見出し画像

多重安全防壁の術!!

タイトルはナ◯ト風に読んでください。ってばよ。
ロック・リーと我愛羅が好きです。


ご遺族の会見では、noteにご記載のある通り、4つの安全の防壁が破られていたことが指摘されていた。

止められる機会は、少なくとも4層にわたってありました。 
・下見をして止める。
・止めないのであれば、まず、安全の打ち合わせをする。
・次に、十分な計画を立てる。
・当日、教員が一緒に乗り、結果を正確に報告する。

ご遺族noteより引用させていただきました


この考え方はまさにチーズの穴理論、スイスチーズモデルだ。これらの安全防壁のどれかが、過去のどこかできちんと機能していたならば、知華さんは死なずにすんでいた。そして未来でこれが守られることは、同様の事故の再発防止に当然繋がる。事故から未来に目を向けた、知華さんの命を無駄にしないための具体的提案でもある。

よろしければ拙稿ご参照ください↓


ご遺族と代理人弁護士さんは、会見の場で、政治的影響に深くご配慮されていたと思う。ここはただの国民である私の私的な記事だから、私の個人的意見である限り、それに配慮する必要などない。

そうお断りしてから、もう一つ、最も外側で最初に機能すべき安全防壁があったと思う。

「暴力的抗議活動を行う団体と生徒を接触させない」

という防壁だ。

他のほぼ全ての高校は、まず最初にこの防壁に守られているから、今回のような政治に巻き込まれるような事故を起こすことがほとんどないんじゃなかろうか。

ここでさらに大切なお断りだ。

私は「抗議活動全体」を非難しない。
私は「暴力的抗議活動」を非難する。

「暴力的」とは「自分や他者の命を危険に晒す」と読み替えていい。

常に危険が潜む海上で、チキンレースのようなことをすること。

ハンガーストライキのようなこと。

ダンプの前に飛び出すようなこと。

作業している現場で座り込みなどを行うこと。

これらは全て自分や他者の命を危険に晒す暴力的活動だ。非暴力ではない。

海上チキンレースは、今回の事故のように、レースを行う船のどちらも転覆し乗組員が死亡する重大な危険性がある。

ハンガーストライキは、自分の健康を害するリスクがある。自分への暴力だ。

ダンプの前に飛び出すことなどは言わずもがなだ。誇り高い警備員さんはそのせいで殉職させられた。自分も他者も危険に晒す、最も愚かな行為だ。

座り込みも、建設現場などで行われたら、作業側からみればとても危険な妨害行為だ。


とくに後ろの3つは、警察官の前で自分の頭に拳銃を突きつけて自己の要求を通そうとするような、暴力的活動だ。決して非暴力などではない。

これらの、自分や他人の命を危険に晒す暴力的抗議活動を、私は非難する。これらをする人には、
「あなた自身が危ないからやめてください」と言いたい。 
警備員さんも、きっと、同じ思いだったはずだ。

(弾圧された僧侶の焼身抗議なども同じことだ。どうしてものっぴきならない理由があるのだと思うが…。どうか自分の命を大切にしてほしい、と思う。)



同じようなことは、日常にもある。

「あんたが〇〇大の〇〇学部に行かないなら死んでやる」のようなことを、私は母に何度も言われたことがある。しかも、ヒステリックに泣き叫びながらだ。

身の毛もよだつような嫌悪感を抱いていた。
私にとっては、ほぼトラウマだ。

この嫌悪感を言葉で説明するなら、

自分の命で相手を脅して、服従させようとしているから

自分の命に対する責任を放棄して、相手にその責任を負わせようとしているから

大人なのに、おしめを変えてほしい赤ん坊が泣き叫ぶかのように、自分の問題解決を相手に丸投げにしているから

嫌な気持ちを感じる、のだと思う。 

赤ちゃんは、赤ちゃんなのだからそれでいい。だが大人は赤ちゃんじゃない。子供だって自分の人生のためには、その発達具合に適切に応じた程度に、自分だけの問題解決をしていかないといけない。必要時には大人の力を借りて。

(私はこのようなことはすでに乗り越えて、母とも和解しておりますのでご心配には及びません)



「暴力的抗議活動」を行う人には、

「自分の命で相手を脅して、服従させようとすることはやめてください」と言いたい。



基地移設工事に抗議する声はあって当たり前だと思う。
心からそう思っている沖縄県民の方だって、いらっしゃるのだと思う。

問題意識をもっているなら、対話をしよう。
その際、お互いが民主主義国家に住むただの国民同士なら、相手を論破しようとすることにはあまり意味はないと思う。

何故なら、等しく自分の一つの意見をもつ権利のある、国民同士だからだ。どんな意見を持っていても、それはその人の自由だからだ。それはその意見が真に正しいか正しくないかには関わらない。その意見から、犯罪をおかすのでないなら。


まず対話して、意見を聞きあおう。

「意見を聞く」とは、
「相手の意見を全て受け入れて迎合して同じ意見をもつ」ではない。それは「服従」だ。

「相手の意見から、自分の意見を改めて考えてみる。そして相手の意見を理解するけど、譲れないところは譲らない。お互いに。それをできる限り尊重しあう。良いと感じられたところはお互いに取り入れ合う。」

ということだと思う。

そして、一般的な国民同士で、政治的問題に関して考えるならば、その決着の方法は常に投票だ。日本なら。
お互いに、清く一票を投じ合おう。

ほぼあらゆるスポーツに審判が必要なことと同じことだ。カーリングのような紳士のボードゲーム的スポーツでない限り。プロ選手をして「戦争だ」と言わしめる、国の誇りと威信をかけた真剣勝負のラグビーのテストマッチにレフリーがいなかったなら、多分すぐに殴り合いになる。フリースタイルバトルも同じく。

投票はレフリーと同じ、裁定者だ。

ただし、多数決には欠陥もある。
だけど、現時点の人類が持っている、不完全だけど大多数がいちばん最善だろうと考えられる方針決定のための方法だ。

もし、自分が少数派になったとき、「数の論理」とか「多数派の横暴」「多数決原理主義」とか言いたくなったら、多数決以外の良い方法を探して提案しよう。あるいは、きちんとした手続きを踏まれた多数決だったのか、考えて問題があるなら根拠だててみんなに伝えよう。みんなのために。

反対に、多数派になったなら、少数派の意見を完全無視してしまうのはやめよう。むしろ決まった方針がより良くなるために、少数派に少しでも納得してもらえるように、少数派の意見の良いところを取り入れられないか、謙虚に考えてみよう。多数決の結果を否定してしまうほどまでに、方針の大筋を変える必要はないが。それは本末転倒だから。

日本は間接民主制(議院内閣制)だから、投票と自分の意見の反映の実感について、多分またちょっと、ややこしいのだと思う。



主題から遠くなった。戻します。

「暴力的抗議活動を行う団体と生徒を接触させない」
という最初の安全防壁が、同志社国際高校には働いていなかった。

そこには、政治的志向の右左は関係ない。

「暴力的賛成活動を行う団体と生徒を接触させない」でも、全く同じことが言えるからだ。



人は鏡だ。

人の振り見て我が振り直せ、だ。

もちろん、私自身も。










いいなと思ったら応援しよう!