消せないのではない。
消したものの方が、本当だったかもしれないと思ってしまう人だった。
画面の中には、未完成の何かがあった。
小説だったのか。
企画だったのか。
世界の設計図だったのか。
今の透には、そこだけがぼやけていた。
ただ、完成していなかった。
ずっと、完成していなかった。
叶は何度も同じところで止まった。
ここから先が分からない。
この人が何を選ぶのか分からない。
終わり方が、どうしても嘘になる。
そう言って、また最初から読み返した。
透は、最初は隣にいた。
大丈夫だと言った。
まだ続ければいいと言った。
待つよ、とも言った。
本当にそう思っていた時期もあった。
けれど、長い時間が過ぎた。
同じ話を、何度も聞いた。
同じ迷いを、何度も見た。
叶は少しずつ痩せていった。
透も少しずつ疲れていった。
叶の未完成が、叶だけのものではなくなっていく。
夜の予定が消える。
返事が遅れる。
自分の生活の端に、叶の止まった時間が入り込んでくる。
透は、それを優しさで支えているつもりだった。
けれど、いつからか。
支えることより、終わってほしいと思う時間の方が長くなっていた。
叶は、その夜も同じ一文を書いていた。
また消した。
また書いた。
また止まった。
「ねえ、透」
叶の声は、疲れていた。
「これ、まだ続けた方がいいと思う?」
透は、すぐには答えなかった。
答えるべきではなかった。
たぶん。
でも、叶は透を見ていた。
画面を見て。
透を見て。
また画面を見た。
その指は、キーボードの上に置かれたまま動かなかった。
決めたい人の手ではなかった。
決める場所まで、もう戻れない人の手だった。
透は、その手を見るのがつらかった。
叶のためだと思った。
これ以上苦しませないためだと。
本当に、そう思おうとした。
でも、もっと深いところでは違っていた。
終わってほしかった。
自分が、もうその夜から解放されたかった。
透は言った。
「もう、終わらせよう」
叶の指が止まった。
画面の明かりが、叶の手の甲を白く照らしていた。
透は続けた。
「そのままでいいよ」
優しい言葉に聞こえた。
少なくとも、そう聞こえるように言った。
叶は怒らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、少しだけ息を吐いた。
長い間持っていたものを、ようやく誰かに渡せたような息だった。
「透がそう言うなら、そうなんだろうね」
それだけだった。
その言葉は、透を信じる言葉に聞こえた。
だから透は、受け取ってしまった。
叶の指は、もう動かなかった。
画面には、未完成のままの文章が残っていた。
その夜がどう終わったのか、透は覚えていない。
叶が最後に何をしたのかも。
自分がそのあと何を言ったのかも。
ただ、手が止まった瞬間だけが残っている。
未完成が終わった瞬間ではない。
叶が、自分で選ぶのをやめた瞬間。
その瞬間に、透はそばにいた。
そばにいたどころか。
その終わりを、渡した。
白い解析室に戻った時、透は椅子に座っていた。
呼吸が浅い。
右手の青は、さっきより濃くなっている。
痛みは消えていない。
けれど、今は右手だけが痛いのではなかった。
胸の奥に、古い夜の匂いが残っていた。
冷めたコーヒー。
卓上ライト。
熱を持った端末。
紙の端を折った跡。
白い部屋には、どれも存在しないはずだった。
それでも、透の中には戻ってきていた。
エレナは、端末を見ていた。
画面には、解析不能の表示が残っている。
凍結フォルダ。
まだ世界ではなかったもの。
アクセス拒否。
上位承認が必要です。
承認者名は、もう表示されていない。
白く塗りつぶされた空欄だけが、そこに残っている。
「ログが途切れました」
エレナは言った。
「けれど、あなたは戻ってきた」
透は答えなかった。
「神崎透さん」
エレナの声は静かだった。
「あなたが拾っているのは、他人の欠片ですか」
透の指がわずかに動いた。
反論しようとした。
紗和の欠片も。
蒼介の青も。
自分のものではない。
そう言おうとした。
でも、言えなかった。
紗和の時、透は叶の夜を見ていた。
蒼介の時、透は自分の右手を見ていた。
言葉は、喉の奥で止まった。
エレナは、それ以上追い詰めなかった。
長い説教はなかった。
ただ、透の沈黙を記録するように、少しだけ目を伏せた。
「過去は」
そこで一度、言葉を切る。
「他人を救っても、戻りません」
透は顔を上げられなかった。
エレナの言葉は、冷たくなかった。
冷たくないから、余計に刺さった。
透は、何も言えなかった。
紗和の灯台を開いても。
蒼介の青を揺らしても。
あの夜、叶に渡した終わりだけは、戻らない。
解析室の照明が、一度だけ青く揺れた。
透は顔を上げた。
右手ではない。
壁の端末が、同じ青を映していた。
新規反応。
S級欠片候補。
未完保管区画、第十一展示室。
照合欄に、凍結フォルダ名が浮かぶ。
まだ世界ではなかったもの。
部分一致。
透の右手が、痛みではなく熱を持った。
さっきまでの痛みとは違う。
過去が戻ってきたのではない。
どこかで、まだ終わっていないものが透を見つけた。
エレナが、ゆっくりと透を見る。
「確認に向かいます」
透は右手を見た。
青が、薄く脈打っている。
今度は、思い出したのではなかった。
呼ばれていた。
透は、もう目を逸らせなかった。
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前話はこちら
第3話|まだ、青とは呼ばないで
続きはこちら
第5話|席を、空けておくから
第1話はこちら
第1話|未分類ノイズ、S級反応
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終わる前に、もう一度だけ
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