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読書記録  陳 凱歌『私の紅衛兵時代』、カルロス・カスタネダ『分離したリアリティ』、パウロ・コエーリョ『アルケミスト 夢を旅した少年』

 これまで書いた記事をぼちぼち整理している。もともといくつかのマガジンに分けているのだが、一つの記事を複数のマガジンに入れたり、同じマガジンのなかにもいろんな種類の記事があったりして、よく分からないことになっているからだ。

 で、最近覚えた「埋め込み」を使って、「次はこちらへ、どうぞ」的な案内をつけている。共通テストについてバラバラに配置されていたのが、それでつながっていく。最近始めた「枕話シリーズ」にも、「おかわりはこちらへ」をつけ、最新の記事には第1回の記事の案内をつけている。無限ループ、蟻地獄、無間地獄である・笑。

 で、次は「読書記録」を整理しようとしている。たぶんこの「読書記録」が一番多いと思うので、ついでに記事番号もつけちゃおうかな、なんて考えている。


 その流れで、今日は最近読んだ本の記録を。

 まずは『私の紅衛兵時代』(陳 凱歌 講談社現代新書)。橋本健史さんのnoteを読んでいて、あれっ? この本は、どこかにあるぞと本棚をあさって発見、再読した。

 橋本健史さんの記事はこちら。橋本さん、勝手に掲載、失礼いたします。

 橋本さんの記事を読んでいただければ、この『私の紅衛兵時代』については充分だと思う。

 ぼくは、この本にまつわる個人的な二つ、三つの小話を書いて終わりにしよう。

小話1 この本に映画『人生は琴の弦のように』の前売り券の半分が挟まっていた。どうやらしおりとして使っていたようだ。なんか少し得をした気分になった。90年台は、よく中国映画を観ていた。そのころの記憶が少しよみがえる。

小話2 中国の大学で日本語を教えていた時に、とても親切にしてくれていた中郭先生。彼は、横浜生まれの横浜育ちの華僑。高校時代は、ボクシングの選手。横浜ではそこそこ有名だったという。そんな彼は、革命中国の招きに応じて父と二人で中国へ永住帰国をした。その後すぐに起こったのが、文化大革命。彼は日本語教師をしていたので、教師であることと日本のスパイである(もちろん濡れ衣だが)ことの二重の責めを受け、下放されたという。

 中郭先生は、いつも白酒(パイチュウ)を飲みながら話してくれた。

「歌と踊りがあるんですよ。毛沢東をたたえる唄です。今でも歌えますし、踊れますよ、ほら」
 彼は手をフラフラさせて踊り、一節二節を歌った。

「寒くてねぇ。それまで農作業なんかしたことないの。ぼくは都会っ子だったからね。はじめての農作業でしょ。疲れるし、寒くて寒くて寒くて。ぼくは何度も自分の長靴におしっこをしました」
 んっ? どゆこと?
「おしっこはね。あったかいんですよ。しばらくの間だけだけど。少し経つとかえって冷たくなる」
「それでもね、ぼくは頭悪いから、何度も何度もおしっこをしたんですよ。自分の長靴の中に」

 中郭先生は、今どうしているだろうか?

小話3 「白髪三千丈」のように、漢語には大げさな表現が珍しくない。そのような表現が出てきたら、ぼくはいつも生徒に言っている。「チェン・カイコー(陳 凱歌)の『さらば、わが愛』という映画を観るといいよ。中国文化の美学というか、美の基準がよく分かると思う。ぼくらとは違うんだ。どちらがいいとか悪いとかいうものではない。どちらも美しいんだよ」

小話4 今回再読して、一番沁みたのは彼が映画監督となってロケハンに、下放されていたシーサンバンナの生産隊に行ったシーンだ。そこを離れて17年後だった。誰にも自分の名前を伝えないように言ってある。それでも彼は我慢できなくなり、現地の人に尋ねる。

  「私が誰だか覚えていますか?」
  人びとは下を向いて、しばらく黙っていたが、やっと答えた。
  「お前は、あの陳凱歌だよ」。
(p210)

 その時の両者の思いを想像すると、胸が痛くなる。


 続けてカルロス・カスタネダの2冊目『分離したリアリティ』(太田出版 真崎義博訳)を読んだ。「観ること」の修行の様子が、この本に書かれていた気がしたので、引っ張り出してきたのだ。最近「観る」ことについて、しつこく考えている。そろそろ(仮)でも決着をつけたい。
 この訳では、「眺める」「見る」と書き分けられていた。「お前は眺めているだけだ。戦士は見なければならない」と、ドンファンは繰り返す。

 ただ、カスタネダの「見る」ことの修行は、2冊目だけでは終わっていなかったので、今は3冊目『イクストランへの旅』を再読中だ。カスタネダの本は、いつも真偽を疑われ、トンデモ本の扱いを受けることが多い。この後で、真木悠介の『気流の鳴る音』も再読しようと思っている。


 カスタネダの2冊目と3冊目のあいだに、パウロ・コエーリョ『アルケミスト 夢を旅した少年』(角川文庫 山川紘矢・山川亜希子訳)を読んだ。

 この本は萬屋安斎さんのnoteで知り、気になっていた。それが下の記事。萬屋さん、何度も失礼します。

 いい話だ。この記事を読んだだけで、すっかり本を読んだ気になっていた私である。

 ところがある日、あの縄文式バントさんからコメントをいただいた。あの縄文式さんだ。それがなんと「『アルケミスト』を思い出しました」とのこと。おそれおおい。

 それでもやっぱり嬉しかった! いい歳をして、少々はしゃいでしまった。あの縄文式バントさんからコメントをもらえ、ちょっと褒められた! それは嬉しいに決まっている。

 …… でも、ぼくは『アルケミスト』を未読。速攻、取り寄せて読了した。

 まだ一度しか読んでいないので、ここでは詳細は記さないが。あー、こういう本がまだまだ隠されているんだなぁ、中南米、南米の本もいろいろ読みたいなぁ、などと思う。『青い鳥』がベースにあるのだろうが、その魅力はストーリーではなく、文中の光景(羊飼いのいる風景、砂漠のキャラバンの話、オアシスの生活)であり、さまざまな価値観や逸話にある。その一つひとつをじっくり味わいながら再読したい。

 アルケミスト(錬金術師)に託した希望みたいなものを、ぼくらはちゃんと認めなくてはならないと思う。アルケミストに託されたそれは、一攫千金の夢ではなく、世界を認識する力ではないのか。ぼくらがいつの時代も、どの土地でも、呪術師や導師、仙人、隠者、寒山拾得たちに預けてきたのは、世界を認識しそのなかで健やかに生きる方法なのではないか。

 資本主義、新自由主義が大手を振ってまかり通る時代は、それがもうピークを過ぎた時代でもある。ぼくらは、少しずつ軌道を変化させている。そのずっと先に、アルケミストや呪術師が立っているのではないか。そんなことを考えている。


 …… 濱本克哉さんのnoteに触発されて「見ること」について深掘りを始め、カスタネダを再読し、偶然『アルケミスト』が手元に届いた。そのような流れが、ふとやってくる。出会いの妙だね。

 生きていると、こういう流れに遭うこともある。




 新しい読書記録を書きました。第37回です。よろしかったら。







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