日本の労働生産性はなぜ「低く見える」のか(第3回|ヨーロッパから見た日本)
議論がいつもズレる理由
日本の労働生産性が低い、という話は昔から繰り返されている。会議が多い、意思決定が遅い、無駄な資料が多い、ハンコ文化が残っている――評論家や学者は、だいたい同じような理由を並べる。
だが正直に言って、それらは本質ではない。
仮に会議が半分になったとしても、仮に資料が簡素化されたとしても、日本の労働生産性が劇的に改善することはない。なぜなら、それらはすべて「枝葉」であって、根本的な構造の違いには一切触れていないからだ。
問題は、日本人の働き方の細部ではない。会議の数でも、資料の量でもない。ましてや「勤勉すぎる国民性」などという精神論でもない。
そもそも、労働がどのような構造で社会に組み込まれているのか。どこで価値が発生し、どこで価値が失われているのか。
そこを見ない限り、日本の労働生産性について、納得のいく説明は不可能だ。
日本人は遅いのではない——速すぎる人間が市場を壊す
まず、はっきりさせておきたい誤解がある。日本の労働生産性が低いと言われるとき、「日本人は仕事が遅い」「非効率だ」というイメージがセットで語られる。
これは現場を見ていない人間の想像だ。
実際には、日本人の現場労働者やサラリーマンは異常なほど速い。「今日中に終わりますか?」と聞かれて本当に終わらせる人間が大量に存在する。しかも途中で手を抜かない。仕上がりの精度も落とさない。他人に迷惑をかけないように調整する。ここまでをほぼ無意識にやる。
一方、ヨーロッパではどうか。同じ作業を頼んでも「今日は無理だね」「明日か、もしかしたら来週」という返事が普通だ。日本人なら一時間で終わらせる作業を、ヨーロッパのハンディマンが4時間かけてやることも珍しくない。しかも休憩を挟み、雑談をし、別日に持ち越す。それでも悪びれない。それが「普通」だからだ。
ここで数字で考えてみる。ヨーロッパのハンディマンが1案件に4時間かけて10万円請求するとする。日本人の職人が同じ作業を1時間で終わらせて2.5万円請求するとする。時給に換算すればどちらも2.5万円で一見同じに見える。
だが一日単位で見るとどうか。移動・段取り・顧客対応を考えると、どれだけ速くても一日にこなせる案件はせいぜい2件が限界だ。
1日の収入ヨーロッパのハンディマン(1件×10万円)10万円日本の職人(2件×2.5万円)5万円
日本の職人はヨーロッパの職人より4倍速く仕事をこなしながら、一日の収入はヨーロッパの半分だ。
しかもここには、さらに深刻な問題が潜んでいる。日本の職人が速いということは、市場全体の供給量が増えるということだ。1人の職人が1日2件こなせば、10人で20件の供給が生まれる。ヨーロッパなら10人で10件だ。需要が一定であれば、供給が多い市場では競争が激しくなり、単価が下がる。
日本:速い → 供給過剰 → 競争激化 → 単価下落 → 収入減
ヨーロッパ:遅い → 供給不足 → 希少性 → 単価上昇 → 収入増
速く働くことが、自分の市場価値を下げる構造になっている。
さらに速さには、もう一つの価値がある。速さは顧客の時間を解放する。修理に8時間かかる作業を2時間で終わらせれば、顧客に6時間が返ってくる。新幹線が在来線より高いのは単に速いからではなく、「拘束時間」が短くなるからだ。日本の職人はこの価値を毎日生み出している。しかしその価値は、価格にまったく乗っていない。
「いいものを安く」は美徳ではなく、価値の自壊
速さだけではない。品質においても、日本は同じ構造的な失敗を犯している。
日本では「いいものを安く提供する」ことが美徳として語られてきた。丁寧で、壊れにくく、精度が高い。しかも価格は良心的。一見理想的だが、経済的にはこれは価値の自壊に近い。
日本製は「壊れない」ことで有名だ。しかし壊れないことの価値は、単なる修理費の節約ではない。故障が起きれば修理の手配、代替手段の確保、スケジュールの変更、精神的ストレス——こうした見えないコストが連鎖的に発生する。「壊れない」という性能は、本来きわめて高い付加価値を持っている。にもかかわらず日本企業はそこに価格を載せない。競合より壊れにくいのに、価格差はわずかか、ほとんど同じだ。
結果として市場はこう学習する。「日本製は高品質だけど、安いもの」。これは称賛ではない。買い叩いていいというサインだ。
サービス業も同じだ。丁寧で、正確で、早い。クレームも少なく、やり直しも不要。それなのに価格は横並みか安売り競争だ。質の低いサービスと質の高いサービスがほぼ同じ値段で提供される。当然、質の低い側が得をする。コストをかけずに同じ価格を取れるからだ。
こうして市場全体が「低価格・高品質」を前提に回り始める。そのしわ寄せは最終的に人件費へ行く。価格を上げなければ賃金は上げられない。これは精神論ではない。単なる算数だ。
日本企業が本当に評価してきたもの——「扱いやすさ」という評価軸
速さが価格に反映されず、品質が価格に反映されない。なぜそうなるのか。根本には、日本企業の評価軸の問題がある。
よく「成果ではなく態度を評価してきた」と言われる。しかしそれはまだ表層だ。日本企業が一貫して評価してきたのは「扱いやすさ」だ。
上司にとって都合のいい人間とは何か。期待通りのことを確実にやってくれる人間だ。残業を頼めば残業する。無理な納期でも文句を言わずにこなす。波風を立てない。上司の判断を疑わない。これは「頑張っている」ではない。「使いやすい」だ。
そして重要なのは、期待以上のことをされても困るという点だ。自分の判断で動く部下は上司の管理範囲を超える。想定外の成果を出す人間は評価基準を壊す。仕組みを改善する人間は既存の秩序を脅かす。だから優秀すぎる人間は「扱いにくい」と判断され、静かに排除されていく。
これは評価システムの失敗ではない。上司の権限と快適さを守るために意図的に設計された仕組みだ。
ここで予想される反論に答えておく。「日本でも成果主義は試みられた。なぜ機能しなかったのか」。
1990年代後半、多くの日本企業が成果主義を導入した。しかしその動機はバブル崩壊後の業績悪化を受けた人件費削減だった。富士通の事例が典型で、達成しやすい低い目標を設定する社員が続出し、チャレンジは不利になり、最終的に制度は撤廃された。
これは成果主義の失敗ではない。成果主義の形骸化だ。「扱いやすさ」を評価する文化はそのままに「成果主義」という名前だけを貼り付けた。結果として、達成しやすい目標を設定して上司の期待通りに動く、より洗練された「扱いやすさの評価」が生まれただけだった。
最も優秀な人間は、この構造の中で最も報われない。早く終わらせれば仕事が増え、質を上げれば責任が増え、工夫すれば期待だけが増える。想定を超えれば警戒される。報酬はほとんど変わらない。
この構造が日本の優秀な人材を静かに削り、ある者は海外へ出ていき、ある者はやる気を失い、ある者は「扱いやすい人間」を演じることを学ぶ。生産性が上がるはずがない。
この話が今まで語られなかった理由
日本の労働生産性について、これまで無数の議論がなされてきた。会議が多い。ITが遅れている。意思決定が遅い。規制が多い。どれも間違いではない。しかしすべて枝葉だ。
本質は「価値の付け方」が間違っている、この一点に集約される。そしてその根底にあるのは、日本の組織が一貫して「扱いやすさ」を価値の中心に置いてきたという事実だ。
なぜこの話は正面から語られてこなかったのか。理由は単純だ。この問題を突き詰めると「誰が誰を、何のために評価してきたのか」を直視しなければならなくなるからだ。それは経営陣にとっても、上司にとっても、「扱いやすさ」の評価で利益を得てきた人間にとっても、あまりに都合が悪い。だから、測りやすくて安全な話題だけが選ばれてきた。
この話は机上の理論ではない。私はアメリカでビジネスを学び、日本で労働者として働き、現在はヨーロッパで事業を経営している。三つの立場をすべて実体験として通ってきたからこそ、この歪みが立体的に見える。
ヨーロッパで仕事を頼めば、遅くて雑な人ほど安く、早くて正確な人ほど高い。それだけの話だ。日本は逆をやっている。だから生産性が低いように「見える」。
日本人は真面目で、仕事が早く、クオリティが高い。これは事実だ。しかしその強みは正しく値付けされなかった。結果として、世界でも稀な「高性能・低価格の労働力」を自ら供給する国になった。これは誇りではない。構造的な失敗だ。
評価軸を変え、値付けを変え、優秀な人に正しく報いる。それだけで、日本の「生産性問題」はまったく違う姿に見え始める。
「ヨーロッパから見た日本」全3回、完結です。
