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第3回:「わからないままでいる自由」──ラベル社会と無理解を抱える義務について

前回、僕は「愛されたい」という欲望が、関係性の"条件付き化"を加速させ、主体的に愛する力を奪っていることを指摘した。

第3回である今回は"愛することの主体性"に関するテーマの集大成として、"無理解に対する理解"とそれを実現するために何ができるかを考察したい。

今や僕たちは、他者を“わからないままにしておく”ことができない。ラベル化、コード化、カテゴライズ──それらは一見、理解を促進しているようで、実は「無理解」を排除している。

そしてその排除が、愛という営みの根を枯らしている。

本当に恐ろしいのは、「わからない」という状態すらも、もはや“耐えられなくなっている”ということだ。


コード化された理解と、ラベルの時代

前回、僕はpairsのLPなどを通して、“努力によって関係を育てる”という価値観が否定され、関係性が"磨く"ものから"引き当てる"ものへと変質している危うさを指摘した。
ここには"わかりやすさ"と"効率性"の結託があるだろう。
早く"引き当てられたい"、早く"引き当てたい"、その欲求は自分、そして他者が「どのような人間なのか」ということがいかにわかりやすいかということ、そして、それを見つけ出すのがいかに効率的かに収束していく。
そこで強く機能するのがラベルである。そしてそれはコード化され、社会の共通言語として組み込まれつつある。
最近、コード化されたものの象徴として16personalitiesがある。

人間を16のカテゴリに分類分けしたうえで、自身の特性の分析や自身と他者の分類同士の相性の良し悪しを測ることができる。
16personalitiesは、性格診断という形をとりながらも、実際には“わからない他者”に対しての不安を排除するためのツールとして機能している。

「彼はENTPだからこういう行動をとるんだよ」
「私はINFJだから、こういう時に疲れやすいの」
── そんな言葉のやり取りには、“理解したつもりになれる安心”が滲んでいる。

だが、この安心感は“本当の理解”とは別物だ。
理解には、本来、時間がかかる。矛盾や違和感を抱え込みながら、揺れ続けるプロセスがある。
だが、ラベルはそれを飛び越え、「わかったことにする」ための近道を与えてしまう。

コード化されたラベルは、人間の曖昧さや多義性を削ぎ落とす。
それは、他者の発言や行動に「AだからBが起きる」という因果関係を当てはめることで、複雑な存在を“機能”として扱うということだ。
理由がある、説明できる、整理できる──そう信じたい欲望が、わからなさを押し流していく

こうして関係性は、「わからなさを抱える勇気」を必要としなくなった。
むしろ、わからないこと自体が“非効率”として処理されるようになってしまった。

そして僕たちは、「わからないまま誰かと関わる」ということが、
もうできなくなりつつあるのかもしれない。

「問いの形」までもが設計される時代


他者を理解するという営みは、本来、時間がかかるものだった。
言葉の裏にある気配や、沈黙の温度、矛盾した振る舞いのなかに「その人らしさ」を感じ取るには、忍耐と観察が必要だった。

だが今、そのプロセスすら“効率化”されようとしている。
その象徴が「コーチング」だ。

もともとコーチングとは、相手の内面に寄り添い、言語化を支援する対話的手法だったはずだ。
だが現在のコーチングは、「問い方」や「傾聴の型」がマニュアル化され、すでに“コーチング学”として体系化されている。
対話とはもはや“型通りに引き出す技術”へと変質した。

「どんな未来を望んでいますか?」
「それを妨げているのは何ですか?」
「その障害を取り除いたら、どうなりますか?」

こうした問いのテンプレートは、確かに有効かもしれない。
けれど、それは「わかりやすく話す人間」を前提とし、「答えを持つ他者」を所与としてしまう。

つまり、コーチングとは“理解されること”を前提にした他者との関係性なのだ。

そこでは、「わからないまま黙っている人間」や「言葉にできない戸惑いを抱える人間」は、そもそも“コーチングの対象外”とされる。
理解されるに値しない存在として、沈黙のまま置き去りにされる。

本来、言葉を発しない他者にも、沈黙を選び続ける人にも、「そこにいる理由」があるはずだ。だが、今の陳腐なコーチング学はそれを待たない。

わからなさに留まることを許さない社会が、
ついに「問いのフォーマット」まで設計しはじめたのである。

「異なる価値観に触れよう」は、もう効かない

このような状況に対して、しばしば語られる解決策がある。
「自分と違う価値観に触れてみよう」
「多様な人と会ってみよう」
「対話を通じて理解を深めよう」──

もちろん、これらは正しい。理想論としては、まったく否定できない。
だが今や、それすらも通用しない構造が、すでに社会に組み込まれてしまっている。

なぜなら、僕たちの“出会いの場”そのものが、すでに最適化されているからだ。
SNSのアルゴリズム、ショート動画のレコメンド、興味関心ベースのタイムライン──
それらは、「似たもの同士しか出会えない社会」を無意識のうちに形成している。

異なる価値観に触れようとしても、そこで出会うのは「ラベル化された他者」だけだ。
LGBTQ、HSP、ADHD、○○型──それぞれの“タグ”がついた他者たち。
その人が「どう生きているか」ではなく、「どう分類されているか」に基づいて選ばれていく関係。

アルゴリズムは、無理解をフィルターで除外する。
だから「よくわからない人」や「言葉にできない価値観」は、そもそも出会えない。

多様性ですら、“わかりやすく表示可能な多様性”しか流通しないのだ。

僕たちは、もはや「異なる価値観に出会う」ということ自体ができない社会に生きている。
そしてその事実に、多くの人がすら気づかず、今日もタイムラインをスクロールしている。

わからないまま黙っているという行為

「わからないものは、わからないままにしておく」
このことが、今の社会ではいかに困難な態度であるかを、僕たちは忘れてしまっている。

黙っていることは、非協力ではない。
説明しないことは、怠慢ではない。
そして、理解しようとしないことは、拒絶ではない。

むしろ、無理に意味を与えないことこそが、他者に対する最大の敬意になり得るのではないか。

言葉にできない悲しみや、説明できない選択、理解できない行動──
それらを「そのままにしておく」ことには、倫理がある。
すぐに理解しようとすることは、時に暴力になる。

わからないままでいること。
黙っていること。
その不器用さを抱えたまま、関係を続けること。

それは、不完全で、非効率で、説明不能な営みだ。
だが、その不完全さに耐えることこそが、ラベル化の誘惑に抗い続ける、唯一の方法なのかもしれない。

僕はあなたを、理解できない。
でも、それでも、隣にいていいですか?

この問いを口に出すことなく、ただ黙って立ち尽くすこと。
それが、今の時代における最も静かな抵抗であり、最も根源的な愛のかたちなのだと思う。

“わからなさ”を社会に実装するには

では、どうすれば「わからないままの他者」と共にある社会をつくれるのか。

必要なのは、理解を前提としない制度設計であり、説明責任に抗する空間の創出だ。

たとえば、教育の現場において「意見を言うこと」「自分の考えを明確にすること」だけが評価される構造がある。だが、本来学びとは「言語化できない戸惑い」を持ち続けることでもあるはずだ。
“わからないけれど、そこにいる”ことを許す教室。
発言できない子どもが「無関心」ではなく「沈黙の思索者」として尊重される評価軸。

あるいは、採用や評価の現場において、「自己分析の完成度」や「適職診断」といった“わかりやすさの証明”が重視されてしまう風潮。
だが、本来の多様性とは、「説明できない違和」すらも受け入れる構えから始まるべきだ。

「わからないけど一緒に働ける」
「説明できないけど信頼している」
そんな関係を許容できる制度設計が、これからの社会には必要だ。

行政もまた、AIやビッグデータによって“合理的な判断”ばかりを求めるのではなく、「無効な声」「矛盾した訴え」にも耳を傾ける仕組みを持つべきだ。
市民をデータに変換することなく、「意味をなさない声」を、声のまま扱うような福祉の在り方。

“意味があるから保護する”のではなく、
“意味がないからこそ守らなければならない”
──その逆説を、制度に刻むこと。

つまり、“わからなさ”の肯定は、もはや個人の倫理ではなく、社会構造の課題なのだ。

わかりやすさが暴力に変わる時代に、わからないままでも共に生きられる構造を、誰かが設計しなければならない。

そしてそれは、きっと誰かの痛みではなく、あなたの“黙っている勇気”から始まる。

ラベルという名の処刑台の上で
今、僕らにはわからないことへの理由が求められている。
沈黙には「説明」が、戸惑いには「理由」が、迷いには「共感」が求められる。

社会は理由を強制している。
「繊細さん」、「HSP」、「ADHD」と定義されることに、人は安心感すら覚える。わからないことの「沈黙」を打ち破れたと錯覚している。それは“わからないままでいる自由”の代替物なだけだ。

でもあるとき、わからないままの人間が、「ADHD」と診断されなかったことに葛藤し始める。
“理由がない”ことが、愛する主体を殺している。

かくして、本当の愛は、理由の前に死んだ。
わからないということが、説明の責任に、理由の強制に、共感という暴力に斬り伏せられてしまった。わからなさを抱えていたはずの人が”他者にラベルを要求する社会”を再構築してしまった。──そして、そのラベルの下で、今日もまた、“わからないまま”の関係がひとつ、終わっている。さあ、ラベルの椅子取りゲームが始まった。あなたも共犯した社会だ。あなたのラベルは何ですか?


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