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終わる前に、もう一度だけ 第6話|残すことが、いつも救いだと思わないで

【タイトル下短文】

触れれば戻ると思っていた。
けれど、戻らないために閉じたものもあった。

【本文欄】

終わる前に、もう一度だけ

第6話|残すことが、いつも救いだと思わないで

榊悠里は、朝になると必ずカーテンを開ける。

天気が悪くても。

外が灰色でも。

まだ眠くても。

起きて最初に、窓を開ける。

部屋に光を入れる。

風を入れる。

外の音を入れる。

それから、窓際に置いた小さな観葉植物に水をやる。

水をやりすぎると根が傷む、と店員に言われたことを、悠里はずっと守っていた。

鉢の土を指で軽く押す。

まだ湿っている。

今日は少しだけでいい。

悠里は細い注ぎ口から、葉の根元へ水を落とした。

朝食は、いつもと同じだった。

トースト半分。

ゆで卵。

砂糖を入れない紅茶。

手元の端末に届いた予定を確認する。

午前の打ち合わせ。

午後の資料整理。

帰りにクリーニングを受け取ること。

そして、一番下に、完成局からの通知があった。

保護凍結更新手続き。

対象記録。

『窓のない部屋』

悠里の指が、そこで止まった。

ほんの少しだけ。

すぐに、画面を閉じる。

紅茶を飲む。

皿を洗う。

鞄を取る。

玄関で靴を履く前に、悠里はもう一度だけ部屋を振り返った。

カーテンは開いている。

窓もある。

外も見える。

それを確かめてから、悠里は家を出た。

通勤途中のバス停の前に、小さなパン屋がある。

悠里はそこで、昼用の丸パンを一つ買う。

店員が、いつものように袋を二枚重ねかけた。

「今日は一枚で大丈夫です」

悠里がそう言うと、店員は笑った。

「いつも一つですね」

「食べきれる分だけにしてます」

悠里も笑った。

袋の口を折って、鞄の端に入れる。

いつもと同じ朝だった。

完成局の更新室は、これまで透が見てきた白い会場とは違っていた。

広くない。

舞台もない。

中央に浮かぶ大きな承認パネルもない。

椅子が二つ。

机が一つ。

壁に埋め込まれた細い表示板が一枚。

椅子は軽そうで、すぐ動かせる位置に置かれていた。

机の角は丸い。

壁は白いが、声がほとんど跳ね返らない。

消毒液の匂いが、かすかに残っている。

神崎透は、その部屋に入って、少しだけ足を止めた。

白すぎるのに、まぶしくない。

何かが起きないように、あらかじめ整えられすぎている部屋だった。

白瀬エレナはいなかった。

代わりに、机のそばに一人、白い制服の人間が立っていた。

黒ではない。

完成局の処理担当が着る白。

けれど、エレナの白とは少し違う。

光を反射して人を遠ざける白ではなく、音を吸って、表情を消すような白だった。

「神崎透さんですね」

その人は、透を見た。

「白瀬依月です」

白瀬。

透は、その名字に少しだけ反応した。

依月は説明しなかった。

エレナとの関係も。

凍結フォルダの承認欄に、なぜ自分の名前があったのかも。

ただ、管理端末を確認する。

「今日は、あなたの右手の記録外干渉が保護凍結対象に与える影響を確認します」

「俺は、同席するだけですか」

「そうです」

「対象者には?」

「あなたが何者かは伝えません。必要がないので」

透は更新室の表示板を見た。

未完記録保護凍結対象。

『窓のない部屋』

本人負荷:高。

再演危険度:高。

開示非推奨。

保護凍結更新待機。

透の右手が、わずかに熱を持った。

熱。

これまで何度も感じてきたもの。

紗和の原稿。

蒼介の青。

真帆の未完ファイル。

終わっていないものには、熱があった。

まだ、そこに誰かがいるような熱。

透は右手を握った。

握っている間だけ、少し安全な気がした。

「開示非推奨って」

透は言った。

「本人が望んでも、見せないという意味ですか」

依月は表示板から目を離さなかった。

「本人は、望んでいません」

「今日、確認するんでしょう」

「望まないことを確認するために来ています」

「それって、また思い出させることになりませんか」

「なります」

依月は、そこで初めて透を見た。

「それでも、更新しなければ保護が薄くなる」

透は返せなかった。

忘れたいものを、まだ忘れたいかと確認する。

その手続きが、静かな部屋の中で、あまりに丁寧に準備されていた。

扉が開いた。

榊悠里が入ってきた。

顔色は悪くない。

歩き方も落ち着いている。

部屋に入ると、悠里はまず出口の位置を見た。

それから、壁を見た。

窓はない。

悠里は何も言わなかった。

ただ、入り口に近い方の椅子に座った。

「榊悠里さん」

依月が言った。

「本日は保護凍結記録の更新確認です。記録内容には触れません。題名のみ確認します」

悠里は、少しだけ頷いた。

「はい」

「対象記録名。『窓のない部屋』」

悠里の手が、膝の上で止まった。

それだけだった。

声も乱れない。

呼吸も、すぐには変わらない。

ただ、指が自分の服の布を少しだけ押した。

「確認しました」

悠里は答えた。

早すぎる返事だった。

依月は続けた。

「現在の生活に支障はありますか」

「ありません」

「睡眠、食事、勤務状況に大きな乱れは」

「ありません」

「対象記録への再接触を希望しますか」

「しません」

悠里の答えは、どれも短かった。

答えるための言葉というより、そこで止めるための言葉だった。

依月は管理端末へ視線を落とした。

「では、保護凍結更新で——」

その時、悠里が遅れて息を吸った。

小さな音だった。

普通なら、聞き逃すくらいの。

けれど透には聞こえた。

依月の指も、止まった。

ほんの一拍。

悠里が何かを言うのを待つための間だったのか。

それとも、進めすぎたことに気づいた間だったのか。

透には分からなかった。

悠里は視線を落としたまま、言った。

「思い出したくないことを」

声は静かだった。

「思い出したくないですって、何年かごとに言うんですね」

依月は答えなかった。

肯定もしない。

否定もしない。

ただ、その言葉を消さなかった。

悠里は小さく笑った。

「変ですよね。でも、呼ばれないと、それはそれで不安になるんです」

「不安」

透が思わず聞き返した。

悠里は透を見た。

初めて、ちゃんと。

「まだ閉じているって、分からなくなるので」

それ以上は言わなかった。

透は右手を握り直した。

『窓のない部屋』の欠片反応は、確かにそこにある。

強い。

温かい。

閉じられているはずなのに、まだ熱が残っている。

見たくないものが、こんなに熱を持つだろうか。

その考えが浮かんだ瞬間、透は一歩だけ前に出ていた。

「でも」

声に出たのは、それだけだった。

出した瞬間、透は自分の口を閉じた。

また、何かを置きかけている。

それ以上は言えなかった。

言葉になる前に、悠里の肩がわずかに跳ねた。

依月が顔を上げた。

「神崎さん」

その声は低かった。

「一歩下がってください」

透は動けなかった。

依月の視線は、透の右手に落ちている。

「右手を開かないで」

透は自分の手を見た。

いつの間にか、指が少し緩んでいた。

光ではない。

青でもない。

ただ、皮膚の下で、何かが小さく震えている。

依月は表示板ではなく、何もない壁の一点を見ていた。

そこには何もない。

少なくとも、透にはそう見えた。

表示板の端に、細い乱れが走る。

保護凍結記録。

一時漏出。

開示遮断。

再遮断中。

透は何も触れていない。

ただ、一歩だけ前に出ていた。

それだけだった。

それなのに、部屋の空気が一瞬だけ変わった。

古い紙の匂い。

湿った壁の匂い。

閉じた場所に長く残っていた空気の匂い。

表示板に、一行だけ文字が滲んだ。

壁の印が、昨日よりひとつ増えていた。

それだけだった。

依月が即座に表示を遮断した。

管理端末を伏せる。

表示板を消す。

机の端に置いてあった小さな水のボトルを、悠里の視界の外側からそっと近づける。

「榊さん。今日の帰りは、南口のバス停でしたね」

悠里は答えなかった。

「駅前のパン屋には寄りますか」

数秒。

悠里の目が、どこか遠くを見ていた。

目の前の部屋ではない。

ここではない、どこかに戻りかけている目だった。

透は息を止めた。

悠里が、ゆっくり瞬きをした。

「……今」

声が小さかった。

「なんの話でしたっけ」

依月は表情を変えなかった。

「帰り道の確認です」

「ああ」

悠里は笑った。

笑えていた。

けれど、その笑顔は少しだけ遅れていた。

「南口のバス停です。パンは、朝買いました」

「分かりました」

依月は、それ以上何も聞かなかった。

水を飲んでください、とも言わなかった。

大丈夫ですか、とも言わなかった。

悠里がボトルに触れるまで、ただ待った。

透は右手を握りしめた。

何もしていない。

そう言いたかった。

でも、言えなかった。

何もしていなくても、そこにいるだけで薄くなるものがある。

依月は透を見ないまま言った。

「これが、開示非推奨の理由です」

透は返せなかった。

「記録の内容を、本人が思い出す必要はありません」

「でも」

透は言いかけた。

「それは本当に、本人が選んだことなんですか」

依月の指が止まった。

「選びました」

「どうして分かるんですか」

「最初の申請者が本人だからです」

透は黙った。

閉じてほしいと、悠里自身が申請した。

依月は続けた。

「ただし、申請したことまで覚えている必要はありません。覚えていない方が、生活が保てる場合があります」

その言い方は、正しかった。

たぶん、正しかった。

でも透には、少しだけ寒かった。

「あなたが開けたいのは」

依月が、静かに言った。

「彼女の部屋ですか」

透の喉が止まった。

彼女の部屋。

それとも、自分のフォルダか。

まだ世界ではなかったもの。

依月の承認で閉じられている、自分の凍結フォルダ。

透には、答えられなかった。

手続きは、終盤に入った。

表示板に、選択項目が浮かぶ。

保護凍結更新。

再開示申請。

完了処理移行。

悠里は、それを見なかった。

見ないようにしているのではない。

見れば、言葉が戻ることを知っているようだった。

依月が確認する。

「榊さん。現在、対象記録への再接触を希望しない。保護凍結の継続を希望する。これで間違いありませんか」

悠里は頷いた。

けれど、次の動作には移らなかった。

以前の案件なら、ここで本人が指を伸ばす。

自分の意思で、承認パネルに触れる。

透は、何度もその画を見てきた。

選ぶ指。

止まる指。

揺れる指。

けれど、悠里は手を伸ばさなかった。

彼女は、一度だけ表示板を見た。

保護凍結更新。

再開示申請。

完了処理移行。

三つの選択肢を、最後まで読んだ。

それから、ゆっくり目を伏せた。

「依月さんが、押してください」

透の胸の奥で、古い声が一瞬だけ形を持ちかけた。

名前になる前に、消えた。

依月は、驚かなかった。

「分かりました」

それだけ言った。

「最終確認です。榊悠里さん。あなたは、対象記録の内容を確認せず、保護凍結更新の実行を担当者へ委任しますか」

悠里は、少しだけ目を閉じた。

「はい」

その声は、逃げた声には聞こえなかった。

でも、強い声にも聞こえなかった。

依月は頷いた。

その手が、承認キーへ向かう。

透の右手が震えた。

止めたいのか。

止めてはいけないのか。

頷けるのか。

頷けないのか。

分からなかった。

でも、透は動かなかった。

動けなかったのではない。

右手を握っていた。

依月の指が、承認キーの上で一瞬だけ止まった。

それから、依月は承認キーを押した。

表示板の文字が切り替わる。

未完記録。

『窓のない部屋』

保護凍結更新。

開示制限:継続。

第三者接触:遮断。

再演不可。

次回確認:未定。

誰も、何も言わなかった。

悠里が、長く息を吐いた。

救われた顔ではなかった。

解放された顔でもない。

ただ、今日を越えた人の顔だった。

透は、まだ右手を握っていた。

開かなかった手の中で、熱だけが少しずつ遠のいていった。

悠里が退室したあと、更新室には透と依月だけが残った。

依月は記録を閉じた。

「納得できませんか」

「分かりません」

透は言った。

「止めたかったのか、止めちゃいけなかったのかも、分かりません」

「分からないまま、止めなかった」

依月は、確認するように言った。

透は何も返せなかった。

依月は扉へ向かった。

通り過ぎる直前、足を止める。

「神崎さん」

透は顔を上げた。

依月は、透の右手を見ていた。

そこに残っているはずのない熱を、見ているように。

「残すことが、いつも救いだと思わないで」

静かな声だった。

責める声ではない。

勝った声でもない。

依月自身にも返っていくような声だった。

依月が去ったあと、更新室の壁に、別の記録が一瞬だけ浮かんだ。

記録照合。

凍結形式一致。

対象フォルダ。

『まだ世界ではなかったもの』

開示制限:継続。

第三者接触:遮断。

再演不可。

承認者。

白瀬依月。

透は、その文字を見た。

右手は光らなかった。

そのことが、なぜか一番怖かった。

悠里は、南口のバスに乗った。

朝に買った丸パンの袋は、まだ鞄の中にある。

バスの窓に、夕方の街が流れていた。

悠里は窓の外を見ていた。

何かを思い出すためではなく。

何も戻らないことを確かめるためでもなく。

ただ、窓の外を見ていた。

部屋に帰ったら、カーテンを閉める。

明日の朝になれば、また開ける。

それだけの一日が、まだ続いていた。

更新室では、透が右手を握ったまま立っていた。

更新室には、窓がなかった。

握っていても、もう安全な気はしなかった。

右手は、何も開かなかった。



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第1話|未分類ノイズ、S級反応

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終わる前に、もう一度だけ



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