見出し画像

「同じものを食べる」が難しい時代に。食卓で起きている“食の衝突”とは

はじめに

誰かと一緒に食事をするとき、
以前より「何を食べるか」を決めにくくなった。
そんな場面が、少しずつ増えている気がします。

ある人はアレルギーがあります。
ある人は体質の都合で避けたいものがあります。
ある人は宗教や信条の理由で食べないものがあります。
また別の人は、環境への配慮から選ばない食材があります。

それぞれに理由があります。
しかも、その理由は見た目では分かりません。

ここで起きているのは、
単なる好き嫌いの話ではないはずです。

先日の記事では、Climavoreという考え方を手がかりに、
「食は環境の変化に応じて動いていく」という視点を整理しました。

では、その変化が実際の食卓に入ってきたとき、何が起きるのでしょうか。

今回は、
なぜ「同じものを食べる」ことが難しくなるのか。
そして、食卓で何がぶつかっているのか。
この「食の衝突」を、少し整理してみたいと思います。


「食べられない」は、一つの意味ではありません

まず、ここは大事な出発点です。

私たちは日常の中で、
「それは食べられない」
「それは避けている」
と、ひとまとめに言ってしまいがちです。

けれど、その中身は同じではありません。

ある人にとっては、安全の問題です。
ある人にとっては、体の問題です。
ある人にとっては、信条の問題です。
またある人にとっては、環境への判断です。

表面だけ見ると、どれも「食べない」です。
けれど、その理由は大きく異なります。

命に関わるから避ける。
体が受けつけないから避ける。
信じるものとして避ける。
未来のために減らしたいから選ばない。

同じ「避ける」でも、中身は同じではありません。

ここを一緒にしてしまうと、話はすぐに噛み合わなくなります。
だから、食の問題を考えるときは、
まず「食べられない」を一つの箱に入れないことが必要です。


制約は、一つではなく重なっています

ここで、食の制約を少し分けて考えてみます。

まず一つ目は、安全の制約です。
食物アレルギーや交差接触の問題がここに入ります。

二つ目は、身体の制約です。
不耐症、消化吸収、体調、服薬との関係などがあります。

三つ目は、信条の制約です。
宗教上の規範や倫理的な立場、思想的な選択です。

四つ目は、環境の制約です。
気候変動、資源、供給不安、価格の変動などです。
前回のClimavoreの話も、ここにつながっています。

そして五つ目が、運用の制約です。
店側の設備、人手、仕入れ、調理導線、表示などが含まれます。
配慮したくても、現場ではすぐに対応できないことがあります。

大事なのは、これらが一つずつ順番に現れるわけではないことです。

実際の食卓では、
安全の条件と信条の条件が重なることがあります。
環境への判断と店側の事情がぶつかることもあります。
体の制約とメニューの構成が合わないこともあります。

つまり、難しさは「制約があること」だけではありません。
制約が重なっていることにあります。


本当にぶつかっているのは、人ではなく条件です

食事の場で何かがうまくいかないと、
私たちはつい、人の問題として見てしまいます。

あの人は細かい。
この店は不親切だ。
そこまで気にしなくてもいいのではないか。
配慮を求めすぎではないか。

けれど、少し立ち止まって見ると、
本当にぶつかっているのは、人そのものではありません。

条件です。

ある人には安全上の条件があります。
ある人には信条上の条件があります。
ある人には環境上の判断基準があります。
そして店側には、設備や仕入れや人手の条件があります。

それらが、一つのメニュー、一つの厨房、一つの食卓の中で、
同時に成り立とうとします。

そのときに起きるのが、
ここでいう「食の衝突」です。

つまり、誰かがわがままになったのではありません。
異なる条件が、同じ場に集まったことで、
摩擦が見えるようになったのです。

ここを見誤ると、話はすぐに道徳論になります。

理解が足りない。
配慮が足りない。
優しさが足りない。

もちろん、それらは大切です。
ただ、それだけでは十分ではありません。

必要なのは、
何が、どこで、どのようにぶつかっているのかを見分けることです。


「同じものを食べる」という前提が、衝突を強くしています

さらに考えたいのは、
なぜ今、この衝突が見えやすくなっているのかという点です。

その理由の一つは、
私たちがまだ、
「共食とは、同じものを食べることだ」
という前提を強く持っているからではないでしょうか。

同じ料理を頼む。
同じ鍋を囲む。
同じコースを食べる。
同じ食材を共有する。

この形は分かりやすいです。
けれど、制約が多層化した今、その前提はときに苦しくなります。

なぜなら、「同じもの」に合わせようとすると、
誰かの安全、誰かの体質、誰かの信条、誰かの判断が、
こぼれ落ちやすくなるからです。

だからといって、
みんな別々に食べればよい、という話でもありません。

ここで分けて考えたいのは、
「同じものを食べること」と
「同じ場を共有すること」です。

この二つは、似ているようでいて、実は少し違います。

壁になっていたのは、食材やメニューだけではありません。
「同じでなければ、一緒に食べたことにならない」
という前提そのものが、見えない壁になっていたのかもしれません。


目指したいのは、「同じ料理」より「同じ体験」です

ここで見えてくるのは、
共食の条件を、
「同じ料理」から「同じ体験」へ移す必要です。

全員が同じ食材でなくてもよい。
全員が同じ皿でなくてもよい。
全員が同じ調理法でなくてもよい。

それでも、

同じテーブルにつける。
一緒に選べる。
安心して注文できる。
誰か一人だけが説明役にならない。
誰か一人だけが我慢役にならない。

そうした状態がつくれれば、
そこにはすでに「共に食べる場」があります。

これは小さな違いに見えるかもしれません。
けれど、発想としてはとても大きな転換です。

同じものを食べることを目標にすると、
制約が増えるほど排除が起きやすくなります。

一方で、同じ体験を目標にすると、
選択肢の設計、情報の出し方、調理導線、メニュー構成によって、
場を作り直す余地が生まれます。

ここに、これからの共食デザインの入口があります。


おわりに

今回整理したかったのは、
「食べられない人が増えた」という単純な話ではありません。

本当に見なければならないのは、
安全、身体、信条、環境、運用という異なる条件が、
同じ食卓に集まるようになったことです。

そして、そこで起きているのは、
人と人の対立ではなく、
条件同士の衝突です。

この構造が見えないままだと、
誰かが無理をし、
誰かが遠慮し、
誰かが説明を引き受け、
その結果、「一緒に食べること」そのものが細っていきます。

だから必要なのは、
ただ配慮を呼びかけることだけではありません。

衝突をほどく設計です。

次回は、ここからさらに一歩進めて、
異なる条件を持つ人たちが、
「同じもの」でなくても
「同じ場」をどう共有できるのか。
その設計の方向を考えてみたいと思います。


いいなと思ったら応援しよう!

shirokuma-papa よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!