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終わる前に、もう一度だけ 第5話|席を、空けておくから


【タイトル下短文】
待っています。
その優しい言葉が、彼女を終われない場所に閉じ込めていた。

【本文】
終わる前に、もう一度だけ

第5話|席を、空けておくから

通知音が鳴った。

短い音だった。

高くも低くもない。

人を急かしすぎないように調整された、やわらかい音。

けれど、その音が鳴った瞬間、柊真帆の肩が少し沈んだ。

透は、それを見た。

真帆は画面を見なかった。

机の上に置かれた端末が、淡く光っている。

新着通知、一件。

差出人の名前は表示されていない。

本文の冒頭だけが、薄く浮かんでいた。

待っています。

それだけだった。

責める言葉ではなかった。

催促でもなかった。

締切を知らせる通知でもない。

ただ、待っています。

その五文字が、真帆の肩に置かれたように見えた。

彼女は端末に手を伸ばさなかった。

画面が暗くなるまで、じっと待った。

通知が消えると、肩は少し戻った。

けれど、元には戻らなかった。

完成局の未完保管区画、第十一保管室。

保管室という名前だった。

けれど、そこは作品をしまっておくだけの場所ではなかった。

返信されなかったものを保管する場所だった。

未送信の企画書。

開かれない共有ファイル。

本人が削除申請を出せないまま、周囲だけが更新を続けているデータ。

誰かの「いつか」を保存している棚。

透は、そこに呼ばれていた。

水瀬蒼介の案件以来、彼は通常業務には戻されていない。

隔離待機。

監視対象。

未分類反応保持者。

そういう言葉で分類されたまま、完成局の案件に同行させられている。

使えるかもしれないから。

危ないかもしれないから。

どちらの理由なのかは、説明されなかった。

白瀬エレナは、保管室の入口で静かに言った。

「今回の対象は、柊真帆さん。三十二歳。共有制作プロジェクトの元代表です」

「元代表」

透は繰り返した。

「現在は離脱済みです。ただし、プロジェクト側は彼女の復帰枠を残しています」

エレナの声はいつもと同じだった。

整っていて、やわらかい。

「未完ファイルの保管期間は四年三か月。本人による削除申請は二度。どちらも、周囲からの返信後に取り下げられています」

透は、真帆の前に置かれた端末を見た。

画面の中央には、一つのファイル名が表示されている。

最終稿_真帆確認待ち

その下に、灰色の表示。

未開封。

最終更新、四年前。

けれど、通知履歴だけは新しい。

一週間前。

三日前。

昨日。

そして、今。

待っています。

また一件、通知音が鳴った。

真帆の肩が、わずかに跳ねた。

彼女は今度も画面を見なかった。

ただ、右手が左肩に触れた。

そこに何かが乗ったみたいに、指先で一度だけ押さえた。

すぐに離す。

何もなかったことにするように。

透の右手が、かすかに揺れた。

記録外干渉が確認されてから、右手の輪郭は完全には戻っていない。

指先が時々、下描きの線のように遅れる。

欠片が近くにあると、その揺れは強くなる。

今回もそうだった。

開けないファイルの端から、細い光がこぼれている。

未名の欠片。

透には、それが見えてしまう。

ファイルは開かれていない。

真帆も開けていない。

完成局の職員も開けない。

それでも、中には何かが残っている。

途中で止まった文章。

送れなかった返信。

直せなかった台詞。

誰かの期待に合わせて、何度も書き直された痕跡。

透の指先が、端末へ伸びかけた。

触れれば、開けるかもしれない。

そう思った。

中に何があるのか見えるかもしれない。

真帆が何を残したのか。

何を止めたのか。

何を閉じ込めているのか。

触れれば、分かるかもしれない。

その瞬間、真帆の肩がまた沈んだ。

通知音は鳴っていなかった。

ただ、透の指が伸びたことに、彼女が気づいただけだった。

透は手を止めた。

真帆は、こちらを見ないまま言った。

「開けないでください」

声は小さかった。

怒ってはいない。

でも、そこにははっきりとした拒絶があった。

透は手を下ろした。

「すみません」

謝った瞬間、言葉が浅いと思った。

謝ることも、簡単すぎる。

真帆は首を振らなかった。

許すとも、許さないとも言わなかった。

ただ、端末を見ないまま座っている。

その姿勢が、ずっと前から変わっていない人のように見えた。

肩を少し丸めて。

返信できない画面の前で。

「柊さんは、四年前まで同人映像企画の脚本担当でした」

エレナが言った。

「最終話直前で制作が停止。以降、プロジェクト側は復帰枠を維持しています」

「復帰枠」

透は、真帆の肩を見た。

その言葉にも、少しだけ沈んだように見えた。

真帆の端末に、過去の履歴が表示される。

戻ってきたら、続きをお願いします。

急がなくて大丈夫です。

真帆さんのペースで。

ずっと待ってます。

透は画面から目を逸らせなかった。

どれも、悪い言葉ではなかった。

むしろ、優しかった。

急かしていない。

責めていない。

真帆を信じている。

そう見える。

だからこそ、重いのかもしれなかった。

真帆は、目を閉じた。

「みんな、優しいんです」

その言い方は、誰かを庇っているようでもあり、自分に言い聞かせているようでもあった。

「怒られたことはありません。責められたこともないです。誰も、早くしろなんて言わなかった」

通知音が鳴る。

今度は別の相手からだった。

また、短い本文だけが浮かんだ。

いつまでも待ってる。

真帆の肩が、ゆっくり沈む。

彼女の手が、また左肩に触れた。

押さえる。

離す。

押さえる。

離す。

何年も同じ場所に同じものが積もってきた人の動きだった。

「待ってくれているなら」

透は言いかけた。

真帆が、ゆっくり顔を上げた。

透は一度、言葉を止めた。

けれど、完全には止められなかった。

「待ってくれているなら……このファイルは、残した方がいいんじゃないですか」

真帆の肩が止まった。

透は、自分の声を聞いていた。

聞きながら、止められなかった。

「あなたの作品に、救われた人たちがいるなら」

言い終えた瞬間、保管室の空気が少し沈んだ。

真帆は笑った。

笑った、というより。

笑おうとした。

見覚えのある顔だった。

大丈夫です。

ありがたいです。

待ってもらえて、幸せです。

そういう言葉を何度も通してきた人の顔だった。

その笑顔の形だけが先に作られて、目の奥が追いついていなかった。

真帆の右手が、左肩を押さえた。

さっきより強く。

指先が、服に食い込む。

「それを」

真帆は言った。

声は、とても静かだった。

「それを、四年間ずっと思っていました」

透は、息ができなかった。

「私の作品を好きだと言ってくれた人がいる。続きを待ってくれている人がいる。救われたって言ってくれた人もいる」

真帆は、暗くなった端末を見た。

「だから、終わらせちゃいけないんだって」

透は、何も言えなかった。

「残しておかなきゃいけないんだって」

真帆の肩が、もう一度沈む。

「私だけが、戻れないのに」

その言葉で、透の中の何かが冷えた。

今、自分は何をしたのか。

誰の側に立ったのか。

待っている人たち。

救われた人たち。

作品を残してほしい人たち。

その人たちの優しさを借りて、真帆の肩にもう一枚置いた。

叶の夜と同じだった。

優しい言葉の形をしていた。

だから、余計に悪かった。

「すみません」

透は言いかけた。

でも、途中で止めた。

謝っても、軽くならない。

謝ることまで、また自分のためになってしまう。

真帆は、端末から目を離さなかった。

「謝られるのも、慣れています」

その言葉は、透を責める声ではなかった。

だから余計に、返せなかった。

「最初は、ありがたかったんです」

真帆は言った。

「本当に。置いていかれないんだって思った。私が遅れても、私の席を残してくれるんだって」

端末の画面が、また淡く光った。

今度は通知ではなく、ファイルの自動同期だった。

最終稿_真帆確認待ち

同期状態、維持。

真帆の指が、膝の上で固くなる。

「でも、席が残っていると、戻らなきゃいけないんです」

透は、真帆を見た。

「誰も戻れって言っていなくても」

彼女は続ける。

「席があるだけで、戻らなきゃいけない気がする」

その言葉は静かだった。

けれど、透には通知音より大きく聞こえた。

エレナが端末を操作する。

「完成局は、未完ファイルの完了処理を提案しています」

真帆は顔を伏せた。

「待つ側は、優しいままでいられます」

エレナは、画面を見たまま言った。

「待たれている側だけが、毎日、返事をしていないことになります」

真帆の呼吸が、少し浅くなった。

透はエレナを見た。

記録の形をした刃だった。

「完了処理を選べば、このファイルは閉じられます。プロジェクト側には、本人意思による完了通知が送られます」

真帆は顔を伏せたまま聞いた。

「通知も止まりますか」

「止まります」

「返信しなくて、よくなりますか」

「はい」

その「はい」は優しかった。

あまりにも、必要な言葉に聞こえた。

透は、何かを言いそうになる。

でも止まった。

言えば、また奪う。

完了するな。

残せ。

消すな。

戻れ。

終われ。

そのどれもが、真帆のものではなくなる。

真帆の前に、承認パネルが開く。

未完ファイル完了処理。

本人意思の確認。

確認しますか。

選択肢が三つ並ぶ。

完了する。

通知のみ停止を申請する。

保留する。

透は、その順番を見た。

完了する、が一番上にある。

紗和の時も、蒼介の時も、似た場所に終わりが置かれていた。

完成局は命令しない。

急かさない。

ただ、選びやすくする。

真帆の指が上がる。

透の右手が疼く。

開けないファイルの欠片が、端末の端で震えている。

触れれば、中が見える。

真帆が本当は何を書いたのか。

どこで止まったのか。

なぜ返信できなくなったのか。

触れれば、きっと分かる。

でも、分かったからといって、真帆が軽くなるとは限らない。

透は右手を握った。

指先の線が乱れる。

「柊さん」

透は、名前だけを呼んだ。

真帆の指が止まる。

透は、そこで言葉を失った。

言えば、また置く。

黙っていても、完成局が用意した一番上の光だけが残る。

どちらを選んでも、透のための正しさが混じる。

真帆は透を見ていた。

透の言葉を待っている。

その視線に気づいた瞬間、透は何も言えなくなった。

自分の言葉を待たせている。

自分もまた、真帆を待つ場所に置いている。

喉の奥まで来ていた言葉を、透は飲み込んだ。

何も出さなかった。

助ける言葉も。

止める言葉も。

正しい選択肢も。

真帆の前に、初めて何も置かなかった。

しばらく、通知音は鳴らなかった。

承認パネルだけが、白く光っている。

完了する。

通知のみ停止を申請する。

保留する。

真帆は、その三つを見ていた。

それから、承認パネルではなく、その横に残っている通知履歴を見た。

待っています。

いつまでも待ってる。

真帆さんのペースで。

戻ってきたら、続きをお願いします。

彼女の指が、承認パネルから外れる。

完成局の職員が小さく反応した。

エレナは何も言わない。

真帆は、開けないファイルには触れなかった。

最終稿_真帆確認待ち。

そのファイルを開かないまま、別の画面を開いた。

返信欄。

過去のメッセージに対する返信欄だった。

入力カーソルが点滅する。

真帆の指は、しばらく動かなかった。

通知音は鳴らない。

それでも彼女の肩は、何かを待っている形のままだった。

やがて、一文字目が打たれた。

待ってくれて

そこで止まる。

真帆はそれを消した。

また打つ。

ごめんなさい

それも消した。

カーソルだけが残る。

指が、また動く。

ありがとうございます

そこまで打って、真帆は長く止まった。

消さなかった。

透は、その画面を見ていた。

真帆の指が震えている。

待ってくれたことは、嘘ではない。

ありがたかったことも、たぶん嘘ではない。

だから、消せない。

だから、逃げられない。

真帆は、ゆっくりと一文字ずつ消した。

す。

ま。

い。

ざ。

ご。

う。

と。

が。

り。

あ。

最後の一文字が消えた時、真帆の肩がまた沈んだ。

透は何も言わなかった。

今度は、言葉を置かなかった。

真帆は、もう一度打った。

戻れません。

その四文字の後で、指が止まる。

肩が震えている。

透は見ていた。

今度は、欠片ではなく。

開けないファイルでもなく。

返信できない指を見ていた。

真帆は続けて打つ。

待たないでください。

その文を打った瞬間、保管室の空気が変わった。

劇的な変化ではなかった。

光が爆発したわけでもない。

ファイルが消えたわけでもない。

ただ、通知履歴に積もっていた文字の明滅が、ひとつずつ弱くなっていく。

待っています。

いつまでも待ってる。

真帆さんのペースで。

戻ってきたら、続きをお願いします。

それらの文字が、完全に消えるのではなく、過去の履歴として薄く沈んだ。

今、彼女の端末の一番下にあるのは、一つの返信だけだった。

戻れません。

待たないでください。

送信ボタンの上で、真帆の指が止まる。

透は息を止めた。

押すかどうか。

それは真帆のものだった。

透のものではない。

完成局のものでもない。

待っている誰かのものでもない。

真帆の指が、送信に触れた。

短い送信音が鳴った。

通知音と似ていた。

けれど、ほんの少しだけ違った。

真帆の肩が、落ちた。

沈んだのではなかった。

力が抜けたように見えた。

その直後、端末がもう一度だけ光った。

真帆の肩が跳ねた。

反射だった。

息が止まる音まで、透には聞こえた気がした。

けれど、それは返信ではなかった。

自動表示だった。

待機通知、停止。

同期状態、解除。

真帆は、画面を見たまま動かなかった。

何秒か経ってから、ようやく息を吐いた。

その息は、泣き声にはならなかった。

真帆は、開けないファイルを見た。

最終稿_真帆確認待ち。

未開封。

最終更新、四年前。

ファイルはまだそこにある。

消えていない。

開かれてもいない。

救われたわけでもない。

終わったわけでもない。

ただ、待機通知だけが止まった。

エレナが静かに言った。

「完了処理は保留。通知同期は停止。プロジェクト側への本人返信を記録しました」

真帆は小さくうなずいた。

ありがとう、とは言わなかった。

透の方も見なかった。

ただ、肩を何度か動かした。

ずっと乗っていたものの重さを、まだ体が覚えているようだった。

透は、それを見ていた。

ファイルは開かないまま残っている。

そのまま残っていてもいいのか。

消した方がいいのか。

いつか開ける日が来るのか。

来ない方がいいのか。

透には分からなかった。

分からないまま、真帆は一通だけ送った。

戻れません。

待たないでください。

それだけが、今この部屋で起きたことだった。

「神崎透さん」

エレナが呼んだ。

透は振り向く。

「今回は、再演しませんでしたね」

その言葉に、透は答えなかった。

褒められているようには聞こえなかった。

責められているようにも聞こえなかった。

ただ、記録されているように聞こえた。

「結果として、未完ファイルは残りました」

エレナは続ける。

「ですが、残ったことが救いかどうかは、まだ分かりません」

透は、開かないファイルを見た。

その端に、欠片の光がまだある。

弱く、細く。

でも、さっきより少し静かだった。

「分かりません」

透は言った。

自分に向けて言ったのかもしれない。

エレナは、小さくうなずいた。

「その言葉を、判断停止ではなく、保留として扱えるなら」

そこで彼女は言葉を切った。

「あなたは、少しだけ厄介です」

透は、褒められた気がしなかった。

保管室を出る前、真帆の端末がもう一度だけ光った。

返信が来たのかと思い、透は足を止める。

真帆の肩も、少しだけ動いた。

だが違った。

自動表示だった。

最終稿_真帆確認待ち

状態更新。

待機通知、停止。

本人返信、送信済み。

未完ファイル、未開封のまま保管。

真帆はその表示を見て、端末を閉じた。

通知音は鳴らなかった。

それだけだった。

廊下に出ると、透の右手が少し冷えていた。

下描きの線のように揺れていた指先は、まだ完全には戻っていない。

透は、拳を握らなかった。

開いたまま、自分の手を見た。

保管室の中から、通知音は聞こえなかった。

それだけが、さっきまでと違っていた。



前話はこちら
第4話|終わらせたのは、僕だった

続きはこちら
第6話|残すことが、いつも救いだと思わないで


第1話はこちら
第1話|未分類ノイズ、S級反応

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