刊行から30年強、色あせない名作 〜影武者徳川家康(隆慶一郎著)
勝者は自分の都合の良いような記録を残す、それが普通、プロの普通。
前から不思議に思っていたのだが、徳川家康は、徳川家にとっては神君なのだから、都合の悪い事実は隠蔽できたはず。だが、徳川家康に関しては、平殿器もかくやの「タヌキおやじ」そのものに、謀略や権謀術策やイチャモン、言い掛かり、とやりたい放題。普通隠すでしょう、神君なんだから。すべて秘書(部下)のせいにしてしまえばよいのだよ、すべての権謀術策は本多正信がやったことにして、家康は高潔な人物にすれば良かったんじゃないか? 何故、年取ってから「タヌキおやじ」に変貌したのか?
また、なぜ隠居してから駿府城という日本史上最大級のディフェンス力を備えた城を作り、籠ったのか。いったい誰からの攻撃をディフェンスしようとしたのか?
我が敬愛する隆慶一郎先生の『影武者徳川家康』では、関ケ原戦い時に、島左近配下の忍びに、本物の徳川家康が暗殺されてしまう。混乱する徳川陣営は、取り敢えず影武者の徳川家康を本陣に座らせ、家康健在を見せつける。その間に、本多忠勝が前線より下がって本陣に詰め、死んだ家康に変わって指揮を取る。
島左近から本物の家康暗殺成功を聞いた石田三成は、家康が変わらず指揮を取っている事を知る。島左近が家康暗殺成功と言ってきたのなら間違い無いのだろうが、では、今、本陣に座っている家康は何者か、本物なのか、影武者なのか。
関ケ原の戦いは配色濃厚、どうする、ここで自害するか、でも自害したら豊臣家はどうなる、もし家康が影武者ならば、戦い終了後に影武者は排除されるであろう、ただ、大阪の豊臣家が残っている限り戦いは終わっていない、関ケ原に遅刻した徳川秀忠では東軍に味方した本来豊臣側の諸将を掌握できないであろう、なら徳川家康の威光はまだ必要なはず、大阪に豊臣家が残っていればなおさら影武者の利用価値はある、秀忠としては豊臣家が健在であれば影武者を簡単に排除するわけにはいかない、では戦いに敗れた三成としてはこのまま自害すべき時なのか、いや、たとえ捉えられ醜態を晒してでも家康に会って徳川家康が本物か影武者か見極めないと死んでも死にきれない、(たしか、記憶が確かなら、こんな感じだったと思う)
戦いに敗れた三成は、自害をとどまり捕縛され、家康が影武者である可能性に賭ける、そして、処刑される前に、影武者の家康に囁く
「秀頼公のことを頼みます」
この後の歴史は史実の通り、
1607年(慶長12年)7月に徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって駿府に隠居。
駿府に隠居する前年の1606年(慶長11年)に京から駿府城の南に銀座(貨幣鋳造所)を移し、秀忠には金融の実権は渡さず。
1607年(慶長12年)12月城内からの失火により駿府城天守焼失。その後直ちに再建工事が開始され、1610年(慶長15年)に、三重の堀と5重(または6重)7階といわれる国内最大級の勇壮な天守が完成した。駿府城天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭史上最大級。
1615年(慶長20年/元和元年)大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、徳川秀忠の天下統一が決定づけられた。
1616年(元和2年)家康は、駿府城で死亡。
隆慶一郎先生の影武者徳川家康を読了したあとは、家康に関する何故?の霧がスカっと晴れる思いがしたものだ。これはフィクションであり史実ではない、なんて野暮なことをいいなさんな、最高に面白い仮説は読んでいて最高に気持ちいいんだよ。
信じる信じないはあなた次第。
