エイルと最後の竜 #6
シンジゴ - 夜の峠
ハーディスは徐々に輝きを失っていった。血のように赤黒く染まった岩肌が、不吉な予感を抱かせる。暮れ落ちる冬の夕陽は夏のそれよりもずっと早い。風が低く、強く、唸っている。闇は刻一刻と深くなり、空には黒々とした雲が流れていた。
道端の岩が影を落としている。四人は岩山を急ぎ足で、しかし一歩一歩を確かめながら注意深く歩いていた。足元は暗く、そこら中に転がっている石にいつつまづくとも限らない。山道があるとはいえ、大きな石をどかして多少歩きやすくしただけのものだ。少しずつ、あたりの景色が色を失っていき、山全体が闇に浸っていく。誰も口を利かなかった。足音と、荒い息遣いだけが聞こえる。
山を一日で越えるのはできないことだった。ラマカサを朝早くに出発しても、山頂近くにある宿場町に到着するのは夕暮れになる。四人が領事フォマーに追われ、ラマカサを出たのは今日の午後。今やハーディスは山陰に隠れ、夕焼けの残り香が西の空を赤く染めている。月の女神メルィーズが支配する時間が訪れようとしていた。
冷たい夜風を首筋に感じ、クリフは外套の襟を立てた。夜がどれだけ恐ろしいか、それはよく分かっている。夜は自然の力が増すのだ。闇の前に人間は屈服するしかない。まして、ここは安全な町ではない。暗くなってから出歩くのは危険すぎる。それは、サナミィの森でもこの山でも同じことだ。クリフはそれを直感的に感じていた。夜が深まる前に、一刻も早くデュレーとかいう宿場町に辿り着きたい。その思いが列の先頭を行くクリフの足を早めた。クレオが持つ火影が揺れて続く。
双子のすぐ後ろで、エイルも口を閉ざして歩き続けていた。話す余裕などない。棒のようになった足を無理やり動かす。ラマカサの町外れからフォマーの屋敷まで走り、その後逃げ出すために走り、そして山道を登っている。エイルにとっては到底信じ難い行軍だった。開いた唇。苦しげに潤む瞳。文句を言う余裕もない。
一行の最後を歩くシキは、その様子を見て胸を痛めていた。少年王子にとって非常に酷なのは分かっている。だが、夜だ。夜盗や獣もいると言われるこの山で野宿というわけにはいかない。細い足で懸命に歩くエイルを助けてやりたいとは思えど、この岩の多い道では王子を背負って歩くのは難しいだろう。エイルの肩が苦しそうに上下しているのを見ると、シキは自分も息苦しさを感じてならなかった。
シンジゴ山脈が、夜に沈む。視界が暗くなり、すうっと寒気が押し寄せる。じんわりとかいた汗が冷えていく。明かりなどまったくない山道を、四人はただひたすら先を目指して歩き続けている。
山道の途中、謎の男が現れた。闘技場でシキに負けた柄の悪い傭兵に雇われた男、ハザム。彼はヴァシーリーとはまた違った強さの持ち主でシキと互角の戦いを繰り広げる。ヴァシーリーにつけられた傷のせいで足を滑らせたシキだったが、その男は公明正大な戦いを望んでいるようだった。
メルィーズの月光が雲に覆い隠され、暗闇に残されたのは、クレオが持っていた明かりだけ。その瞬間、クレオが一声残して消えた。ハザムの雇い主がクレオを人質に取ったのである。その嘘を悟ったハザムはシキと目配せをしてクレオを救い出す。傭兵はハザムの手によって縛り上げられた。
「こいつ、『あんたが報奨金泥棒だ、俺のものになるはずの金を盗んで逃げた汚い野郎だ』って言いやがったんだぜ。まあ俺はあんたが強いってのを聞いたから、理由はともかく引き受けたんだけどな」
「フォマーに追われたのは私兵になれという話を断ったからだ」
「そんなことだろうと思ったぜ。……じゃ、こいつは俺がラマカサにしょっぴいてくか」
「悪いが頼めるか」
「任せろ」
強面のハザムだったが、笑うと意外に愛嬌がある。恐怖から解放されたクレオに目を向け、安心させるようにうなずいてみせた。
一同はほっと息をついたが、ふと、クリフがあたりを見回した。
「どうしたの?」
「何か……聞こえたんだ」
「何かって、何」
クレオがそこまで言いかけたとき、彼女の耳にもそれがはっきりと聞こえた。低く抑えたようなそれが何の音なのかを理解すると、双子は顔を見合わせた。クリフがエイルに目を走らせ、咄嗟に突き飛ばす。間をおかず、巨大な濃灰色の影が岩陰から飛び出し、エイルが今の今まで立っていた地面に、鋭い爪が食い込んだ。エイルが、声にならない悲鳴を上げる。
「走れ! 早く!」
クリフがエイルの腕を掴み、三人は無我夢中で走った。駆け寄ったシキとハザムが三人を挟むように立ちはだかる。五人が集まったときには、既に獣たちが彼らを囲んでいた。クルイークと呼ばれる巨大な獣が、それも十数頭の獰猛な獣が、よだれを垂らして炯々と目を光らせている。
それは山犬、もしくは狼によく似ていた。だが、似ても似つかないとも言える。クルイークは、大きさだけで言えば熊ほどもあった。四つ脚だが、クリフの背よりも頭の位置が高い。見上げる両眼は赤く光り、大きく裂けた口にはしまい切れないほどの牙。二本の犬歯は異様なまでに発達していた。
「……ちっ、ここまで気づかなかったとは」
ハザムが舌打ちをし、シキがそれに同意する。
「不覚だったな」
エイルは恐怖のあまり、目に涙を浮かべて硬直している。その肩に優しく手を置きながら、シキはなるべく緊張が伝わらないことを願って言った。
「エイル様、ご安心を。私がお守りします」
クレオは双子の兄の腕にしがみついていた。足に力が入らず、小刻みに震えている。クルイークが唸ると、彼女はより一層クリフに身をすり寄せた。
「ど、どうしよう、どうしようクリフ……」
「大丈夫だよ、クレオ」
妹の名を口に出すと、体の震えが治まった気がした。クレオが震えれば震えるほど、クリフは落ち着きを取り戻していくように見える。クリフは、興奮を抑えてシキを見上げた。
「剣や弓だけで、何とかなるかな」
シキはすぐに答えず、口をつぐんでいる。その間にもクルイークたちはじりじりと輪を縮めてくる。と、ハザムが落ち着いた声で言った。
「集まってちゃまずいかもな」
「ハザム」
「俺とあんたがいりゃ血路くらい作れる」
「そうだな」
「お、俺も戦うよ」
慌てるクリフに、シキはゆっくりと言い聞かせる。
「いいか、クリフ。後ろを見ないで走るんだ。二人を守れ。デュレーへ行くんだ。分かったな」
刹那、クリフの頭にアゼの言葉がよみがえった。
――エイルだとか、妹も守ってあげなくちゃ。
俺が守るんだ。妹を。エイルを。二人を連れてデュレーへ走る。後ろを見ないで。クリフは唇を引き結んでうなずいた。
クルイークたちは、獲物を徐々に追い詰めつつあった。唸り声を響かせ、よだれを垂らして大きな牙をむく。いつでも飛びかかれるよう腰を落とし、四肢に力を込めて、彼らは今や攻撃態勢を万端に整えていた。後は、きっかけを待つだけである。
エイルに限界が近づいていた。潤んだ水色の瞳が恐怖に慄き、乾いた唇が震えている。高まる緊張に耐え切れなくなったのだろう、彼は突如、悲鳴ともつかぬ叫び声を上げた。
「い……嫌だ嫌だ怖い!」
錯乱したその声が皆の心臓を握りつぶす。クルイークたちが一斉に動いた。咆哮を上げ、凄まじい勢いで獲物たちに襲い掛かる。シキの長剣が素早く最初の一頭の脚を払い、ハザムの曲刀がその頭にめり込む。クリフはエイルの腕を掴んでクレオとともに走り出していた。ハザムとシキが作った隙間が見える。死に物狂いでそこに飛び込み、駆け抜ける。短剣を振り回し、追ってこようとする一頭を必死で退ける。そのクルイークは、ハザムの剣によって苦悶の叫びを上げた。
「エイル様を頼んだぞ!」
シキが叫ぶ声を後ろに聴きながら、クリフは振り返ることなく走り続けた。
その場に残った剣士たちは、息つく間もなく剣を振るい続けた。大型獣相手に自分の身を守るだけでも困難だというのに、逃げた三人をクルイークたちが追わないようにしなければならない。ついに最後のクルイークがどうと倒れたとき、シキは太ももに大怪我を負っていた。ハザムと別れたシキは、満足に動かない右足をかばうことすらせず、山を登り始める。メルィーズはその頭上高く、何もなかったかのように輝いていた。
風が鳴る。岩の間を吹き抜ける風は強く、メルィーズの明かりだけが頼りである。灯火はイマネムに叩き落とされてしまって、とうにない。何度も転んだせいで服は破れ、手足にも擦り傷がいくつもできている。切れ切れの息遣いだけが聞こえる。クレオは、見知らぬ山中で独りきりだった。
クレオは一人、泣き続けた。やがて疲れ、涙も途切れる。それでも、何かが変わるわけではない。幼いころ母が聞かせてくれた物語のように、主人公に幸福な結末が舞い降りてくることはなかった。クレオは力なく立ち上がり、よろめきながら再び歩きだした。
「デュレーへ……行かなきゃ」
その場所からそう遠くはないところに、しかしそれとは決して分からないところに、クリフとエイルはいた。崖の下である。
「ク、クリフ……どうするんだ、どう、どうすれば……」
「しっ」
二人は、切り立った岩壁を背にしていた。左側にも岩肌が続いており、右側はさらなる崖が落ち込んでいる。そして正面には、二頭のクルイークが歯茎をむき出し、よだれを垂らしていた。一頭はクリフの正面で、もう一頭はその斜め後ろで、頭を低くして身構えている。クルイークたちの唸り声が喜びの色を帯びているように思える。一歩でも動いて逃げようとすれば、たちまち飛び掛かってくるだろう。
絶体絶命とはこういうときに使う言葉なのだろう。普通の人間ならば目を背けて震え慄く。事実、エイルはクリフの陰に隠れるようにして固く目をつぶっていた。しかし、クリフは違った。ラマカサで買った鋼の弓を左手に携え、両足を開いてしっかりと立っている。岩壁を背にしてクルイークたちと向かい合った瞬間から、クリフはそうしてぴくりとも動かなかった。
――目を逸らしてはいけない。
その言葉を、何度言われたか知れない。サナミィの森で狩りをするときも、危険な目に遭うことはあった。猪や熊と対峙したこともある。父は息子に厳しく言い聞かせていた。どんな獣に出くわしたときでも、相手を恐れずに睨め、決して目を背けてはいけない、と。怯えた様子を見せてもいけない。目を見て、時を待つのだ。父はそう言った。それから、決して諦めてはいけない、とも。ともすれば震えだしそうな両足を踏みしめる。
――誰も助けてはくれない。俺がやるしかないんだ。
ほんの一瞬でも、隙を見せたらすべてが終わる。クルイークたちは嬉々として襲いかかり、柔らかな獲物を裂き、骨まで食い尽くすだろう。彼らは低く唸りながらも、今はまだ近寄ろうとしない。睨み合いはいつまで続くのだろうか。長い時間が経てば、結局はやられてしまう。精神力を消耗し尽くさないうちに、何か手を打たなければならなかった。
一頭倒せても、その間にもう一頭に襲われる。エイルだけを逃がそうか、という考えが頭をよぎった。けれどクリフ一人で二頭を倒し、エイルを追わないようにするなどということができるだろうか。仮にエイルが逃げられたとしても、一人で崖を登り、クレオやシキと出会うことができるだろうか。クリフは、頭の中に見え隠れする「死」という単語を、必死に打ち払った。後ろから、エイルのか細い声が聞こえる。
「ク、クリフ……」
エイルは、立っているだけで精一杯だった。早鐘のように高鳴る心臓。涙で視界が霞む。喉が詰まったようになり、息もろくにできない。クリフの肩越しに見える獣は、実際の数倍も大きいように思えた。その鋭い爪、牙、光る目。巨大な牙からは唾液が滴っている。無理だ、と頭に誰かの声が響く。思わず失神しそうになる。腰から下がなくなってしまったように、力が入らない。何もしていないのに、苦しい呼吸はどんどん速まっていく。怖がっていると思われたくはないが、クリフの服を握り締めていることで十分伝わっているだろう。
「クリフ、あ……あれを何とかしろ」
当然のことだが、クリフはその言葉に振り向きもしない。文字通り、微動だにしなかった。エイルはそれについ苛立つ。揺れる膝を押さえ、エイルは欠片ばかりの威厳を保とうと躍起になった。相変わらず背中に隠れたまま、早口に言う。
「ど、どうするつもりなんだ。このままというわけにはいかないんだぞ。あれは、あれは私を襲うつもりなんだろう」
「分かってる。今、考えてる。獣は手負いにしたら余計危険だ。一頭を確実に殺した直後にもう一頭も殺さなくちゃいけない」
「え……あれを、こ、殺すのか」
「じゃなきゃ食われる」
あまりにもあっさりと口にするクリフに、エイルは絶句した。何かを殺すなどということも、自分が死ぬということも、エイルには非現実的すぎて受け入れられなかった。このままでは恐ろしいことになる、死んでしまうかもしれない。そう、漠然と思ってはいた。しかしあの巨大な獣に自分が食べられるなどと言うのは、この状況になってさえ、エイルには考えられなかった。まざまざとした死を想像して、エイルの全身から力が抜ける。
「そんな……そんなの、嫌だ」
「一撃で倒さなくちゃ駄目なんだ」
クリフの耳には、エイルの言葉が届いていないようだった。隙を見せぬようにして、矢筒に手を回す。クルイークをしかと睨みつけたまま、ゆっくりと二本の矢を引き抜く。獣たちの唸り声が、ぐっと高まった。
「クレオが……エイルは火をつける魔法を知ってるって言ってた。これを火矢にできれば勝てる可能性がある」
クリフがそう言って、目線は動かさぬまま一本の矢を後ろ手に渡してくる。目の前に出されたそれをこわごわ受け取ったが、エイルはすぐに首を振った。
「で、できない」
「できなくても、やるしかないんだ」
「だって、も、燃やすための火種が、何もないし、こんな状態じゃ、集中できない」
「やるんだ。早く」
「でも……でも無理だ。できな……」
「いい加減にしろ!」
小さな、しかし鋭いクリフの声に、エイルは息を呑んだ。できない、と言いかけた口が開いたままになり、大きな瞳が食い入るようにクリフの後頭部を見つめている。クリフは前を向いたまま、硬い声で続けた。
「やらなきゃ死ぬんだ。早くやれよ」
一頭のクルイークが、ゆっくりと姿勢を低くする。後ろにいるクルイークも距離を詰め始めた。二頭は、獲物を逃がさぬように攻撃態勢を整えている。クリフは矢を握り、それらを睨みつけた。瞬き一つしないはしばみ色の目が、言葉にならぬ迫力をもって獣たちに据えられている。その背後で、エイルが何かを唱えていた。矢に右手をかざし、小さな声で必死に念じるが、何事も起こらない。両手はじっとりと汗ばみ、水色の瞳はきつく閉じられていた。単語を組み合わせた短い言葉を、何度も何度も口にする。永遠とも思える時間が、砂時計の砂が流れ落ちるように、ゆっくりと過ぎていった。そして、ようやく――。クリフが唇を湿らせたとき、背後で小さな音が聞こえた。それは火がつくときの、あの特有の音だったのである。
「貸せっ」
クリフの声と、ほぼ同時だった。一頭のクルイークが咆哮を上げる。クリフの体に震えは走らなかった。飛びかかってくる巨体を真っ直ぐに見、しっかりと定めた狙いに向かって火矢を射る。力強く引かれた鋼の弓が鳴り、矢はクルイークの喉元深くに突き刺さった。魂切る絶叫が闇を切り裂く。間髪いれず、小指に手挟んでいた二の矢を放つ。それがもう一頭の目に命中したのを見ながら、素早く矢筒から矢を引き抜く。のた打ち回る獣を狙うのは困難だったが、三の矢四の矢と放つ。矢が獣の首に刺さった。クルイークの体が跳ねあがり、どうと倒れ、痙攣する。
クリフはようやく大きく息をついた。脱力感と共に振り返ると、エイルは呆然と座り込んでいた。クリフは一度エイルに背を向けると、クルイークの死体に近づいた。
足で思い切り蹴っても動かない。太い前脚を乗り越える。自分の何倍もありそうな頭。大きく開いた口と、光を失ってどんよりと濁った目。だらりと垂れた舌は、べっとりと濡れている。口の中を覗くと、その奥に矢が深く突き刺さっていた。それを抜くのは諦め、もう一頭の目から矢を引き抜いた。喉に刺さった矢は折れている。もう一本放ったはずだが、それはどこかへ行ってしまったようだ。結局、一本だけを手にしてクリフはエイルのところへ戻ってきた。
「大丈夫?」
なるべく優しく聞こえるように気をつけながら、しゃがみこんでエイルの顔を覗き込む。さっきまでの姿勢のまま、エイルは視線だけをクリフに投げた。力が入らないのだろう。
「その、さっきはごめん。王子様なのに」
そう言いながら、クリフは頭をかいている。反省しきりといった様子は、凛として矢を放ったクリフとは別人のようだった。エイルは口を半分開けたまま、その顔を見つめている。
「あ、いやその、申し訳ありませんでした」
膝をつき、エイルの表情を伺うように見る。だがエイルは、小さく首を振った。
「いいんだ。ほ、褒めてとらせ……いや、違う……」
か細い声で言うと、エイルはうつむいてしまった。クリフが立ち上がり、座り込んでいるエイルに手を差し伸べる。
「立てますか?」
「……うん」
「クレオとシキを探しに行きましょう」
「クリフ……」
「え?」
「さっきは、本当に死ぬと思った。だけど、助かった。クリフのおかげで、助かった、から……だからその、なんて言えばいいんだ? 褒めたいんじゃないんだ、その……」
「『ありがとう』でいいと思うな」
見上げると、クリフは母親譲りの優しい笑みを浮かべている。
「あ、ありがとう」
「こっちこそ! エイルが火をつけてくれたから助かったよ。ありがとう」
エイルは顔を赤くして立ち上がり、服の埃をはたいた。クリフは持っていた矢を矢筒にしまう。それから二人は揃って崖を見上げた。彼らはこの上の山道から滑り落ちてきたのである。エイルが、恐る恐る口を開く。
「ここは、登れないだろう? ……どこか上に行ける道を探さなくては」
「そうだね。よしっ、早いとこ道に戻ってクレオを探そう」
二人はクルイークの死体を回り込むようにして、岩壁伝いに歩き始めた。
一人で長いこと歩き続けたクレオは、気力と体力が尽きて座り込んでいた。そこに真っ青な顔で足を引きずりながらシキが現れる。少しでも気を抜いたら倒れてしまいそうな痛みに耐え、山道を登ってきたのである。
エイルを見失ったことを聞いたシキは自責の念に苛まれるが、クレオもまた自分の無力さに絶望していた。シキやハザムのように、獣と戦うことなどとてもできない。ただ、彼らに助けてもらい、逃げ出した。クリフと同じ速度で走ることもできなかった。エイルを助ける余裕もなかった。隣を走っていたエイルが足を踏み外し、必死に手を伸ばすのを、息を呑んで見ているしかできなかった。何も見えない崖の下が怖くて、立ちすくんだ。自分が走り寄るより先に、クリフは崖を降りていった。クリフには、何の躊躇いもなかった。自分に助けを求めるエイルの大きな瞳と、呼び止める間もなく駆け降りていったクリフの横顔が、頭の中で交錯する。
――私、どうして……どうして、ここにいるんだろう。連れて行って欲しいなんて、何で言っちゃったんだろう。何も知らなかった。何もできなかった。こんな私なんか、いても足手まといになるだけなのに、何で……。
突然、左肩が急激に重くなった。支えていたはずの大きな体がずり落ちてくる。シキの両目は閉じられ、顔面は完全に蒼白で、冷や汗が滴り落ちている。息は、していないようだった。クレオはあまりの衝撃に顔を覆う。
「……」
聞き取れないほどの小さな声が、クレオを呼んでいる。クレオは気づかない。シキの右手がごくゆっくりと動き、クレオの服の裾をひく。かすかな声が、途切れ途切れに何かを伝えようとしていた。ようやくそれに気づき、クレオは慌ててシキの口元に耳を寄せる。彼の言葉をひとつも聞き漏らすまいと、唇を噛み締める。聞き取るのがやっとというほどの小さな声で、シキは言葉を切れ切れにこぼした。
「……すまない」
最後にそう言うと、シキは再び自らの意識を投げ出した。
クレオは、しばらくじっと動かなかった。しかしついに、その肩が大きく、ゆっくりと、上下に動く。深い息を吐き出した彼女は力を込めて立ち上がると、ぐいと顔をこすった。もう一度大きく息を吸い込み、それをすべて吐く。胸の中にあった何かを吐き出したクレオの目には、強い光が宿っていた。クレオは全身の力を込めてシキを支え、一歩一歩と歩き出した。 息が切れる。腕にも足にも力が入らない。これ以上は無理だ。何度もそう思いながら、それでもクレオは諦めなかった。……一歩、そしてまた、一歩。クレオはシキを背負ったまま進んでいく。
それは、何度目かに倒れそうになったときだった。いや、確かに彼女は倒れた。重みに耐えきれず両手と両膝を地についたのである。しかし、両肩がふっと軽くなった。驚き、顔を上げたクレオの目に、彼女と同じ顔が映った。
「クリフ……! エイル!」
二人が、シキの腕と肩を支えている。クリフは半分泣き出しそうな顔で笑っていた。クレオはよろよろと這い出し、シキの体を横たえているクリフに抱きついた。
「クリフ! クリフ! クリフ……!」
それ以外の何を言えばいいのか、分からなかった。体が熱い。喉と唇が震えて、クレオは上手くしゃべることができないまま、幼い子供のように泣きじゃくった。クリフも泣いていた。汚れた顔をくしゃくしゃにして、泣いているのか笑っているのか分からないまま、二人は抱きあった。互いの半身を失くしたかもしれないという恐怖から解放され、座り込んだまま、喜びに打ち震える。
「シキ」
双子の兄妹は小さな声で我に返った。横たわったシキの横で、エイルが膝をついている。それは、本来ならば有り得ない状況だった。エイルは今まで、シキが寝ているところなど見たことがなかった。旅をしている間中、シキはエイルより後に就寝し、エイルが目覚める時には既に目を覚ましていたからだ。しかし今、シキはぐったりと目を閉じたまま、固い地面に寝ている。エイルは震える声で、再度呼びかけた。
「シキ、目を開けろ……シキ」
クリフがその肩に手を置き、隣へ座る。クレオは、シキを挟んだ向かい側にしゃがみこんだ。
「ちょっと前……気を失ってしまったの。そのとき、とにかく村へ行って、人を呼んでくれって言われたわ。自分の体力が回復したら絶対に二人を見つけるから、諦めちゃ駄目だって。それから、エイル様に謝らなければって言って……」
「なら! それなら、今すぐに起きて謝れ!」
シキを見つめて、透き通った青い瞳を潤ませて、少年は大きな声で言い放った。
「早く目を開けるんだ、私に謝ることがあるのだろう! それなら……いつまでも寝ているんじゃない!」
「エイル……」
「私の命令だぞ、目を開けろ! 開けろったら!」
シキの体に乗りかかるようにして、エイルは何度も叫んだ。溢れてしまった涙を拭うこともしない。いやそんなことには気づいていないのかもしれない。浅く息をしてはいるものの、横たわるシキの表情は、安らかとはいい難い。傷は深く、出血は何とか止まっているが、放っておいて治るものではないだろう。クリフとクレオは何も言えずに黙り込んでいたが、ふとクレオがエイルを見つめる。エイルはしゃくりあげながら、激しく目をしばたいた。
「エイル、ねえ、こういうときのための魔法はないの? 傷を治すとか、そういう魔法があれば、シキは助かるわ」
「……そんな、魔法はそんなものじゃない」
涙で汚れた顔をこすりながら、エイルは説明した。
「傷を治すなんて、自然の力に反していることが簡単にできるわけない。魔法は元々、自然の力に術者の力を加えてより大きな力を出すものだから、自然に反することはできないんだ。それに、術法を唱える者にはとてつもない負荷がかかる」
「フカ、って?」
クリフが首をかしげる。
「つまり……とにかく、ものすごく大変だってことだ。火をつけるのも、風を起こすのも、人間の能力を超えていることだろう。自然の力を術で無理やり引き出しているんだ。やり方を知ってるからと言って、簡単にできることじゃない」
「そう、なんだね」
「じゃあどうすればいいの……」
「……あっ」
「エイル? 何か思いついたの?」
「うん……いや、ちょっと待て。……よし、そうだ、いや……うん、だとすれば……そうだな、できるかも知れない」
両眼を中空に据えたまま、エイルは必死に考えをめぐらし始めた。そしてついに、何かを決意したような顔を双子に向ける。
「やってみないと分からない。でも、できるような気がするんだ」
「僕らに手伝えることはある?」
「私が魔法を唱えている間、シキを呼んで欲しい。眠っている意識に声が届けば、目を覚ましやすいから。それから、もし上手くいってシキが目を覚ましても、痛みは消えない。意識を呼び戻せるかも知れないというだけだから。怪我を治す魔法はないんだ。でもクレオが止血してくれたから……みんなで歩くのを手伝えば、何とかデュレーまで行けるだろう。二人にも手伝って欲しい、頼む」
「分かった!」
必死に言ってから、エイルは気づいた。人に何か頼みごとをするのは、これが初めてだということに。それは命令でも、指示でもなかった。彼は心から、二人に懇願していたのである。まさか自分がそんなことをするなんて、という戸惑いにはまったく気づかず、双子はエイルの頼みに間髪入れずうなずいた。二人の力強く、迷いのない様子にエイルは震えが込み上げた。何とかこらえ、平静を装う。
「シキの意識に呼びかけながら、衝撃を与える術法を同時にやろうと思う。やったことがないし、可能なのかも分からないが……できるかもしれない。今はそれしか思いつかない。やるしかない」
シキの額にかかった黒髪をどけ、右手の中指をそっと置く。左手もそこへ添えた。両手をやりにくそうに組み合わせ、複雑に形作る。何度も深呼吸をして、小さな声で呟く。エイルは、ゆったりとした長い詠唱と、歯切れのよいいくつかの単語を交互に口にしていった。一生懸命なエイルと、呼吸もほとんどしていないようなシキを見比べながら、双子はシキに呼びかけ続ける。
「お願い、目を覚まして。シキ、目を開けて」
「戻ってきてください、お願いだから……」
何も起こらずに時間が経っていくのは、例えようもなく怖かった。しかし三人の誰もそれを口にはせず、ただ自分ができることだけを根気強く、延々と繰り返した。クリフとクレオは、シキを呼んでいる。何度も、何度も。エイルは、何かを唱え続けている。集中力を途切らせぬよう、必死で。三人とも、願いはたった一つである。
東の空が、薄ぼんやりと白み始めていた。
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