バレエ本感想「ボリショイ卒業 バレエダンサー岩田守弘 終わりなき夢の旅路」大前仁 著、東洋書店新社
東洋人として初めてボリショイ・バレエ団に入団し、ファースト・ソリストとして活躍された岩田守弘さんについて書かれた本を読みました。
バレエダンサーの本というと割と自伝的で自己陶酔しているような内容のものも結構多いのですが、「ボリショイ卒業」の著者 大前さんが毎日新聞のモスクワ支局長ということもあり、著者が良い意味でバレエに深入りしていない方なので質問の内容や切り込み方がとても面白かったです。
ボリショイ・バレエ団で活躍されていた岩田守弘さんについてはもちろん知っていましたが、改めて注目したのは2015年の日本セルビア映画祭で「魂 岩田守弘 ボリショイ卒業」(木下順介監督)の短編映画を見たことがきっかけです。
フィルムの中には合気道の師匠からもらったという短剣が出てきたり、江戸っぽい作品などが引退公演で踊られており、ボリショイという劇場で活躍しつつも日本人としてのルーツを大切にしていた岩田さんの姿を感じました。余談ですが木下監督のこの映像にはカーテンコールのシーンがあり、私の大好きなカプツォーワが写っていてとても嬉しかったことを覚えています。
139分の長編ですが、ナレーションや効果音を全て排除し、ボリショイ劇場とウランウデの劇場で淡々と芸術に向き合う岩田守弘さんの姿を追いました。日本セルビア映画祭で上映していただいた18分の短編「魂 岩田守弘 ボリショイ卒業」(長編と全て別素材)もあります。こちら↓https://t.co/JNtQozRqSF https://t.co/i21lezIDl2
— 木下順介。役者、監督。🇷🇺モスクワ在住。 (@junsuke1012kino) February 15, 2024
2018年にこちらの本が発売されると聞いた時はすぐに予約注文し、発売日に手に入れたことを覚えています。タイトルが上記の木下さんのフィルムと似ていたので、文字起こしをしたものかなと思っていましたが、取材の時期こそ似ているとは言え全く別のもので読み応えがありました。
よくあるバレエダンサーの自伝は実績誇示や意見を主張するものが多い中、記者である大前さんが書かれたこの本はドラマチックな岩田さんのダンサー人生を分かりやすく、でも冷静に俯瞰して書いています。
印象的だったエピソードがいくつかあるのですが、その1つが岩田さんがボリショイに入団した経緯です。
ボリショイ・バレエ学校を卒業しロシア・バレエ団で踊っていた岩田さんが当時ボリショイの芸術監督だったユーリ・グリゴローヴィチに入団をあの手この手で直訴するもダメで、でも入団は出来なくてもクラスレッスンの参加が認められたという話は、何かを手にしたいなら情熱を持って自分から行動しないとダメなんだなと感じました。
その後監督がウラジーミル・ワシーリエフ(ヴァシーリエフ)に代わり、1995年11月岩田さんはついにボリショイ・バレエ団に入団します。自身も天才と言われたワシーリエフは「ロシアのバレエ学校で教育を受けていればダンサーの出身など気にならない」と言っており、才能を物差しに入団を許可したのです。
ただし岩田さんのボリショイ入団については、元日本バレエ協会会長の薄井憲二さんが述べられているように、才能だけでなくソ連が崩壊し共産主義が潰れたその一瞬だったという運の強さもあったと言われています。しかし運も実力のうちであり、その運を活かして長年活躍したのはやはり岩田さんの才能と実力のなせる技だと思います。
バレエ界というのは見た目や才能に大きく左右されますが、実は運もかなり重要です。例えばボリショイと双璧をなすマリインスキー・バレエ団も少し前まで受け入れる団員はロシア圏の人ばかりでした。しかしワジーエフが去り、ユーリ・ファテーエフが実権を握るとキム・キミン、ザンダー・パリッシュ、石井久美子さん、永久メイさんなど、才能がある外国人ダンサーも積極的に受け入れるようになりました。彼らが入団できたのはもちろん高い実力と才能があるからです。しかし監督がロシア人主義であれば、どれだけ才能があっても入団は認められなかったでしょう。もしファテーエフが実権を握るのがあと10年遅かったらマリインスキーで活躍するキム・キミンや永久メイさんを見れなかった可能性もあります。そのくらい自分が入団するタイミングにどんな監督がいるかというのはダンサーにとって今後の命運を左右するくらい大きなことなのです。
もう一つ印象的だったのは、当時芸術監督だったセルゲイ・フィーリンから退団勧告を受けるシーンです。
まだまだ踊れる年齢で体が動いた状態であるにも関わらず、後進に道を譲ることを勧められたり、役が付かなかったりする話は胸が痛みつつも、本場ロシアでのバレエ界の厳しさを感じます。劇場の柿落としのエピソードなども、私はYoutubeで柿落とし公演の映像を何度も見ていましたが、裏に涙を呑んだダンサーがいることをこの本を読むまですっかり忘れていました。
ロシアのバレエ界は日本に比べると国家予算をはじめ支援が手厚く、年金制度も整っていますが、職業ダンサーの道は険しく競争が激しいです。
他にも猿の役の話は強烈でした。入団当初役が与えられず、重役を捕まえて役が欲しいと直訴したら与えられたのは「ファラオの娘」のサルの役でした。妻からは反対されたけれど、「ファラオの娘」初演は評判が悪く、翌日の新聞で「見るべきものは(劇中に登場する本物の)馬と猿だけだ」と書かれた話はどんな役にも岩田さんが心血を注いで真剣に向き合う様子を感じられます。他にも身長の関係でボリショイではキャラクテールだった岩田さんがボリショイでプリンシパルになりたかったと言っている話など、興味深いエピソードが沢山あります。
そういえば、バレエ界の人間関係の話で、岩田守弘さん、熊川哲也さん、久保綋一さん、小嶋直也さんが黄金世代と言われる同期で、岩田さんはボリショイでの自分の引退公演に彼らに出演をオファーしていた話なども書かれていました。ちなみに岩田さんと久保さんはモスクワ国際バレエコンクール、熊川哲也さんはローザンヌ国際バレエコンクール、小嶋さんはヴァルナ国際バレエコンクールでそれぞれ優勝しており、この時代にこれだけの結果を出していた日本人ダンサーがいたということは特筆すべきです。
激動のソ連時代にロシアに渡り、ボリショイ・バレエ団でファースト・ソリストにまで上り詰めた日本人ダンサーがいたことを同じ日本人として誇らしく思います。彼の存在はどれだけ日本人ダンサー達の希望になっていたことでしょうか。現代でこそ世界中で日本人ダンサーが活躍し、ボリショイやマリインスキーなどのロシアの中央バレエ団にも日本人が増えてきました。もちろん日本人ダンサーのスタイルが良くなり、才能があるからこそ入団できるとは思いますが、ロシアでの日本人ダンサーの礎を築いたのは間違いなく岩田守弘さんだと思っています。
最後に、岩田さんがボリショイ劇場に並々ならぬ愛着と執着を持っているのに対し、プリンシパルのミハイル・ロブーヒンらロシア人ダンサー達はドライでそこまでの強烈な思いを持っていないという話もありました。
私は最近光藍社の「バレエの美神」という公演を見たのですが、そのフィナーレはグリゴローヴィチやバランシンなどボリショイ劇場を彩った演目のエッセンスが詰まっており、これを振り付けた人は相当ロシアバレエを愛している人だろうなと感じました。後ほどSNSで岩田さんが振り付けたと聞いて、彼がどれだけロシアで上演されてきたバレエを愛し大事にしているか舞台を見て強く感じました。
また、最近のボリショイ・バレエ団の踊りを見て「誰も死ぬ気で踊っていない」という記載は、芸術に命をかけている岩田さんならではの重みがあります。私は2023年に岩田さんが「引退」と銘打っていた「信長」を見に行きましたが、限界まで体を動かして魂を燃やすように踊っていた真剣な姿は今でも脳裏に焼き付いています。何かに取り憑かれたかのように気迫を持って踊る岩田さんは、今思うと死ぬ気で踊っていたのかもしれません。
誰よりもロシアバレエへの愛を持ち、魂を削ってダンサーという人生を生きている岩田さんの生き様をぜひ「ボリショイ卒業」の本から皆様に感じていただきたいと思います。
Ballet Muses-バレエの美神2025-
— 【公式】光藍社 バレエ(こうらんしゃ) (@koransha_inc) November 4, 2025
フィナーレの振付・演出はアーティスティック・アドバイザーである岩田守弘氏に手掛けていただきました!
スターたちが一度にステージに集結し、最高の盛り上がりを見せるフィナーレは、ガラ公演ならではですよね✨
明日は愛知公演です!:https://t.co/UuGvD5E4XN pic.twitter.com/TRSGqQTD2c
