エイルと最後の竜 #7
デュレー - 宿場町
デュレーという町には、宿屋が乱立していた。さほど大きくはない宿場町だが、どの街路にも宿屋が一軒はあり、町の中央通りにはひしめき合っていると言っても過言ではない。
その町に四人が姿を現したのは早朝のこと。入り口近くの宿に入り、シキは寝かせてもらい、セサルという青年が手伝ってくれたことから、彼が砂漠から来たことを知る。エイルは銀製のさじでないからか、スープの味がおかしいと口にしなかったが、クリフとクレオは食事をとって、疲れを癒すためにみなぐったりと横になるのだった。
その夜、宿が寝静まったころ、エイルは物音に気づいた。部屋への侵入者はどうやら宿の主人と下男であり、食事に眠り薬を入れて荷物を盗もうとしているようだった。クリフとクレオは目を覚まさない。主人が作ったスープの味がおかしいと思ったエイルの舌は間違っていなかったのだ。シキが大切にしている長剣が盗まれそうになり、飛び起きてしまったエイルはあわや殺されるところを何とかすり抜け、夜中の町で扉を叩いて回る。開けてくれたのは、別の宿の女主人だった。泥棒宿の主人メイソンがエイルに向かって剣を振り上げたところを見た女主人と、朝、世話になった青年セサルの口添えのおかげで、人々はメイソンの口車に乗せられることはなかった。元々メイソンの宿の評判は悪かったこともあり、やってきた宿屋ギルドのギルド長はメイソンを引っ立てていき、四人はティレルの宿に移ることになった。
それから数日。
シンジゴ山脈の峰々に囲まれた町、デュレー。南北を行き来する旅人たちで賑わう他は、目立って特徴のある町ではない。平野の町々のように堅固な城壁があるわけでもなく、特産物もこれと言ってない。宿場町としては有名だが、それ以外はいたって平凡な町であった。
時を告げる鐘が長く、二度、鳴る。家々の屋根から朝食の準備の煙が立ち上り、市場も賑わっている。
旅人たちが行き来する周辺、特に多く宿屋が集まる街の北区画の一角にティレルの宿はある。木の看板には「食事と布団と素晴らしき調べ」と彫りつけられていた。ティレルの母親が宿をやっていたころに作られたものだという。石造りの二階建て。周囲の宿屋に比べてずっと大きいことを除けば他となんら変わりない、素朴な建物だ。二階の窓のいくつかが開けられ、中から少女の声が聞こえてくる。
「何度言ったら分かるのよ!」
鼻息も荒く、両腰に拳をあてている。睨みつけているのは目の前にいる少年。少年は巻き毛をかき上げ、わざとらしく両手で耳を塞いだ。
「うるさいなあ。分かっていると言っているじゃないか」
「分かってないから言ってるんじゃないの」
「そんな大声を出すと、シキの怪我が悪化するぞ」
「なんですってぇ!」
火に油とはまさにこのこと。言ってから「しまった」と思ったが、エイルは大仰に肩をすくめるだけに留めた。なんと言えばいいか分からなかったからだ。
――クリフはまだかな。
喧嘩の仲裁役はいつもクリフの役目だ。エイルもクレオも、お互いにちょっとやりすぎたかと思うことはあるのだが、どう納めればいいか分からなくなる。ついつい喧嘩が加熱していく。クリフがいれば「二人とも落ち着いて」と間に入ってくれる。だがそのクリフは、早朝訓練に出たきり、まだ帰らない。
エイルは、クレオと二人きりでいるのが少々気詰まりだった。クレオとは、喧嘩したくてしているわけではない。けれど、何故かいつも言い合いになり、最後にはクレオが顔を真っ赤にして怒る。今日もまたそういうことになりそうな気がして、エイルはお茶でも飲もうと二階へ上がったのだった。だが、シキの部屋へ入ろうとしたところで、クレオに声をかけられたのである。シキを起こしてはいけない、というのがクレオの配慮だったのだが、腕をひっつかまれて隣の部屋へ押し込まれたエイルにしてみれば、乱暴されたの一言である。そうしてまた、いつもの言い合いが始まってしまったのだった。
「シキはあんたのお茶入れ係じゃないんだから」
「だから、それはもう分かっていると言っているだろう」
「じゃあなんでシキの部屋に行くのよ。シキはさっきようやく寝たばっかりで、それでも傷が痛んで、寝つけないでいるっていうのに」
「だから! お前に言われんでも分かっている。茶を入れるくらい、私は自分で……」
「あんたがそばでがちゃがちゃしてたら起きちゃうわよ。そしたらシキは手伝おうとして立ち上がっちゃうでしょ」
シキの怪我を思い、足が痛んでも自分のためにお茶を入れようとするであろうシキを思う。苦虫を噛み潰したような顔のままだが、エイルは黙っていた。口答えしないエイルを見て、クレオは満足そうに吐息する。冷静になって、ふと思う。
――急に腕を引いたのは、強すぎたかしら。
「……痛かった?」
「別に」
「あの、ごめんね」
「ふん。珍しいこともあるものだ」
照れ隠しに、エイルはそっぽを向いた。
「人が謝ってるのに、そういう態度はないでしょ」
「悪いと思うなら、最後までその態度を崩すな」
「大きなお世話よ、ほっといて!」
「何を! お前、私を」
「『誰だと思っているんだ』、でしょ。もう聞き飽きたわよ。……それより、そこの廊下にある箱。下へ運んでってティレルに言われているの、頼んだわよ」
「なんで私が」
エイルは目をむいたが、クレオは既に姿を消している。扉から顔を突き出し、階段を下りて行くクレオの後頭部に向かって舌を出した。と、はしばみ色の髪が見える。クレオが戻ってきたのかと慌てたが、階段を上ってきたのはクリフだった。
「なんだ、びっくりした」
「何が?」
「いや別に、何でも。……そうだ、クレオがこの箱を下へ運べと言っていた」
「衣装箱か。結構重いんじゃないの、これ」
「そうか」
「うーん。いや、確かに重いけど、エイルでも一人で運べると思うな」
エイルが口を尖らせると、クリフは爽やかな笑顔を浮かべた。
「大丈夫、エイルにはできるよ」
手伝え、と言うつもりだった。もちろん、シキなら手伝うどころか、代わりにやってくれる。けれどクリフには手伝うつもりもないようだ。反論しようとしたエイルは、クリフの目の中にいたずらそうな光を見つけた。
「できるだろ?」
先程のクレオと同じ格好。両手を腰に当て、クリフは楽しそうだ。エイルは肩をいからせる。
「このくらい、私には簡単なことだ」
『私たちはあなたの家来でもないし、小間使いでもないの』
ティレルの宿に移ってすぐ、クレオが口にした言葉だ。イルバで再会したとき、従者として仕えることを許す、とは言ったものの、本当はそういう扱いではいけないとエイルにだってもう分かってはいた。クリフやクレオは自分の召し使いではない。これまではそれをうやむやにしてきたが、クレオははっきりと言葉にして、エイルにもそれを認めさせようとしていた。シキが怪我で起き上がれないのだから、エイルは自分で自分の世話を焼かねばならないのだと。
エイルは生まれてこの方、着替え一つにしても一人でやったことはない。良いも悪いもなく、それが当たり前だった。一度、五歳くらいのころだったろうか。廊下で侍従がものを散乱させているのを見たことがある。たまたま一人だったエイルは、ごく自然にそれを手伝おうとした。だが、侍従は顔をひきつらせて断った。
「エイル様、おやめください」
後になって、教育係が教えてくれた。
「そういうときは、見てはなりません。侍従の失敗だと分かればその者が罰せられるのですよ」
エイルはその侍従がわりと好きだったが、その後城で見ることはなかった。どこへ行ったのかは分からない。だがエイルのせいだということは分かった。ジルクに聞くと、教育係の言うことは正しいと言ったうえで、さらにこう言った。
「ものを運ぶのはその侍従の仕事ですからね。エイル様が手伝えば、その者の仕事を取ることになりますし、殿下にそんなことをさせたとあらばそれも咎になりましょう。良いですかな? エイル様は人の上に立つ方です。優しいお気持ちはきっとその者に伝わったでしょう。けれど、皆が同じ仕事をするのではないのですから……。その者にはその者のやるべきことがあり、殿下には殿下のやるべきことがあるのです」
王族には王族の立場があり、臣下には臣下の立場がある。お互いに、それを越えてはならない。エイルにとって、着替えや食事は「自分でやってはならないこと」だったのである。それに慣れていたエイルは、自分のことは自分でやれ、と言われること自体が理解しづらかった。だが、今は侍従も侍女も小間使いも、誰もいないのだ。こちらへ来てから何でもやってくれたシキは、怪我で動けない。すべて自分でやらねばならない。それは分かっていた。シキの怪我を思えば胸が痛むし、いつも頼ってばかりいたのだから、たまには安心させてやらねば、とも思うのだった。だがどうしても戸惑う。やろうとしても、上手くはできない。不満も募る。そして何より、「何もできない足手まといだ」と思われることが、エイルには我慢ならないのだった。自分でも、妙だと思う。当初は何も気にならなかった。自分は「できない」のではなく、「やらない」。そのはずだった。だが本当は「自分にはできない」のだ。自分は非力だ。そう思うことが、エイルの誇りを傷つける。
「大丈夫。エイルにはできるよ」
クリフの言葉が、そんなエイルの気持ちを救っていた。獣に追いつめられたとき、あれだけ怖がっていても、火をつけることができたじゃないか。クリフはエイルにそう言った。だから大丈夫。エイルはその言葉に勇気づけられていた。
「こういう箱はさ、斜めにすると下に手が入るから、そしたらこうやってさ」
クリフが箱の持ち上げ方を説明してくれている。
「ほらやってみなよ。重いと思うけど、腰に力を入れて……そうそう、そうやって持てば大丈夫」
ようやく箱を持ち上げ、エイルはよろめきながらも歩き出した。
「足元に気をつけて。階段あるからね」
「わ、分かっている。大丈夫だ」
首だけ振り返り、こくりとうなずく。一歩一歩、確かめるように前進し、エイルは階段を下りていった。それを見送り、クリフは汗でよれよれになった服を見下ろした。洋服の枚数は多くない。すぐに洗わなくちゃ。そう思って脱ぐ。だが、どうにも脱ぎにくい。
――なんでこんなきついのかなあ。
服の下から、しっかりと腹筋のついた腹が現れる。肩幅も広くなり、首にも、腕にも、きちんと筋肉がついていた。
――そっか。服が小さいんじゃなくて、俺が大きくなっちゃったんだな。大きな服を手に入れないと。
腹が空腹を訴える。訓練前に朝食を済ませ、帰ってきてからパンをつまみ食いしたにも関わらず、である。
――今日の昼食は何かな。
着替えに腕を通していると、階下から声がかかった。
「クリーフ! 買い物に行くの、一緒に行かない?」
「食事してからなら付き合うよ。今、降りて行く」
靴に足を突っ込みつつ、妹の声に快く答える。着替えを終えて部屋を出て、階段を勢いよく駆け下りた。だが、靴紐を結び忘れたことに気づいていない。右足が左の靴紐を踏み、足がもつれ、体が前にのめり……そして彼は駆け出したときより勢いよく、階段を転がり落ちる羽目になった。幸いにして階段の途中で止まったが、手すりにぶつけた額が赤くなっている。
「いってぇ」
クリフは苦笑しながら額をさすった。
部屋で目を覚ましたシキのところへ、ティレルがやってきた。
「みんなはどうしている?」
「クリフとクレオは買い物に行ってくれているわ」
「エイル様は? あ、いや、あの、その」
寝起きだったことが影響したのか、シキはついうっかり、敬称をつけたままエイルを呼んだ。普段は本人にもよく言い含め、「エイル」と呼び捨てにしているのである。親戚の子、ということになっていた。そしてそのことにもみんながようやく慣れてきたというのに……。つい癖で「エイル様」と呼んだことに気づき、シキは慌てて取り繕おうとした。が、単語にならない言葉を発してしまい、頭を抱える。
「嘘のつけない性格ね」
ティレルは、その大人びた容貌とはそぐわないほどに可愛らしい笑い声を立てた。
「いや、違うんだ、その」
「何か事情があるのね。そうだと思ったわ。最初にあの子を見たときね、殺されかかっていたのに、凛としていた。もちろん怖がって取り乱していたけれど、でも気品ってもんを感じたわ。上流貴族か……少なくとも私たちのような平民じゃないと思った」
「……」
「ああいいのよ、言わせようっていうんじゃないわ」
ティレルは笑って手を振る。
「旅人には皆それぞれ事情があるわ。私が知っても仕方のないことよ。……ねえ、それよりあの子ってよく寝るのね」
エイルの寝起きの悪さを思い起こし、ティレルは笑みを浮かべた。
「いつだって最後まで寝てるのよ。食事の時間だって起こすまでね」
「すまん」
「あらいいのよ。あなたが謝ることじゃないでしょ?」
シキは、自分が謝った理由について説明することなく、黙って微笑んだ。
――この人は自分の魅力を分かっているのかしら。
この笑顔で顔を赤らめない娘はまずいないだろう。だが、シキが自覚をもってやっているとは思えなかった。
――罪作りな人ね。
そう思ったことを気取られぬよう、ティレルは髪を直す振りをして部屋を出た。
がたついた石畳の細い道が、縦長の建物の合間を縫うように入り組んでいる。ティレルの宿を出て北を向けば、坂の向こうにラマカサへの山道があった。のどかで、夜の山とは比べ物にならぬほどの平穏。村の入り口に獣の侵入を防ぐための大きな松明が置かれていることだけが、すぐ近くの山々に恐ろしい獣がいることを思い出させる。
「いい天気だねえ、クレオ」
相槌がない。少し後ろを歩いている妹を振り返ると、クレオはうつむいて暗い表情だった。
「クレオ? どうしたのさ」
「あ、うん、何でもないけど」
「何か考えごと?」
のんきそうに尋ねるクリフに、クレオは軽く嘆息する。
「クリフって……悩み、ないの?」
想像以上に深刻そうな口ぶりである。クリフは思わず言葉に詰まった。
「ないこともないけどさ……。クレオは、何か悩んでるんだね?」
「うん……」
「俺にも言えないようなこと?」
「そういうわけじゃないけど」
どうも歯切れが悪い。自分が何か、怒らせるようなことをしただろうか。クリフは思い当たる節があるかどうか、考えを巡らせた。それよりはエイルかな。でもいつものことだしな。そんな風に考えているクリフには構わず、クレオは重い口を開いた。
朝食の後片付けのときだった。ティレルに買い出しを頼まれたクレオは、会話の中でキャラカ入りのパンをシキが好きだと聞いて驚いたのだ。それは自分のことをほとんど話さないシキが、旅の道中で自分にだけ話してくれた小さな秘密だと思っていた。それをティレルも知っていて、なんだか複雑な気持ちになった、と、クレオは話し終えた。
「そっかぁ。知らなかったなあ、シキがキャラカ好きだったなんて」
「クリフったら、問題はそこじゃないでしょ。なんでティレルが知ってたかってことよ」
「シキに聞いたって言ったんだろ?」
「だから、そうじゃなくて……」
じれったそうな顔と、訳が分からないといった顔がお互いを見合う。
「それにティレルったら、シキを……『彼』って呼んだのよ」
「え? それが何か」
「もう! 分からず屋ね。『彼』なんて、馴れ馴れしいじゃないのっ」
ついに爆発したクレオは、顔を真っ赤にして声を張り上げた。すれ違う人が思わず振り向いていく。クリフはかぶっていた帽子のつばを下げた。
「なあ、パンも野菜も買ったし、宿に戻ろうよ」
クレオはキャラカの麦パンが入った袋を持ち直すと、肩をいからせた。
「野菜とか果物も買うって言ったでしょ。もうちょっと付き合ってよ」
頬を膨らませ、早足で歩き出しながら、クリフはまったく分かっていない、と思う。話の流れが分かっていないし、自分の気持ちが通じない。今までこんなことはなかった。どうして通じないんだろう? クレオは首をかしげた。
――「宿に戻ろう」だなんて、まるで上の空みたい。大体、すぐに分かるじゃない。ティレルはまだ知り合って間もないのに、馴れ馴れしいわ。もちろん助けてくれたわけだし、感謝はしているけど……。
クリフに理解されないことに対して怒っていたはずだったが、文句の矛先は段々にティレルへ向かっていくようだ。
ティレルは優しく、とても友好的だった。余計な詮索はしないし、いろいろと面倒も見てくれる。エイルもすっかり懐いてしまったようだ。もちろん、クレオも彼女が嫌いなのではなかった。そう、決して嫌いではない。だが、何故か苛立ちや腹立たしさを抑えられない。クレオが買い物に行くから自分がシキの様子を見に行くと言っていた。自分が出かけている間、彼女はシキの部屋にいる。看病してくれているわけだし、何も悪いことはない。だが、クレオはそれがどうしても嫌で仕方なかった。
――私、なんでこんなにいらいらしてるのかな。
ふと、疑問に駆られる。
――優しくしてくれるんだし、いいのに。……でも。ううん、何でかしら。
今朝のやり取りや、シキの部屋にいるティレルを見たときのことを思い出してみると、なんだか、息苦しいような気がする。
――もしかして……。
クレオの頬が紅く染まる。
――そんな、そんなことないわ、だって……でも……ううん、でも……。
頭の中で、シキの笑顔がぐるぐると回る。息苦しくて、もう一度大きく深呼吸をしたが、胸の痛みは治まらなかった。怪我をしているシキ。寝台に横たわっているシキ。食事をしているシキ。「上半身だけでも鈍らないように」と、剣を振って鍛えているシキ。次々と思い浮かぶ。どうすればいいのだろうか。どうすれば、苦しくなくなるだろうか。
――シキの怪我が、早く治りますように。
怪我が治ればこの宿を出られる。私たちは旅人だ。いずれはここを旅立つ。優しいティレルとナール。デュレーを離れれば、この気持ちのいい姉弟とはお別れだ。そう思うのは、何とも言えず淋しかった。だが、そうなればシキとティレルも、もう二度と会うことがないだろう。
――何を考えているんだろう、私。
夜。階下の喧噪を遠くに聞きながら、エイルは窓からメルィーズを眺めていた。食堂兼酒場の客が増え、宿屋に泊まっている客も帰ってきて、今が一番忙しい時分である。邪魔をしないのが一番であろうとの判断に基づき、エイルは自室でゆったりとした時間を過ごしていたのである。シキの様子を見に行こうかとも思ったが、寝ているようなのでやめておいた。クリフもクレオも手伝いに借り出されている。こういうとき、考えることはいつも同じだった。
逗留は続いている。ここは居心地がいいが、かと言って、いつまでもというわけにはいかない。南へ。どこにいるかも、本当にいるのかどうかも分からない魔術師を探し、どうにかして元の世界へ戻る。そんなことが可能なのか、不確定なことが多すぎる。不安が常に付きまとう。だが、何としてもエイルは自分の世界へ戻りたかった。どんな目に遭おうと、どれだけ苦労しようと。自分の生まれ育った地を踏み、悪人に蹂躙されているなら、それを取り戻したかった。
――ここへ来て、もう十日は過ぎた。シキの怪我も、大分良くなったと思うのだが。
小さく嘆息する。木を叩く固い音がし、「開けていい」とも言わぬ内に扉が開いた。
「ごめん、エイル、ちょっと手伝って」
上気した顔を覗かせたのはクリフである。
「お客さんが多くて、てんてこまいなんだ。エイルにも手伝ってもらわなきゃ」
「私に客の相手をせよと言うのか」
「いや違うよ。ただその、ナールが皿や杯を洗うのが間に合わないって……」
「皿洗い!」
目をむいて一言そう言うと、エイルは二の句が継げなかった。
「ま、まあまあ……ティレルとナールには世話になってるし、宿代も安くしてもらってるんだ。少しくらい手伝っても罰は当たらないよ。とにかく頼む!」
呆れ果てた顔のエイルを残し、クリフは去った。これ以上説得する手間も時間も惜しい、といった様子である。
「信じられんな、まったく! レフォアの王子が、宿の皿洗いか」
エイルは憤慨した様子で首を振った。それからがくりと肩を落とし、深く溜め息を吐く。有り得ないことが、次々と起こる。少しは慣れたつもりでいたが、それでも毎日のように思いつきもしないことが降ってわく。城にいたころが懐かしく思い出される。だが、どうしようもないのだ。
「やるしかないか」
諦めたように呟くと、意を決して上着の袖をまくり上げた。
「ふん! 私ほどの者になるとだな、皿洗いくらい、何てことはないのだ」
勇ましく言うと、階段へ向かった。近付くにつれ、かすかだった階下の喧噪がぐっと大きくなる。食堂は旅人や町の人々で埋まり、熱気がものすごい。料理と酒の匂い、それに煙草の煙が階段近くまで充満している。空気が白く霞んでいるほどだ。エイルは思わず顔をしかめた。
階段の踊り場で立ち止まり、双子の姿を探す。二人は皿の積みあがった盆や盃を手に、店中を飛び回っていた。騒がしい店内のあちこちから彼らを呼ぶ声が上がる。客の注文を受け、料理を運び、また空いた皿や杯を片付ける。客たちは彼らの忙しさに構いもせず、それぞれの話に花を咲かせている。
台所の入り口に面した背の高い台の内側には酒の瓶が所狭しと並べられ、ナールが酒を注いでいた。客はそれぞれの席からふらりとやってきては酒を注文し、金を払って、杯を持っていく。ナールは客に酒を注いでやりながら、洗い物もしていた。到底手が足りない。それはエイルも見て分かった。エイルが台の内側に入ると、ナールはほっとしたような顔をした。
「助かる」
元来口数の少ない彼は短く言った。エイルは肩をすくめて尋ねる。
「クリフに手伝えと言われて来たのだが、私はどうすればいいのだ」
「洗って」
簡潔にして明瞭な答えが返ってくる。数えるのも嫌になるほど杯や皿が重ねられている。どうやらそれらをすべて洗わねばならないらしい。ナールがひっきりなしに客の相手をしているのに目をやる。これ以上の説明を求めても無駄のようだ。さて、まずは何をしたものか。
――とりあえず水で濡らす、のかな……?
エイルが慣れない手つきで洗っている間も、客が途切れることはなかった。それはもちろん、宿が繁盛しているということに他ならなかったが、エイルにはそんなことを考える暇もない。次から次へと運び込まれる杯を洗うのに必死である。
客は目まぐるしく入れ替わり、酒を注文して待つ間もしゃべっていた。酒で満たした杯を持ってしゃべっては飲み、また注ぎ直すように言う客もいた。クリフとクレオが汚れた食器を持ってきては、また新しい料理の皿を持って出て行く。冬の夜、彼らの額には汗が浮いていた。
しばらくの間、一生懸命に洗ったおかげで、エイルの目の前に積まれた洗い物はそれなりに減ってきた。時間が経てばまた増えるのは分かっていたが、とにもかくにもエイルは少し息をつくことができてほっとした。ナールとエイルのいる台の向こうでは相変わらず荒くれ男たちが酒を煽っている。彼らは席に戻らず、立ったまま噂話をしていた。その中の一人、髭面の中年男が口にした言葉に、エイルは思わずのけぞった。
「本当なんかい? レフォアが世界征服に乗り出したってのは」
少し若い男が口早に答える。
「そうらしいぜ。何しろマイオセールが滅ぼされたって言うんだからな」
周りの男たちも、興味深そうに身を乗り出してくる。
「それ、レフォアの仕業なのか? 遠すぎるだろ。むしろミチロ皇国とかエルマーナじゃないのか」
「俺が聞いた奴らの話だと、竜が現れたって言うぜ」
「笑わせるなよ」
「いやいや、それが本当なんだってよ。俺も最初は疑ったがな。見てた商人が言うんだから本当さ。マイオセールから飛んでく竜を見たって言うんだ」
「嘘だ嘘だ、いるはずがねえ」
嘘ではないだろう。結局誰にも話さぬままでいるが、ラマカサで見た、飛び去っていく禍々しいものは、間違いなく『お伽話に出てくる竜』だった。長い尾と大きな翼を持ち、黒々として……。思い出してもぞっとする。
「竜かどうかはおいといてよ、マイオセールがどうなったって?」
「かなり死んじまったみたいだな。王家の人間もだーいぶ死んだって」
「じゃあ大混乱だろうな。久々に酷い話を聞いたぜ。今後はどうなるんだろうな。やっぱりミチロとかに乗っ取られるんかな」
「貴族たちが跡目争いでしばらくごたつくだろうな」
「王都以外の街は何ともないらしいし、領主の自治があるからな。でもマイオセールはしばらく駄目かな」
そんな会話を聞きながら、エイルはそっと嘆息した。
――我がレフォアはどうなったのだろうか。コジュマールはどんな施政を行ったのか。今の私には……何の力もない。
怒りは悔しさに、そして哀しみに変わっていく。エイルは己の身の上を嘆いた。過去に戻り、そこから三百年の時が流れたら、レフォアは、大陸はどうなっていくのだろう。今のこの世界は、自分が王権を取り戻し、その子孫が作った歴史から繋がっているのか。それとも、今の王はコジュマールの子孫なのか。いや三百年の間にまた別の者が王権を取ることも考えられる。そもそも、自分が過去の世界に戻り、何をするとしても、それがこの世界に繋がっているとは限らない。エイルは単調な仕事を続けながら、深い考えに沈んでいった。
夜更け、怪我もだいぶ良くなってきたシキは酒場に下り、ティレルと酒を酌み交わしていた。ティレルの父は旅人で、母は寂しかったのではないかと思っているティレルは、自分のシキへの想いを自覚しながらそれを押し殺そうと努力していた。自分は、旅人に恋はしないと決めている。
「俺の怪我も、もうすぐ治る」
「そうね」
「治れば出発だ」
「……そうね」
「寂しくなるな」
ティレルは何も言わず、シキの顔を見つめた。シキはティレルから目を逸らさない。ティレルはうつむき、しばらくして、静かな歌を口ずさみ始めた。
旅を続ける男に恋い焦がれる女。「もう二度と戻っては来ないの」と問いかけ、「どうしてこんなに愛してしまったの」と嘆く。だが女はそれでも愛し続け、いつかもう一度男に会える日を夢見ている。本来は速い曲調で情熱的に歌う曲だが、ティレルはどこまでも静かに、感情を抑えて歌った。それを聴くシキの体に細かな震えが走る。歌い終えたティレルが顔を上げた。かすかに潤んだ瑠璃色の瞳に、立ち上がったシキの姿が映っている。ティレルはつられるようにして立ち上がり、一歩踏み出した。
メルィーズに照らされて、冷たい石畳が白く輝いている。通りに連なる建物は、白い石畳を引き立てるように黒く染まっている。その通りに、いくつかの影がうごめいた。影から影へと伝い、それらはティレルの宿に近づいてくる。細い影が、大柄な影に宿を示した。いくつもの影がそれに続く。
宿の灯りは消えている。
ここのところ毎晩、クレオは寝つけないでいた。今夜も、寝返りを打っては嘆息するばかりだ。何しろさっきシキの部屋からシキが出て行った気配を感じて、もうどうにも寝られなくなってしまった。廊下に出ると話し声が聞こえ、そこに二人の姿を見たクレオは、それが誰かすぐに分かった。階段から離れ、廊下を歩く。扉が開き、クリフが顔を覗かせる。
「クレオ?」
「……」
「……泣いてるの?」
声にならない。クレオは、黙って首を横に振った。
「クレオ」
クリフが駆け寄ってくる。以前は同じ高さだった肩が、今は明らかに高い。心配そうに覗き込む双子の兄にもたれかかり、クレオは声を出さずに泣いた。
闇夜に紛れてティレルの宿を襲撃しようとしていたのはメイソンたちだった。復讐したい泥棒宿の主人メイソン、ラマカサの領事フォマーに言いつけられてやってきた手下のザッツ、さらに宿屋ギルド長までが一緒になっている。
ザッツがラマカサの領事から逮捕の指示を持ってきたとき、ギルド長はその相手がメイソンと揉めた四人の客だとすぐに見当がついた。ザッツに情報提供を求められたが、それは適当に誤魔化した。わざわざ教えることはないのだ。報奨金はすべて自分の手に。そう思ったギルド長は、メイソンを従え、ほかにも数人の男を雇ってティレルの宿へ向かったのだった。だがザッツは思ったより優秀な男であったらしい。彼らの行動は見透かされていた。あるいはわざと泳がされていたのか。
しかし彼らの思惑は今度も上手くいかなかった。シキの怪我の治りは彼らが思うより早く、エイルも火の魔術を使い、クリフは階段上から矢を射かけて応戦。だが、ギルド長の投げた短剣がティレルの背に刺さって、ティレルは怪我を負ってしまった。最終的にザッツはフォマーを裏切って逃げ出し、メイソンとギルド長は縛り上げた。クリフが、騒ぎを聞きつけてやってきた警備兵に事と次第を説明する。
「この宿をやってるティレルさんが、そこの奴に怪我をさせられたんだ。背中に剣を投げて。剣はそいつのものだと思う。確かめて欲しい。回復すれば、彼女も証言するはずだよ」
「何と」
信用厚いギルド長がそんなことを、と、警備兵たちは顔を見合わせる。隊長らしき人物が口を開いた。
「ともかく、二人には同行願おう。悪いが君らも詰め所に来てくれ。事の真偽を確かめる必要がある」
シキたちが了承すると、警備兵たちはギルド長とメイソンを連れ、怪我をしたティレルと看病を引き受けたナール以外の全員で詰め所へ向かうことになったのだった。
柔らかな冬の日差しが道行く人々を照らしている。餌を求めて町へ出てきた山鳥たちは、道端で何がしかをついばんでいる。
「とまあ、そういう訳だったんだよ」
クリフが興奮気味に両手を広げてみせる。話し相手は茶褐色の瞳を興味深げに輝かせた。
「俺も参加したかったなあ」
「やだ、セサルったら。大変だったのよ」
死ぬかと思ったんだから、と言うクレオに、青年は自信あり気に笑って見せる。砂漠の民が身につける大きな布を頭からかぶり、砂色の髪を短く刈った青年は、メイソンの宿で一緒だったセサルだった。
「早いとこ審議が決着して良かったね」
「そうだね。もうあいつらも悪さはできないと思うよ」
「当分の間は、でしょうけどね」
クリフの言葉に、クレオが肩をすくめながらつけ足す。
「ティレルの怪我はその後どうだい?」
「それほど深い傷じゃなかったんだ。もう歩けるよ」
「でもまだ完全には治っていないわ。私たちもいろいろ手伝ってはいるけど……」
「そうか、それで買い物に来てたんだな」
「セサルが荷物を持ってくれて助かったよ」
ティレルの宿の扉を開けると、木の札が軽い音を立てた。扉に下がっている、注意書きの札だ。
『宿はお休みしています
お食事はできます』
「いらっしゃい……ああ、お帰り」
事件以来、無口だったナールは少し言葉数が増えた。彼なりに努力しているらしい。若干不自然ながら、笑顔も見せていた。
「頑張ってる?」
厨房に入ったクレオが笑顔を向けたのは、エイルだった。驚くべきことに、エイルはクレオに料理を習い始めたのだ。元々興味があったからか、簡単な食事くらいならすぐに作れるようになった。クレオに言わせれば「まだまだ」だそうだが、エイルはそれに怒ったりもしない。クレオが今まで作っていた食事がどれだけ工夫したものだったか、費用も時間も調理器具も限られた状況で、彼女がどれだけ一生懸命作ってきたか、エイルは思い知った。それに自分がどんなに文句を言ったのか。自分で料理を作ってみて、エイルは初めて本当にクレオに感謝を覚えたのだった。
「やっと帰ったか。遅いぞ」
ごめんごめん、と謝るクリフに、エイルは笑って見せた。背が低いために踏み台に乗り、真っ直ぐで綺麗な姿勢を保っている。何かを炒めているようだ。
「お前たちが遅いから、もう全員分の昼食を作ってしまったぞ。今日はウィッタ芋の卵包みに挑戦してみた」
「わぁすごい、綺麗にできているじゃない!」
尊大な態度は相変わらずといったところもあるが、額に汗して客の食事を作っているエイルは、一回りも二回りも成長して見える。
「これにパッソンを振ってでき上がりだ。ふふ、クレオと違って、私は見た目にもこだわるのだ」
「そういう一言がなければ、もう少し褒めてあげてもいいと思うんだけど」
「褒めて欲しいなどと頼んだ覚えはない」
「可愛くないわね」
「ふん」
舌を出しながら最後の一皿を盛りつける。と、声がかかった。
「三人前、追加をお願いします」
シキである。怪我も治り、店に立てないティレルの代わりに、ナールと客の相手をしているのだった。意外にも白い前掛けが似合っている。
「分かった。すぐできるから」
エイルはシキに応えて火の入ったかまどにパン種を放り込み、野菜を煮込んでいる鍋のスープを味見した。
「うむ、素晴らしい」
大仰な仕草でうなずき、愛らしいその顔で満足そうに笑う。
仕事が一段落したエイルたちは、遅い食卓についた。せっかくだから一緒に、と誘われたセサルも加わっている。クリフの前に積まれた山のようなパンがみるみる減っていく。クレオはウィッタ芋の卵包み焼きを口にし、驚いた表情を見せていた。
「意外と美味しいじゃない」
「意外と、とは何だ」
「あらごめんなさい。怒った?」
「私はそんなことで怒るほど子供ではないからな」
「でも本当に美味しいわよ」
「そんなの当然……」
言いかけたエイルは、クリフの視線に気づく。シキを見ると、シキも意味ありげな顔でエイルを見ていた。エイルは二人の顔を何度も見比べる。シキとクリフは、エイルに期待している。それを理解したエイルは眉を寄せ、顔を赤らめた。
「あ……」
「? 何よ、エイル。『あ』って。そんなに口を開けて、変な顔。クリフとシキは何を笑ってるの?」
クレオ一人が、首をかしげている。エイルがもう一度口を開けた。
「あ」
「だから、何だっていうの?」
「……あ、あ、ありがとう」
「はあ?」
「間抜けな顔をしているな! そんなに口を開けて、馬鹿面に見えるぞ。料理を褒められたから礼を述べたのだ。この私がお前ごときに礼を述べたのだぞ、分かっているのか? 恐縮して恐れ入ったらどうだ。本当に、私を誰だと思っているのだ、失敬な!」
まくしたてたエイルの頬が一段と赤く染まっている。クレオはまだ目をぱちぱちさせながら呆気に取られていた。クリフたちは声を殺して笑っている。エイルは、もうその話題は終わりとばかりにセサルに向き直った。
「セサルは、いつまでデュレーにいるのだ?」
「ああ、いや実はもうそろそろと思っていたのさ。少し長居しすぎたよ。その代わり、面白いもの、見せてもらったけどね」
にやっと笑って、片目をつぶる。
「明日にでも出発するよ。山を越えて、北へ行く。俺も、もっといろいろなことを経験しなくちゃ。……ところで、君たちはどうするつもり? 確か、魔術師を探しているんじゃなかったっけ」
「そうだ。コーウェンという町にいるという噂だが、実際のところは分からんしな。もちろん名前も知らないし、困っている」
「コーウェンの魔術師ってのは聞いたことあるよ。でも、詳しくはなくて」
「気にするな。旅の途中で知っている者に出会うかもしれないし」
「そうだね、近くなればもっといろいろ分かるだろうさ。いずれにせよ、南へ行くなら、砂漠を越えるってわけだ」
「やっぱり、大変よね?」
クレオが不安げな顔を見せる。セサルは大きくうなずいた。
「そりゃそうさ。砂漠には一度も行ったことがないんだろ? じゃあものすごく大変だ。道案内の人を雇わないと。絶対迷うよ。間違いない。昼間は死ぬほど暑いから、厚手の布を頭からかぶってじっとしていなくちゃ駄目だ。動くのは夜がいい。凍っちまいそうに寒いけど、距離が稼げる。後はそうだな……時々、竜巻がくるんだ。布を顔に巻かないと息ができなくなるから気をつけて」
セサルの助言はこの他にもたくさんあった。そのすべてを、よく頭に叩き込むようにとセサルは何度も繰り返した。
「少しは役に立てたかな。君らが無事に砂漠を越えること、心から祈ってる。それじゃ、俺はそろそろ行くよ」
食事の代価を机において立ち上がる。
「明日の朝は早くに出発するつもりだから、君らともここでお別れだな。……そうだ」
首に下げていた金属の飾りを外し、セサルはそれをクリフに渡した。
「これを持っていきなよ。砂漠の神ヤーデの首飾り。きっと君らを守ってくれる」
「ありがとう、セサル」
「もしケイズリーという部落に立ち寄ったら、それを見せてやって。外の人は警戒されるけど、俺の知り合いだって分かれば大丈夫と思う。それから……レザという女性に会ったら、セサルは元気でやってるって伝えてくれないか」
クリフが笑顔で答える。
「きっと伝えるよ。君の家族? 友達?」
「いや、その……婚約者っていうか。儀式が終わって部落へ帰ったら、結婚するつもりなんだ」
鼻の頭をかいて、セサルは照れくさそうに笑った。
「それじゃあ、元気で」
「セサルもね」
「北へ行くなら、昼のうちに山を下りろよ。クルイークに出会わぬようにな」
「ああ、ありがとう。気をつけるよ」
シキたちはそれぞれに別れの言葉を口にし、宿から出て行くセサルを見送った。
「さて……俺たちはどうする?」
クリフが、誰にともなく問うた。エイルが即答する。
「ティレルの怪我が治ったら出発する。それしかないだろう」
「今のところ手がかりは一つきり。やはりコーウェンという町を目指す、か」
「道のりは遥か、というところね」
クレオが呟く。彼女の心の痛手は癒えていないようだが、努めて明るく振る舞っている。あの夜、泣きながらクレオが話してくれたこと。ティレルとシキがいい仲になっていたなんてクリフは全然気づいていなかった。それより、クリフには妹が心配で仕方なかった。シキはクレオの様子に気づいているのかいないのか。一体、シキはクレオをどう思っているんだろう、と、横目で盗み見る。だがその表情から、クリフは何も読み取ることができなかった。
レフォアでは冬の終わりを告げる南風が吹いて春になり、同時に、新しい年が始まる。そしてレフォアの暦に合わせて大陸全土が年を改める。春風の月が一年の初めの月だ。彼らがデュレーを離れるころには、その春風の月もそろそろ終わろうとしていた。
四人が階段を下りてくると、ティレルとナールが彼らを待っていた。怪我はまだ完全に治ったとは言えない。
「行くのね」
ティレルは、シキを見て言った。シキの返答はない。クレオは視線を床に落とす。シキがどんな顔をしているか、怖くて見ることができない。クリフが申し訳なさそうに口を開いた。
「俺たちのせいでこんなことになってごめん。宿をまた始めるまで手伝おうと思っていたんだけど……」
「大丈夫よ。もう仕事できるわ。宿もすぐに再開する」
クリフを励ますように、ティレルは笑顔を浮かべる。寂しさを口にする気はなかった。だが、もはや彼女の言葉を聞かずとも、その心は伝わっている。この宿に滞在した日々は、彼らの心を十分に近づけていた。ティレルの瞳の奥に隠れた想いは、容易に汲み取れる。
「無理はするな」
深意はあるのかもしれないが、シキもまた、余計な言葉を言いはしなかった。どこまでも深く、優しさに満ちた緑の瞳が、ティレルを真っ直ぐに見つめている。
「ありがとう」
そう言ったティレルの声は、いつも通り艶やかだった。
「私、この宿が好きよ。宿の仕事も好き。そして歌も。これからもずっと、歌いながら宿をやっていくわ。……私ね、母の気持ちが少し分かった気がするの。多くの旅人が訪れ、また去っていくこの町に、ずっと留まった母の気持ちが」
「そうか」
「母は……きっと、幸せだったんだと思う」
シキは何も言わなかった。クリフもエイルも黙っていた。そして、クレオも。
「もしまたここを通ることがあったら、必ず寄ってちょうだいね」
四人はそれぞれにうなずき、ティレルとナールの姉弟もそれに応えて微笑んだ。
「さあ、行こう。山を下り、ルセール領へ。砂漠を越えて、コーウェンへ!」
クリフの宣言とともに彼らは再び旅人となった。
エイルは遥か遠くの祖国に思いを馳せて。
シキは過去を振り返ることなく。
クリフは高く昇ったハーディスに顔を向けて。
クレオは切なさを胸に秘めて。
そして運命の神クタールは、彼らの行く末をただ黙って見守っていた。
いいなと思ったら応援しよう!
私の活動を応援していただければ幸いです。いただいたサポートは作品作りに活かします!