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消費されないAI作品を目指して──AIくさいとスクロールされてサヨウナラ。なぜ、

ツルツルの画像は、なぜ「消費」されるのか

何時間もかけて作った自分だけのAIイラストや動画。

誰かが隙間時間にスイースイーとスクロール。

うわ、美人!キラッキラ!
構図もいいね〜!色彩もキレー!
いいね、ポチ。

でスクロール。
止まらない。
(彼や彼女は)2度と戻ってこない。

──一生懸命作ってるのに、どうして。。

多分ほとんどの人が経験してるのではないかと思う。
それが「消費される」という状態。


ウォーホルが開けた箱

少し遠回りになるけど、「消費」の話をするならこの人を避けて通れない。

1962年、アンディ・ウォーホルがキャンベル・スープ缶を32枚並べた。

よく「大量消費の肯定」と語られるけど、それは半分しか合っていないと思う。ウォーホルはむしろ消費社会を揶揄していた。スーパーの棚に並ぶスープ缶を「アート」として美術館に持ち込むことで、消費と芸術の境界線を笑い飛ばした。

ただ、ウォーホルの本当の凄みは、揶揄しながら同時にその構造に乗っかったところにある。消費社会を笑いつつ、自分の作品を消費財として大量に売った。批評と参加を同時にやってのけた。

問題は、そのあとだ。

ウォーホルが開けた「消費とアートの境界を溶かす」という箱から、60年かけて色々なものが飛び出した。

そして2020年代、AI画像生成という究極の装置が現れた。プロンプトを入力すれば、数秒で画像が出てくる。何枚でも。無限に。しかも誰でも。

ウォーホルのファクトリーには少なくとも人間がいた。
AIのファクトリーには人間すら要らない。

ウォーホルには揶揄があった。批評があった。
だがAI画像生成には、それすらない。
ただ生成し、ただ消費される。
両義性が消えて、消費の片輪だけが残った。

……これが、2020年代の「消費されるイメージ」の構造なのかもしれない。


「触れてみたい」という感覚

じゃあどうすればいいのか。

正直、僕もまだ答えを持っているわけじゃない。
ただ、ひとつ手がかりだと思っていることがある。

「触れてみたい」という感覚だ。

日本画の岩絵具を指で触ったことがあるだろうか。

あのざらついた粒子感。絵の具というよりも、砕いた鉱石そのもの。光の当て方で表情が変わり、見る角度で色が揺れる。

金箔は酸化して時間とともに色味を変え、螺鈿は貝殻の層が光を干渉して虹色に輝く。

これらの素材に共通するのは、「平滑ではない」ということだ。表面に凹凸があり、光を一様に反射しない。

だから人は「触れてみたい」と思う。

美術館で日本画の前に立つと、人は自然と近づいたり離れたりする。質感を確かめたくなるからだ。表面のマチエール(絵肌)が「もっと見ろ」と呼びかけてくる。

ツルツルのデジタル画像では、なかなかこうはならない。


生モノであること

もう少し踏み込んでみたい。
「触れてみたい」の正体は何なのか。

僕は、それを「生モノ感」だと思っている。
AIだって生モノの生々しさがあれば、消費されないんじゃないか。

ただし、これは「リアル」とは違う。

ハイパーリアリスティックなCGは、どんなに精密でもツルツルだ。解像度が高いだけで、表面の奥に何もない。

わかりやすく言うと、描かれたジャガイモを床に叩きつけたときの感じ。

ハイパーリアリスティックなジャガイモは、叩きつけても割れない。中身が詰まっている感じがしない。ハリボテなのだ。

生モノ感のある画像は違う。

描かれたものなのに、重さを感じる。皮の下にデンプン質が詰まっている気がする。泥がまだついている気すらする。

それは写実性ではなく、実存感だ。

岩絵具の粒子が不均一に光を散らすのも、金箔の端が微妙にめくれているのも、完璧ではないからこそ生々しい。

その不完全さが「中身が詰まっている」という感覚を生むんだと思う。

生モノには生モノの密度がある。


LoRAで密度を刻む

僕が試みているのは、この生モノの密度をAIに移植できないか、ということだ。

具体的には、LoRA(Low-Rank Adaptation)という技術を使って、日本の伝統素材が持つ質感をAI画像生成モデルに学習させている。

金箔の酸化による色ムラ、岩絵具の粒子が作る微細な陰影、螺鈿の真珠光沢。これらを数値化し、モデルの重みとして刻み込む。

すると、同じプロンプトから生成される画像が変わる。

LoRAなしの画像は、きれいだけれどツルツルしている。視線がすべって通り過ぎる。

LoRAありの画像には、重さが出る。デジタルなのに、「触れそう」な感覚が生まれる。叩きつけたら中身が飛び散りそうな、あの密度。

この差は、単なる画風の違いではない気がしている。
消費されるか、されないかの違いだと思う。


岡本太郎の「爆発」が消費された話

岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言った。

この言葉自体が、実は壮絶に「消費」されてきた。バラエティ番組のネタ、居酒屋の壁の格言、SNSの大喜利。「ドカーン!派手にやれ!」の意味で使い倒されてきた。

でも太郎本人が言っていた「爆発」は、全く違うものだった。

「音もしない。物も飛び散らない。全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが爆発だ」

太郎の「爆発」という言葉が、まさにその本質を奪われたまま消費された。意味がツルツルに磨耗して、キャッチコピーとして流通した。

AI画像に起きていることと、同じ構造だと思う。

だから僕は、こう思っている。
芸術は爆発ではない、本来。

「世間が消費してきた"爆発"のイメージ」で芸術をやるべきではないんじゃないか、ということだ。

太郎が本当に言いたかった「爆発」──全存在を賭けた開放──は、むしろ僕がやろうとしていることに近いんじゃないかと思う。

何百時間も素材を観察し、撮影し、選別し、LoRAに刻み込む。その蓄積の全体が、ひとつの画像に凝縮される。

それは堆積であり、同時に太郎的な意味での「爆発」でもあるのかもしれない。


アーカイブとしてのLoRA

僕は高校で日本画を学び、公立芸大で芸術学を専攻し、イギリスで博物館学の修士号を取った。

博物館学とは何か。
簡単に言えば、「物を未来に渡す技術」だ。

博物館が収蔵品をアーカイブするとき、物理的な保存だけでなく、その物が持つ文脈──素材、技法、時代背景、劣化の過程──をすべて記録する。物そのものが失われても、情報として残すために。

LoRA学習は、この博物館的アーカイブのデジタル版になり得るんじゃないかと考えている。

岩絵具の粒子径がつくる光の散乱パターン。
金箔の厚さによる透過光の変化。
螺鈿の積層構造が生む干渉色。

これらの物理現象を、ニューラルネットワークの重みとして保存する。素材そのものをデジタルに変換するのではなく、素材が「見た目にどう作用するか」をモデルに記憶させる。

質感のアーカイブだ。

伝統素材が物理的に失われていく時代に、もう一つの保存方法になり得ると思っている。LoRAファイルひとつに、何百時間もの観察と撮影と選別の結果が圧縮されている。


消費されない、ということ

最後に、「消費されない」とはどういう状態なのか、自分なりに整理してみたい。

消費されるとは、見た瞬間に情報処理が完了し、次に移れる状態だと思う。

解像度が高くても、構図が整っていても、「わかった」と思えた瞬間に消費は完了する。冒頭のスクロールがまさにそれだ。

消費されないとは、見るたびに発見がある状態だと思う。

質感があると、光の加減で見え方が変わる。拡大すると新しいディテールが見える。時間をかけた分だけ、返ってくるものがある。

美術品が何百年も「消費しつくされない」のは、この構造があるからだと思う。

AI画像に生モノの密度を刻むということは、この「消費しつくされなさ」をデジタルに実装する試みだ。

無限に複製可能な媒体のなかに、「触れてみたい」を埋め込む。
まだ道半ばだけど、それが僕なりの目指す方向だ。

消費の時代に、心に残るモノを。AIで。


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質感LoRAラボでは、金箔・螺鈿・岩絵具など日本伝統素材の質感をAIに移植するLoRAを開発・公開しています。

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