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やわらかな火

#創作大賞2025 #恋愛小説部門 #女性の生き方、#大人の恋愛


あらすじ

“愛せない”理由を抱えた大学教授・黒川礼司と、
“感じない”ことに慣れてしまった大学職員・藤谷千尋。
ふたりが出会ったのは、大学の研究室だった。

それは、やさしさでも、恋でもなかった。
名前のない“理解”から始まった、静かな共鳴。

失恋の余波で黒川を訪ねた千尋。
そこで触れたのは、言葉にできない欲望と、沈黙の対話。
指先がわずかに触れただけで、崩れていく心の輪郭。
奥深くに滲んでいた熱が、過去の痛みをじわじわと溶かしていく。

ふたりの関係が深まるにつれ、欲望はただの「行為」ではなく、「対話」へと変わっていく。
誰にも言えなかった記憶。
奪われた感覚。
言葉にならない、やさしさの余白。

それらはやがて、ふたりを包む静かな灯りとなる。

身体の奥で交わされる、再生の物語。
女性の尊厳と快楽を織りなおす、大人の恋愛長編。



第1章 火種


男が変わるたびに、千尋はふらりと黒川の教授室を訪れた。
ドアはいつも開いていて、午後の光が床に細長く落ちている。

「今度は、こんな人と付き合いました」

そう言って、ほとんど報告のように話を始める。
だがその語りの端々には、感想を求めるような、答え合わせの気配が混じっていた。

今日の話題は、手錠だった。

「“持ってきていい?”って訊かれたんです。教授ならどうします?」

黒川は書類から目を離さずに言った。
「嫌なら断ればいいだろう。違うか?」

「……そうですよね。でも、ちょっと興味があって。
どんな心理で、そういうこと言うのかなって」

「君が好奇心旺盛なのは知ってる。
でもな、それだけじゃ満たされないし、
彼の望む“役割”に入りきれないなら、やめた方がいい」

黒川はようやく顔を上げ、
呆れたような、けれどどこか慈しむような目で千尋を見た。

千尋は、まるで新しい遊び道具を見つけた子どものような顔で言った。

「……どうして、手錠なんか持ち出すんでしょう。男の人って」

「女が怖いんだよ、君たちは。
放っておいたら、全部持っていかれそうになる。
だから“支配する”道具を持ってこようとする。
——ただ、それだけのことだ」

「……支配なんかしてないのに」

千尋はぽつりと呟いた。

でも黒川は、何も返さなかった。
代わりに手元のグラスの水が、
ひときわ静かに揺れていた。

「……別れようかな。面倒くさくなってきたし」

千尋が気軽に言い捨てたその言葉に、黒川はゆっくりと顔を上げた。
そのまなざしは、紙のように薄く、鋭かった。

「簡単に、人を切るんだな」

彼の声は淡々としていたが、その奥に何か熱を帯びたものが滲んでいた。

千尋は笑ってごまかそうとした。
「だって、教授が“嫌ならやめろ”って言ったから」

「君は、人の言うことを何でも聞くんだな。
……じゃあ、俺が『今すぐ家に来て、俺と関係を持て』って言ったら、来るのか?」

その瞬間、千尋の表情が揺れた。
目の奥が、ほんの一瞬だけ脆く光った。

「……来ていいの?」

その声には、期待と恐れが混じっていた。
黒川は一拍置いて、口角を上げた。

「手錠じゃ済まないものがあるかもしれないよ。どうする?」

「え……?」

動揺が浮かんだその顔を見て、
黒川は小さく、いたずらのように笑った。

「冗談だよ」

けれどその笑いの下に、
“本気になりかけている自分”を彼は確かに感じていた。

——本当に、この女は危ない。

そう思いながら、
黒川の心は、じわりと千尋に沈んでいった。




千尋が離婚して、もう三年になる。
一人になってからは、いくつかの短期アルバイトを転々とした。
だが、どれも割の合わない仕事ばかりで、ようやく「まだマシ」と思えるのが、今の大学職員の仕事だった。
友人の伝手で、なんとか潜り込むようにして採用された。

給料は低い。だが、残業はほとんどなく、人間関係も互いに干渉しすぎない。
それだけでも、千尋にとっては十分だった。
ただし、大学職員というのは、教授たちからはしばしば見下される存在でもあった。
ぞんざいな口調で雑務を押し付けられたり、書類を渡すだけの用件で、廊下に立たされたまま待たされることもあった。
まるで「待たされても構わない人間」として、黙認されているような気がした。

そんな中、黒川教授だけは違った。
言葉遣いこそぶっきらぼうだったが、言葉の端々に礼儀と配慮があった。
人として対等に扱ってくれている——そう感じられるだけで、千尋は少しずつ心を開いていった。

それから、彼の教授室に立ち寄ることが増えた。
とりとめのない会話を交わす時間は、不思議と心地よかった。
ある日、ふとした流れで千尋は尋ねた。

「先生は、ご結婚されてるんですか?」

「いや、してない。で、君は?」

「あ、離婚しました」

「へえ。じゃあ、恋愛やり放題だな」

「ま、言われてみれば……そうかもしれません」

「どんどん付き合ってみなよ。この際」

「この際……って。でもまあ、友人は何人か」

「うん、大いに結構」

そんな軽いやりとりを、ついこの前にも交わしたばかりだった。

けれど、付き合ってみても、いつもどこか乾いていた。
千尋は、それを自分でもうすうす感じていた。
相手の男性たちは「付き合うこと」に満足してしまい、その中身には関心がないようだった。
まるで合わないパズルのピースを、無理やり押し込んでいるような、そんな感覚だけが残った。



千尋は、家に着く前に決まってドラッグストアに寄る。
お菓子と炭酸水を買うのが、彼女の日課になっていた。

微炭酸の泡立ちと、ポテトチップスの塩味。
それが、満たされない心の奥を、騙し騙し泡立てていく。

——寂しい女は太る。

そんなタイトルの本を、どこかの本屋で見かけたことがあった。
翌朝のむくんだ顔を見ては、その言葉が胸の内でこだまする。

重たい瞼を押さえながら、
千尋は、昼に黒川の部屋で交わした会話を反芻していた。

「……家に来るかい?」

そのひとことに、心がふわりと浮き立ったのを、千尋は認めたくなかった。
けれどすぐに、黒川の「冗談だよ」に冷や水をかけられた。

「さっ、授業だから帰った帰った」

そう追い払われたあと、
無防備な自分の心が恥ずかしくてたまらなかった。

本当は——口説かれたかったのだ。
欲しかったのは、甘いお菓子なんかじゃない。
気の抜けた炭酸水でもない。

自分が何を渇望しているのか。
その正体を口に出す勇気がないだけで、
千尋にはちゃんと、わかっていた。






#創作大賞2025 #恋愛小説部門 #女性の生き方、#大人の恋愛



本編はこちらから


第2章 私の身体は誰のもの?


第3章 潔く、捨てる


第4章 黒川の家


第5章 及第点の女


第6章 海野先生


第7章 自分で選んだ場所


第8章 君の身体が、君自身のものでありますように


第9章 今日は、ここまで


第10章 今夜はここまで


第11章 赤いワインと国家未承認の密接行為


第12章 ラスト・コーション


第13章 火の生まれた場所


第14章 やわらかな嫉妬


第15章 幻想の女


第16章 鍵穴が開く夜


第17章 やわらかな火


あとがき



「やわらかな火」全収録マガジンはこちらで読めます⬇️



「やわらかな火」は、なぜ生まれたか【創作ノート】



🖋 作家プロフィール 青葉あおい


2025年4月、小説の執筆を開始。
同年5月よりAmazon Kindleにて自己出版をスタートし、わずか2ヶ月で長編・短編あわせて8冊を刊行。
テーマは恋愛、身体性、喪失と再生。
現在は日本語を中心に、英語・フランス語への翻訳版も並行制作中。
毎日noteに創作・エッセイ・レビューを投稿し、投稿日数は180日を突破。

「不完全な人間が、それでも愛し合おうとする物語」を主軸に、
感覚の深部を言語化することを探究中。

これまでのKindle作品



私はなぜ書くのか


ある日、伊藤若冲の作品をテレビで初めて見たとき、
私は、画面の前で立ち尽くしていた。

彼が描いた蓮の花は、
花びらが欠け、茎はねじれ、虫に食われていた。
誰もが思い描く“完璧な美”とは、ほど遠い。
けれどそこには、祈るような光が、たしかに宿っていた。

若冲は、中国画で学んだ理想の構図や技巧を超えて、
自然のままの、朽ちゆく命の姿を描いた。

ある寺の襖絵では、萎れた蓮の傍らに
そっと、小さな芽吹きが添えられていた。
それはまるで、終わりに寄り添いながら、
再生を——祝福しているようだった。

私はその静かなまなざしに、心を奪われた。
言葉を失い、立ち上がれないほどの衝撃だったのは、
そこに“赦し”があったからだ。

欠けていること。未熟であること。
愚かで、どうしようもないこと。
それらを否定せず、裁かず、
ただ、あるがままを見つめ、
そっと抱きしめるようなまなざし。

それは、生きるものすべてに向けられた、静かな慈愛だった。

そのとき私は、はっきりと気づいた。
——私が描きたいのは、このまなざしだ、と。

私の小説に登場するのは、
不安や葛藤を抱え、
欲望と倫理のあいだで揺れる女性たち。

その“揺れ”こそが、物語の熱を生む。
男たちの欲望に火を灯し、
支配欲を、そしてそれを超えた愛しさを呼び起こす。

黒川という男の視点から見るとき、
千尋の揺らぎは、かけがえのない“存在の証”になる。
理屈でも、結論でもなく、
ただ、そこにある“今”として。

どの蓮も、花びらが欠けていた。
茎は歪み、色褪せていた。
けれど、だからこそ——美しかった。

だから、あなたも。
不完全なままで、いい。
ただ、そこにいるだけで、美しい。

You look beautiful when you’re unsure.


欠けた花びらを抱えながら、
それでも咲こうとした人たちの記録を私はこれからも書き続けていきたい。



今まで書いた小説をまとめました。
英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語、日本語と5カ国で書いています。

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