終わる前に、もう一度だけ 第7話|もう駅にはいない
【タイトル下短文】
消したかったわけじゃない。
ただ、もう呼ばれたくなかった。
【本文欄】
終わる前に、もう一度だけ
第7話|もう駅にはいない
佐伯那央は、目覚ましが鳴る前に起きた。
カーテンの隙間から、薄い光が入っていた。
雨ではない。
六月にしては、空が明るい朝だった。
机の上には、仕事用の資料と、洗い終わっていないマグカップがあった。
流しには、昨夜の皿が一枚。
冷蔵庫を開けると、牛乳のパックが軽かった。
那央はそれを少し傾けて、残りを確認する。
朝の分は足りる。
でも、夜には足りない。
「帰りに買わなきゃ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
手元の端末が鳴った。
仕事の連絡かと思って画面を見る。
違った。
完成局からの通知だった。
未完記録状態確認。
対象記録。
『六月の駅』
本人完了申請:熟慮期間終了。
欠片反応:高。
読者側再開申請:あり。
最終確認日時:本日 十三時三十分。
那央は、その画面をしばらく見ていた。
指は震えなかった。
息も乱れなかった。
ただ、通知を開いたまま、端末を伏せた。
机の上に、画面を下にして置く。
それから、冷蔵庫の扉を閉めた。
牛乳。
クリーニング。
午後の資料修正。
完成局。
今日やることが、一つ増えただけだった。
駅へ向かう道は、少し湿っていた。
昨夜、雨が降ったらしい。
那央は、駅前の横断歩道で足を止めた。
向こう側の改札へ、人が流れていく。
傘を持っている人。
持っていない人。
端末を見ながら歩く人。
誰かを待っている人。
那央は、以前なら、この光景を頭の中で文章にしていた。
改札の前で待つ人の靴。
濡れたタイル。
電車の到着を知らせる音。
六月の湿った空気。
言葉は、まだ浮かぶ。
でも、今の那央はそれを追いかけなかった。
信号が青になる。
那央は人の流れに混ざって、改札へ向かった。
完成局の案件表示を見たとき、神崎透は最初、その文字を読み間違えたのかと思った。
本人完了申請。
未完作品反応:高。
本人継続意思:なし。
完了処理推奨。
読者側再開申請:三件。
再考勧告:発行済。
「本人完了申請」
透は、表示された文字を小さく読み上げた。
完了処理。
その文字を見るたび、右手の奥が少し硬くなる。
終える。
戻れなくする。
完成局が何度も置いてきた白い項目。
榊悠里は、あの更新室で『窓のない部屋』を開かなかった。
開かないことで、今日が壊れずに済んだ。
透はそれを止めなかった。
でも、納得したわけではない。
それでも、完了処理という表示を見ると、右手がわずかにこわばった。
「対象者は佐伯那央」
白瀬依月が言った。
依月は、今日も白い制服を着ていた。
声に余計な温度はなかった。
「未完作品『六月の駅』。本人から完了申請が出ています」
「本人が」
透は表示を見た。
「自分で、終わらせたいって言ってるんですか」
「申請上は、そうです」
申請上。
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「申請って、今日出したんですか」
「三ヶ月前です」
依月は管理端末の処理画面を切り替えた。
本人完了申請。
初回提出日:三月十四日。
熟慮期間:九十日。
意思確認:二回完了。
再考勧告:二回確認済み。
本日、最終確認。
「衝動ではありません」
依月は言った。
「少なくとも、制度上は」
制度上。
透は、その言葉を聞いて右手を握った。
そこへ、別の表示が重なった。
欠片反応:高。
作品記録保全価値:中〜高。
読者側再開申請:三件。
再考勧告:発行済。
「再考勧告?」
透が聞くと、依月は頷いた。
「欠片反応が一定値を超えている場合、本人完了申請に対して自動発行されます」
「本人が終わりたいと言っても?」
「はい」
依月の声は変わらなかった。
「作品価値が高い場合、再考が求められます」
透は表示を見つめた。
本人の意思。
作品の価値。
読者の申請。
それらが同じ白い画面の中に、同じ大きさの項目として並んでいた。
誰も怒鳴っていない。
誰も押しつけていない。
ただ、項目が並んでいる。
そのことが、少しだけ怖かった。
「佐伯那央さんが到着しました」
無名の職員が告げた。
扉が開く。
佐伯那央は、思っていたより普通の人だった。
それは、これまでの対象者にも感じてきたことだった。
柊真帆も、通知が鳴らない時間は穏やかに笑えた。
榊悠里も、部屋の外では普通に生活していた。
けれど、那央の普通さは少し違っていた。
隠している普通さではない。
保っている普通さでもない。
ただ、本当にそこにいる人の普通さだった。
「佐伯那央です」
那央は軽く頭を下げた。
声は落ち着いていた。
椅子を選ぶ時も、出口に近い席を探さない。
壁を見ることもない。
鞄から端末を出し、机の上に置く。
画面は上を向いていた。
依月が手続きを始める。
「本日は本人完了申請の最終確認です。対象記録は『六月の駅』」
那央は頷いた。
「はい」
「対象記録への継続意思はありませんか」
「ありません」
「対象記録の再演、再開、外部要請の受領を希望しますか」
「希望しません」
「作品記録そのものの保存には同意しますか」
「はい。記録は、残して大丈夫です」
透は那央を見た。
『六月の駅』という名前を聞いても、那央の手は止まらなかった。
息も変わらなかった。
瞳が揺れることもなかった。
それが逆に、透には分からなかった。
平気なふりをしているのか。
それとも、本当に平気なのか。
右手が熱を持った。
透は、思わずそちらへ意識を取られた。
強い。
かなり強い欠片反応だった。
『六月の駅』は、まだそこにある。
未完成のまま、濡れたホームに立っている。
改札の向こう。
次の電車。
来るか分からない誰か。
そんな輪郭が、透の指先に触れる。
これは、まだ終わっていない。
そう思いかけて、透は那央の顔を見た。
那央は、欠片の熱を知らない顔をしていた。
知らないのではない。
もう、そこに立っていない顔だった。
依月が表示を進める。
完了処理内容。
未完再演:停止。
本人通知:停止。
外部再開要請:遮断。
読者側申請転送:停止。
作品記録:保存。
本人再接触権:本人申請時のみ有効。
その表示は、どこまでも事務的だった。
慰めもない。
弔いもない。
ただ、本人を未完へ呼び戻す経路を、一つずつ閉じていく項目が並んでいる。
「削除じゃないんですね」
透が言うと、依月は短く答えた。
「今回は違います」
今回は。
その言葉にも、透は引っかかった。
完成局の完了処理には、いくつもの形がある。
その全部を、透はまだ知らない。
知りたい、と思った。
聞きたいこともあった。
自分のフォルダのこと。
『まだ世界ではなかったもの』のこと。
承認者に、白瀬依月の名前が残っていた理由。
けれど、透は聞かなかった。
今ここで開けようとすることが、何に似ているのかを、まだ覚えていた。
依月は、透が何かを飲み込んだことに気づいたようだった。
一度だけ、画面から視線を外す。
何も言わなかった。
再考勧告の詳細が出る。
欠片反応:高。
読者側再開申請:三件。
商業残存価値:中。
未完記録保全価値:高。
再考勧告:維持。
那央はそれを見て、少し笑った。
乾いた笑いではない。
困ったような笑いでもない。
ただ、遠い場所の天気を聞いた時のような顔だった。
「まだ、そんなの出るんですね」
「規定です」
依月が言った。
「一定値以上の欠片反応と外部申請がある場合、最終確定前に再考勧告が発行されます」
「外部申請って、読んでくれていた人ですか」
「はい」
那央は、画面を見た。
「ありがたいです」
その声には、嘘がなかった。
「でも、受け取り続けるのは、もういいです」
依月は頷き、手続きを進める。
再考勧告:確認済。
本人意思:継続意思なし。
最終確認へ移行。
透は言いかけた。
でも、まだ。
そこまでだった。
その先が、続かなかった。
まだ、書けるんじゃないですか。
まだ、待っている人がいます。
まだ、この作品は終わっていない。
どれも言葉にはできた。
けれど、それを那央の前に置いた瞬間、それは真帆に届き続けていた言葉と同じ形になる。
待っています。
続きが読みたいです。
あなたの作品に救われました。
どれも本物だった。
本物だから、重かった。
透は口を閉じた。
那央が、不意に端末を見た。
「帰りに牛乳を買わないと」
その声は、あまりにも普通だった。
誰かに聞かせるための言葉ではない。
自分の予定を、ふと思い出しただけの声。
透は、その一言で完全に止まった。
『六月の駅』には、まだ熱がある。
読者もいる。
完成する可能性もある。
けれど、今の那央に近いのは、その熱ではなかった。
帰りに買う牛乳だった。
那央がぽつりと言った。
「嫌いになったわけじゃないんです」
依月は手を止めた。
透も、那央を見た。
「書いていた頃の自分は、たぶん、本気でした」
那央は、画面ではなく、机の端を見ていた。
「今読んだら、恥ずかしいところもあると思います。でも、嫌いじゃないです」
少しだけ笑う。
「ただ、もう駅にはいないんです」
それだけだった。
それ以上、自分の過去を説明しなかった。
誰を待っていたのか。
何を書こうとしていたのか。
なぜ六月だったのか。
何も言わなかった。
言わなくてよかった。
依月が最終確認画面を出した。
本人完了申請。
熟慮期間:九十日。
意思確認:二回完了。
再考勧告:二回確認済み。
本日、最終確認。
対象記録の同一性確認のため、冒頭一文を表示します。
透の右手が、また熱を帯びた。
画面に、一行だけ浮かぶ。
次の電車が来ても、私はまだその駅にいた。
那央は、その一行を読んだ。
ほんの数秒。
指は動かなかった。
呼吸も乱れない。
ただ、読んでいた。
たぶん、何年ぶりかに、自分の文章を。
透は、見ていた。
迷っているようには見えなかった。
けれど、軽くもなかった。
那央は小さく息を吐いた。
誰に向けたのか分からない声で、言った。
「元気で」
それは、画面に落ちるくらいの小さな言葉だった。
作中の誰かに向けたのか。
昔の自分に向けたのか。
その駅にまだ立っている誰かに向けたのか。
透には分からなかった。
依月は何も言わない。
励まさない。
引き止めない。
ただ、最終キーが有効になるのを待っていた。
那央が指を伸ばす。
その動きに、透は一瞬だけ、別の夜を見た。
キーボードの上に置かれたまま、動かなかった叶の指。
けれど、那央の指は止まらなかった。
震えてはいなかった。
勢いもなかった。
乱暴でもなかった。
昔しまっていた箱の蓋を、静かに閉じるような動きだった。
那央は、自分で押した。
透は、それを止めなかった。
止めなかったのではない。
止める言葉が、そこには入る場所を持たなかった。
表示が切り替わる。
本人完了申請:確定。
未完再演:停止。
本人通知:停止。
外部再開要請:遮断。
読者側申請転送:停止。
作品記録:保存。
登録状態:完了。
それだけだった。
光は出なかった。
音も鳴らなかった。
雨が止むわけでもない。
駅が消えるわけでもない。
ただ、項目が変わった。
誰も、何も言わなかった。
那央は端末を手に取った。
画面を上に向けたまま、机の上に置き直す。
伏せなかった。
それだけだった。
しばらくして、那央が立ち上がる。
「行ってきます」
誰に向けたのか分からない言葉だった。
透にも、依月にも、完成局にも、たぶん向いていない。
午後の予定へ戻る人の言葉だった。
那央は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
完了処理室は、元の静けさに戻った。
透は、自分の右手を見た。
まだ少し熱が残っていた。
でも、その熱が何を意味しているのか、もう決められなかった。
「今日の判断は、間違いでしたか」
依月が言った。
透は、すぐには答えなかった。
「まだ答えにできません」
「でも」
言葉が止まる。
終わらせることが、全部悪いわけではない。
そう言いかけて、やめた。
言えば、何かを片付けたことになる気がした。
そんなに簡単ではない。
那央の指は、自分で動いた。
あの夜、叶の指は動かなかった。
違うはずだった。
けれど、その違いを、透はまだ言葉にできなかった。
依月は何も説明しなかった。
記録画面を閉じる。
「本人完了申請処理、終了」
それだけを残した。
手つきは速かった。
止まらなかった。
再考勧告を処理する時も、最終キーを有効にする時も、完了ログを閉じる時も。
終わらせる手順を、あまりに正確に知っている手だった。
頼もしいのか。
怖いのか。
透には、まだ分からなかった。
那央は帰り道、駅前のスーパーに寄った。
牛乳を一本買う。
レジ袋はいりません、と言う。
端末が一度だけ鳴った。
仕事の連絡だった。
那央は画面を見た。
返信はあとでいい。
端末を伏せずに、鞄に入れた。
夜。
部屋の灯りをつける。
牛乳を冷蔵庫に入れる。
洗い忘れていたマグカップを洗う。
いつもなら、少しだけ手が空く時間があった。
昔、毎日何かを書いていた時間。
那央の手は、ほんの一瞬だけ、机の方へ向きかけた。
でも、何も探さなかった。
代わりに、乾いたマグカップを棚へ戻した。
それだけだった。
完成局の記録画面に、処理後ログが残る。
対象記録。
『六月の駅』
登録状態:完了。
呼出設定:停止。
読者側申請転送:停止。
作品記録:保存。
その下に、別の記録が遅れて表示された。
記録外干渉監視。
対象:神崎透。
欠片反応:検出。
自己欠片:表示不可。
透は右手を見た。
熱は残っていた。
それでも、今度も光らなかった。
⸻
次の話はこちら
第8話|自分の欠片だけが見えない
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第6話|残すことが、いつも救いだと思わないで
第1話はこちら
第1話|未分類ノイズ、S級反応
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