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【後編】北村薫『水 本の小説』を読む~「〇」編

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ということで、さっそく続きからやっていきましょう。


07.読み手次第

本作『水 本の小説』の最初の最初、つまり「手」という作品の冒頭はこのようになっていました。

 鈴を揺らせば、鈴それぞれの音が出ます。揺らす手により、鳴り方も違います。
 本の言葉もそのように、読み手の心に伝わって行くものです。

北村薫『水 本の小説』新潮文庫 p.8

今回扱っている「まる」という短編でも、やはりこのことが大事そうでした。橋本治はたしかに小林信彦『悪魔の下回り』を誤読していたのには違いないのだけれど、一方で「小林信彦はどうして難解か」という疑問の結論に関しては正解を出している。そういう意味で橋本は深い読みをしているのだ。作者=北村はそのように指摘していましたよね。(前編の本筋はその話で終わりました。)

本作冒頭の比喩に照らし合わせて言えば、橋本は『悪魔の下回り』という鈴を鳴らして、響き渡るような音を出してみせたのでした。〔ところで、この「鈴」というのも解釈の余地があります。ある人はアクセサリーに付けられるような小さな鈴を想像するでしょうし、別の人はジングルベルのような楽器を想像するかもしれません。私は神社の鈴を想像しました。この文章はそうした想定のもとで書かれている、ということをご了承ください。

このことは以後の話には関係ありません。少なくとも、このくだりを読まないと以後の話は入ってこない、ということはありません。ですが、「本の言葉もそのように、読み手の心に伝わって行くものです。」というのは、やはり作品全体に通底するメッセージだと感じたので、橋本の読解と絡めたうえで、ふたたび紹介することにしました。

次は、古典と教養の話を少しだけしたいと思います。

08.古典と教養の流動性

同時に、この「〇」という短編は、古典や教養は流動的にもなりうるということも伝えているように思いました。

文学好きにとっての古典や教養というと、日本でいえば『源氏物語』や『平家物語』や『枕草子』といったものを、西洋でいえば『オデュッセイア』のような叙事詩やシェイクスピアの一連の戯曲、ドストエフスキーの五大長編などを想像する方が多いのではないでしょうか。漢籍だと『史記』や『三国志演義』、杜甫や李白の詩なども挙がってくるでしょう。あるいは、いちいち列挙はしませんが、哲学書や思想書もここに入ってくるでしょう。

一方で、作品が書かれた当時に流行していたコメディや歌謡曲というものは、なかなか古典や教養として見なされないのだけど、それらを極めていくと誰にも真似できない深い読みに到達することがある、というのが橋本と小林のエピソードの大事なポイントだったように思います。

そして、もう一つ大事なのは、だからといってコメディや歌謡曲のようなものが、即座に教養となるわけでもない、ということでした。誰かが教養として認知しなければなりません。前回も橋本のこのような文章を引用しましたね。(また孫引きになってしまい申し訳ないのですが……。)

勿論教養などというものは、一人で作れる訳のものではない。だがしかし、教養というものは(誰かが)なんらかの形で、“教養としての認知”というのをしない限り、永遠に教養とはならないものなのである。

橋本治『デビッド100コラム』(北村薫『水 本の小説』新潮文庫 pp.61-62より孫引き)

で、北村もこの橋本のメッセージを重要視しているようで、本作「〇」の終盤でこのようなことを述べていました。

 読みの値打ちは、ここにあります。読まれる対象という海に飛び込み、宝玉を見つけてくるのが、読むという行為なのです。
 名画や名曲の中にも、誰かが見いだしてくれなければ闇に埋もれ、本当の光を知られなかったものがあるでしょう。
 ――ここに、〇があるよ。
 と気づかなければ、それは永遠に零のままなのです。

北村薫『水 本の小説』新潮文庫 p.70

ここで大事なのは、古典や教養は流動的「にもなりうる」ということです。読者が「読まれる対象という海に飛び込み、宝玉を見つけてくる」ということをしなければ、つまりは冒険をしなければ、古典や教養は固定的で、しかも権威的なものになってしまうでしょう。

……というところで、私はこんなことを考えてしまいます。さて、橋本に取り違えられていた「落語」の方は、古典や教養に含まれるのだろうか? と。次はその点について語ってみましょう。

09.落語は古典に入るのか?

どうやら北村の中で、落語というのは「古典以前の一般的娯楽」みたいです。それは「〇」の次の記述から読み取れます。

 日本の古典に通じている橋本治です。それは今更いうまでもない。あれを、これを、と例をあげるまでもない。
 その橋本が、古典以前の一般的娯楽を――落語を知らないのか、と驚いてしまいます。

北村薫『水 本の小説』新潮文庫 p.63(引用者太字)

じっさい、北村の学生時代はラジオ落語が全盛だったそうで、自然と落語のフレーズやギャグが染み込んでしまっていたそうです。(本作でもこの話がたびたび出てきます。)だからこそ、下の世代に何を伝えればいいのかわからないというのもあるでしょうし、下の世代に伝えるモチベーションが湧きづらいというのもあるでしょう。あるいは、そもそも〈伝えれば伝わるというようなものではない〉と感じているのかもしれません。

そう考えると、落語が「古典以前の一般的娯楽」になっていく、というのもわかる気がします。

一方で、「〇」のひとつ後の短編「糸」では、こんなことを述べていました。

 編集長が、
「落語を聞くようになってから、あれやこれやを《ああ……》と思い出しましたね。――筒井さん〔引用者注:筒井康隆〕の本にも、落語が出て来たりしますけど」
「そういえば、糸井いとい重里しげさとさんに、《落語ギリシャ神話説》というのがありました」
「ほう?」
「西洋のいろんな表現の根底には、ギリシャ神話がある。多くのものがそれを踏まえて、描かれたり書かれたりしている。我々にとっての落語は、そういうものだと……」
〔……〕
「昔は、夏目なつめ漱石そうせきのような大先生から、長屋の爺さん婆さん、子供まで知ってるのが落語だった。そこから、さまざまな故事来歴を仕入れた。そういう共通理解の基盤が失われると、――困りますねえ」

北村薫『水 本の小説』新潮文庫 p.77

糸井の説の是非はともかく、文学と落語の関係は密接だという確信はありそうです。この点に関して、漱石没後100年記念に開催された北村薫と柳家やなぎや喬太郎きょうたろうのトークイベントの方が、(その確信が)より明確に現れている気がするので、皆さんにも案内しておきます。(ちなみに、糸井の《落語ギリシャ神話説》も出てきます。)

ともあれ、〈落語を日本の表現にとっての古典と見なすか?〉という点において、字義どおりにいえば北村は否と答えているわけですが、一方で日本の言語文化の共通基盤として見ているというところは確かそうです。

10.おわりに

以上で「〇」の紹介を終えようと思います。ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

余談:本作を読んでいて、『プレミアムカラー国語便覧』(数研出版, 2017年初版)に「落語」に関する記述がまったく無かったということを思い出しました。索引を見ても「寄席」といった落語に関連する語どころか、「落語」すら載っていないのです。それが長年不思議でした。他の出版社や他の年度の便覧も覗いてみないとわからないのですが、機会があればぜひ検証してみたいところです。〈「落語」に関する記述があるのか?〉という点について。

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