エイルと最後の竜 #4
マイオセール – 未曾有の危機
南の王国ルセール。その首都マイオセールは中央に王宮を配した、いびつな円状の城下町である。季節は冬に差し掛かっていたが、一年を通して気温の高いこの国では、比較的暖かな日が続いている。
女好きの盗賊リュークは、とある家から首飾りを盗み出し、それを王宮の宝物庫に戻して欲しいという依頼を受けていた。掃除夫に化けて水路掃除に入り込み、城の中に忍び込もうとして衛兵と切り合っているとき、町の方から衛兵たちが何やら大声で叫びながら走ってきた。鎧ががちゃつき、その音と叫び声が水路に反響して聞き取りづらいが、彼らが近づくにつれ、はっきりと聞こえるようになってくる。
「大変だ! 大変なことになった!」
「兵を集めろ!」
「伝令をっ!」
二人の兵士の表情は尋常なものではなかった。二人とも真剣な、いやむしろ顔面蒼白といった形相である。彼らは面当てを上げていたが、その中に見える顔には汗が幾筋も流れ、息が切れて肩が揺れていた。顔は緊張しきってこわばっている。
「俺は王にお伝えしてくる!」
「ああ一刻も早く」
「お、おい、どうしたというんだ。何があった」
リュークと対峙していた衛兵が慌てて尋ねる。
「詳しく説明している暇はない! とにかく兵をかき集めろ! 竜の被害がこれ以上大きくなっては」
「何だって?」
衛兵の声にリュークの声が重なる。走ってきた兵士たちはその声で初めてリュークの存在に気づいたとでもいうような顔をした。
「なんだ、こいつは。いやこんな奴に構っている暇はない、早く兵を集めるんだ! 俺は町に戻る。とにかく早く行ってくれ!」
「わ、分かった」
兵士たちは二手に別れ、それぞれ鎧の音とともに姿を消した。後には呆然と剣を持って立ち尽くすリュークが、たった一人で取り残されていた。
「……竜? 竜、って吟遊詩人の歌や伝説に出てくるような、あれか? まさかぁ……」
マイオセールは、未曾有の恐怖に慄いていた。
人々は体の震えを押さえることもできず、声を失い、ただそれを見つめている。そうする以外に、彼らは何もできなかった。驚きと、恐怖のために。
広場に建てられていた店の天幕はその多くが潰れ、まきあがった砂塵にまみれて埃だらけになっている。ラナの木のそばにあった長椅子は横倒しになり、水場の泉は栓が壊れ、水が噴き出していた。砕けた石畳にはそこら中に枝葉が舞い落ち、泥だらけになっている。目に入るのは土の茶色と埃の灰色ばかりで、ここに溢れているはずの、鮮やかな色彩はすっかり失われていた。
大木ラナの木より高いものは、マイオセールにはない。家々は多くが平屋で、高くとも三階までだ。白い壁と色とりどりの屋根が連なる町並み。ラナの木だけがそれを凌駕している。王都マイオセールの、そしてルセール国の象徴と言えるラナの木。それは堂々とその高さを誇っていた。そしてマイオセールに住む人々は、ラナの木より高いものなど見たことがなかったのである。今の、今まで。
人々の眼前にそびえ立っているものは、ラナの木よりほんの少し高いだけだったかもしれない。そういう意味で言えば、高さは木とそれほど変わらないと言える。ただ、ラナの木とはあまりにも大きな差があった。「それ」は、自分の意志で動くのである。
先程まで大きく広げられていた翼は、今はそのなだらかな背に沿ってたたまれていた。その全身はどこも黒かったが、中でも大きな翼は、どこまでも黒い。まるで永遠の闇を象徴するかのような漆黒の翼。巨体には艶やかな鱗。太い脚の先には鋭い爪を、家一軒よりも大きな胴体には長い尾を備えつけている。長い首の先には尖った顔。口は真っ二つに裂け、大きな牙が覗く。爛々と光る血走った目が、人々を恐怖の底に陥れる。喉の奥から時折漏れるのは、疑いようもない、灼熱の炎だった。
最初の衝撃と恐怖から一旦その身が解き放たれると、誰しもが悲鳴を上げ、散り散りに逃げ出した。恐怖は伝播していく。町中の人々は顔を青く染め、ある者は失神し、ある者は子供を抱えて家へと逃げ込んだ。それが何か役に立つとも思えなかったが、深く考えて行動できる者などいはしなかった。半狂乱で髪を振り乱し、子供を呼ぶ母親。愛しい人を求める男女。恐怖に歪んだ老人のしゃがれ声と、子供の泣き叫ぶ悲鳴。人々の靴が石畳に叩きつけられ、木窓や扉は乱暴に閉められる。それらの上から、低い、唸り声にも聞こえる呼吸と、熱く湿った息が降り注いだ。
一際大きな咆哮が人々の足をすくませた。耳を引き裂くような甲高い音に人々は息を呑み、上空を見上げた。青く澄み渡った空を大きな影が遮り、高く振り上げた頭が大きく真っ赤な口を開いている。あたりに、熱気が満ちていく。
その場にいた者は皆、慌てふためいて走り出した。これから何が起こるのか、すぐに想像がつく。低い音が轟く。獣の吼え声よりも猛烈で、落雷よりも凄まじく、人々の恐怖という感情を存分に引きずり出すような咆哮だった。全速力で逃げる後ろ姿を、轟音と炎が追う。人間が走る速さで逃げ切れるわけもない。数十人の被害者が、あっという間に火に飲み込まれ、のたうち回った。
炎と風が吹き荒れ、数える暇もない早さで大勢の人間が死ぬ。巨体の当たった家は崩れ、落ちた壁や天井の破片が土埃をまき上げる。ラナの木の枝もへし折れ、また飛び火した炎によって焦げてゆく。広場で倒れていた天幕の布に炎が燃え広がり、やがて炎は家々にも燃え広がっていった。
大きな足が人々を無造作に踏みつけていく。黒き破壊者にとって、人々は逃げ惑う虫けらと同じ存在だった。一人一人の人生や、今までの日常などは何の意味もない。目障りな、取るに足らない小さき者たちが足の下でうごめき、それを踏み潰す。ただそれだけなのだろう。その行為と、人が害虫を叩き潰すのとなんの違いがあったろうか。
人々にできることは何もなかった。立ち向かえる者など、いようはずもない。他人を押しやり、荷物を投げ捨て、誰もが我先にと走っている。転ぶ者を助ける余裕もない。炎で燃やし尽くされる者もいれば、走っているところへ壁が崩れてくる不運な者もいる。人々は逃げるのを止めようとはしなかった。ただ本能のままに彼らは走った。逃げることしか頭になかった。それ以外はただ、恐怖だけがあった。
――逃げよう。逃げるしかない。早くこの場を去るのだ。早く! どこかへ行かなくては……!
さりとてどこへ行くというのだろうか。一体、どこへ逃げるというのか。マイオセールの周りには広大な荒地が広がっている。一番近くの村まででも、かなりの距離がある。用意もなしに町を出て行くことなどできはしない。そしてこの巨大な黒い悪魔からは、どれだけ早く走ったところで逃げ切れるとも思えなかった。それでも人々は、ただ取り乱しては走り回った。
――何なんだよ、一体、何が起こってんだ。
城に入ったリュークは人気のない様子に戸惑っていた。彼の警戒心は逃げ出すべきと知らせていたが、しかし彼の好奇心がそれを押さえつけている。小さな音がした部屋を恐々のぞくと、幼い皇女サーナが逃げ遅れ、隠れていた。面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁と部屋から出たリュークだったが、自分が入ってきた水路から水が溢れて、出られそうにない。サーナに城の出口を教えてもらおうとしたが、拙い説明に業を煮やしたリュークは、一緒に逃げようと彼女の手を引いて部屋を出た。
「あそこが中にわ」
サーナと走っている途中、彼女が指さす先に目をやると、廊下の続きが庭に面した回廊になっているようだった。多くの人間の気配はするが、まだ遠い。何が起きているのかと小走りに歩を進めながら目をこらす。リュークの胸に不吉な影がよぎった。
近づくと、何かが横倒しになっている。時折装飾として飾られている立派な石像が倒れでもしたのかと、リュークはつまづきそうになったそれの直前で踏みとどまった。
――なんだ? 黒い……。
柱のような、太く大きな円筒に見える。ルセール王宮では壁や柱は漆喰で塗られていることが多く、それらは皆白い。リュークは珍しい黒のそれが柱なのか石像なのかと根元の方である中庭へ目をやり、髪をかき上げかけた格好のまま、凍りついた。青灰色の目が見開かれている。サーナも、小刻みに震えながら動けなくなっていた。中庭に面する回廊の一番端で、二人は恐怖そのものに対面しようとしていたのである。
ルセールの兵士たちは懸命に戦っていた。否、それは戦いと呼べるようなものではない。果敢に突きたてようとする槍も剣も通用せず、その硬く分厚い鱗に傷一つつけることが敵わなかった。金属製の鎧も、鎖で編んだ帷子も、炎の前には役に立たない。
広い中庭をほぼ占拠している「それ」が長い胴体をよじると、リュークの足元から尾の先が消えた。その動きを思わず目で追う。尾は一度高く上がると、素早く叩きつけられ、石柱の砕ける轟音が響いた。飛びあがらんばかりに動転したサーナの唇がわななく。
二つの真っ赤な瞳が燃え上がり、大きく裂けた口に熱気がこもっていく。多くの兵士が本能的に身をひるがえして逃れようとしたが、次の瞬間、そのほとんどが炎の向こうにかき消えた。リュークたちは竜の背後にいてなお、顔を背けざるを得ないほどの熱が押し寄せる。気づくと、炭のような亡骸が中庭の奥に折り重なっていた。焦げくさい悪臭が鼻をつく。
「いやあ!」
サーナの甲高い叫びが、空気を切り裂く。大きな頭部がこちらを振り向く直前、リュークはサーナの口を押さえ、体を抱きかかえるようにして太い柱の陰に飛び込んだ。サーナの大きな瞳はより大きく見開かれ、頬を伝う熱い涙がリュークの手を濡らす。リュークは息を殺し、柱にぴったりを背中をつけて目を閉じた。
――頼む頼む頼む、見逃してくれ!
竜に頼みごとをするなど馬鹿げていると、頭のどこかで冷静に思いながらも、リュークは祈りを繰り返した。指先が凍るように冷たいことにも気づかない。ただひたすらに柱の向こうに神経を集中させる。切れそうに鋭い緊張感と、痛いほどの静寂があたりを支配している。
実際にはほんの短い時間だったのだろうが、リュークにとっては永劫と思えるほどの時間が過ぎた後、低く、呻くような唸り声が聞こえ、次いで翼を広げるような気配があった。
王都マイオセールに破壊と死をもたらした悪魔は鱗に覆われた体を震わせ、身悶えるようにして漆黒の翼を開いていった。体の上で大きく広げ、力を込めると、翼がゆっくりと揺らぎ始める。羽ばたきが大きくなると同時に、風がまき起こった。あたりに散らばっていた兵士の兜などが引きずられるように動き、騒がしい音を立てた。持ち主はもはや誰も生きてはいない。風とともに土埃が舞う。巨大な翼が力強く上下し、後ろ脚が地面を蹴ると、風を切る音とともに巨体が宙に浮く。浮き上がる速さは増していき、十を数える間もない内に上空に達していた。何度か旋回すると、黒き破壊者はどことも知れず飛び去っていった。
そこまで動かずにいたリュークは、もう大丈夫だろうと思った途端、一生分の溜め息を吐き出した。同時に、ぎゅっと抱いていた幼い皇女を解放すると、サーナはそのまま地面に崩れ落ちた。
「お、おい」
頬を濡らした涙もそのままに、皇女は失神していた。長い髪がかかった顔は青ざめている。
悩んでいたリュークだったが、結局は皇女を連れて近くの町へとその足を向けた。幸い、首飾りは持っている。それを金に換えるために街道を東に向かい、アンワールの町に着いたリュークは、娼婦宿の馴染みの娼婦に皇女を預けたのだった。
盗賊ギルドに行ったリュークはその帰りに精霊使いであり、魔術使いであり、情報屋でもあるヴィトに遭遇した。幼いころから世話になった縁で、いつも面倒な仕事を押しつけられては断れなくて引き受けてしまう相手だ。今回のことも、きっかけはヴィトからの依頼だった。ヴィトはサーナを娼婦宿に預けたと聞いて呆れ返り、自分が預かろうと申し出る。
サーナは心痛からか、失語症になっていた。リュークはまたもや頼まれごとをされ、もうごめんだと言って姿を消すが、ヴィトには、リュークは引き受けることになるだろうと見当がついているようだった。
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