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堀田善衛 『時間』  読み伝えなければならない一冊  読書記録

 ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読んだ後、なぜか堀田善衛の『時間』を読みたくなって、本棚から持ってきた。最近は小説を読む流れだ。

 実は堀田善衛の作品は、あまり読んだことがない。さすがに『広場の孤独』や『ゴヤ』は読んだと思うが、何も記憶に残っていない。ただ1988年の元旦の朝日新聞に掲載された「何が仕合わせであるかを考えるべき時がきているのではないか」というエッセイは、よく記憶しているし、切り抜きもまだ持っている。

 この『時間』を読んだのも、それほど昔ではない。当時、話題になっていた辺見庸の『1☆9☆3☆7』を読んで、その存在を初めて知り、慌てて読んだ記憶がある。手元にあるその本は2015年10月の初版だから、その年の暮れか翌年のはじめ頃だっただろう。

 『時間』(岩波現代文庫)の奥付を見ると、2015年11月第一刷、2016年1月第二刷となっている。どうやら出版社も、辺見庸の本にあわせて文庫化したようだ。とすると、ぼくが読んだのはその後ということになる。

 ほぼ10年ぶりの再読である。再読して思うのは、10年に一度は読むべき本だということだった。もちろん、ぼくのあずかり知らぬ時代の話ではあるが、その責任はぼくにもあり、若い世代にも引き継がねばならないことである。ちゃんと伝えるべきことは、伝えておかねばならない。

 主人公は中国の知識層である陳英諦。南京落城直前の1937年11月30日から翌1938年10月3日に至る彼の日記を中心に書かれている。改めて、この1937年という年に軽い驚きを感じる。戦争というと、反射的に1941~1945年とぼくの頭に浮かぶ。「15年戦争」という言葉は知っている。『1☆9☆3☆7』も読んでいる。なのに南京大虐殺が行われた、その時代に驚いているのだ。「知っている」ということの底の浅さよ、である。

 堀田善衛は、1945年3月から1946年12月までの敗戦前後を中国で暮らしている。中国の知識層の大人(たいじん)ぶりや、その士大夫の生き方を自分の目で確認しているからだろう。主人公である陳英諦の描写は、中国知識層の考え方をよく映しているし、ブレがない。ぼくも2年ほど中国で働いていたことがある。その間に何度も見聞きしたあの士大夫ぶりが、陳英諦にも強く感じられた。また、この作品は、中国語にも訳されている(秦刚訳、人民文学出版社、出版2018年7月)。

 ぼくは、かろうじて現役を続けている国語教師だ。だから、この本を生徒に引き継がなければならないと思う。もしかすると、今この文章を読んでくれている先生で、いやもちろん先生でなくても、堀田善衛『時間』を読んでいない方がいらっしゃったら、すぐにポチってほしい。読んで、生徒にも紹介してほしいのだ。
 作品としてではなく、時代の記録として読んでもらいたい。

 本のあらすじを紹介することもなくここまで書いてしまった。

 付箋を貼っているところが、いくつかある。そのふたつを紹介して、あらすじに代えたい。

 冒頭近く、日本軍の砲声銃声が途絶えた「真空のような時間」に、庭に出た陳英諦と子の英武、日本軍から逃げてきた従妹の楊嬢の三人。1937年12月10日。

 何気なく、わたしはもみじの枯葉を一枚拾いあげた。
 と、英武も楊嬢も、同じように拾う。奇妙なことをするな、と思っていると、英武が唐突に、云った。
 「お父さん、きれいだねえ」と。
 その言葉に、わたしは、ほとんど驚愕した。ぎょっとしたのだ。この五歳の子供が……。
 わたしは、彼と同じことを考えていたのだ。楊嬢もまた同じく驚いたらしいことは、うるんだような大きな眼が物語っていた。
 われわれの生活も生命も、既にわれわれ自身の手でどうにかすることが出来る圏外に出てしまっている……。われわれがいま過ごしているこの時間は、死を宣告された人がもつかもしれぬ時間に、近接している……。
 いまわれわれは、死を通して生を見ている、とは、あるいは云えることであるかもしれない。
 われわれは、あらゆる事物、風景を、死という透明なガラスを通して見ている。
お父さん、きれいだねえ
 葉脈の隅々にいたるまで、それ・・は完整している。完美である。
 われわれの生もまた、葉脈の隅々にいたるまで透けて見えるような気がする。

『時間』p48~49

 陳英諦、その妻と子、従妹の楊は、ばらばらになった。陳英諦はたまたま生き残ったが、妻と子は死んでいた。やはり死んだと思っていた楊は、くり返し強姦され、黴毒をうつされ、妊娠し、流産し、黴毒の苦痛を和らげるために打たれたヘロインの中毒になり、それを絶つための治療をしていた。そして、ようやく陳英諦のもとに帰ってきた。1938年9月。

 楊は指骨だけのような指に紙をはさんで鼻をかんだ。薄い紙に血が滲んだ。その顔は、何か得体の知れない表情を見せていた。何かが何かを蔽いかくしている。悲しみでもない、それほど暗くもない、が、以前の無邪気で積極的な、はっきりした意見をもった女学生でもない、どうにも馴じみ難い、なかへ入ることを拒むような、不透明なものだった。若い刃物屋が、いかにまめまめしく手をつくしても、それがどの程度に彼女に見えているか・・・・・・、疑問に思えた。
 本当に孤独な、痩せて枯れ枯れの、病気の樹木。そんなに見えた。可哀想、とも云えなかった。眼は干あがった湖沼のように、乾いていた。
 これがかつての、蘇州の陶器の名匠の愛娘であった。
 一瞬わたしには、彼女がそこらあたりざらにいる売笑婦ではないか、と思ったときがあったことを告白しておく。
 土気色の、薄墨色の顔と、かすれた声調のなかに沈んでいるもの、動揺するものの一切を喪い果てた、無関心にも近いようなもの。
 盲いた人か、聾者を前にしているような気がして来た。
 色も音も動きも、まったく彼女を動かさない……。
 彼女の世界は、寂寞としている。
 魂、とでもいうほかに、突然わたしの眼前にあらわれたこの薄墨色の存在のことを云う法がない。
 重い外被が、悉く剥落してしまっているのだ。何かが何かを蔽いかくしているのではない、これはまったくの、真裸なのだ。
 彼女が黙っていると、わたしは怖ろしくなる。

『時間』p237~238


 長くなってしまいました。堀田善衛の『時間』。

 愉しみのための読書も、もちろんあるけれど、記憶を受け継ぐための読書も必要だと思う。加害者としての姿勢も、ちゃんと持ちたい。




 お読みいただき感謝します。次の読書記録は36です。


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