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終わる前に、もう一度だけ 第10話|終わらせられなかった人

【タイトル下短文】

終わりにしたいです。
その一文を、受け取る欄はまだなかった。

【本文欄】

終わる前に、もう一度だけ

第10話|終わらせられなかった人

神崎透は、その行を読めた。

読める行だった。

旧処理記録:参照要求
処理区分:───
状態:未完了
継続年数:██年

文字は欠けていない。

白くもない。

自己欠片の欄のように、視線が滑るわけでもなかった。

読める。

意味も分かる。

けれど透は、その行へ焦点を合わせなかった。

読める行なのに、読まない。

その方が、見えない欄より少しだけ始末が悪かった。

白瀬依月は、画面を閉じなかった。

解析室の中央画面には、古い記録への参照要求が残っている。

依月は、しばらくその表示を見ていた。

それから、処理卓から手を離す。

「移動します」

説明はなかった。

どこへ、とも聞けなかった。

透は頷いて、右手を見た。

何も表示されていない。

昨日のような白い帯もない。

関係分類の欄もない。

けれど、右手の指先だけが、何かを書き損ねた後のようにわずかに残っていた。

握るほどではない。

開くほどでもない。

ただ、爪の先にだけ、力が残っている。

依月はそれを見なかった。

見ないまま、扉へ向かった。

解析室の外は、いつもより静かだった。

完成局の廊下は白い。

それはこれまで何度も見てきた白だった。

処理待ちの白。

承認待ちの白。

誰かの感情を、項目へ移すための白。

依月が足を止めたのは、廊下の一番奥だった。

そこには、透が一度も使ったことのない扉があった。

表示は小さい。

旧記録保管室。

依月が認証を通す。

扉は音もなく開いた。

中の白は、解析室の白とは違っていた。

長く残された紙の白だった。

棚が並んでいる。

紙の箱と古い分類札だけが、同じ白の中に沈んでいた。

紙が長く閉じられていた場所の匂いがした。

依月は部屋の中央にある記録卓の前で止まった。

卓上には、旧式の閲覧台が一つだけ置かれている。

現行の中央解析画面より小さい。

けれど、表示される文字の輪郭は、異様に濃かった。

依月は席に座らなかった。

「開いてください」

それだけ言った。

透は依月を見た。

依月は、記録卓を見ていた。

自分で開けないのか。

開かないのか。

透に開かせる必要があるのか。

そのどれも、聞けなかった。

透は左手で記録卓に触れた。

画面が、ゆっくり明るくなる。

旧処理記録。

対象者:相良美緒
作品名:████
読者側再開要請:112件
外部保存申請:47件
本人返信:0件
本人申請:1件
申請種別:該当項目なし

透の視線は、上から順に降りていった。

読者側再開要請。

百十二件。

外部保存申請。

四十七件。

本人返信。

ゼロ件。

本人申請。

一件。

そこまでは読めた。

そこで止まるべきだったのかもしれない。

けれど、次の行があった。

申請種別:該当項目なし

透は、その行から目を外した。

外したのに、もう読んでいた。

該当項目なし。

却下ではない。

不備でもない。

該当する欄がない。

依月は何も言わなかった。

記録卓の横に立ったまま、透の手元を見ている。

「開きます」

透は、自分でそう言った。

依月は頷かなかった。

止めもしなかった。

透は、本人申請の欄を開いた。

申請本文は、一行だけだった。

終わりにしたいです。

句点があった。

乱れた文字ではなかった。

震えた筆跡でもない。

削られた言葉も、消された言葉もない。

ただ、一行だけ。

終わりにしたいです。

そこには、叫びがなかった。

説明もなかった。

終わらせてください、でもない。

終わりにしたいです。

透は、画面の下に目を落とした。

処理結果:未分類
受理欄:該当なし
転送先:保留
本人通知:未送信

彼女の願いは、却下されたのではなかった。

受け取る欄が、どこにもなかった。

透は、指先を記録卓から離した。

離した後も、机の冷たさだけが残っていた。

依月の視線が、一瞬だけそこへ落ちる。

すぐに戻る。

「続けてください」

透は、善意ログを開いた。

依月は、その名前を言わなかった。

画面には、読者側通信記録とだけ表示されている。

ログは三つだけ開かれた。

待っています。

あなたの作品に救われました。

残してくれるだけでいいです。

どれも短かった。

どれも、責める言葉ではなかった。

悪意はなかった。

乱暴な要求もない。

命令でもない。

ただ、待っている。

救われた。

残してほしい。

その三つが、同じ白い欄に並んでいる。

透は、三つ目の行で止まった。

残してくれるだけでいいです。

だけ。

その言葉は、軽く見えた。

負担にならないように。

そういう形をしていた。

画面の下には、別の数字が残っていた。

本人返信:0件

透は、そこを読んだ。

今度は目を逸らさなかった。

依月は何も言わない。

善意ログの次に、未送信下書きが開いた。

未送信下書き:一件

本文は、途中で止まっていた。

ありがとうございます。でも、

その先はなかった。

句点もなかった。

改行もない。

変換候補の残骸もない。

ありがとうございます。

そこまでは書けていた。

でも。

その先だけが、記録されていない。

透は息を吸った。

音にならないほど、浅かった。

「この下書きは」

自分の声が、思ったより遠く聞こえた。

「送信されていません」

依月が答えた。

それだけだった。

「削除は」

「されていません」

「保存は」

「自動保存です」

透は、それ以上聞かなかった。

ありがとうございます。でも、

画面の中で、その読点だけが残っている。

終わりにしたいです。

には、句点があった。

ありがとうございます。でも、

には、なかった。

終わらせたい願いには、最後の点が打たれていた。

感謝の先には、点が打てなかった。

依月が、別の記録を開いた。

古い草案だった。

旧完了処理草案
目的:本人への継続要求を停止するため
対象:本人申請により継続負荷が確認された未完記録
処理目的:外部再開要請の停止/本人通知の遮断/保存圧力の解除

透は、表示を読んだ。

何度か、同じ行に戻った。

本人への継続要求を停止するため。

外部再開要請の停止。

本人通知の遮断。

保存圧力の解除。

その語彙は、今の完成局にも残っている。

けれど、並び方が違っていた。

「必要でした」

依月が言った。

透は、依月を見た。

声はいつもと同じだった。

でも、その短さだけが、いつもと違っていた。

「今も」

透が聞いた。

依月は答えなかった。

旧式の閲覧台が、小さな音を立てる。

画面の白が少しだけ揺れた。

答えないまま、依月は次の欄を開く。

現在運用記録。

現在運用
本人申請:受領
外部保存申請:優先参照
読者側再開要請:影響評価対象
推奨選択肢を再配置しました

透は、途中で一度だけ瞬きを忘れていた。

透は、その最後の行を見た。

推奨選択肢を再配置しました。

続いて、現在運用の処理履歴が表示される。

推奨選択肢:外部保存
代替選択肢:代理完了
本人選択欄:保留
運用判断:外部影響値を優先

画面の下に、小さく処理結果が出た。

代理完了判断:実行済み
本人選択確認:未完了

透は、旧草案と現在運用を交互に見た。

本人への継続要求を停止するため。

推奨選択肢を再配置しました。

外部再開要請の停止。

外部保存申請:優先参照。

保存圧力の解除。

外部影響値を優先。

同じ言葉が、似た場所に残っている。

でも、向いている方向が違っていた。

依月は、画面を閉じない。

透に、見終わる時間だけを残している。

「相良美緒さんは」

透は言いかけた。

美緒、と呼び捨てにはできなかった。

対象者、とも言えなかった。

「この処理を、知っていたんですか」

依月は答えなかった。

画面の下に、もう一つだけ古い行があった。

本人通知:未送信

透は、その行を見た。

通知されていない。

選ばれていない。

でも、処理は進んでいる。

第1話から見てきた完了処理。

本人同意。

本人申請。

本人確認。

本人意思。

何度も出てきた言葉だった。

それらの前に、まだ欄がなかった頃の記録が、ここにあった。

透の右手が、膝の上で動く。

小さく。

本当に小さく。

句点を打つみたいに。

透は、画面の一文をもう一度読んだ。

終わりにしたいです。

声には出していない。

それでも、口の中でその形だけが残った。

代理完了判断:実行済み
本人選択確認:未完了

透は、今度こそその行から目を逸らさなかった。

依月は、何も言わない。

透は、記録卓に置いた左手を引いた。

古い画面は、まだ閉じない。

「じゃあ、」

声が出た。

その先は、出なかった。

画面の下で、本人選択確認:未完了 の文字だけが、消えずに残っていた。

次の話はこちら
第11話|選んだのは誰だった


前話はこちら
第9話|名前をつけない関係

第1話はこちら
第1話|未分類ノイズ、S級反応

シリーズはこちら
終わる前に、もう一度だけ



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