「やわらかな火」はなぜ生まれたのか【創作ノート】
昨日、「やわらかな火」の最終章とあとがきを投稿しました。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
創作大賞への応募記事として、ようやくすべてが整いました。
ここでは、はじめて私の小説に触れてくださった方にも、
なぜこの物語が生まれたのか——その背景を綴ってみたいと思います。
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黒川が千尋に言ったこの一言が、この小説の核心です。
「君の身体が、君自身のものでありますように」
──この願いが、いまだに“願い”でしかないことに、私はときどき息が詰まります。
女性の身体は、昔から女性自身のものではありませんでした。
家の存続のため、
戦争や災害の中での戦利品として、
それは、時に“奪われるもの”として扱われてきました。
そして現代。
“平和”なはずの暮らしの中でさえ、
私たちは自分の身体を、完全に「自分のもの」と言い切れるでしょうか?
結婚したら、子どもは当然という空気。
「欲しくない」と口にすれば、どこかで“欠けている”と見なされる視線。
深く考えようとすると、それすら“面倒”だと避けられるような雰囲気。
──私は本当に、自分の身体を「自分のもの」として生きてきたのだろうか?
そう問うたとき、社会のどこかにある“うっすらとした管理”のような感覚に、
息を潜めたくなる自分がいました。
そしてふと思うのです。
もしかすると男性たちは、
女性が“自分の身体”や“自分の欲望”について考えることを、
どこかで、怖れているのかもしれない。
もし女性が、
誰のものでもない身体で、
子どもを望まず、
ただ自由に生きることを選びはじめたら——
彼らの信じてきた“秩序”が、音を立てて崩れるから。
ならば、私はそんな女性を、小説にしてみたかった。
子どもを持つことに迷い、
自らの欲望を見つめ、
自分の手で人生を選び取っていこうとする、ひとりの女性を。
そんな彼女は、不幸になるのだろうか。
それとも、本当の自由にたどり着くのだろうか。
その答えを知るために、私は物語を書いています。
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では、黒川はなぜ生まれたのか。
それは、千尋という女性の「不在の気配」を照らすためだったのかもしれません。
黒川は、寡黙で、どこか壊れている存在です。
それでも、彼は千尋を“まっすぐに見つめる目”を持っている。
彼の沈黙が、千尋の孤独を際立たせる。
彼の壊れ方が、千尋の欲望の輪郭を照らし出す。
千尋は、そんな黒川の傷に触れながら、
無意識のうちに自分自身の過去や葛藤を照らしていきます。
他者の不完全さに触れるとき、
人は、ようやく自分の傷にもやさしくなれる。
私は、そんな関係性を書きたかったのだと思います。
黒川は、ただの“恋愛の相手”ではなく、
千尋の“まなざし”に共鳴し、少しずつ温度を取り戻していく存在です。
彼は、「赦し」という言葉の形をした男だったのかもしれません。
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千尋の欲望は、身体を重ねることだけではありません。
そのずっと手前に、丁寧な対話と、体温のあるまなざしが必要でした。
官能は、その“交流”の延長線上にあった。
焦がすのではなく、
じんわりと沁みていくような熱。
それが、この小説のタイトルでもある「やわらかな火」です。
破壊ではなく、再生へ向かう火。
それは千尋の内面の進化だけでなく、
黒川自身の沈黙の奥にある傷をも、静かに照らしていきました。
彼女が“欲望を持つ存在”であることを、黒川は拒まなかった。
むしろ、それを“生”として受け止めようとした。
それは、日本社会が長く無視してきた、
「女性の生きた身体」との対話でもあったのです。
愛するということは、ただ触れることではなく、
触れる前に、相手の沈黙を見つめることなのかもしれない。
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私は、自分の身体を「社会的な責任」のように受け止めてきました。
子どもを持ったのも、誰かの期待に応えるような形で。
「なんとなく」「そういうものだろう」と流されるままに、
自分の意思が曖昧なまま、選択をしてきたように思います。
自分の欲望についても、
「相手が望むなら」と、いつも後回しにしていました。
人生そのものに後悔はありません。
でも、それが“女性の生きづらさ”の一部であったことは、今なら確信しています。
家族を持ったことも、結果的に良かった。
けれど——
もし、自分の意思で、
誰かと丁寧に向き合いながら人生を歩めていたら。
その時間は、もっと自由で、濃密だったのかもしれません。
そんな「もしも」を、小説というかたちで辿ってみました。
これは、後悔の物語ではなく。
再構築の物語です。
