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シロクマ文芸部|六月の食卓

六月はまだ早いかな、そう呟きながら男がキッチンに立った。
カーテンの隙間から差し込む光の筋はすでに熱を帯びていて、また夏が来たと彼女は想った。

彼はそうめんをひと束ずつ手に取り、量は測らずに掌の感覚でふたり分を決める。鍋に湯をかけながらまな板に向かい、青じそ、みょうが、しょうが、細ねぎ、レモンの皮を準備する。青い香りが空気に立ちのぼる。 

彼女は食卓からそれを眺めていた。じんわりと額に汗が流れても拭わなかった。今は身体の感覚に抗わないと決めた。

白く繊細な糸が瞬く間に湯の中で踊りはじめる。彼は頃合いを見計らってザルにあけ、大量の冷水で締める。氷水を満たしたガラスの器に冷えたそうめんを泳がせる。ガラスが光を反射の上に小さな波紋のような影を落とす。

二人で黙って食べた。彼女は箸をとり、そうめんをすくって薬味入りの冷たいつゆにくぐらせた。夏の香りが鼻腔にひろがり、その一口がまるで水のように喉の奥をすべっていく。

身体のなかに張りつめていた熱がほどけていくのがわかる。外界との境界が曖昧になり、身体の輪郭がひとつ、ほどける。

その味は彼女の記憶に触れた。はっきりと掴めないのに、確かにそこにあり、どこで終わるのか不確かで過去と未来が曖昧になる。時間軸がするりとはがされる。
 
双子の妹が姿を消したときも今日と同じくらい暑く、昼食に一緒にそうめんを食べた。その夜、妹は行方がわからなくなった。
生きているのか否か、捜索も動いた。
やがて家族も疲弊し、そのことを話さなくなった。日常が再び機能し始めても彼女の中で妹の存在だけが欠けたままだった。

彼にはその話をしていなかった。同情されたり見当ちがいな言葉が返ってきたら自分が壊れてしまいそうな気がした。

男は、彼女のつゆの器に薬味がなくなっているのを見て、紫蘇とみょうがをそっと分けた。そのしぐさに彼女は、胸の奥で何かが動くのを感じた。
いつだって一線を踏み込まないよう心配りながら、影のようにひとときも離れず見守ってくれる、そういう人だった。

彼はときどきキッチンの隅でひとり遠くを見つめていることがある。
きっと誰か失った人がいるのだろう。彼女は想像した。それは海に潜ったときの静寂に似ていた。

人生には、理解しようのない悲しみがある。
論理も原因も超えて、ただ “起こってしまう” できごと。
どうしようもなく残酷なのに、一瞬ですり抜けてしまう現実。

宇宙の膨張に意味がないように、あるいは星の死が無言であるように、生まれては消え、いまここに蠢いている時間だけが真実なのだと彼女は気づく。

箸にとったひと束のそうめんのように、ひとときだけ形を取り、消えていく。存在とはその刹那すくい取れる水のようなものなのかもしれない。

それでも、と彼女は思った。

わたしは、“今” が好きだ。

この退屈な、六月の生あたたかい温度や、やさしい視線や、ひたいに張りついたまま乾かない汗や、まっすぐな長い髪をひとすじたらしながらそうめんを食べる妹の面影が、その彼女の不在が、全部ゆるやかに重なったかけがえのない “今” が好きだ。

「ありがとう」と彼女は言った。
「なんで?」
「ここにいてくれて」

薬味がなくなってしまっても、ふたりは黙って食べつづけた。
彼女は頬に涙が伝うのをそのままにした。




シロクマ文芸部に 参加させていただきました。

過去作はこちらにも


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