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「賊」と刻まれた男の墓——豊吉之墓が語る“語られなかったこと”

豊吉之墓

岩手県一関市に、「豊吉之墓」と呼ばれる石碑がある。

墓石には、「賊」と刻まれている。
だが同じ石に、こう続く。
「その功績は、日月と争うほどだ」と。
一つの石の中に、矛盾がある。

盗賊とされた豊吉は、この地(旧・鬼死骸村の「橋田原刑場」)で処刑され、その後、遺体は一関藩医たちによって解剖された。

この墓は、その出来事を記録するために建てられた。

碑文には、当時の医師たちの驚きと、そしてある種の敬意が刻まれている。
本稿では、その碑文を手がかりに、豊吉とその時代を読み解いていく。

豊吉之墓

豊吉之墓とは

一関市史の記録

「豊吉之墓」については、一関市史に詳しい記述がある。

国道敷地と国鉄東北本線路線敷地の双方が拡張したので、その間に挾っていた「橋田原処刑場跡」の草原は、その以前から開墾の鍬に侵蝕されていたが、一層急激にせばめられた。今は線路寄りに野梅とそれに寄りかかる南無阿弥陀仏の板碑のある草むらの一部にわずかに残されているに過ぎぬ。
そこへ運ばれた 「豊吉之墓」は、台石をなくし 「さお石」だけになってしまったが、旧奥州街道の路傍のこの処刑場で、江戸千住の小塚原で前野良沢、杉田玄白らによって屍体解剖が行われてから十五年後の天明五年(一七八五) 十一月に、一関藩医十六人の熱望によって、賊豊吉の刑屍体が解剖され、医学界千歳之大疑の実地検証が行われたことを記録した唯一無二の記念碑なのである。
(以下略:墓石の碑文については後述する。)

一関市史:第4章真滝地区 第10節石碑(昭和52年)より抜粋

この石碑について、要点は以下のとおりである。

  • 橋田原処刑場跡に存在していた

  • 天明五年(1785年)、処刑された豊吉の遺体を藩医16人が解剖

  • その記録を残すために建立された

  • 日本でも極めて珍しい「解剖記録碑」である

また、この場所は開発によって徐々に失われ、墓石も一時は埋もれていましたが、後に保存措置が取られ、現在に至る。


概要

天明五年(1785年)十一月。
賊とされた豊吉は橋田原処刑場で処刑され、
その遺体は藩医十六名によって解剖された。

その後、彼の墓石が建立される。

しかし長い年月の中で墓は忘れ去られていた。
昭和20年頃、地元の郷土史家によって、草むらの中から再発見され、その存在が広く知られた。

昭和41年(1966年)、東北本線複線化工事に伴い、
現在地(国道342号線沿い)に移転。
現在は一関市指定有形文化財として、一関市医師会によって大切に管理されている。


時代背景

この出来事が起きた天明五年(1785年)は、
天明の大飢饉(1782〜1788年)の最中。

東北地方では深刻な飢餓が広がり、社会不安が高まっていた。
生きるために犯罪へと追い込まれる者も少なくなかった時代。
当時の司法は、自白偏重、拷問、身分差が大きく、冤罪の可能性も否定できない。

豊吉もまた、そうした時代に生きた一人だった可能性がある。


解剖の歴史的意義

江戸時代、人体解剖は非常に稀な行為だった。

18世紀後半は、日本において解剖学がようやく実証へと向かい始めた時期。
東北では、米沢藩に続く三例目の人体解剖が、一関藩医・菊池崇徳らによって行われた。
一関藩は当時、蘭学の先進地域として知られており、建部清庵をはじめとする優れた医師を多く輩出していた。

この墓は、単なる罪人の墓ではなく、
「実証医学への転換点」を示す記録でもある。


豊吉之墓の碑文

豊吉之墓の碑文には、以下のように書かれている。

碑文の原文

天明乙巳年十一月十三
日賊豊吉者処斬吾党十
六人請屍於 官剝剔皮
肉洞視心腹以徵千歲之
大疑焉可謂於吾道有大
功矣於是謀諸同志建石
令其功与日月争爾
一関侯医
菊池崇徳謹識焉

(一関市史 第4章真滝地区 第10節石碑 より抜粋)

碑文の現代語訳

天明五年(1785年)十一月十三日、と呼ばれた豊吉が処刑された。
我ら十六名は、官に願い出て遺体の下げ渡しを受け、
皮膚を剥ぎ、肉を除き、腹の内側を詳しく観察した。
これは、千年来の大きな疑問を解明するためであった。
我らの道において、大きな功績を残したと言えるであろう。
ここに至って同志たちと相談し、石を建てて、
その功績が日月とともに永遠に輝くよう記す。
一関藩医 菊池崇徳 謹んで記す


碑文を読む——表層の意味


「賊」と「功績」〜碑文に宿る矛盾と敬意

この碑文で最も印象的なのは、
豊吉を「賊」と記しながら、その功績を讃えていることだ。

公式の記録として「賊」という事実を消さず、
しかし医学の発展に貢献した人間として、
最大限の敬意を込めた言葉で締めくくっている。
この矛盾こそが、藩医たちの複雑な感情を正直に伝えている。

処刑された名もなき男の遺体を前に、彼らは何を思ったのか。
碑文は語るが、豊吉は何も語らない。


「千歳之大疑」の意味

碑文にある 「千歳之大疑」とは、
長年解明されなかった人体の構造への疑問を指すと考えられる。

注目すべきは、ここに「医学」という言葉が直接現れないことだ。

医学的な目的で解剖したのなら、医学上の理由と書くのが自然ではないか。
あえて抽象的な表現にとどめたのか、あるいは当時の社会的制約によるものなのか。
その意図は明確ではないが、言葉の選び方には慎重さがうかがえる。

書けなかったのか、書かなかったのか。


「於是」が示す時間

「於是(ここに至って)」という表現は、解剖直後ではなく、一定の時間を経てから墓が建てられたことを示している。

これは単なる時系列の接続ではなく、
熟慮、心理変化、合議、葛藤、を含む漢文的表現とも考えられる。
しかし、この「間」に何があったのかは記されていない。

それは単なる記録の空白ではなく、
何かしらの思索や葛藤の時間だった可能性も考えられる。


碑文を深く読む——語られなかったものを探して

ここからは、碑文の深層へと踏み込んでいくことにする。


この碑文には、強い違和感がある

読み進めるほど、
単なる医学記念碑では説明しきれない特徴が現れる。

なぜそうしたのか。碑文は、その理由を語らない。


「剝剔皮肉」の二重性

碑文の 「剝剔皮肉洞視心腹」は、表面上は解剖の描写だ。
しかしそこには、別の読み方もできるかもしれない。

身体を開くことで、国家が与えた「賊」というラベルも、
同時に剥がれていったのではないだろうか。

医師たちは、身体の内側を見たことで、
身分や犯罪や社会的属性より先に、
「同じ人間の身体」を見てしまった可能性がある。

解剖は、「国家による定義」と「身体を見た者の実感」を分離させる行為だったのではないか。そう読むこともできる。


なぜ「豊吉」の名を残したのか

この碑の最も異様な点は、罪人の個人名が残されていることだ。

もし純粋な秩序維持だけが目的なら、
「賊某」「無名墓」「無縁処理」で十分だったはずだ。
しかし実際には、「豊吉之墓」と、名前そのものが碑題になっている。

国家が消そうとした人間を、完全には消さなかった、
と読むことも、できるのかもしれない。

なぜ名前を残したのか。碑文は、その理由を書かなかった。


菊池崇徳という存在

碑文末尾には、「一関侯医 菊池崇徳 謹識焉」とある。

ここで重要なのは、十六人全員の連名ではないことだ。
「代表」とも書かれていない。
つまり崇徳は、医師団の代表としてではなく、
「この碑文を書いた個人」として現れている。

なぜ一人だけが書いたのか、
それが、個人的な関与だったのか、
倫理的な責任感だったのか、
個人的な感情だったのか。
記録は、何も語らない。

この墓石は、当初、処刑場の片隅に建てられていた。
役人や旅人の目に触れる可能性は大いにあるはずだ。

そのような場所に、刑死者の墓碑という危うい存在を建てることを可能にしたのは、崇徳の「一関藩医」という立場による、ぎりぎりの選択だったとも考えられる。
そうでなければ、この石は建てられなかったかもしれない。

さらに興味深いのは、処刑場には供養塔が建てられることが、当時の日本各地で広く行われていた慣習だったという事実だ。
江戸の鈴ヶ森刑場や仙台藩刑場跡など、各地の処刑場に供養塔が建てられ、念仏や題目が刻まれていた記録が残っている。

現在、豊吉之墓の傍らには、「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が二基残っている。豊吉之墓と共に、橋田原刑場跡から移設されたと考えられるこれらの石碑は、処刑された者たちの供養塔だった可能性がある。

そうだとすれば、崇徳が豊吉之墓をその供養塔の傍らに建てたことには、別の意味が生まれてくるかもしれない。
供養塔に紛れ込ませることで、役人の目には「また供養塔か」と映った可能性がある。
崇徳の「一関藩医」という立場と合わせて、二重の隠れ蓑があったのかもしれない。

もちろん、想像の域を出ない。
しかし、そう読むことも、できるのかもしれない。


漢文という「隠語性」

碑文は漢文で書かれている。
一般民衆には難解で、知識人だけが深く読める構造を持つ。

表向きは「医学研究碑」として成立しながら、
深層に何かが埋め込まれた可能性がある。

「賊」と記しながら名前を残した。死者への感情が、そこにある。
「千歳之大疑」という言葉の選択。書けなかった何かが、そこにある。

それを可能にしたのが、漢文という形式だったのかもしれない。


墓石にした意味とは

解剖の記念碑として建てるなら、「豊吉之墓」という墓石にする必要はない。記念碑なら記念碑として建てればいい。
「解剖記念碑」「腑分記念碑」でも良かったはず。
いくつかの可能性が考えられる。

墓でなければ、建てられなかった
処刑場の片隅に石を建てる理由として、「供養」は最も説明しやすい。
記念碑という形では、役人や周囲の目に異様に映ったかもしれない。
墓という形にして供養塔に紛れ込ませることで、ぎりぎり許容された可能性がある。

崇徳が、記念碑ではなく墓を建てたかった
解剖の功績を記録したかったのではなく、豊吉という人間を弔いたかった。
だから墓の形にした。碑文の内容は記念碑的だが、形は墓を選んだ。
その選択自体が、崇徳の意志を示しているかもしれない。

両方を同時に果たした
墓という形で、弔いと記録を同時に行った。
一つの石に、二つの意味を持たせた。

どれが正しいかは、分からない。


碑文を読み終わることができない理由

この碑は、単なる解剖記念碑ではないのかもしれない。

「国家が"賊"として処理した人間を、医師たちが"人"として記憶し直そうとした痕跡」として読むと、碑文全体が一貫して見えてくる。

そこには、飢饉の時代に死と飢えを見続けた医師たちの、静かな葛藤が刻まれているように見える。

「豊吉之墓」の本当の核心は、「豊吉が何者だったか」ではなく、
「菊池崇徳たちが、豊吉をどう忘れられなくなったか」にあるのかもしれない。

そしてその葛藤は、露骨には語られない。
だからこそ、この碑文は二百年以上を経た今も、読み終わることがない。


豊吉の桜

現在、墓のそばには桜が植えられ、毎年、春になると花を咲かせる。

豊吉が何者だったのか、
本当に罪を犯したのか、
どこから来た人間なのか。
それは今も、分かっていない。

当時、豊吉以外に解剖された者たちの名前は、残っていない。

それでも彼の名は、
医学の歴史の一端として、静かに残り続けている。

豊吉之墓は、今も一関市の国道342号線沿いに静かに佇んでいる。
そして春になると、変わらず桜が咲く。


※ この豊吉之墓に関連する物語はこちら。
鬼死骸|千歳之大疑


鬼死骸村探検隊の記録は、岩手県一関市の実在の地名・地域をフィールドワークの舞台とした記録と考察です。
伝承・推測・史実の区別には注意を払っていますが、確定的な歴史的事実として提示するものではありません。


【鬼死骸村探検隊】(ポータルページ)では、
鬼死骸村での現地調査の記録、見つかった古文書や村誌、
地名、伝承などを、少しづつまとめています。
そして、地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。




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