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【有料記事感想】人の顔というもの

昨日、お友達のsakitaさんの有料記事を拝見した。

sakitaさんは機能不全家庭で育った方だ。
私も同様に機能不全家庭で育ち、記事に共感することも多い。

この記事は、そんな彼女が出会った、世の中の不条理というか、非倫理的な出来事を綴ったものである。

人にはいくつもの顔がある。
善の顔ばかりではないと私は思っている。
もしかしたら、私が出会っていないだけで、本当の善人はいるのかもしれない。

けれども、人はときに、自分の見たい顔だけを相手に重ねてしまう。
特に「先生」という存在には、知らず知らずのうちに、どこか理想や清廉さを求めてしまうものだ。

子どもの頃、私たちは大人を「正しい存在」だと思い込んでいる。
学校という場所は、正しさを教える場所であり、そこに立つ先生は、その象徴のように見えるからだ。

しかし、大人になって振り返ると、先生もまた一人の人間であるという、ごく当たり前の事実に行き着く。
迷いもあれば、弱さもあり、欲望もある。
誰もが完全ではない。

それでも、子どもの頃に受けた影響というのは、とても大きい。
特に心の土台が揺らいでいる時期には、大人の言葉や態度が深く刺さることがある。
ほんの一言で救われることもあれば、逆に、長く心に残る傷になることもある。

sakitaさんの記事を読みながら、私は「正しさ」というものについて改めて考えさせられた。
世の中には、社会的に成功している人や、肩書きを持つ人がたくさんいる。
けれども、それと倫理観や人間としての成熟は、必ずしも一致するわけではない。

肩書きや地位は、その人の人格を保証するものではない。
それは、私たちが思っている以上に、単純なことなのかもしれない。

だからこそ、この記事の中で語られていた「幻想が崩れる瞬間」というのは、とても象徴的に感じた。
人は誰かを理想化してしまう生き物だ。
そして、その理想が崩れたとき、大きなショックを受ける。

けれど、その崩壊は、ある意味では必要な通過点なのかもしれない。
誰かを絶対的な存在として見上げ続ける限り、自分自身の人生の足場は、どこか他人の上に置かれたままだからだ。

幻想が壊れたとき、人はようやく「自分の足で立つ」ということを学ぶのだと思う。

この記事の最後で、sakitaさんが「13歳の自分を抱きしめたい」と書いていた部分が、特に心に残った。
子どもの頃、誰にも理解されなかった痛み。
理由を聞かれることもなく、「正しさ」で裁かれてしまった経験。

その孤独を、大人になった自分がようやく理解し、受け止めている。

それは、とても静かで、けれど確かな回復の形なのだろう。

人は過去を変えることはできない。けれど、過去の自分にかける言葉は、今からでも変えることができる。

「大丈夫だよ」
「よく頑張っていたね」
「あなたは悪くなかった」

そうやって、かつての自分に寄り添うことは、壊れかけた心の土台を、少しずつ作り直していく作業なのかもしれない。

この記事は、一見すると、ある人物の衝撃的な告白を巡る話のように見える。
けれど、私にはそれ以上に、「人間の不完全さ」と「自分自身の再出発」について書かれた文章のように感じられた。

誰かの正しさに振り回されていた時代を越えて、
ようやく自分の人生のスタートラインに立つ。

それはきっと、とても静かな、けれど大きな一歩なのだと思う。

そして、その一歩を踏み出したsakitaさんの文章には、過去の痛みだけではなく、これからを生きていく人の強さが確かに宿っているように感じた。


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