終わる前に、もう一度だけ 第8話|自分の欠片だけが見えない
【タイトル下短文】
他人の欠片は読めた。
自分に関わる一行だけが、文字になる前にほどけていった。
【本文欄】
終わる前に、もう一度だけ
第8話|自分の欠片だけが見えない
透は、一歩、壁へ戻った。
白い壁面ログには、処理済みの記録が並んでいる。
完了。
保留。
通知停止。
再演停止。
作品記録保存。
いつもの項目だった。
読める。
意味も分かる。
本人負荷。
欠片反応。
再演危険度。
読者側申請。
外部再開要請。
透は、上から順に確認していた。
けれど、中央にある一行だけ、視線が通り過ぎた。
透は足を止める。
もう一度、上から読む。
完了。
保留。
通知停止。
再演停止。
作品記録保存。
その下。
また、目が滑った。
文字はある。
欠けていない。
黒く塗られてもいない。
ただ、読もうとする前に、視線が次の欄へ逃げる。
透は三度目に、同じ行へ戻った。
今度は意識して見る。
見る。
見ている。
それなのに、意味だけが残らない。
読めなかったのではない。
読んだことにして、通り過ぎていた。
透は、壁から少し身を引いた。
右手は動いていない。
痛みもない。
それでも、壁の一行だけが、透の目の中でほどけていく。
その時、通知盤に白い文字が浮かんだ。
音は鳴らなかった。
壁の右上に、処理通知が一件追加される。
要解析。
記録外干渉者:神崎透。
自己欠片反応:検出。
対象者照合:本人。
解析対象:神崎透。
透は、その文字を見ていた。
驚きはなかった。
伏せられていた札が、表に返っただけのようだった。
神崎透。
本人。
解析対象。
その名前は、何度も見てきた。
職員名簿。
処理記録。
干渉履歴。
監視対象。
けれど、今そこにある名前は違っていた。
誰かを見るための名前ではなかった。
白い記録票が、透の前に置かれた。
無名の職員は、余計な説明をしない。
「解析室へ」
それだけだった。
透は、机の上に置かれた記録票を見る。
要解析。
記録外干渉者:神崎透。
自己欠片反応:検出。
対象者照合:本人。
解析対象:神崎透。
紙は薄い。
左手で持つと、乾いた端が指に触れた。
透は記録票を閉じず、そのまま解析室へ向かった。
扉の前で、一度止まる。
何度も入った部屋だった。
白い机。
中央解析画面。
壁面ログ。
処理卓。
白瀬依月。
対象者席。
知っているはずの部屋だった。
けれど今日は、取っ手が少し遠く見えた。
透は右手を伸ばしかける。
止める。
左手で扉を開けた。
解析室は、いつもと同じ白さだった。
冷たい照明。
滑らかな処理卓。
中央解析画面。
壁面ログ。
依月の立つ位置。
そこまでは変わらない。
変わっていたのは、椅子だった。
透がいつも座っていた解析官側の席がない。
そこには何もなかった。
操作用の椅子もない。
記録を送るための位置もない。
画面を切り替える場所もない。
床だけが、白く空いている。
代わりに、机の反対側に一脚だけ椅子が引かれていた。
対象者席。
透は、その椅子を知っている。
何度も見てきた。
誰かが言葉を失った場所。
誰かが指を止めた場所。
誰かが、終わりを自分で押した場所。
今日は、その椅子だけが用意されていた。
「お座りください」
依月が言った。
声はいつもと同じだった。
透は、すぐには座らなかった。
椅子の背を見る。
座ればいい。
それだけだった。
「神崎透さん」
依月が、名前だけを呼んだ。
その呼ばれ方で、透は分かった。
ここでの神崎透は、職員名ではない。
対象者名だった。
透は椅子を引いた。
脚が床を擦って、小さな音を立てる。
その音だけが、白い部屋に残った。
誰も拾わない。
透は座った。
座面は冷たくない。
硬すぎもしない。
普通の椅子だった。
普通に座れる。
普通に答えられる。
そう思おうとして、透は膝の上で右手を開いた。
指先の輪郭が、少し遅れて戻る。
対象者席からは、中央解析画面を見上げる形になった。
いつもは見下ろしていた。
今は、少し遠い。
文字が上から落ちてくるように見える。
処理卓の向こうにいる依月の手元は見えにくい。
壁面ログも、いつもより大きく見えた。
机のこちら側には、透が触れられるものがほとんどない。
白い机。
記録票。
水のない空間。
それだけだった。
右手を机に置くと、見られている気がする。
膝に置くと、隠している気がする。
握ると、怖がっているように見える。
開くと、何かを待っているように見える。
透は結局、膝の上で右手を開いたままにした。
依月は処理を始めた。
「本人確認を行います」
いつもの言葉だった。
これまで何度も聞いてきた。
対象者が最初に受け取る言葉。
「氏名を確認します。神崎透さん」
「はい」
返事が少し遅れた。
依月は何も言わない。
「所属。完成局、特務解析班」
「はい」
「対象者照合。本人」
本人。
その言葉だけが、少し長く残った。
本人確認。
本人同意。
本人申請。
本人意思。
何度も見てきた表示だった。
「現在、自覚している身体的異常はありますか」
透は右手を見ないようにした。
「回答できますか」
ありません。
そう言えば、次へ進む。
生活は続いている。
眠っている。
食べている。
業務にも出ている。
他人のログも読める。
処理記録も追える。
透は口を開いた。
「……確認中です」
依月は記録した。
責めない。
言い直しも求めない。
「対象記録への再接触を希望しますか」
希望。
その言葉が、白い部屋に少し浮いた。
見たいのか。
見たくないのか。
開けたいのか。
閉じていたいのか。
透には、どれにも頷けなかった。
「未完反応の開示を希望しますか」
透は依月を見た。
いつもなら、画面を見る側だった。
今日は、問われる側だった。
依月が水のボトルを持ってきた。
透の右側へ置こうとする。
ボトルの底が机に触れる直前、透の右手がわずかに引いた。
逃げた、というほど大きくはない。
依月は何も言わなかった。
表情も変えない。
ただ、ボトルを机の上で滑らせた。
右側から、左側へ。
水滴が、白い机に細い線を引く。
まっすぐではなかった。
途中で少しだけ曲がっている。
透はその線を見た。
それから、左手でボトルを取った。
冷たさが左の掌に入る。
右手は、何も受け取らなかった。
依月は、その手元を見なかった。
見なかったことにしたように、処理卓へ視線を戻す。
中央解析画面が開いた。
同時に、処理卓の上へ白い記録票が置かれる。
画面と紙に、同じ項目が並んだ。
氏名:神崎透
所属:完成局 特務解析班
対象者照合:本人
自己欠片:────────
関連記録:一件
開示状態:未確定
透は、自己欠片の欄を見た。
そこだけが白かった。
空欄ではない。
未入力でもない。
削除済みでもない。
権限不足でもない。
文字がまだ文字になる前の場所だけが、そこに残されているようだった。
透は画面を見る。
次に、記録票を見る。
同じ場所が白い。
紙でも、画面でも、そこだけが読めない。
白い欄は、整いすぎていた。
線の幅も、余白も、項目の高さも、他の欄と揃っている。
何もないのに、整っている。
依月が画面を送る。
氏名が上へ流れる。
所属が消える。
対象者照合が画面の端へ沈む。
関連記録が近づく。
開示状態が下へ流れる。
項目は動いている。
画面は確かに動いている。
なのに、自己欠片の白い帯だけが、同じ高さに残っていた。
透は瞬きをした。
もう一度見る。
やはり、そこにある。
画面上の位置ではなかった。
透の視界の中に、その帯だけが貼りついている。
音は鳴らない。
警告も出ない。
赤い表示もない。
ただ、そこだけが動かない。
透は目を逸らした。
出口ではなかった。
窓でもない。
依月でも、中央解析画面でもない。
壁の、何もない場所。
白い壁。
そこには記録も表示もない。
ただ白いだけだった。
透はしばらく、そこを見ていた。
依月は、その視線を追わなかった。
ただ、次の項目を少しだけ遅らせた。
「確認のため、別記録を開きます」
依月が別の未完ログを中央解析画面に出した。
対象者名。
作品名。
本人負荷。
欠片反応。
再演危険度。
透は読めた。
負荷の変化も、欠片反応の波形も追える。
いつもの視界だった。
「読めますか」
依月が聞いた。
「読めます」
透は答えた。
その声が、自分でも嫌だった。
他人の記録なら、読める。
自分の欄だけが、白い。
依月は、再び透の記録へ戻した。
自己欠片の白い帯が、同じ位置に戻ってくる。
透は、右手首を左手で押さえていた。
気づいた時には、そうしていた。
握っているのではない。
隠しているのでもない。
ただ、右手がどこかへ行かないように、軽く押さえていた。
透は手を離そうとした。
でも、左手の指が少しだけ残った。
依月はそれを見ていた。
見ていないような顔で、見ていた。
画面の下部に、関連記録の欄が開いた。
関連記録:一件。
作成者:████
関連種別:████
処理種別:完了/再演停止
本人同意:――――
状態:閲覧権限なし
ほとんど何も読めなかった。
名前はない。
種別もない。
本人同意の欄には、横線だけが並んでいる。
それでも、数だけは出ていた。
一件。
透は、その数字を見ていた。
ゼロではない。
未確認でもない。
不明でもない。
一件。
作成者欄の黒い帯を見た瞬間、透は息を止めた。
匂いがした。
冷めたコーヒーの匂い。
この部屋に、コーヒーはない。
机の上にあるのは、左側に置かれた水のボトルだけだった。
それでも、一瞬だけ戻ってきた。
紙コップ。
縁に残った薄い跡。
飲み切られないまま、机の端に置かれた夜。
誰かが何かを言いかけて、やめた気配。
透は、そこまで思い出しかけて、やめた。
水のボトルを握る左手に、冷たさが戻ってくる。
匂いは消えた。
画面にも、記録票にも、何も出ていない。
ただ、関連記録:一件。
その文字だけが、まだ残っていた。
「自己欠片欄を確認してください」
依月が言った。
透は、反射的に答えかけた。
確認済みです。
その言葉は、喉の手前まで来た。
何度も使ってきた言葉だった。
記録を確認しました。
反応値を確認しました。
本人意思を確認しました。
確認したことにすれば、次へ進める。
でも、今は確認していない。
白い欄を見ただけだった。
「関連記録は、一件ですね」
透は言った。
依月は、すぐには訂正しなかった。
「自己欠片欄は」
それだけだった。
透の声が止まる。
白い欄を見る。
見えない。
何も読めない。
読めるものをいくら並べても、そこだけは埋まらない。
「……まだ、確認できていません」
依月は頷かなかった。
否定もしなかった。
ただ、自己欠片欄の上で視線を一度だけ止めた。
ほんの短い時間だった。
確認なのか。
沈黙なのか。
透には分からなかった。
依月は、次の項目へ進んだ。
透は、右手を伸ばした。
自己欠片の白い帯へ。
そこに何があるのか分からない。
何に触れればいいのかも分からない。
それでも、触れれば何かが起きる気がした。
指先が、白い帯の手前で止まる。
まだ届かない。
もう少し近づける。
今度は、通り過ぎた気がした。
距離が合わない。
画面までの距離は分かる。
紙までの距離も分かる。
けれど、空白までの距離だけが分からない。
そこに触れればいいのか。
そこを読むべきなのか。
それとも、そもそも触れる場所ではないのか。
右手は、何もない空中で止まっていた。
何も起きなかった。
警告音は鳴らない。
画面も変わらない。
拒否表示も出ない。
依月も止めない。
右手の奥の熱も、強くならない。
壁面ログにも、何も増えなかった。
それだけだった。
透がもう一度、右手を伸ばしかける。
依月は、透の手を掴まなかった。
名前も呼ばない。
危険です、とも言わない。
あなたは見たくないんです、とも言わない。
ただ、中央解析画面を閉じた。
白い帯が消える。
関連記録も消える。
氏名も、所属も、本人照合も消える。
画面は暗くなった。
透の指だけが、空中に残った。
依月は、処理卓の操作面から手を離した。
それから、処理卓の上の記録票を閉じる。
水のボトルを、さらに左側へ寄せる。
透の右手からは、少し遠い場所へ。
「今日は、ここまでです」
依月は、それ以上説明しなかった。
透は、閉じられた画面を見た。
白い帯はもう表示されていない。
それでも、見えなかった場所だけが残っている。
水のボトルは、左側に置かれていた。
右手は膝の上に開いたままだった。
握っていない。
隠してもいない。
ただ、そこにある。
依月は待っていた。
問い詰めない。
説明しない。
助け舟も出さない。
透は口を開いた。
「俺だけ、」
声が止まる。
透は言い直そうとした。
自己欠片欄が。
開示対象が。
解析結果が。
どれも、口に出す前に違った。
数拍、白い部屋の空調音だけが残る。
透は、対象者席に座ったまま、乾いた声で言った。
「……見えません」
依月は、閉じた記録票に指を添えた。
「開示申請を出しますか」
透は顔を上げた。
依月は続ける。
「承認者は、私です」
その時だけ、依月の視線が画面ではなく透に合った。
すぐに逸れた。
透は問い返したかった。
なぜ、あなたが。
いつから。
何を知っている。
けれど、声にはならなかった。
代わりに、手続きの言葉に逃げた。
「職員の申請であっても、手続きは同じですか」
依月は、一般論では返さなかった。
「出せます」
少し間を置いて、続ける。
「二度目でも」
透は聞き返さなかった。
依月も説明しなかった。
その言葉だけが、机の上に置かれた。
開けるでもなく。
片付けるでもなく。
処理卓の奥で、壁面ログが静かに更新される。
自己欠片:表示不可
開示申請:未選択
承認者:白瀬依月
透は、まだ右手を開いたままだった。
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