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若い先生の皆さんへ第2部<218>T(64)_【授業の本質】なぜ暗記教育は「死」を学ぶのか?東洋思想と対話から紐解く“生きた学び”の作り方

 「詰め込み教育」で学んだ知識、あなたの人生で本当に役に立っていますか? こんにちは、トビラAIです。今回は教師のスキルセット「T:Teaching」の第64回目をお届けします。前回はADDIEモデルの「I:Implementation(実施)」をご紹介しました。未読の方は、ぜひ以下のリンクからご覧ください。

それでは、よろしくお願いします。

この記事を読むとできるようになること

  • 「定義の暗記」を脱却し、生徒の腹に落ちる「情景的価値」を用いた対話型授業を実践できる。

  • 受動的な「傍観者」の生徒を減らし、「本を閉じて考える(閉巻自考)」などの能動的な思考力を鍛える授業を設計できる。

  • 知識の詰め込みを超えて、生徒自身が理不尽な社会を生き抜くための「確固たる自己(主体性)」を育む指導ができる。

  • 読了時間の目安は7分です。

 ADDIEモデルの「I:Implementation(実施)」とは要は授業そのものです。しかしこの「物を教える」ということは、変な言い方ですがフグを食べたら死ぬ、と知った原始時代から行われていたはずです。ここからしばらくは様々な角度から「授業」を紐解いていきます。
 本記事では、東洋思想の古典や歴史的エピソードを紐解きながら、「本当の学びを生み出す授業とは何か」を多角的に分析・再定義していきます。

【授業の本質】暗記教育は「死」を学ぶ?東洋思想が教える真の学びとは

 教育現場に立ち、日々黒板に向かい、あるいは教壇から学生たちの視線を受け止める中で、私たちはふと立ち止まり、根本的な問いに突き当たることがあります。「授業とは、一体何のためにあるのだろうか」と。

 現代の学校教育や大学教育は、制度化された時間割の中で、教科書に書かれた知識を効率よく頭に詰め込み、テストで高い点数を取ることを目指す傾向にあります。しかし、このような教育は、産業革命以降に各業界が求める「専門職人(労働者)」を大量に養成するためのシステムに過ぎません。そこでの「学び」は、あらかじめ用意された「標準回答」を正しく、素早く再現する訓練になりがちです。

 しかし、もし学んでいることが自分の人生においてどのような意義を持ち、どのような助けになるのかを深く理解せず、ただ受動的に記憶しているだけだとしたら、それは真に「学んでいる」と言えるのでしょうか。台灣大学の歴史学博士である呂世浩氏は、目的を失った、自己の成長に繋がらないこのような受動的な学習を「死を学ぶ」ことであると警告し、これに対して、本来の学びとは「生(生きること)」を学ぶためのものであると喝破しました。

 私たちの先祖が、学ぶ主体を「学生」と名付けたのは、まさに「生」を学ぶためであったはずです。授業とは、単に「知識デパートの販売員」のようにパッケージ化された情報を受け渡す場ではありません。それは、学習者の内面に入り込み、彼らの中に眠る「心灯(こころのともしび)を点す」ための、生命を高める偉大な事業なのです。

【孔子の指導法】「言葉の定義」ではなく「情景と対話」で腹に落ちる授業を作る

 では、授業において「生を学ぶ」とは、具体的にどのように行われるべきでしょうか。

 現代の多くの授業では、新しい概念を教える際、「〇〇とはこういうことだ」と抽象的・論理的な定義を提示し、それを暗記させようとします。これは、西洋の伝統に根ざした「ロゴス中心主義」や、アリストテレスに代表されるような厳格な論理的・三段論法的な思考に近いアプローチです。

なぜ『論語』には最重要概念の「定義」が存在しないのか?

 しかし、東洋の精神的伝統において、授業は全く異なるアプローチをとってきました。その極致が、『論語』に描かれた孔子と弟子たちの問答です。『論語』というテキストの本質は、あらかじめ完成された理論の独白(モノローグ)ではなく、師と弟子、あるいは弟子とそのまた弟子たちが主体となって、互いに商量し、涵養し合った「対話(対話録)」にあります。

 驚くべきことに、3万字を超える『論語』の全編において、「仁」や「孝」といった儒教の最重要概念について、抽象的かつ固定的な「定義」は一度も下されていません。孔子は、弟子たちの異なる資質や、彼らが直面している具体的な文脈(情景)に応じて、全く異なる具体的な回答を提示しました。

正解のコピーは不要!生徒の身体感覚を呼び覚ます「情景的価値」の教え方

 例えば、孟懿子(もういし)が「孝とは何か」と問うた際、孔子は高深な哲理を並べることはせず、ただ「違うこと(背くこと)がないこと」と答えました。そして、その具体的な実践方法として、親の生前、死後、そして葬儀や祭祀に至るまで、一貫して「礼」に従って行動すること、という極めて身近な情景に即して教えました。孔子にとって、孝や仁とは、頭の中で理解する抽象概念ではなく、特定の状況下において身体を伴って体現される「情景的な価値」だったのです。腹に落ちる、という表現が合うかもしれません。

 授業とは、教師が持つ「正解」を生徒にコピーすることではありません。具体的なエピソードや体験を通じて、生徒がその「情景」に深く没入し、身をもって真理を実感できるように導くことこそが、授業の本来の姿なのです。

「知識の奴隷」を作るな!受動的な傍観者を生む2つの失敗パターン

 授業が「標準回答の暗記」に終始するとき、学習者は知識に対して完全に受動的な「傍観者」になってしまいます。この傍観者的な態度の危うさを、二つの具体例から見ていきましょう。

1. 『木蘭辞』の「唧唧」に見る暗記の罠

 中国の有名な古詩に、男装の麗人である木蘭の歌『木蘭辞(ムーランの詩)』があります。その冒頭には、次のように記されています。

「唧唧(しきしき)復た唧唧、木蘭 戸(と)に当たって織る」

 現代の国語の授業において、この「唧唧」は何の音かと問われれば、多くの教科書や指導書は「織機の音(機織りの音)」と解説し、生徒たちもそれを標準回答として疑わずに暗記します。

 しかし、すぐ次の行には、「機の杼(ひ)の声を聞かず、ただ女の嘆息(たんそく)のみを聞く」と、はっきりと書かれているのです。織機の音など聞こえず、ただ木蘭のため息だけが聞こえる。つまり、「唧唧」とは織機の音ではなく、ため息の擬音に他なりません。白居易の『琵琶行』でも、「我、琵琶を聞いて既に嘆息し、又この語を聞いて重ねて唧唧たり」と使われており、これがため息であることを証明しています。

 それにもかかわらず、台湾では優秀な生徒でさえも、すぐ下の一行にある明白な事実に目を瞑り、「織機の音」という誤った解釈を信じ込んでしまうのだそうです。それは、詰め込み式の教育に慣らされる中で、自ら文脈を疑い、思考する能力を放棄し、「提示された標準回答を無批判に受け入れる知識の奴隷」になってしまっているからです。

2. 王陽明「守仁格竹」の挫折

 明代の大儒・王陽明が、若き日に朱子学の「格物致知(事物の道理を極めることで、内なる知識を完成させる)」を愚直に実践しようとした「守仁格竹(竹を格する)」の故事も、傍観者的な学びの限界を象徴しています。

 王陽明は、朱子の教えに従って、家の門前にある竹に向かい合い、その道理を窮(きわ)めようと三日三晩見つめ続けました。しかし、道理を得るどころか、友人が病に倒れ、王陽明自身もさらに数日後に病に倒れてしまいました。

 なぜ彼は竹を「窮める」ことに失敗したのでしょうか。その第一の原因は、自然科学的な観察や検証を行うことなく、ただ竹をじっと見つめるだけであったこと。そして第二の原因は、彼が竹に対して自らの主観的能動性を働かせることなく、ただの「傍観者」の立場で外界の事物を眺めていたからです。

 王陽明は、後に過酷な貴州での左遷生活を経て、「理は外界の事物にあるのではなく、人間の心の奥底(良知)にこそ備わっている(心即理)」という大悟に達しました。外界の知識が受動的な主体に押し付けられるのではなく、私たちの主観的な「意(意識や意向)」が起動して初めて、外界の事物は照らし出され、価値と意味を持って立ち現れるのです。

 優れた授業とは、生徒を傍観者の席に座らせておくものではありません。生徒自身が「意」を強く働かせ、当事者として主観的能動性を発揮し、事実と価値を貫通させて「知識を智慧へと転化する」プロセスを促す時間でなければならないのです。

思考力を爆発させる「問いかけの極意」と「本を閉じて考える」磨練術

授業における「主体的な関与」を引き出すために、教師はどのように発問し、学習者を導くべきでしょうか。

1. 「知と不知の中間」から生み出される問い

「良い問いがなければ、良い答えは決して生まれない」と言われるように、問いかけこそが智慧の始まりです。しかし、授業における問いとは、どのようなものであるべきでしょうか。

孔子は、自分より格下の者に教えを請うことを恥じない「不恥下問(ふちかもん)」の姿勢を重んじました。この「問い」について深く省みるとき、単なる「知っていて問う(明知故問)」のであれば、それは単なる白々しい虚偽であり、何の美徳でもありません。一方で「何も知らないまま問う」のであれば、問いの質自体が保証されず、何を聞くべきかさえ曖昧になってしまいます。

 孔子が体現した真の「問い」とは、「知っている」と「知らない」の二元対立を越えた、「知っているようで、完全には知り尽くしていない」という「知と不知の中間的な状態」から発せられるものでした。

 『論語』に、孔子が太廟(たいびょう)に入った際、祭器の置き方や儀礼の一つひとつを細かく質問して回り、周囲から「叔梁纥の子が礼を知る者か」と皮肉られたエピソードがあります(「叔梁纥」とは孔子の父です。「叔梁纥の子つまり孔子が、『礼儀作法に詳しい人だ』なんて言ったんだ?(いや、全然礼を知らないじゃないか)」という皮肉なわけです。
 
 孔子はこれに対し、「それ(問うこと)こそが礼なのだ」と答えました。孔子は太廟の儀礼を全く知らなかったわけではありません。しかし、既成の固定化された知識に安住することなく、特定の情景の中で「本当にこれで正しいか」と、常に自らの知を境界線上において問い直し続けたのです。

 授業における発問とは、単にテストの正誤を確かめるものではなく、生徒の「知と不知の間」を刺激し、探求への主客合一的な衝動を生み出すものでなければなりません。
 いくつか例を挙げましょう。

  • 「手にのせても重さを感じない砂糖は、重さが0gなのかな?……本当にそうかな? もしアリさんがその砂糖を運んでも、重くないのかな?」

  • 『走れメロス』は最後にメロスが約束に間に合って感動的に終わるけれど、もしもメロスが夕日までに間に合わなかったとしたら、その後の城や村ではどんなことが起きただろうか?

  • 被災地にある倒壊した建物を『震災遺構』として保存することについて、津波の怖さを伝えるために『残すべきだ』という人と、つらい記憶を思い出すから『解体すべきだ』という人がいます。あなたならどちらの立場を選びますか?

答えはないですよね。それを探求させよ、というわけです。

2. 「本を閉じて自ら考える」思辨の訓練

 宋代の著名な歴史学者・呂祖謙は、多大な時間を読書に費やしながら、現実の課題に直面すると凡庸な人々(里巷の人・郷民)と何ら変わらなくなってしまう知識人たちを批判しました。その原因について、彼は「ただ読書を有用と作(な)さざるが故なり」、すなわち最初から「自分の人生に活かすため」に本を読んでいないからだと指摘しました。

 この無益な読書を脱し、歴史の智慧を血肉にするために、呂祖謙が提唱した方法こそが「本を閉じて自ら考える(閉巻自考)」という磨練です。

 歴史の重要な転換点や、先賢たちが運命の重大な決断を迫られた局面において、私たちは先を急いで結果(標準回答)を読んではいけません。一度、本を閉じるのです。そして、「もし自分が彼の立場だったら、どうするか」を、あらゆる可能性を尽くして徹底的に考え抜くのです。ひとつ、例を出してみましょうか?『史記』に出てくる有名な話なので、ネタを知っている人はご容赦。

今回のQUIZ

申包胥の生涯と『史記』における活躍
 伍子胥(ゴシショ)が、楚(国名)の無道の君主平王に父と兄を殺され呉へ亡命する際、「おれは必ず楚を滅ぼしてやる」と言い放ちました。
 それに対し親友の申包胥(シンホウジョ)は、「ならば私は必ず楚を存続させてみせる」と返答し、互いの信念を誓い合いました。
 前506年、伍子胥は呉の軍師として楚の都・郢(えい)を陥落させました。楚の昭王(平王の子)は逃亡し、国は滅亡の危機に陥ります。
 山中に逃れていた申包胥は、この事態を受けて西の強国「秦」に救援を求めました。秦ははじめ救援を拒みます。このとき申包胥はどうしたでしょうか?

 いかがでしょうか?もしあなたが申包胥の立場だったら、どうされますか?すぐ下に答えを書きますから、考えてみてください。

QUIZの解答

 申包胥は秦の宮廷の庭に立ち、昼夜を問わず7日7夜にわたって声を枯らして泣き続けました。この忠義に心を打たれた秦の哀公は、「楚は無道だが、これほどの忠臣がいる国を見捨ててはならない」として軍を派遣し、楚は滅亡の危機を脱しました。

 7日7夜に渡って声を枯らして泣くとは凄まじいことですが、『史記』にそのように記録されています。

 このように、再び本を開き、実際の歴史上の決断と照らし合わせることで、初めて自分の判断力の至らなさが浮き彫りになり(真面目な話です)、古人の智慧が生き生きとした処世の武器として立ち現れます。

諸葛亮と並び称される軍師張良の飛躍の逸話

 歴史上の英雄・張良は漢の高祖劉邦を助け漢の建国に尽力した軍師です。彼が若いころ、橋の上で出会った謎の老人(黄石公)から、何度も泥まみれの靴を拾わされ、約束の期日に遅れて激しく叱責されるという過酷な試練を受けました。しかし張良は、この理不尽な情景を通じて、兵法における最も核心的な二文字である「先(機先を制すること)」と「後(受動に甘んじることの恐ろしさ)」、そしてその前提となる「忍(耐えること)」の本質を、身体を伴う対話の中で掴み取ったのです。

 そして張良は、授かった『太公兵法』をただ暗記する(誦する)だけでなく、自らの厳しい境遇と照らし合わせて絶えず「習(磨練)」しました。「」とは、『説文解字』において「鳥が空を飛べるようになるまで、何度も失敗し、地面に落ち、血を流しながら、しばしば羽ばたきを繰り返す姿」として定義されています。

 授業とは、机上の空論を語る場ではなく、歴史や先人の決断を「砥石(といし)」とし、生徒自身の「智慧の刀」を、何度も転びながら(習)、血が通ったものとして研ぎ澄ますための、真に実用的な空間であるべきなのです。

授業の最終到達点——荘子の「心斎(心の断食)」が育むブレない自己

 授業におけるこれらのプロセス――情景の没入、傍観者からの脱却、中間的な発問、そして本を閉じての自考――の終着点は、どこにあるのでしょうか。

 私たちは誰もが、美しく公平な世界、平和で永続的な社会を築きたいと願います。儒家はそれを「修身・斉家・治国・平天下」という同心円状の拡大として捉えました。しかし、歴史を顧みれば、民を救わんとして暴君の前で命を落とした賢臣たちの悲劇は、枚挙に暇がありません。なぜなら、外部の「制度」や「他者」は、私たちの力で容易に思い通りにコントロールできるものではないからです。

 この理不尽な世界(人間世)を生き抜くために、荘子は、外的条件に執着して右往左往するのを止め、まずは自分自身の内面を盤石に樹立すること(先存諸己)を求めました。そのための究極の修行法が、「心斎(しんさい:心の断食)」です。

 顔回は、自らの貧しい暮らしの中で数ヶ月にわたり酒や肉を断ってきたことをもって「斎(ものいみ)」であると考え、孔子に問いました。しかし孔子は、それは「祭祀の斎(外面的な節制)」に過ぎず、真の「心斎」ではないと退けました。孔子が説いた「心斎」とは、次のような境地です。

 「志を一にせよ。耳で聞くのではなく心で聞け。心で聞くのではなく気で聞け。耳はただ言葉を聴くのみ、心はただ対象を識別するのみだが、気は虚(うつろ)にして万物に応じるものである。道はただ虚なる状態にのみ集まる。この心を空にすることこそが、心斎である」

 心斎とは、外の世界(学歴、財産、他人の評価、社会的なノイズ)に向けられていた五感の注意力を、すべて自らの内なる心身へと回収し、静定した状態に保つことです。この自意識や偏見(成心)が消えた「虚」の境地において初めて、私たちは「他者にコントロールされない、主体的で自由な自己」を確立することができます。

 荘子はこれを「無翼(むよく)にして飛ぶ」、すなわち、他人の賞賛や外的な条件(翼)という支えがなくても、自律的な幸福を抱いて自由に時空を羽ばたく境地であると表現しました。さらに、知識を積み重ねるのではなく、空っぽの心で本質を悟ることを「無知にして知る」と説きました。

 そして授業の真のゴールとは、生徒たちにあらかじめ用意された「標準回答」という他人の言葉を吹き込み、知識の奴隷にすることではありません。そうではなく、自らの心身を深く見つめ(自知・自反)、思考を研ぎ澄まし(思辨)、どのような荒野や理不尽な環境(樊)にあっても揺らぐことのない「自己の主宰(君子・リーダー)」を樹立すること、これこそが、授業の究極の使命に他ならないのです。

「門なく毒なく、一宅にして不得已(やむをえず)に寓(ぐう)すれば、則ち幾(ちか)し」とあるように、感覚が外へ向かう心の門を閉ざし、内側の邸宅(一宅)に注意力を回収し、やむを得ない外的必要性(不得已)がある時だけ応じる。この絶え間ない自己の覚醒と修養こそが、混沌とした世界を生き抜くための確かな力となります。

おわりに:教育とは、共に「生命の高峰」を目指す情熱の旅である

 「授業」とは、単なる45分や90分の知識伝達の枠組みではありません。それは、師と弟子が「生(生きること)」という人類最大のテーマを携え、過去の聖賢たちの智慧を砥石としながら、互いの生命を高め合っていく能動的な旅路なのです。

 教壇に立つ若い先生方、そして学びの途上にある学生の皆さん。授業の中で、ときには「本を閉じて自ら考える(閉巻自考)」という静かな対話の時間を持ってみてください。提示された正解を疑い、自分の心に「良い問い」を投げかけ、心身を静定に保って物事の本質を洞察するのです。

 私たちは誰もが、この激変の時代(贅流・鉅変)を生きる旅人です。しかし、授業を通じて自らの内なる「良知」を磨き、他者を深く思いやる「仁」を体得し、どんな逆境にあっても「此の心光明」と言える盤石な自己を樹立することができたなら、私たちの行く手には必ず、美しい調和の未来が開かれます。

 授業という素晴らしい時空の中で、ともに自らを高め、心灯を点し、生命の高峰をよじ登っていきましょう。

ありがとうございました。
本記事が、皆さまの日々の授業や学びの深まりに少しでも灯をともすことができたなら幸いです。

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感謝一入
Warm Regards,
トビラAI拝

参考文献

  • 国立台灣大学「東亜儒家(1)(2)」Coursera

  • 国立台灣大学「史記」Coursera

  • 西安交通大学「中国哲学经典著作导读」Coursera

  • 洪自誠著・今井宇三郎訳注(2019)『菜根譚』岩波文庫

トビラAIプロフィール

※ 本稿では画像生成と文章の推敲に生成AIを使用しています。

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