泣ける中国映画『おばあちゃんへのラブレター』は、プロパガンダなのか?
先日、横浜の相鉄ムービルにて、中国映画『おばあちゃんへのラブレター』(原題:给阿嬷的情书)を観てきた。
本作は「泣ける映画」として、すでに中国本土のみならず、海外、特にシンガポールやマレーシアなどいわゆる「華僑・華人」が多い国でも、大きな話題を呼んでいる。実際、私がいた劇場でも映画の後半、観客のすすり泣く声がはっきりと聞こえ、私自身も服に跡が付くくらい涙を流した。
その一方で、本作は中国アイデンティティを海外に輸出するプロパガンダではないかという批判を受けている(この種のプロパガンダを中国語では、「統戦(統一戦線)」と表現することが多い。もともとは中国共産党における国内外の個人や組織に関する情報を収集し、影響力を行使しようとするインテリジェンス部門を指し、転じてそのための、または疑わしきプロパガンダを指すこともある。従来は台湾に向けられたものが多かったが、近年は華僑・華人の多い地域に対しても行われているのではないかと疑われている)。本作は、低予算映画であり、出演者の多くも演技経験がほとんどない(もしくは少ない)俳優ばかりである。そのため、本作の製作は決して国家による政治的な意図が入ったものとは言い難い。にもかかわらず、多くの人の涙腺を緩ませた珠玉の感動作が、プロパガンダと批判されているのはなぜだろうか。

「万里の海」をこえた愛情と別離
本作は、現代中国に生きるとある平凡な青年が借金の返済に苦しむところから始まる。追い詰められた彼は、タイに渡ったきり、帰ってこない祖父のことをふと思い出す。祖父からはすでに何十年も音沙汰がないものの、タイで彼の名前を冠した学校を数多く設立するなど、どうやら富豪になっている。
祖母の誕生日祝いで故郷の潮汕(潮州)に帰ってくるときに、タイにいる祖父に連絡を取れないか父に尋ねる。父は猛反対する。なぜなら、タイに渡ったあと、結局現地で別の妻をみつけ、帰ってこなくなった祖父を、祖母は恨んでいるからだ。手紙など祖父に繋がる情報はすべて、祖母が持っている。しかし、そんな祖母に祖父の話など聞けるわけがない。そこで、青年はこっそり祖母の家にある倉庫をあさる。すると、祖父からかつて送られた手紙や送金の証明書(これを「僑批」と呼ぶ)が数多く見つかった。これらを手掛かりに、青年はタイに渡る。
しかし、タイでどれだけ探しても祖父はみつからない。特に、タイは中華系移民が多く、同郷会の強固なネットワークもある。そのため、現地で学校を数多く設立した名士に関する確かな情報に巡り合えないのは、おかしな話だ。やがて、苦労の末に、青年は、祖父の「第二の妻」である女性の息子に出会う。しかし、そこで明かされた話は、想像を超える話であった。なぜ祖父はタイで音信不通になったのか。

そもそも、祖父がタイから手紙をよこさなくなったのも不可解だ。貧しい家の出自ながら、名家の娘である祖母と恋に落ち、駆け落ちをしてまで、祖父は彼女を愛していた。国共内戦による徴兵を避けるために、タイに渡ったあとも、彼は30年以上にわたって、手紙と送金を続けていた。その間に子どもたちは育ち、独り立ちしていった。彼のタイでの暮らしが安定し、やっと再会のめどが立ったかと思った矢先に、彼から新しい家族との写真が送られる。祖母は傷つき、それ以降両者の連絡は完全に途絶える。
真摯に自分を愛していた人からの裏切りは当然傷つく。しかも、祖父は手紙で何度も揺らぎない愛を修辞たっぷりに伝えていた。「万里の海も、貴方を覚えば遠くない」(江海万里,心中念你便不觉遥远)、「この生で貴方と結ばれ、貴方に思われれば、孤独も苦しみも言うに及ばない」(今生可与你结伴,你牵挂,何言孤苦。)など、気障でありながらも詩的な言葉が、数多く手紙には綴られていた。時代背景でいえば、海外移民した潮州の男性が現地で別の妻を持つことは特段珍しいことではない。深い愛を綴っていた祖父も結局はそこらへんの男と一緒だったのかと、祖母が落胆したことも想像に難くない。しかし、やがて青年はこれらの言葉に嘘偽りがなかったことを知ることになる。それは何十年にわたり信じられてきたナラティブを覆すものであった。

郷土愛と統一工作の狭間で
本映画は製作費わずか1400万人民元(約3.36億円)の低予算映画にもかかわらず、中国国内(香港除く)での興行収入が7月末ですでに20億人民元(約480億円)を超えた。海外でもシンガポールやマレーシアで大ヒットし、本年における両国の最も興行収入の高い中国語映画となった。
一方で、日本では6月下旬よりシネマート新宿や相鉄ムービルなどで上映が開始した。異例なのが、現在のところ、本作は日本語字幕なし、中国語・英語字幕のみで上映されていることである。そのため、観客のほとんどは中国人と想定される(もちろん、中国語を解する、もしくは英語字幕を頑張って読もうとするほど中国文化への関心が高い日本人観客も中にはいる可能性があるが)。実際、私が上映した日も、上映前と後の館内からはほとんど中国語の会話しか聞こえなかった。中国人の日本への移民ブーム(いわゆる「潤日」現象)が話題になって久しいものの、日本語字幕なしによる本作の上映は、中国人だけで大きな経済圏が形成されていることの新たな証左といえる。

本作が観客の心の琴線と涙腺に触れる、よくできた映画であることはすでに述べたとおりである。実際、中国の映画評価サイトDoubanでは、平均点9.3(10点満点)(8/1時点)を記録している。また、海外でも多くの好評を得ている。
しかし、本作に対しては批判もある。
例えば、海外中国語メディア「端伝媒」(Initium Media)の「『おばあちゃんへのラブレター』ダークホースの潮州映画は、我々の潮州文化への理解を深めたか」では、本作への批判として、潮州文化の男尊女卑な文化を肯定するように映ること、文化大革命などで中国国内において長い間海外華僑・華人とつながりをもつ家族に疑いの目が向けられてきた歴史が省略されていること、さらには東南アジアに関する(特に、インド系に関する)描写が不正確といった批判が紹介されている。

しかし、とりわけ白熱しているのが、シンガポールに端を発する、本作がプロパガンダかどうかをめぐる論争である。
今年2026年5月21日にシンガポールの中国語新聞「聯合早報」で、「『おばあちゃんへのラブレター』におけるプロパガンダ(統戦)的な意味合い」という記事が掲載された(興味深いことに、本紙はかつて米ワシントン・ポストに親中的と批判されたことがある)。作者の沈 沢瑋(シム・ツェウェイ)は、現在、聯合早報の北京特派員を務めている。

沈は、映画監督にその意図はないであろうことを認めつつも、本作の自然に人の心を動かす力こそが、結果として世界中(特に東南アジア)の華人への「統戦」効果をもたらすのではないかと指摘する。「『統戦』の二文字が額に刻まれたかのような、あからさまで警戒感を引き起こしやすい表現方法に比べれば、本作の素朴な言葉遣いと実直な物語は、自然と人々に『唐山』(=海外華僑・華人でよく使われていた中国本土の呼び名)への親近感を芽生えさせ、地域を跨いだ華人の感情的な共鳴を引き起こしうる」。
その上で、彼女は文章の締めで、シンガポールが中国とは異なる独自のアイデンティティを構築したことに触れた。
シンガポールは1965年の独立以降、東南アジアの多民族国家としての地位を確立した。華人をマジョリティとするものの、華人国家ではない。国語はマレー語であり、国歌もそうだ。数代ものの人々が、「落ちた地で根を生やした」あと、国家と身分のアイデンティティはもはや明確だ。(…)(私個人で言っても、)中国とのつながり、祖籍だけであり、祖国としてではない。
シンガポールは中国系を多数派とするだけに、中国とのつながりが注目されやすい。4つある公用語のうち、一つが標準中国語(北京語)である。一方で、それゆえに、中国との距離感を慎重にとってきた国でもある。
シンガポールと中国(中華人民共和国)が国交を樹立したのは1990年で、これは2002年に独立した東ティモールを除けば、ASEANで最も遅い。また、中国のことわざ「落ちた葉は根に帰る」(落葉帰根)に対し、海外の華人圏ではしばしば「落ちた地で根を生やす」(落地生根)という表現が使われる。遠くにあるかつての故郷ではなく、あくまで今暮らす地に根を生やし、祖国にしようということだ。シンガポールのリー・シェンロン首相(当時)も2022年の建国記念日スピーチでこの表現を使った。また、すでに首相を退任したリー氏が今年5月に中国を訪問した際に、「両国が友として協力し合うのは、同じ種族や血統からではなく、共通の利益を有しているからだ」と発言した。

「聯合早報」の論評は、このような背景で理解されるべきだ。つまり、シンガポールにとって、その多数を占める華人のルーツへの想いを駆り立てるような映画は、本質的に国家のアイデンティティを脅かしうるのだ。
「華人国家」を攻撃する中国メディアとネット民
しかし、上記の「聯合早報」論評は、中国のネット空間で凄まじい反発を引き起こす。
中国共産党系の「環球時報(グローバル・タイムズ)」は、「『おばあちゃんへのラブレター』は、いったい誰の心の邪を映し出したか」という社説を発表し、「問題なのは、中華文化の影響力の着実な高まりを目の当たりにしたとき、シンガポールの一部メディアが真っ先に考えるのは、アジア太平洋地域における文化交流や相互理解を促進することではなく、東西の間でバランスを取りながら立ち回り、利益を得てきた余地が失われるのではないかという懸念である」と暗に「聯合早報」論評を批判した。

著名な中国の経済メディア「財経」系のプラットフォームでは、シンガポールが華人国家であることを認めたがらない姿勢を批判する記事が掲載された。
シンガポールでは、華人が74.2%を占めるが、マレーシアではたったの22%だ。自身が華人国家でないことを毎日説明しろと求めるヒットは誰もいない。ちなみに、タイは14%で、インドネシアは4%だが、この問題はそもそも存在しない。シンガポールは74%の華人比率を抱えているのに、毎日「我々は本当に華人国家じゃないんだ」と、拡声器で唱えている。
さらに、「インド人のカレー皿を抱えて夢中で食べようとも、自分と中国人の関係を少しでも認めたがらない。これは骨の髄まで染みついた劣等感である」と、かなり侮蔑的な表現も含んだ一文もある。
最も、シンガポールにおけるインド系の存在を揶揄するコメントは、中国のネット上でかなり多くみられる。「インガポール(印加坡)」という呼び名がその最たる例であろう。
シンガポールは建国以来、多民族共生を国是としてきた。しかし、シンガポールが自身を華人国家とみなさないことは、どうやら中国政府とネット民の気に召さないようである。あるネット民は、「怖いのは映画ではなく、自分たちが誰だったかを華人が思い出すのが怖いのだ」という。

実際、中国国内には、海外華人と「祖国」のつながりを強調する言説が多い。
例えば、政府系の新華網では、「『おばあちゃんへの手紙』は華人世界への家族の手紙だ」という論評が掲載された。本論評は、海外華人が新たな移住先の国家に根差したことに触れつつも、彼らが各地で中華文化の継承を続けてきたこと、戦時には寄付などで「愛国の情」を表現してきたことについて書いている。あるマレーシアの観衆の「いつか家族を潮州に連れてゆき、次の世代にも自分たちのルーツの在りかを知ってほしい」というコメントも紹介されている。ここに、中国側の思惑と、シンガポール政府などが推し進める「落地生根」との対立をみてとれる。いうなれば、新たな地で新たな根を張ろうというシンガポール政府の主張と、本来の根は中国にあったことを思い出してほしい中国側の想いは、本質的に相容れないのだ。
浮き彫りになった中国の言論空間の宿痾
さて、ここからは私が個人的に感じたことを書こうと思う。
かくいう私も中国出身の両親をもつ華人であり、一般的な日本人や中国人よりも本映画が描く事象に対する当事者性が高いといえる(もっとも、私の人生の歩みは、あの時代の東南アジア華僑・華人がした経験の苛酷さと程遠いが)。
結論から述べると、本作がプロパガンダかどうかという問いは重要ではないと私は考える。より重要なのは、本作をめぐる論争が浮き彫りにした中国政府のナラティブやネット空間の言説に潜む、他者の複雑なアイデンティティへの理解のなさである。

まず、本作はプロパガンダと言い難い。製作陣が政府に支援されたり、当初から政治的な意図で本作を作ったとは言えないからだ(少なくとも現時点でそのような証拠はない)。
強いていえば、「華人も含めて、中国人の一部だ」という意識を製作陣が持っていた可能性はある。例えば、映画終了後のエピローグで、多くの東南アジア華僑・華人が、日中戦争や朝鮮戦争中に中国に寄付をしたエピソードが紹介されている。海外華僑・華人の祖国への貢献をあえて入れることは、製作陣の思想、心情を反映している可能性がある。また、そうでなくとも、中国人観客向けにあえて入れた可能性も考えられる。
中国の人々が海外華人の中国との血縁、文化的繋がりに注目し、それで彼らへの親しみを育むのは理解できる。祖国への貢献を強調するのも、同じ文脈で理解可能だ。そりゃあ、中国人にとっては、「海外華僑・華人も祖国のために貢献してきた」というほうが嬉しいに決まっている。結局のところ、本作のターゲット層はあくまで中国の観客で、ここまで海外でも反響を呼ぶことも想定していなかっただろう。そのため、製作陣に対して、この点でことさら批判するのは野暮だと私は思う。

しかし、個人的に看過できないのは、中国メディア(特に、政府系)と一部ネット民の反応だ。「結局、海外にいる中国系も我々の同胞で、中国という大きな家庭と祖国の一部だ」といった類の主張は、凄まじい無知と独善の産物である。
海外華人に限らず、人間は複雑なアイデンティティを持ちうる。自らのルーツ(もしくはそれへの親近感)と、自分の国籍や国家への帰属意識は区別可能である。つまり、カルチャルとナショナル・アイデンティティは、人によっては別物である。海外華人で言えば、自らの中国ルーツを認識し、中国文化への親しみを持ちながらも、自分の居住国や育った国への忠誠や政治意識を持つことも可能なのだ。
私自身も、自分の中国ルーツを大事にし、その文化にも親しみを持っている。しかし、あくまで国家としての帰属先は日本だ。投票する際は、あくまで日本人として日本の国益を考え、仮に日本の主権や存亡が脅かされるようなことがあれば、当然日本の側に立つ。相手が自分のルーツのある国であるかに関わらず、それは変わらない。

実際、私の知り合いの中国系シンガポール人も、自身の徴兵経験を持ち出しながら、「何かあった時はあくまでシンガポールのために戦う」と言ったことがある。海外華人にも当然さまざまな人がいて、中には文化的アイデンティティと国籍を混同する人もいる。しかし、上記のような複雑な認識を持つに至った者も多い。これらのことを踏まえると、海外華人を「あなたたちのルーツはあくまで中国でしょ」と揺さぶるのは、当然、現地の反発を招く。
最も、海外華人のケースに限らず、他者に対する無知と傲慢は、中国社会と政府の隅々で観られる。「近しい他者」に対してすらきちんと理解しようとしないうちは、中国の国際的な印象が(一時的にではなく)根本的に改善されることは、難しいだろう。
