【歴史比較】続編:前方後円墳と天守閣に共通する「巨大建造物の盛衰」
1. 巨大建築は権力の象徴
前回の記事では、日本の前方後円墳とエジプトのピラミッドが、
形状模索 → 標準化 → 拡大 → 縮小 → 形状転換
という驚くほど似たパターンをたどったことをご紹介しました。
前回記事はこちら👇
今回は比較対象を変えて、日本の前方後円墳と城を比較します。
両者の共通点は、「権力を視覚化する巨大建築」だったことです。
そして両者とも、巨大化の頂点を迎えた後、新たな統一権力によって増殖が制限され、やがて別の形へと役割を移していきました。
2. 模索の時代 ― 地方豪族の古墳と戦国大名の城
巨大建築の登場前には、模索時期があります。
前方後円墳以前の日本では、山陽地方で活発に作られて、前方後円墳のモデルとなったとも言われている楯築墳丘墓。
山陰地方で発展した四隅突出型墳丘墓など、地域ごとに異なる大型墓が造られていました。


まだ全国共通の規格はなく、各地の豪族たちが独自に権威を表現していた時代です。
戦国時代の城も同じでした。
石垣・居館・城下町を有する城の原形と言われる観音寺城。
天守の原形と言われる岐阜城など、各地でさまざまな山城が築かれました。


しかし後世の城のような巨大天守はありません。各大名が、それぞれの地域で独自の城郭を発展させていた段階だったのです。
3. 標準化 ― 箸墓古墳と安土城
転機となったのは、巨大建築の「規格」が生まれた時です。
前回記事でも書いた通り、250年頃に築かれた箸墓古墳は、以後の王墓の標準規格となり、全国の首長たちが採用する共通様式となります。

© 国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省
城において同じ役割を果たすのが安土城です。
1576年に織田信長によって築城が始まった安土城は、石垣・巨大天守・城下町、を備えた画期的な存在でした。

信長は単に敵を防ぐ城を造ったのではなく、
天下人としての権威を見せるための巨大建築を造ったのです。
その後の大坂城、名古屋城、江戸城は、いずれも安土城の影響を受けています。
前方後円墳が箸墓古墳から始まったように、近世城郭もまた安土城から始まったと言えます。
4. 巨大化のピーク ― 大仙古墳と江戸城
規格が定着すると、次に始まるのは巨大化。
箸墓古墳で標準形式が決まった後、前方後円墳は次第に大型化し、5世紀には大仙古墳という空前の規模に到達しました。
墳丘長約486メートル。世界最大級墳墓です。

一方、城もまた急速に巨大化します。
安土城の後、豊臣秀吉は大坂城を築き、徳川家康は江戸城を発展させました。
天守閣の高さを比較すると、
安土城が46メートル
大阪城58メートル
江戸城は60メートル
横幅においては、江戸城は安土城の2倍近くに達します。
間違いなく日本史上最大の城郭だったと言えるでしょう。
大仙古墳が古墳時代の頂点なら、江戸城は城郭時代の頂点でした。

5. 統一権力による制限 ― 巨大建築の終焉
巨大建築は、大型化を続けるわけではなく、
頂点に達した後、新たな統一権力によって制限されることが少なくありません。
もともと前方後円墳を築造できた者は限定されていました。
そして、646年には「薄葬令」が出されて、墓の規模や葬儀の簡素化が定められ、巨大な「前方後円墳」の築造は、名実ともに完全に終わりを迎えることになります。
これは単なる流行の変化ではありません。
巨大な墓によって権威を誇示する時代が終わったのです。
城も同じでした。
徳川幕府は1615年に一国一城令を出します。
さらに城の修築や新築には幕府の許可が必要となりました。
大名は自由に巨大な城を築くことができなくなったのです。
これは軍事上の理由だけではありません。
巨大な城は権力そのものの象徴でした。
幕府は各地に新たな「安土城」や「大坂城」が出現することを望まなかったのです。
つまり、前方後円墳も天守閣も、統一権力が確立した時点で増殖を止められたのでした。
6. 転換 ― 権威は別の形へ
権威そのものが消えたわけではありません。
表現方法が変わったのです。
古墳時代の後、日本では巨大な寺院が権威の象徴となります。
国家の威信は巨大な墓ではなく、仏教寺院によって示されるようになりました。
城の場合も同じです。
江戸時代後期以降、権威を支えるのは城ではなく制度になります。
そして明治時代には、官庁、県庁、国会議事堂といった建築が国家権力を象徴するようになりました。
巨大な城を築かなくても、国家を支配できる時代になったのです。
7. 結論 ― 巨大建築の興亡
前方後円墳と天守閣。
両者は時代も用途も異なります。
しかし歴史の流れを見ると、その盛衰は驚くほど似ています。
模索 → 標準化 → 巨大化 →
統一権力による制限 → 新たな権威への転換
地方勢力が競い合う時代には、巨大建築は権威を示す有効な手段です。
しかし統一国家の成立で事情が変わります。
権威は巨大な建築物ではなく、制度そのものによって維持されるようになるからです。
前方後円墳も、天守閣も、国家形成の過程で生まれた「権力の見える化装置」でした。
そして国家が成熟したとき、その役割を終え、新たな時代へとバトンを渡していったのです。
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