エイルと最後の竜 #2
サナミィ - 運命の出会い
明るい陽ざしが一日の始まりを告げている。サナミィ村は、さほど広くもない、森に囲まれた閉鎖的な集落である。
「スープどう? そろそろできたかしら」
豊かな亜麻色の髪の女性が皿を並べながら声をかけた。ほっそりとした体は子供を生んだとは思えないほど華奢だ。鍋の面倒を見ている少女が母を振り返り、笑顔を浮かべる。
「もう良さそう。お父さんとクリフはまだかしら」
父親と兄は外で薪を割っているはずだ。母親は、スープの味見をしている娘を見て目を細めた。
「クレオもすっかり一人前ね」
「料理の腕前? まだ母さんには敵わないわよ」
「でももうすっかり家のことができるし、いつ結婚してもおかしくないわね」
「やめてよ」
母の言葉に、娘は思わず手を止めた。
「私、まだ十四よ」
「十五、六くらいで結婚するのが普通ですもの」
「だからまだ早いって。それに、この村の人となんか」
言い渋る娘に、母親もつい顔を曇らせた。
「ただいま!」
元気な声と共に、少年が木の扉を開けて家に入ってきた。
「おかえり、クリフ」
「薪割り、時間かかったね」
「ごめんごめん」
クリフとクレオの二人は、はしばみ色の瞳と髪の、どこにでもいるごく普通の兄弟だ。ただ、鏡に映したようにそっくりだという点を除いて。
運命の神クタールの気まぐれか。それとも混沌の神が遣わしたものか。同じ日、同じ時に生まれた二人の子供。それは、稀有な存在であった。もし生まれたとしても、不吉だ、禍を呼ぶなどと言われ、どちらかを殺してしまうことが多い。二人揃って育てられることは皆無であるといっていい。クリフとクレオが生まれたときも、多くの人は、縁起が悪いから……と言葉を濁しながら、それとなくどちらかを始末するよう促した。しかし、両親はそれを拒否した。これが運命というものだ。特に母親、ルクレリアはそう強く主張した。
両親の思いを受け、二人はすくすく成長した。双子と言っても、普通は男女で姿容がそこまで似ることはない。だが、クリフとクレオの二人は異常さを感じるほど似ていた。瞳の色、形、顔の輪郭、髪質から手足の指の形に至るまで、二人は写し取ったようにそっくりだった。村人は双子を異端の存在であるとし、より一層彼らを避けるようになった。
村の子供たちはクリフたちをからかったり、気持ち悪がったりする。村には、彼らと行動を共にする者はいない。学校もないので、二人はいつも二人きりだ。しかし、自分たちは孤独だと思ってはいなかった。いつでも相手が隣にいる。彼らは生まれた時からずっと一緒で、お互いがお互いを補い合って育ってきた。クリフにとってはクレオが、クレオにとってはクリフが、誰より大切な兄弟であり、友達であり、自分の半身だった。
「さあ、朝飯を食おう。パンは焼けてるか? よし、じゃあクレオの絶品スープを頂くかな」
太い声で言ったのは父親チェスターである。席につくと、武骨で大きな指を組み、大地の神に祈りを捧げた。家族は皆、今日の恵みに感謝して食事を始める。
「そういえば、今日も見た?」
スープをすすりながら、クレオがクリフに小さく問いかけた。
「見た」
「また、いつもの……?」
「うん。あれだった」
「やだなあ、なんでいつも見るんだろ」
「もう何日続けて見たっけ」
「分かんないよ」
彼らは、溜め息混じりでさじを口に運んでいる。両親は顔を見合わせた。
「どうしたんだ」
「何かあったの?」
両親の言葉に子供たちは、しかし躊躇った。どう話していいか分からない。自分たちの話を信じてもらえるかどうか、迷ったのでもある。だが両親に重ねて問われ、二人はようよう話し出した。
「ここんとこ、同じ夢を続けて見てるの。私も、クリフも」
「なんて言うか……すごく嫌な夢なんだ。空が真っ暗で、火事になってて。それで人がたくさん……死ぬんだ。俺、夢なんか滅多に見ないのに、ここんとこ毎日のように見ちゃうんだ。クレオは不吉な予感だとか言うし」
「だって、世界の終わりって感じなんだもん!」
クレオがきっぱりと言いきった。チェスターは思わず笑い、「それで」と促した。お伽話を聞いてでもいるようだ。クリフはその様子に少し腹を立て、頬を膨らませる。
「笑いごとじゃないんだって。その夢を見ると、本当にぐったりしちゃうんだよ」
「そうよ、本当なんだから。それに……ね?」
隣席の兄に同意を求めるように尋ねる。それから肘でつついて、「クリフが言ってよ」と囁いた。クリフは「えぇ? クレオが言えよ」と身をよじる。仕方なさそうにクレオが口を開いた。
「あの、ね、その夢にね……。竜が出てくるの。竜が、人を焼き殺して……ねえ、母さんなら分かってくれるでしょ? 嘘でも作り話でもないんだから!」
クレオは急に早口になって母親に向き直った。その瞳には馬鹿にしないで聞いて欲しい、という意思が確かに感じられる。はなから信じていないチェスターに比べ、ルクレリアは神妙な顔だ。父親は反省したのか、少々居ずまいを正した。
「言わなかったけど……」
ルクレリアはさじを置き、妙に小さな声で話し始めた。痩せたその顔はいつもより少し青ざめているように見える。
「私もしばらく前から夢を見るの。二人が言ったみたいな夢。竜も、出てくるわ。……チェスター、私の能力のこと。分かるでしょう」
問いかけられたチェスターは、もちろん、というようにうなずきながら、妻の肩に優しく手を乗せた。
「そうだったのか」
「私の不安がみんなにうつってはいけないと思って黙っていたのだけど。まさかあなたたちも夢を見ていたとはね」
「きっと、母さんの力が強いからだよ」
「うん、きっとそうよ。ね、本当だったでしょ」
クレオが、父親に対して正当性を主張する。子供の言うことだとて、頭から否定するのは良くなかった。軽くうなずいてそれを認めると、チェスターはルクレリアに向き直った。
「気づいてやれなくてすまなかったな」
「いいのよ。ありがとう、チェスター。……たいしたことじゃないと思っていたけど、これは一種の予見だわ」
聞き慣れない単語に、子供たちが疑問の表情を顔に浮かべる。
「予見っていうのはね、なんて言ったらいいのかしら、占いのようなものなんだけど、実際に起こる、未来のことを見る、というのかしら。生まれながら持った才能のようなもので、ほとんどの人にはできないわ。それに訓練を積まないと、できるかどうかすら分からないの」
「母さんにはできるんだね?」
ルクレリアが黙ってうなずく。
「それで、その夢が予見だっていうの?」
「私たちが見た夢は、必ず起こるってこと……?」
「そうとは限らないさ」
チェスターはすぐに否定したが、妻の、司祭としての資質はよく知っていた。不安は隠しきれない。
いつの間にか、机の上のスープはすっかり冷めてしまっている。会話はそのまま途切れ、四人の家族は静かに食事を再開した。木枠にはめ込まれた窓からは、朝の清々しい光が差しこんでいる。いつもと変わらぬ、暖かく平和な春の朝。しかしそれにも関わらず、部屋の空気はどこか冷たく、よどんでいるような気さえしていた。
レフォアの春は過ごしやすい季節である。青葉の月と呼ぶのは、木々が青い葉を茂らせるからだ。これから雨の月までしばらくの間、穏やかで気候的にもあまり変化のない日々が続く。
双子が夢を見てからしばらくの後。
狩人たちが村のはずれで拾ったと、二人の人物を台車に寝かして村の広場へ運んできた。二人とも存命である証拠に息はしているが、意識はない。人々は物珍しそうに覗き込んでは勝手な憶測を口にしていた。集まってきた人々の輪の中には双子、クリフとクレオの姿もあった。
鎧と外套、このあたりではお目にかかれないような絹の服。二人の鎧や服にはそれぞれ手の込んだ細工がしてあり、細かな刺繍や、鎧に彫りこまれた模様などで、それらがとてつもなく高価だと分かる。
二人のうち、一人は少年で、金で縁取られた純白の鎧と水色の房つき外套を身につけ、美しい刺繍の施された袋を大事そうに抱えている。白い肌。まだ幼く、愛らしい顔立ち。薄い水色の髪は柔らかく波打ち、額には個人のために特別にあつらえたのであろう細い金冠。所々に美しい宝石が埋め込まれた鎧は、実に美しく壮麗な品。持ち主の少年が身分の高い者であることはすぐに知れた。
もう一人は背の高い青年で、立派な体格の持ち主だ。少年と同じく鎧と外套を身につけていたが、鋼鉄の鎧は少年のものに比べるとずっと実戦向けで、よく使い込まれていた。彼の凛々しい顔立ちは精悍な青年のそれで、少し癖のある黒髪が乱れて額にかかっている。若い女たちは彼を見て、頬を染めてひそひそと言い交わした。男たちはそれを苦々しく眺めていたが、といってこの青年と女性を取り合う気にはなれなかった。もしこの男と決闘したとしても、到底勝てるとは思えなかったからだ。腰に装備している長剣を扱えるのは余程鍛えた剣士でなければなるまい。
しばらくして、誰かが呼んできたのか、村の長老が人々をかき分けて現れた。
「こりゃあ……」
長老はそう言ったきり、次にどう続けていいのか言いよどんでいる。周囲の人々の視線が長老に集中していた。この村にこうした身分の人が訪れたことはない。長老はそれなりの教育を受けており、知っているが、村人たちは彼らが高貴な人だとは分かっても、どう扱ったらいいかは分からないだろう。どうしたものかと長老が考えあぐねていると、青年の方がつと目を開けた。体を起こして苦痛に顔をしかめる。素早くあたりを見回し、少年を見つけると、ほっと息を吐いた。
「あの、いずれの城の方でございましょうか」
長老が、おずおずと声をかける。青年はそれに反応して台車を降りた。
「私は、シキという。……ここはレフォアか?」
「は、はい。サナミィという小さな村です。私は、村の長老ギフルダーラと申します。ひとまず、私のうちへお越しください。そう広くもありませんが、その台車の上よりはましでしょう」
長老は村人たちに向かってそれぞれの家へ帰るように告げる。青年は、まだ目を覚ましそうにない少年を軽く抱き上げた。ばらばらと散っていく人垣の中で、双子が何やら思いつめたような顔を見合わせていた。
平和すぎると言いたくなるほど、この村は平穏な毎日を繰り返していた。事件というようなことは何も起こらない。そんなサナミィに突如舞い降りた、恐らく後世まで語り継がれるであろう大きな出来事だった。謎の人物二人が誰なのか、何の目的があってやってきたのか、それは今、サナミィの人すべての関心事となっていた。双子はまた別の意味で彼らのことが気になっていた。自分たちが見た竜の夢と、現れた二人が無関係であるとは思えなかったのである。
応接間には暖炉があったが、この時期、火は入っていない。長老はゆったりとした椅子に腰をかけ、こわばった表情を見せていた。
「間違いなく、反乱なのですね」
「ああ、そうだ。以前から良くない噂はあったものの、まさか本当に、あんなことになるとは……」
「心中お察し致します。サナミィは田舎の村、まさかレフォア城でそのようなことが起きておりますとは、思いもしませなんだ。では、シキ様が連れておられたあの少年は……紋章から、王家の方とお見受けしましたが」
「長老よ。俺は、お前を信用に値する人物だと思っている。確認しておくが、お前は忠実なるレフォアの民だな」
「も、もちろんでございます」
「万が一にもレフォア王家に忠義を誓わぬようなことあらば」
「そのようなこと! 決して、決してありません!」
長老はシキが手をかけた剣から目を離せぬまま、素早く首を横に振った。
「よし。……俺がお連れしているあの方は、第二王子エイル=エルラート=レフォア殿下だ。エイクス王と第一王子のシエル様がお亡くなりになった今、殿下が王位継承第一位だ。生きていることが知られたらと思うと……ああ」
嘆息をもらしてシキはこめかみを両手で押さえた。城から無事に転移できたはいいが、辿り着いたのは片田舎。城は恐らく反乱軍に乗っ取られ、取り返そうにもここにいるのは王子と自分一人。とりあえず目の前の人物は信用のおける人物のようだが、未来は闇に覆い隠されていると言っていい。シキは思考をまとめようと、精一杯努力していた。そのシキに向かって長老が問いかける。
「シキ様、その、今なんと仰いました? エイクス王とは……」
「何が疑問か。たった今忠臣だと言ったその口で、陛下の御名の何が不思議か」
老人は、何とも妙な顔をしている。不思議に思ったシキの眉根が寄った。
「なんだ、何がおかしい」
「いえその、エイクス王というのは」
長老が再び質問しかけたその時、奥の部屋へ続く扉が開いて一人の少年が姿を現した。顔色は悪いが、真っ直ぐな姿勢から溢れる気品が、育ちの良さを物語っている。少年がシキに目をとめて歩き出すより早く、シキが少年の元へ駆け寄ってひざまずく。心配そうな瞳で主君を見上げる姿は、まさに忠臣そのものであった。
「エイル様、大丈夫ですか。お具合は」
「うん。少し頭が痛いが、平気だ。……それより、ここは?」
「レフォアの領地内、マグレア地方のサナミィという村でございます。ただいま長老に事情を」
シキの言葉を聞きつつ、エイルは疲れたように椅子に腰かけた。席を立っていた長老が、少年の前で腰を折る。
「初めてお目にかかります。サナミィのギフルダーラと申します」
それに一瞥をくれ、けだるげにうなずくと、エイルはやおらシキに向かって口を開いた。
「疲れた。それに、喉が渇いている。何か持て」
「王子。まずはギフルダーラ殿にご挨拶を。我々を救ってくれた村の長老です」
「ああ、そうか。……ご苦労だったな。褒めて取らせる」
ひざまずいたままの長老に軽く声をかけると、エイルは再び飲み物をねだった。
「すぐに持ってこさせましょう」
長老は気にすることもなく立ち上がり、小間使いを呼んでいくつか申しつけた。すぐに飲み物と軽食が運んでこられる。
「これはなんだ。……ああ、仕方ないか」
城では見たことのないようなものだった。だが田舎の村だ、こんなものしかないのだろう。不満を顔に出すのはお行儀のいいことではなかったなと思いつつ、しかしまだ若い少年王子は仕方なさそうに皿の上のものを腹に収めた。
「エイル様。ジルク殿は、詳しいことは王子に伺ってくれと言っておりました。これから先のことも相談しなくてはなりません。お辛いこととは思いますが、お話しくださいますか」
「……うん」
重たそうに開いたエイルの口から、王宮の老司祭に聞いた話がぽつぽつと零れ落ちる。父王の弟が反乱を起こしたこと、ジルク老には何か起こることは見えていたけれど、どうしようもなかったこと、エイルを安全な場所に送るため、転移の術法を使ったこと……。
「シキ様」
ずっと黙っていた長老が口を開く。
「大変失礼ではありますが、お聞きしたいことがあります。私は真剣です。どうか、お答えいただきたい」
「なんだ」
「先程も言いましたが、私はレフォアの忠実な民です。忠誠を誓っております。田舎者ですが、国王の名を知らないはずもありません。シキ様はエイクス王が亡くなられ、こちらにおわすのは第二王子のエイル殿下だと仰いましたが……私の知っているレフォア王の名は、グリッド陛下です。グリッド様は名だたる賢王としてその名を馳せています。それに、王にはまだ世継ぎの王子はいらっしゃらないはずです」
「何を馬鹿なことを。グリッドなど聞いたこともない。俺を謀ろうと言うのか」
「め、滅相もない。そのようなことは私に何の得もありません。……シキ様。この老いぼれに一つ、考えがございます。その考えが正しければ……。どうかお教えください。エイクス王はレフォアの何代めの王であらせられるのか」
「くだらぬことを」
シキは眉をしかめ、吐き捨てるように言った。それから胸を張り、誇りあるその名を口にする。
「エイクス=ヨルン=シュレイス=レフォア様は、第十三代レフォア王だ」
「やはり……。グリッド様は、第三十七代レフォア王です」
長老が呟き、その場の空気が凍りつく。
「レフォアの民であれば、子供でも知っています。……信じられないとは思いますが、シキ様たちは」
「待て。待つのだ。どういうことだ」
シキの顔に混乱が浮かび、声音には戸惑いの色が混じった。年老いた長老は冷静さを保って問いを投げかける。
「今年は何年だとお思いですか」
「よ、四三八年」
「いえ、今年は七八四年です」
「まさか! ……本当に? 我々は、時を超えてしまったというのか。では……では、今のレフォア城では反乱など起きていないというのか? いや、反乱は起きた。確かにあった。あれは今朝のことだ。まだ一日と経っておらぬ! あの時戦った感覚が、まだこの手に残っているというのに」
「城へ行ってみればいい」
少年らしい高く澄んだ声が切れ味よく響いた。言わずもがな、エイル王子である。茶の入った杯を両手に持ち、少年はあっさりと繰り返した。
「レフォア城に行けば分かるだろう」
「それは……確かにそうかもしれませんが、エイル様をお連れするわけには参りません」
王弟コジュマールは反逆者だが、あちらからすれば、先代の王とその血筋の者こそ今や国賊。反乱が成功してしまえば、エイルは一転、処罰される対象になる。エイルほど命を狙われる存在はない。主君をそんな危険な目に遭わせられまい。だが……長老の言うことが正しいのだとしたら。時が三百年も過ぎているのだとしたら。今のレフォア城では反乱など起きていない。もはやエイルのことを知る者もいないのか。
「こういう考えはいかがですか。エイル殿下は一時この村でお預かり致します。レフォア城下までは片道十日と少し、馬で行けばもっと早く着けます。シキ様がお一人で行き、様子を見て、帰ってこられては」
長老の提案に、エイルはつまらなそうに唇を尖らせた。
「嫌だ。シキが行くなら私も行く」
「殿下、それはなりません。輿もなく、従者もおらず、きちんとした準備もできぬというのに」
「私は行く。長老の言う通りなら、反乱など起きていないはずだ」
「それは……しかし」
「私は一人でこんなところに残るなんて嫌だぞ。シキが行くなら私も行く!」
こんな鄙びた村に知り合いもなく一人で取り残されてはたまらない。城から出たことのない若い王子にはシキだけが頼りだった。もし反乱が起きているなら、自分は危険にさらされる。しかしもし本当にこの世界が三百年も先の未来なのだとすれば、安全だ。逆に、自分は王子ではない、何の立場も保証されない単なる少年にすぎないということになる。そんなことは受け入れられない。いや王子ではない自分など想像もできない。そして、そのような状態で、たった一人この村に残るなど、エイルにはとてもできなかった。
シキは何とかエイルを説得しようとなだめすかしたが、主君に逆らい続けることなどできはしなかった。最後には折れるしかない。
「ようやく分かったか」
「はい、かしこまりました。ですが、くれぐれも言っておきますが、決して目立たないようにお気をつけください」
「分かった分かった」
エイルは片手をひらひらと振る。シキは諦めたように天を振り仰いだ。
数日後、旅立ちの朝。簡単な旅支度を整えたシキは長老に別れを告げ、エイルと二人でサナミィに背を向け歩き始めた。村の馬を差し出すと長老は言ってくれたが、この村に戻ると約束できるわけでもないからと断った。
「平坦な道が続くようですが、お疲れになったら仰ってください」
エイルは、広い城の中を歩き回ることはあったが、運動の時間は嫌いだった。剣の稽古も、馬に乗る練習も、なんだかんだと理由をつけてはよく休んでいた。エイルはそういったことよりも、ジルクの部屋や城の書庫で本を読む方が好きな少年だったのである。第一王子の兄シエルには王の跡取りとして許されなかった自由な時間が、エイルにはそれなりに与えられていた。その時間をエイルは好きな勉強に思う存分当て、体を鍛えることはあまりしてこなかったのだった。それもさることながら、戸外の、きちんと舗装もしていない道を長時間歩くというのは初体験である。
「心配するな。私は平気だ。こんなことくらいで音を上げるわけなかろう」
エイルは平気な顔で言い放ったが、しばらくするともう足の痛みに耐えられなくなった。シキが振り返ると、まだ丘の向こうにサナミィの家々が屋根を連ねているのが見える。レフォアまでは思った以上に時間がかかりそうだ。先が思いやられる。だがシキはその思いを顔に出しはしなかった。
「少し休みましょうか」
「うん、そうだな」
木の下に外套を敷き、そこに座るよう促すと、エイルは嘆息した。
「敷物もないのか。……まあシキが一人では、持てる荷物にも限界があるな。やはり馬を連れてくるべきだったのではないか」
「馬や輿があればよろしかったですね。エイル様にはご不便をおかけしますが、数日間は我慢をしていただかねばなりませぬ」
言いながら、手にした筒をエイルに手渡す。中の水を飲み、エイルは喉を鳴らした。
「美味いな! この水は何か特別なものか」
「いえ、サナミィの井戸で汲んだものでございます。運動した後の水は美味しいものですね」
「なるほど。たまには運動もいいものだな」
エイルが額の汗をぬぐっていると、道の向こうに二つの人影が現れた。サナミィの方面から走ってきた彼らは、やがてエイルとシキの前に辿り着くと、弾んだ息を整えた。
「お前たちは?」
「サナミィのクリフです。こっちは妹のクレオ」
シキの問いかけに、少年がはきはきと答えた。汗に濡れた髪をかき上げると、澄んだ瞳がきらめいている。
「あなたたちが現れたとき、これだって思いました。長老の家に滞在しているようだけれど、旅の準備をしていると知って」
「どうしてそれを」
「小さな村ですもの。どこで何を買ったか、誰でもすぐに分かります。どうやら数日中に旅立つようだと教えてもらって」
「僕ら、村を出てきたんです。お願いです、一緒に連れて行ってください」
二人の言葉に、シキは目を丸くした。見たところ、エイルよりは少し年上といったところ。旅慣れているとも思えないし、取り立ててどうということもない、ごく普通の村の子供である。二人の顔つきなどがやけに似ていることは気になったが、それより先に、こんな子供が何故村を出てきたのかという疑問が湧く。
「勝手なんですけど、運命だって気がしたんです」
「実は……僕ら、あの村からずっと出たくて。分かると思いますけど、僕ら双子なんです。だから」
「このまま村に住んでいても幸せにはなれないって、ずっと思ってました」
興奮した様子で、二人は矢継ぎ早に言葉を継いで言った。
「それにここのところ変な夢を見ることが続いていて、それであなたたちが現れて」
「竜の夢なんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、何の話だ」
勢い込んで早口になっている二人の説明に、シキは目を白黒させた。
この日の朝――。
チェスターは考え込んでいた。子供たちが村の中で馴染んでいないということは明白な事実だ。友達ができなかったり、陰口を叩かれたり、子供たちはどんな思いをしているだろう。クリフもクレオも、このまま大人になり、この村で幸せに暮らしていけるのだろうか。そう考えると、チェスターの首は力なく横に揺れるばかりだった。
ルクレリアは、予見のことを考えていた。竜に襲撃される人々の夢だ。場所や日時は分からないが、予見したことは必ず起きる。未来を予め見る、という能力は、ルクレリアにとって忌まわしいものだったが、その強さと正確性はルクレリアの母譲りであり、彼女自身それを痛いほど分かっていた。まさか、竜などお伽話だ。そう思う気持ちはあったが、あの夢が事実として起こることは間違いなかった。自分の子供たちが関係しているのだろうか。同じ時に、同じ姿同じ顔で生まれてきた子供たちには、特別な運命が待っているのか? まさか。あの子たちは予見者でもない。夢を見たのも自分の能力に共鳴してしまっただけだ。だが二人が強く村を出たいと言う気持ちは分かっていた。それを無視したくもなかった。
チェスターとルクレリアは、二人の貴族と思われる人々が突如としてこの村に現れてから数日、このことについてよくよく話し合ってきた。彼らが竜の夢と関係しているかは分からないが、彼らが来てからというもの、ルクレリアも子供たちも夢はぱったりと見なくなったと言った。この村に永住すると決めて暮らしてきたが、子供たちにそれを強要するつもりはない。もう、十四になった。独り立ちを考えるにも早すぎるということはない。
そうしてチェスターは、二人に告げたのだった。
「いいか。村を出るということは気楽に考えていいものじゃない。いつも俺が言っていること、覚えているなクリフ」
「うん。家を出たら、二度と帰って来られないかもしれない」
「そうだ。俺はいつもそう思って家を出る。クリフとクレオも、狩りに行くのではないが、帰って来られない可能性がないとは限らん」
「お父さんったら。大丈夫よ」
「いや。もし行くと言うなら、二度と私たちに会えないかもしれないと思って行け」
「お父さん……」
「チェスターはね、そのぐらいの覚悟がいるんだって言っているのよ。いい? あなたたちの運命はクタールに握られているわ。きちんと予見の儀式をしても、先のことはほとんど見えなかったの。クタールが、運命の神が隠しているのよ。チェスターも私も心配で仕方ないわ。でも……あなたたちは行く。そんな気がするの」
「ルクレリアが言うんだ、きっとお前たちは旅立つ運命にあるのだろう。同じ日に同じ顔で生まれたことも、夢を見たことも、時を同じくしてあの方々がこの村へ現れたことも、きっとすべてクタールの仕業なんだろう。……さあ、支度をしてきなさい」
クリフとクレオは神妙な顔つきになってうなずくと、準備をするために階段を駆け上がっていった。ルクレリアが大きく息を吐く。
「本当に、これで良いのかしら」
子を愛す親がおしなべてそうであるように、この二人も親として、我が子が心配でならなかった。ルクレリアは夫の顔を潤んだ瞳で見つめる。チェスターは黙ってその身体を抱き寄せた。
「大丈夫だ。きっと」
「そう、きっとそうね」
ルクレリアは唇を噛んだ。その肩を抱くチェスターの武骨な手に力がこもる。
話を聞き終わったシキは、深刻な表情で首を振った。
「お前たちの気持ちは分かるが、我々についてくるなど考えられん。村へ戻れ」
「ええっ」
「ええっ」
二人は揃って声を上げた。クリフのは驚きの、クレオのは不満げな響きである。
「で、でも」
「でもじゃない。お前たちは外の世界を甘く見すぎている。そんなに簡単なものではない。お父上が言うように、帰れない可能性だって大いにある。そのことの意味を、お前たちは分かっていないのだ。野獣や悪党に襲われることを考えたか? 野宿の経験はあるのか? 何日も食事が取れない辛さを知っているのか? 旅の生活がどんなものか分からないのに、気軽に言うな」
二人の子供は、勢いをそがれて黙り込んでしまった。その様子を見たシキの声が、少し優しくなる。
「双子への偏見か。そういったものは確かにあるだろう。その辛さを、俺は分かってやることはできんが、きっと大変なのだろうな。それについては同情するよ。だがな。住むところ、食べるもの、両親がいて……生活があるということがどんなに有り難いことか」
シキは、自身の生い立ちを思い起こしていた。幼いころ、旅をして暮らすのは大変だった。今、この子たちに平穏な生活を捨てる必要が本当にあるのだろうか。エイルとそれほど年も変わらぬような子供が旅をしていくなどということは、簡単なことではない。自分一人で子供三人の面倒を見るのも安請け合いはできないと分かっていた。
クレオが、思いつめたように呟く。
「夢を見たんです」
「夢?」
「竜の炎で世界が燃える、恐ろしい夢でした。お母さ……あ、私たちの母は司祭だったそうで、予見とかいう、未来に起こることを見る力があると言います。その母が、燃える町を夢に見た、一種の予見じゃないか、と。私たちも母の力で影響されたのか、分かりませんが、その夢を見たんです。本当に恐ろしかった」
クリフもうなずいて、言葉をつなげた。
「でもあなたたちが現れてから、ぴたりと見なくなりました。どうしてか分からないけれど、きっと何か関係があると思ったんです」
「両親が、これがお前たちの運命なのかもしれないって言ったんです。双子でいることが嫌だってだけで村を出てきたんじゃありません。あの、竜を探しに行くんですか?」
「いいや」
端的に否定され、双子たちは驚いた。
「え、だって」
「竜を倒しに行くんじゃ」
「何か勘違いしているようだな。竜など、子供の寝物語ではないか。そもそも、我々はそんな夢とはまったく関係ない。レフォア城に大切な用事があるのだ」
双子は顔を見合わせた。てっきり世界の危機を救いに行くのだと、自分たちが双子に生まれたことは選ばれし運命なのだと思っていたのに。両親も、きっと運命だと言って送り出してくれたのに。単なる思い込みにすぎなかったのか。クレオは、恥ずかしさに頬を染めた。
「そっ、それでも!」
クリフが食い下がる。
「僕ら、もうあの村には居場所はありません。自分たちで生きていきたいんです。何ができるか分からないけど、きっとお役に立ちます」
「いやしかし」
「僕は狩人の息子です。弓が得意です」
「わ、私は……えっと」
自分にも何かできることがあると訴えようとしたクレオは、言葉に詰まった。一通りの家事ができることは、旅の生活に役立つだろうか。
「さほど役に立ちそうにないな」
それまで黙ってやり取りを見物していたエイルが、クレオに向かって首をかしげた。
「だがまあちょうど従者もいなかったことだし、使ってやってもいい」
――呆れた。なんて言い方なの。
「私たち、あなたの家来になるって言ってるわけじゃないんですけど」
「失礼な物言いだな。私を誰だと思っているのだ」
「知らないわ」
「なんだと」
白く細い指を振って、エイルは一息にまくしたてる。
「私はレフォア王国の第十三代王エイクス=ヨルン=シュレイス=レフォアの息子にして、正統なる第二王子エイル=エルラート=レフォアだ。無礼な口を利くことなど当然許されんが、本来なら同じ高さで話すことも許されないのだからな。いいか、知恵の神にしてレフォアの代々の守護神であるバダッフの名に掛けて、私はレフォアの王子であると主張するぞ」
「そうですか分かりましたお偉いんですね、でも自分一人じゃ何もできないんでしょ王子様」
「なんという口の悪さと頭の悪さだ。教養のない田舎娘では何も知らぬだろうから、この私が親切に教えてやるが、王族というものはな、身の回りのことは自分でやらないのだ、もの一つ自分では拾わない。それは私の仕事ではない。その仕事をする者の誇りを傷つけてもならないのだ」
「何もできないんでしょ、だから」
「違う! できないのではない、しないのだ! 理解能力が著しく欠如しているな、この娘は」
「私の方が年上よ、そんな言い方しないで」
「年齢など関係ない、王子である私に向かってそんな言い方をする方がよほど不敬だろう」
「ちょ、ちょっと」
ここへ至ってようやくクリフが口を開いたが、その声が二人の耳に入ることはなさそうだった。怒鳴り合う二人は、もはや周りが目に入っていない。目尻を吊り上げて言い争い続けている。だが、物事には必ず終わりがある。
「王子王子ってそんなに偉いの? それに大体、あんたが本当に王子かどうかなんて分からないじゃない、嘘ついてるのかもしれないでしょ!」
「この……っ、無礼者め!」
エイルが真っ赤な顔で勢いよく振り上げた手が、大きな手につかまれて止められる。
「離せ!」
「そこまでに致しましょう。女性に手を上げるなどしてはなりません。しかし、そちらも言いすぎだな。エイル様はレフォアの王子であらせられる。王族に対する口の利き方というものがあるはずだ」
「あ……えっと……」
「王族や貴族と話す機会はなかった、か。まあそうだろうな。良いか、王族には最大限の敬意を払うものだ。王家の方々のおかげで、国民は皆平和に暮らせているのだからな。分からなくても当然ではあるが、どれだけこの国の平和のために心を砕き、骨身を惜しまず働いていらっしゃることか。たとえそういったことを差し引いたとしても、エイル様のことを何も知らずに侮辱することは、私が許さぬ」
シキの両目に宿る迫力がクレオを黙らせる。
「ごめん、なさい」
ふん、と横を向いて、エイルは腕を組んだ。シキは、しばし考えを巡らせた後、力強くうなずいた。
「まあ、お前たちの言い分は分かった。ご両親も、覚悟を決められたのだろう。今後のことは私にもまだ何も分からぬが……ひとまず、レフォアまでの道のり、共に行くことにしよう」
「あ、ありがとうございます!」
クリフが勢いよく頭を下げる。
「従者として使ってやっても良いという意味だぞ」
「別に家来にしてくれなんて言ってません」
「私は王子、お前は平民だ。平民ならすべからく自国の王族に仕えているという意識をだな」
再び口喧嘩が始まりそうになったところで、今度は素早くシキが止めに入った。
「はい、そこまで。エイル様、ご自分が王子だと口になさるのはもうお止めください」
「なんだとシキ、お前までそのようなことを言うか。何度でも言うぞ、私は王子だ。王子だ。レフォア国の正統なる……」
繰り返すエイルに、シキは指先を額に当て、嘆息した。
「お気持ちは分かります。エイル様。ですが、今後、何が起こるか分かりませぬゆえ、安全のために、しばらくは殿下のご身分は明かされぬようにとお願い申し上げましたね」
「そ……分かっている!」
「エイル様のご身分は言わずもがな。疑う余地はありませぬ。ですが」
「うるさい分かったもういい」
エイルは聞きたくないとばかりにそっぽを向いてしまった。双子はそのやり取りに、顔を見合わせて肩をすくめる。
エイルの環境で育まれた尊厳を思えば王子と言うなというのは辛いことだった。しかも王弟による反乱があったばかりなのだ。家族を亡くした悲しみ、自分の立場が揺らぐ不安、城へ帰れるかどうか分からぬ戸惑い、そういったことを押し隠して気丈に振る舞ってきたエイルにとって、村娘に王子じゃないかもしれないでしょ、と指摘されたのは耐え難いものがあっただろう。その心の内を思いやり、シキは眉を寄せた。だが、これから先のことを思うと別の意味でもシキはその精悍な顔を少々曇らせざるを得なかった。
「人のいるところなどでは極力目立ちたくありませぬ。どうかご理解ください。ご気分を損ねさせたことは、このシキ、心より謝罪致しますゆえ。申し訳ございませぬ。私が悪うございました」
わざと大袈裟に言っているのだろう。慇懃なその声に反応したのか、エイルの肩が少し揺れた。そして少年は外套をひるがえして振り返る。
「仕方がないな。許してやる」
尊大な態度にしか見えない、とクレオは呆れて声も出ない。どう見ても、駄々をこねてシキを困らせているのはエイルだ。なのに何故シキが謝り、エイルが『仕方ないから許す』なのか。納得いかない、と言いそうになって、クリフに止められた。「何で止めるの」といった顔で兄を睨んだが、「もうやめとこうよ」という顔で返される。クレオは大きく息を吸い込んで、自分を抑えた。
「さて。ではそろそろ行くとしようか」
シキの声とともに彼らは長い旅の、初めの一歩を踏み出した。これが『運命の出会い』であることを四人が知る術はない。大陸全土を巻き込み、多くの人の運命が変化することに気づいている者もまた、世界中のどこにも存在していなかった。それはただ、自分の手の平に運命の四人を乗せたばかりの、運命の神クタールのみが知り得ることだったのである。
サナミィからレフォア城まではそれなりの距離がある。振り返ってもサナミィが見えなくなるまで歩いたが、道はただひたすらに続いている。双子は少々挫けそうになった。延々と歩いていては疲労も溜まるというものだ。父と森に入ることの多いクリフはともかく、クレオはこんな長く歩き続けたことはなかった。膝が軋み、足全体が熱を持っている気がする。では、まったく歩き慣れていないエイル=エルラート=レフォア殿下はといえば……シキの背にいた。足が痛いと何度も繰り返して訴えるエイルを、シキが背負っているのだ。エイルは痩せた少年で、同じ年頃の子に比べればとても軽いだろう。そしてシキは鍛え抜いた身体を持っている。だが、長時間にわたればいくらシキでも疲れが見えてくる。双子が荷物を手分けして持っているが、それも簡単なことではなかった。彼らはゆっくりとした歩みを重ねていく。
この大地に住むすべての人々を守ってくれる太陽神ハーディスは、既にその顔を地平線の向こうへ隠そうとしていた。多くの木が立ち並び、先へ行くほど陰が濃くなっていく。ここまでの道のりにも森や林はあったが、進んでゆく先はそれまでと比べて格段に暗い。木の数も、その種類も違う。今までののどかな風景とは明らかに違う雰囲気が醸し出されていた。レフォアへの道はここを通るのが最短である。思ったより時間がかかり、まだ森の入り口近くだというのに夕闇が忍び寄ってきていた。
四人は火を焚くための枝を集めながら、うっそうとした森の中へと入っていく。口を利かないまま、疲れた足を引きずって。
「も、駄目……疲れたぁ」
ついに音を上げたのはクレオだった。荷物を下ろし、膝に手を当て、首もがっくりとうなだれてしまっている。立ち止まったクレオを振り向いて、シキが苦笑する。
「この程度で疲れていては、この先の旅が思いやられるな」
「そうだそうだ」
シキに背負われたままエイルが同調する。それを、クレオが睨みつけた。
「そんな格好の人に言われたくないわよ。第一、私たちは荷物を余計に持ってんのよ? 誰のせいだと思ってるの。シキがエイルを持つので大変だからでしょ」
「持つとはどういう言い草だ。私は荷物ではないぞ」
「十分、お荷物じゃない」
「無礼者め! まったく、無礼にもほどがある。私は本来、こんな長距離を歩く立場ではないのだ。馬車か輿を用意するべきなのに」
「そんなもの、サナミィにあるわけないわよ」
「だから我慢してやっているんだろうが」
「我慢してそれですか。いいわね、王子様は」
クリフは肩をすくめる。シキは苦笑が絶えない。エイルを大事そうに降ろすと、休憩を提案した。
「ここで野宿するんですか?」
「ああ。小さいながら天幕はあるし」
「寝具はないのだろう?」
「そのくらい我慢しなさいよ」
「うるさいな、お前に言われる筋合いはない。私に指図するな」
エイルはシキが敷いた上着を下敷きに座り、双子は薪にするための枝を拾い集めた。シキが要領よく天幕を張っている。張り終わるとエイルはさっさと天幕に潜り込んだ。やがて戻ったクリフが火をおこし、焚き火ができるとシキと双子はようやくほっと息をついた。
「あの……」
遠慮がちなクレオの声に、シキが目を向ける。その視線に厳しさを感じて一瞬口ごもったが、言ってみろとばかりに優しく促され、クレオは思い切って質問を口にした。エイルに聞こえてはまずい。ちらりと肩越しに振り返ると、エイルは横になったまま向こうを向いていて動かない。小声で聞いてみる。
「あの、エイルって、本当に王子様、なんですよね?」
「ああそうだ」
シキの声には断固とした響きがあった。そこには自信と誇りが滲んでいる。
「信じられないか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……想像できなくて。お城で暮らす生活ってどんななのか、とか」
「なるほど、お前たちには分かりづらいだろうな。城は、そうだな、とても広い石造りの建物だ。廊下がいくつも連なっていて……いや、言葉ではどうも伝わらんな」
いい言葉を探して、シキは思いを巡らせた。エイルの生活、それはとても恵まれたものである、と同時に、王族としての重責を担うものでもあり、自由も少なく、しきたりも多く、また信頼できる者は少ない、重苦しい生活でもあった。間近で見ていた自分でも、その真実は分からない。王子として生きることの大変さは、今ここで田舎の村の少年少女に説明できるようなものではなかった。
「例えば、だな。目の前で大きな荷物を運んでいる人がつまづいて、荷物を落としたとしよう。そうだな、果物がいくつも転がる」
「はあ……?」
「そのとき、お前たちはどうする?」
突然の問いに、双子は顔を見合わせた。
「そりゃあ、大丈夫ですか、って言うとか」
「とりあえず拾うのを手伝うかな」
「そうだよね」
シキは二人の答えにうんうんとうなずいた。
「それが普通の感覚だろうな。俺もそうするよ。でも、エイル様にそれは許されない」
「許されない? ってどういうことですか」
「召し使いが王族の前でそんなことをしたら大変だ。失敗したらその職を失うかもしれない。だから、エイル様なら気づかなかった振りをして、後ろを向いて別の方向に歩く」
「え?」
「手伝わないの?」
「手伝ったら、召し使いが失敗したことを認めることになるし、王族に手伝わせたなんてことになったらもう解雇は確定だ。召し使いを困らせることになるな。だから決して手伝ったりはしない。そうしてはいけない、と教わって育つんだ」
「へ、へえ」
「全然違うだろう」
「シキ様もそう、なんですか?」
「俺も屋敷ではそうするよ。そうするように言われたからな。……ああそうだ、俺のことはシキでいい。俺は元々、平民の出なんだ」
「そうなんですか!」
「え、でも今は貴族様なんですよね」
「まあな。話すと長くなる。……今日はもう休め」
聞きたがる双子を抑え、シキはそれ以上語ろうとはしなかった。クリフは、王族って大変なんだなあと言い、クレオは王族って分からない、と答えた。
「今は、ここでは、王子じゃないってことにしないといけないんだし、慣れてもらわなくっちゃね。平民の暮らしに」
「まあね。でも、お父さんやお母さんやお兄さんも死んじゃったかもしれないんだし、可哀想だよな」
複雑そうな顔でクレオはうなずいている。
時は過ぎ、夜も更けた。三人はまだ焚き火を囲んでいた。エイルはずっと天幕で横になっていたが、眠れたわけではなかった。こんな固い場所で横になるなど生まれて初めてである。どうにも寝つけず、寝返りを打っては痛む肩や腰を撫でさすっていた。それでも、疲れのために眠気に襲われ、時折意識を手放す。
――陛下! ここは危険です。
――無念じゃ。
――こちらです、お早く!
多くの人が慌てふためいている気配がする。城だ。陛下? ということは父上がそこにいるのか。女性の声もする。母上かもしれない。臣下たちなのか、とにかく大勢が行き来している。誰かが、どこかへ連れて行こうとする。恐怖を感じて嫌がったが、早く早くと急かされ、部屋を出る。ああ、これはあのとき。あの朝か。
薪がはぜる音に薄く目を開けると、天幕の切れ目から双子が膝を抱えて並んで座っているのが見える。焚き火と、シキ。そうだ。ここは城ではなかった。そうだった。エイルは深く溜め息をつくと、こわばった体をゆっくり動かして、再び寝返りを打った。
双子は眠気と疲労感に対して、まだ粘りを見せていた。クリフには野宿の経験があるが、クレオにはない。連なる木の枝が恐ろしげな影を作り、その影が重なってさらに大きな怪物の影のように見える。月の女神メルィーズは木々に邪魔されて切れ切れにしか光を投げかけない。恐らく丸々としたその姿を輝かせているはずだが、空を見上げてもその完璧な円形はなく、枝のせいで、ひびが入ったように見えるばかりだった。
クレオは焚き火を枝でつつきながら、息を吐いた。それはまるで、あたりで息を潜めている暗闇に聞かれぬように、とでもいうかのように、密やかに吐き出された。しかしすぐ横の双子の兄には聞こえたようだ。心配そうな瞳が、同じ色の不安げな瞳を見つめる。
「クレオ、大丈夫?」
「大丈夫だけど……何か、怖いの。誰かが見てるような気がして。ねえ、そんな気がしない?」
クリフはあたりを見回したが、そこにはただ夜がひっそりと佇んでいるだけである。薪がはぜる音以外は静寂が森を満たし、生き物の影は感じられない。兄は妹に向かって首を振る。クレオはまだ不安そうにしていたが、疲れのせいもあり、クリフの肩に頭を乗せた。クリフもやがて妹と共に静かな寝息をたて始める。シキは黙ったまま、薪の火が絶えないように気を配り続けた。
レフォア - 王都
太陽神ハーディスと月神メルィーズは交互にその姿を地上に現す。そうして十日と少しが経ったころ、少年王子と騎士、そして世にも稀な双子はレフォア城近くに到達していた。
レフォア国の王都は、多くの人に単に「城」あるいは「城下町」と呼ばれていた。高い城壁が町全体を囲うように建てられ、周辺は平野で、穏やかな農村地帯が広がっている。畑に植えられた作物は様々で、収穫できるようなものもあれば、まだ青い葉を茂らせているものもあるので、上空から見ることができればまるで色とりどりのつぎはぎ布のようであったろう。
遠くに、細い尖塔がいくつも連なった壮麗な城が見えている。丘の上に造られているので、その大半が城壁の上に姿を現している。その大きさがどれほどのものであるか、ここからではまだ分からないが、相当大きな城であることは間違いがない。
「レフォア城……」
エイルが小さく呟く。隣を歩いているシキがそれを聞きつけ、唇を噛んでいる少年の肩に大きな手を乗せた。少し先で、クリフとクレオが手を振っている。
「早く行きましょう! ね、早く!」
シキが手を振り返すと、双子は駆け出して行ってしまった。エイルは立ち止まり、シキを見上げて確認するように言った。
「あれは、我が城だな?」
「ええ、エイル様がお住まいになる城です」
「……ん」
きっぱりと言うシキに、エイルは安心して小さくうなずいた。胸を張って、また歩き出す。その心中を思うと、熱い想いがこみ上げた。もし反乱が起きたのが現実だとしたら……あの城は、エイルのものではない。取り返すには、どれほどの労力が費やされるだろう。こちらは二人きり。不可能だ。反乱軍を率いていたのは王弟コジュマール大公である。軍部を束ねる武官長でもある彼が、王位継承の手続きを執り行ったとすれば、レフォア王国軍全体がエイルの敵である。エイルが一夜にして反逆者として手配され、処刑対象とされただろうことは疑いようがない。レフォアは、絶対的に王家の力が強い。レフォアの民は、コジュマールを新たな支配者として、その命令に従うだろう。
少年王子には、その実感がまだない。レフォアの民は父王エイクスと兄王子シエル、そして自分に対して忠誠を誓っていると思っている。その期待が裏切られたとき、少年がどんな顔をするのか、そしてその後はどうするのか。考えただけでもシキは息苦しくなる。ふと、自分たちを転移させてくれた老司祭、ジルクの言葉が蘇った。
『どうかエイル様をお守りください』
シキは心の中で呟く。
――必ず守ります。俺は、何があろうとエイル様の味方です。レフォア王家に、そして誰よりもエイル様ご自身に、俺の忠誠を捧げます。それが、陛下との約束ですから。
その約束をしたときは非現実的であったことが、今、現実のものとなり、目の前に据えられている。自分が守らなくて、誰がこの少年を守れると言うのだろう。世間知らずの、幼き少年を。眼前を歩いて行く少年は、自分が置かれた立場の自覚も薄く、人生にいくつもあるはずの試練にもほとんど出会ったことがない。それでも王族としての誇りを胸に、家族を亡くした悲しみを背負って歩いて行く。シキは改めてこの少年を守り通すことをその胸に誓った。
遠かったころはそれほどだとも思っていなかった城壁は、今や目の前にそびえ立って威圧的にこちらを見下ろしていた。双子はその大きさに驚嘆の声を漏らしている。
王都は、北の丘にレフォア城がそびえ、南側の斜面に城下町が広がる。クリフたちは城壁を右手に見ながら南門へ回っていく。
南門からは広い街道がさらに南へと伸びている。春の市が立つこの季節、街道には多くの人が溢れていた。遠方からやってきた旅人もいる。あちこちでいろいろな地方の言葉が飛び交っていた。街道の脇には露店も作られ、気の早い商人が商売に精を出している。その様子を眺めながら、シキは合点がいかない様子である。
「いくら市が立つ時期とはいえ、このような場所での露天商など、許されるはずがない。何よりこの様子では反乱とは考えにくい。やはり……」
独り言を呟くシキの目線の先に大きな南門が口を開けている。その下を多くの旅人や、商人たちの隊商が行きかっていた。
巨大な門を見上げながら過ぎると、人々はさらに増え、大通りの賑わいは目を見張るほどであった。エイルと双子はその様子に目を丸くしている。エイルは城から出たことが数えるほどしかなく、それもすべて垂れ幕の隙間から覗ける、狭い範囲しか見たことがなかった。目の前に広がる光景は、エイルを圧倒するに十分だった。双子はと言えば、ただただ純粋に、これほど大勢の人間を見たことがないので唖然としている。
「今日はなんかのお祭、ってわけじゃ、ないんだよね……?」
「う、うん。すごい数の人だなあ。みんな、どこから来て、どこへ行くんだろう」
クレオがそばを通る女の子を振り返る。クレオはいつも着ている綿の服に旅装用の外套を羽織っているだけだったが、同じ年くらいに見えるその子は、花模様の刺繍がされた肩かけを羽織っている。スカートは綺麗な草色に染めてあり、肩かけとお揃いの刺繍が裾に入っていた。髪も美しく結い上げ、髪飾りで留めている。あまりにも自分と違うその子を見て、クレオは少しうつむいた。
一方のクリフは武器屋に見とれている。彼が持っているのは父が作ってくれた手製の弓で、柔らかくしなるカゴラの木を削りだしたものだ。それはもちろんクリフの宝物であったが、店には見たこともない弓が数多く並べられ、目移りしてしまう。木製のものも多くあったが、金属の持ち手がついたものもある。大きさも千差万別で、小さな手弓から、クリフにはとても使えないような長い弓まで様々だ。色が塗られ、綺麗に飾られた祭礼用の弓などもある。それ以外にも、短剣や長剣などが山程あった。店の中にどうやって運んだのかと思うほど多くの品物が所狭しと並べてある。それらの内のいくつかは表からも見えるように店の外に綺麗に並べられ、店主は終始笑顔を絶やさずに、商品の一つ一つを丁寧に磨き上げていた。
一方、エイルは言い知れない不安に襲われていた。今までは、人々から見下ろされることなど皆無に等しかった。平民と会うことなどそもそもなかったが、城にいる人間は誰しも自分に頭を下げ、目を合わせず、慇懃に挨拶をして通り過ぎた。ジルクや教育係も、部屋に入るのはこちらが後、座るのはこちらが先。そういったことはごく普通のことであり、特権であることを意識することもなかった。自分が見上げるのは父王と母王妃、兄王子だけ。他国の主賓などと同席する場合はその限りではないが、まだ幼いエイルは、外交の仕事をする機会も少なかった。だから人々は皆自分に対して礼を尽くし、頭を下げるもの――それが当然であったのに。今はどうだ。近くにいる人々は自分に目もくれない。中にはエイルにぶつかっても「邪魔だな」といった顔をしていく者さえいる。ここではそれが「当たり前」だった。エイルは発展途上の少年で、身長も大人の半分ほどしかない。一人の少年を、人々が気に留めるはずもなかった。しかしエイルにとっては理解不能であり、恐ろしかった。自分は王子だぞ、お前たちよりずっと偉いんだ。そう主張しようと思っても、口に出すことはできなかった。
――何故、誰も気づかないんだ。レフォアの民はレフォア王家に、私に、忠誠を誓っているはずなのに。
エイルは無意識に、シキの服にしがみついていた。
人々の顔には、平和と安寧が見える。良い治世が布かれているのだろう。レフォア王国軍を束ねる武官長であったコジュマール将軍が、兄王を暗殺して王の座につき、即位式を執り行おうとしている、というような状況には到底見えなかった。新しい施政者であるとしてコジュマールの名も聞かない。辻道に立てられた王室広報板にも、生き残りの第二王子を捕らえろなどとは一言も書かれていない。サナミィで長老が言ったように、今はエイクス王の御代ではないのか。そんな思いがシキの頭をよぎる。
「城へ行こう。早く確かめたい」
地面を見つめてそう言ったエイルに、うなずいて応える。四人は城門を目指し、大通りを北へと進んだ。
城門は大きく堅牢な扉で閉じられていた。シキはもちろん、エイルも見覚えがあるレフォアの城門である。懐かしささえ覚え、シキは門を見上げて足を止めた。ほんの一瞬躊躇ってから門衛を務める兵士に問いかける。
「私の顔が分かるか」
その問いは、答えを分かっていて投げかけられたものだった。おかしな質問をする、といった顔で、門衛は訝しんでいる。「やはり」と言いたげなシキと、顔面蒼白のエイル。双子は緊張した面持ちで、そんな二人の様子を見守っている。
「シ、シキは緑旗隊の副隊長だぞ。レフォア兵士でこの顔を知らぬ者などおるはずが」
余計なことまで言われてはと、シキがエイルを慌てて引き留める。兵士たちは不審そうにエイルを睨みつけた。
その場で逡巡していると、後方でざわめきが起こった。やがて人々をかき分けてレフォア兵士が二人現れた。護身用の軽装鎧を身につけた兵士たちは手に細い槍を持ち、それで人々に道を開けるよう指示している。人々は慌てて道を譲り、これから起こることを道端から覗き込んだ。二人の兵士は口々に言う。
「さあ道を開けろ」
「緑旗隊だぞ、邪魔だてするな」
誰もが驚いてはいたが、シキがその中にいて誰より衝撃を受けていたに違いなかった。
緑旗隊というのはレフォア王国軍の中でも特別な存在である。レフォアの王国軍には、本隊といくつかの分隊があるが、そのどの隊も、紋章は王冠の下にうずくまる獅子と決まっている。しかし緑旗隊の紋章だけは、王家の旗紋章と同じ、王冠の脇に両足で立ち上がる獅子なのである。色は違えど、緑旗隊が王家に一番近い存在であるという証だ。緑旗隊は王国軍に所属はしているが、独立した王家直属の近衛隊なのである。緑旗隊がいるということは、そこに王族がいるということを示しているのだった。
「さあ、道を開けろ!」
物騒な声を上げながら、二人の兵士は道を作っていく。混乱の中、エイルは双子が両脇から挟むようにして道端の群衆に埋もれていたが、シキは気づけば取り残され、呆然と道に立ち尽くしていた。先立ちの兵士が槍を突き出す。
「おいお前、何を考えている、そこをどけ!」
「緑旗隊をなめとるのか」
「い、いやそんなことはない。だがお前たちは」
「何様のつもりだ。『お前たち』だと? 我々は貴族階級だぞ、平民が対等に話せる身分ではない」
「ちょっと待て! いつから緑旗隊はそんなに柄が悪くなった、お前たちの上官はどんな指導をしているんだ」
思わず言い返してしまったシキはすぐに自分の失態を思い知った。
「なぁんだとお? 偉そうに、何が指導だ! 平民が!」
「ええい、邪魔だ! どけっ」
威嚇だけだろうが鋭く突き出された槍の先を、シキは素早く身をよじってかわし、道の脇、人込みの中へと分け入った。複雑な感情と、様々な考えが次々に彼を攻めたてる。
兵士たちによって広く開けられた道を近衛兵たちが埋めていく。シキはまわりの人々が言い交わす言葉に己の耳をふさぎたくなった。
「姫様のお帰りかあ。護衛だな。サニエール隊長と」
「副隊長のファルド様、今日も素敵!」
「綺麗なお顔立ちだよねえ、あの人は」
「やっぱり貴族様は違うよねぇ、なんたって気品があるもの」
「サニエール隊長の強さは国一番だよ。お父様は、大戦のときの英雄でいらしたしねぇ」
「あらファルド様だってすごいわよ。剣もお上手だし、頭も良いと有名じゃない」
「あの人だけは怒らせたくないね。国中の女を敵に回すのと同じだもんなぁ」
「ファルド副隊長がご結婚されるとなると大変だろうね」
「いやっ、ファルド様がご結婚だなんて冗談でも言わないで!」
人々の下賎な噂はひそひそと切れることもなく続いていたが、シキの心中はそれどころではなかった。レフォア王国軍、緑旗隊の副隊長と呼ばれる人間が目の前を通っている。それは信じたくない事実だった。
――姫の護衛という声が聞こえた。サナミィの長老が言っていた通りだったのだ。エイクス王に姫様はいらっしゃらない。それに、サニエールにファルドなど、軍の中でも聞いたことのない名。まして、俺以外に「緑旗隊副隊長」が存在するなど……。
やはり時を超えてしまったのかという驚き。そして、その理解とは裏腹の、信じられない、信じたくないといった気持ちが沸き上がる。「やはり」「まさか」「しかし」「そんなはずが」といった言葉たちがシキの頭に溢れかえっていた。
最後の一人が吸いこまれると、門扉は重々しい音とともに閉められた。物見高く見物していた人々が三々五々散らばっていく。シキはようやく我に返ると、エイルと双子を案じてあたりを探し回った。
「あ、シキ!」
小走りで帰ってくるシキにむかってエイルが駆け出す。それを抱きとめるようにしてシキが立ち止まり、そこへクリフとクレオが追いついた。
「すごかったですね。お姫様だってみんな言ってました」
「綺麗な馬車だったなあ」
クリフとクレオは無邪気に言うが、エイルは口を尖らせてシキを問い詰めた。
「シキ、緑旗隊というのはどういうことだ。あれは王家の馬車だな」
「……レフォアの、姫が、お戻りになったそうでございます」
「姫だと?」
エイルが声をひっくり返す。シキは、声を低めるよう、エイルを優しく諌めた。
「先程の一団は、王国騎士団緑旗隊でした」
冷静に、落ち着いて事実のみを話すのだとシキは自分に言い聞かせる。ともすれば不満げなエイルも、シキの真剣なまなざしに口をつぐんだ。
「国王グリッド様の姫君が、他国へ親善大使としてお出かけだったご様子。ご訪問の期間が終わってご帰国になった、と。緑旗隊はもちろんその護衛です。隊長はサニエール、副隊長が……ファルドという名で」
「緑旗隊の副隊長はシキ=ヴェルドーだ」
やはり我慢できないといった様子でエイルが言ってのける。双子はお互いに困ったような顔を見合わせている。シキはほんの少し、淋しげに微笑んだ。
「エイル様。どうやらサナミィの長老が言ったことが当たっているようでございますね。ここは我々が知っているレフォアとは違います。つまり、今年は七八四年だと」
「今年は四三八年だ」
エイルは苛立ちを隠さず、シキの言葉を遮る。
「エイル様はシキが嘘をついていると仰るのですか」
絞りだされた声とともに、シキの眼差しがエイルに向けられる。広がる沈黙が重苦しい。クリフとクレオは耐えられなくなり、わざとらしくも明るい雰囲気を出そうと務めながら、交互にしゃべりだした。
「ってことはやっぱり、時間がずれていたんですか」
「そうかもしれないって聞いてはいたけど、本当だったんだ。すごいね、三百年以上前の人に会えるなんて」
「そうだよね、すごいや。でもなんでだったんだろう」
「なんだっけ、お城のさ、司祭の人……ジルクさんだっけ? その人が、わざとやったのかしら」
「いや違う」
クレオの言葉に、エイルが弾かれたように顔を上げた。そして、転移したときのことを、一つずつゆっくりと思い出すように話し出す。
「……あのとき、ジルクは言った。『遠くへ。とにかく遠くへ』と。行く先を指定する暇などなかった。安全な場所へ、とにかく遠くへ送る。我々が着く場所がどこだか、そして、いつの時代なのかも、ジルクは分からなかったと思う」
「え……じゃあ」
「ジルク殿は強い力をお持ちだ」
三人はシキを見上げる。語るような口調だが、その視線は何かを探るように空を漂っている。
「あのときは切羽詰まっていた。何よりも安全を最優先し、遠くへ送らねばと思い、どこへ送るか分からぬまま、力を加減する余裕もなく、全力で術を使ったのだ。結果……時を、超えてしまった。それはジルク殿の存外のことであった。そういうことなのではなかろうか。そう、確かに、今このレフォアでは反乱などは起きておらぬ。安全は守られる。だが、そうなると……。俺はエイル様を連れて、何とか元の世界へ戻らねばならない」
「戻るって、どうやって? いや、その」
尋ねたクリフは言葉を詰まらせ、困った顔でうつむいた。つい気になって聞いたものの、そう簡単なことではないことくらい、クリフにも分かる。思案を巡らせていたシキも、首を振って嘆息する。
「時を越えるような方法などあるものか。そうだ、司祭長に……いや駄目か。我々は、ここでは一般市民。司祭長に会えるはずもない」
閃きに一瞬目を輝かせるも、シキは情けなさそうにうなだれた。
「今この世界に時を超えさせるような術を使える人間がいるのだろうか。それも、我々が会える人物で。……とにかく、まずは情報を得なくてはならぬ。金も要る。いやそもそも我々の持っている硬貨は……」
「シキ、どこかで休みたい」
エイルが疲労を訴えるが、シキは珍しくも反応しない。ぶつぶつと呟きながら頭を抱えている。クリフとクレオは顔を見合わせ、それからシキとエイルを見比べた。どうなるんだろう。どうしたらいいんだろう。自分たちは何も思いつかない。
「……よし」
考えを整理したのか、シキが自分に言い聞かせるように何度もうなずく。
「とにかく、まずは安全が確認できたことを喜びましょう。焦るような状況ではない。ひとまず落ち着いて考えましょう。私は、現在の情勢などを探ってきます。情報を得てから、次の行動をどうするか決めます。エイル様は私が戻るまで、クリフたちとお休みください」
その言葉にエイルは眉を寄せた。確かに足は痛いし、すぐにでもどこかに座って休息をとりたいとは思っていた。けれどこの世界でシキと離れ離れになることは大きな不安材料だった。とはいえ、弱音を吐くのも嫌だ。
「いい機会だ。私も王族の一員として町の視察をしようと思う」
「いえエイル様は」
「私は行く。シキ、供を申しつける」
こうなっては、シキに抵抗する術はない。エイルは疲れているはずだが、仕方ない。シキは宿に部屋を取り、双子に留守番を頼んで荷物を託した。それから夕刻までには戻ると告げてエイルと共に町へ出た。
石畳に落ちる影がほんの僅かずつ伸びていく。広い路地の一角で、隊商らしい人たちが馬から荷物を降ろしていた。馬の傍に腰かけて靴の手入れをしている男に声をかける。朴訥そうな男だ。この馬に乗って旅をしてきたのだろう。日に焼けた肌は痛み、短くばさばさした髪も滅多に手入れなどしていないだろうと思われた。しばらく世間話をしていたが、そのうち男がシキに向かってにこやかに言った。
「そうかあ。いいとこのぼっちゃんを連れてねえ。そりゃ大変だ。うん、この馬はなかなかいいぜ。そう安くはしてやれないが、俺はもうしばらく使わないし、事情もありそうだし、それなりの値段で譲ってやるよ」
「有り難い。助かるよ」
頼りがいのあるシキの背中を見ていると、一人でなくて本当に良かったとエイルは安堵する。ジルクに転移の術法をかけられたとき、シキが一緒に来てくれて良かった。自分一人ではきっと何もできなかったろう。そう思ったとき、クレオの言葉が思い出された。
――王子様って、一人じゃ何もできないんでしょう。
言い方に腹は立ったが、落ち着いて考えてみれば確かにそうかもしれない。侍女も従者も下男もいない。今までの暮らしとはあまりにも違いすぎる。日常のすべてはシキと双子がやっている。自分も何かした方がいいのかと思うけれど、言い出すきっかけも、何をしたらいいのかも、何もかも分からない。シキは今まで通り、自分を王子として扱う。けれど、こうして人と話すときは、王子だとは言えない。それはそうだろう。この国に、今、王子はいないのだから。では、自分は何なのだろうか。どう振る舞うのが正しいのだろうか。こうして一人悩んでいる間にも、シキは男と馬の値段を交渉している。
「なんだこりゃ。随分古い金貨だな。ぴっかぴかだが」
「あ、ああ……それは、その収集品で、貴重なもので」
しどろもどろになっているシキの様子に、思わずくすりとする。城から持ち出した金貨はレフォア歴四百年代に発行された金貨であって、エイルの父であるエイクス王の肖像が彫りこまれている。現代の金貨とは違うはずだ。しかも真新しい。そんな状態で保存されている金貨はほとんどないのだろう。疑って眉をひそめていた男も、最終的には本物の金貨だと認めたのか、嬉しそうに表や裏に返して眺めている。結局、シキは金貨を少し譲り、代わりに馬一頭と使いやすい現代の硬貨を良い割合で手に入れたようだった。なるほど、ああしてやり取りするのだな、とエイルは感心した。
「有り難い。いろいろと助かった」
「いやぁ、こっちこそ思わぬ商売ができて良かったよ」
男はそう言って、皺が刻まれた顔をくしゃりと歪めた。
二人はほかにも必要な買い物をして回った。エイルは果物屋で下品な親父に頭をなでられて憤慨し、穀物や香辛料の店では知識としてしか知らなかった現物を手で感じた。旅装や替えの服を買うときはおしゃべりな店主に閉口し、南のイルバという町では人さらいが出て、さらわれた人が奴隷として違法な市場で売られるようだとの話を聞いたりもした。
街角の松明に火を入れる男が、太陽神ハーディスの名を唱えながら、一つずつ火を灯していく。家々でも夕飯の準備をしているのだろう、煙突から煙とともに良いにおいが流れ出ている。
「ああ疲れた。なんだったんだ、あのうるさい男は」
服屋の店主の文句が口をついて出たと同時に、エイルの腹が空腹を訴えた。思わず顔が赤らむ。振り仰ぐと、シキは聞かなかった振りをしているようだ。
――シキも空腹のはずなんだがな。
シキは疲れた様子をちらりとも見せない。そもそも、サナミィの村からこっち、シキが自分の思いを話したり、愚痴をこぼすようなことはなかった気がする。城でもそうだっただろうか。今までは何も違和感なく、気づきもしなかったが、改めて考えてみれば、シキは超人のようだ。着替えの手伝いをし、食事の支度をし、天幕を張り、水を汲み、火をおこし、夜も火の晩をし、多くの荷物を持って歩き、ときにはエイルを背負う。朝は必ず先に起きているし、夜ぐっすり眠っているところを見たことがない。城下町についてからも、自分と同じように衝撃を受けただろうに、すぐに対応策を考え、休むことなく歩き、こうして買い物をしている。
「シキは、たくさんのことができるのだな」
ぼそりと呟いたエイルは、身長の高いシキを見上げた。その顔の向こうに、夕暮れの空が美しく広がっている。
「エイル様をお守りするのが私の役目です。そのためなら、何でも致します」
「う、うむ。だが、私は、どう応えればよいのだろうか。王族として。いや、私はもはや王族かどうかも分からぬし」
うつむくエイルに、シキは首を横に振った。そして、周りに聞こえないような声で囁いた。
「いえ、エイル様は私にとって間違いなく王子であらせられます。いつも変わることなく。この先もずっと、エイル様は私の御主君です」
「……シキ」
「ご安心ください。エイル様はどうかそのままで。私はレフォアの騎士です。エイクス陛下に、そしてエイル様に、永遠の忠誠を誓いました。反乱の有無に関わらず、その誓いを破ることはありません。王子と扱えないときもありますが、それもエイル様のご安全のためです。どうぞお許しくださいますよう」
許すも何も、感謝している。そう思ったが、素直な気持ちを上手く言うことができず、エイルは唇を引き締めてうなずくだけだった。
「王宮にいたころと違い、いろいろなことがありますね。驚かれることも多いでしょう。お気持ちに沿えぬこともあるかと思いますが」
「分かっている。平気だ」
シキがいれば。言葉にはできなかったが、想いを込めて、エイル=エルラート=レフォア殿下は笑顔で振り返った。青年騎士は、その気持ちを汲み取ったかのように優しく微笑んでいる。
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