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鬼死骸|千歳之大疑

この物語は、実在の土地・史跡を基にした
フィクションであり、神話であり、記録である。
一つの語りとしての記録である。
(鬼死骸村探検隊|実在する旧鬼死骸村を舞台にした物語)


<あらすじ>
天明五年。
一人の「賊」が処刑され、藩医たちはその遺体を解剖した。
「賊」として処刑された男の墓には、「その功、日月と争う」という矛盾した碑文が刻まれていた。
現代。
沢渡らは、墓石の苔の下に刻まれた正体不明の図形を発見する。
それはSNSで「鬼死骸の暗号」として拡散されていた。
それは地図か、それとも別の何かか。
伝承を辿り、七つ盛りと廃された八幡神社へと調査を進めるが、何もなかった。男の痕跡を追ううちに、沢渡自身もまた、新たな伝承を作ろうとしていたことに気づく。
碑文の矛盾を読み解こうとするとき、決定的なことが、書かれていなかった。なぜ書かれなかったのか。何が書けなかったのか。
答えは残されていない。
それでも、石だけが、そこにある。

本編:約16,300文字


冒頭

天明五年、晩秋。

ある賊が処刑された。
その墓には、奇妙な言葉が刻まれている。


第1部:苔の下の図形は、何も語らない


第1章:豊吉之墓の桜

天明五年、秋。

男は、走っていた。

暗闇の中を。

理由は、書かれていない。


春になると、ケンジは決まってそこへ行く。

特に理由はない。
気がついたら、そうなっていた。

「今年も咲いてますよ」
食堂のカウンターに座って、ケンジは言った。
「仕事帰りに寄れる距離なんですよ」

沢渡は、味噌汁を飲んでいた。
「何が」

「桜です」
ケンジは、少しだけ得意そうだった。
「豊吉之墓の桜」

沢渡は、箸を止めた。
「豊吉」

「江戸時代に、ここで処刑された人です」
ケンジは、特に重くなく言った。
「お墓があって、桜が綺麗でね」

沢渡は、ケンジを見た。
それから、もう一度聞いた。
「処刑された人の墓に、毎年行くのか」

「桜が目当てですから」
ケンジは、訂正した。

そのとき、映美が盆を持って近づいてきた。
「豊吉さんの話ですか」

「知ってるんですか」
ケンジが聞く。

「名前だけは」
映美は、向かいの席に座った。
「お墓、今年も綺麗だといいですね」

少しだけ間があった。

「行きましょうか」
映美が言った。
「お花見」

ケンジは、明るくうなずいた。

沢渡は、何も言わなかった。
だが、断らなかった。


第2章:苔の下に

食後、三人で歩いた。

道は、よく整っていた。

映美が、歩きながら言う。
「医師会の方が、年に何回か手入れしてるんです」

墓は、国道沿いにあった。
昭和に移されたと、ケンジが言った。
もともとは、少し離れた場所にあったらしい。

「移したんか」
沢渡が聞く。

「線路の工事でね」
ケンジは、あっさり言った。
「五十メートルくらいかな」

沢渡は、それを聞いて、少しだけ立ち止まった。
だが、何も言わなかった。

桜は、満開だった。

墓石の周囲に、花びらが落ちている。
風が吹くたびに、また落ちてくる。

ケンジは、空を見上げた。
「今年も綺麗だ」

満足そうだった。

映美は、墓石の前に立った。
刻まれた文字を、ゆっくりと読んでいる。

沢渡も、同じように立った。

碑文を読む。

「賊豊吉」

声に出さなかった。
だが、その言葉が、しばらく頭に残った。

賊、と書いてある。
だが、墓石は、丁寧に建てられている。
手入れも、されている。

何かが、合わない。
そう感じた。

碑文を読み進める。

やがて、目が止まった。

文字ではなかった。
墓石の端の方。
苔が、厚く覆っている場所。

沢渡は、しゃがんだ。
目を近づける。

苔の下に、何かある。

指で、そっと触れた。

「先生?」
映美が気づいて、隣にしゃがむ。

「これ」
沢渡は、その場所を指した。

映美は、覗き込んだ。
しばらく、黙っていた。

「……何かありますね」

二人は、しばらくそのまま見ていた。

やがて、沢渡が言った。
「苔を、少しだけ」

映美は、ためらわなかった。
指先で、苔をゆっくりとどける。

図形が、現れた。

線が、いくつか。
規則性があるようにも見える。
ないようにも見える。

沢渡は、それを見ていた。
動かなかった。

映美も、動かなかった。

しばらくして、後ろでケンジの声がした。
「何かありましたか」

二人は振り返った。

「これ、見たことありますか」
映美が聞く。

ケンジは、近づいて覗き込んだ。
少し考える。

「ああ」
短く言った。

「知ってたんですか」
映美が聞く。

「キズだと思ってました」
ケンジは、あっさり言った。
「経年劣化か、何かの」

沢渡は、もう一度図形を見た。

キズ、ではない。
そう思った。

だが、それ以上は、まだ言葉にならなかった。

桜が、また一枚落ちた。
墓石の上に、静かに乗った。

三人は、しばらくそこにいた。


天明五年、秋。

男は、針を持っていた。

暗い中だった。
火が、小さく燃えている。

針が、皮膚に入る。
痛みは、あった。
だが、手は止まらなかった。

何のために彫っているのかは、
書かれていない。


第3章:老人と観光客

食堂に戻ると、いつもの空気だった。

大将が無愛想に鍋をかき混ぜている。
娘が、奥から声をかける。
「お帰り。花見どうでした」

「綺麗でしたよ」
映美が答えた。

三人は、カウンターに並んで座った。

湯のみが置かれる。
湯気が立つ。

しばらく、誰も話さなかった。

先に口を開いたのは、映美だった。
「あの図形、気になりますね」

沢渡は、湯のみを持ったまま言った。
「写真は撮った」

「何だと思いますか」
映美が聞く。

「まだ分からない」
沢渡は、正直に答えた。
「だが、キズではない」

ケンジは、二人を交互に見た。
「そんなに、気になるものですか」

「気になりませんか」
映美が聞く。

「キズじゃないとしても」
ケンジは、少し考えてから言った。
「古い墓ですし、何か彫ったのかもしれないし」

「誰が」
沢渡が言った。

ケンジは、答えに詰まった。

そのとき、隣から声がした。

「豊吉の話か」

振り返ると、老人が一人、座って茶を飲んでいた。
いつからいたのか、分からなかった。

沢渡は、老人を見た。

老人は、こちらを見ていた。
特に、遠慮はなかった。

「そうです」
映美が、自然に答えた。
「ご存知ですか」

「知っとる」
老人は、短く言った。
「昔、うちの親父が話しとった」

三人は、老人の方を向いた。

老人は、茶を一口飲んでから続けた。
「戦が終わって少し経った頃だ。
郷土の歴史を調べとる人がいて、あの墓を見つけた。
草に埋もれて、誰も気にしとらんかった」

「昭和二十年頃ですね」
沢渡が言った。

老人は、少しだけ目を細めた。
「そのくらいだ。親父は、若い頃にその人から話を聞いたらしい」

「どんな話でしたか」
映美が聞いた。

老人は、少し間を置いた。
「盗賊だった、とは言っとったがな。
親父は、あまり信じとらんかった。
飢饉の時代だったから、何でもない人間が疑われることもあったろうな」

食堂の中が、少しだけ静かになった気がした。

「墓石に、何か刻まれているのを知っていましたか」
沢渡が聞いた。

「碑文のことか」

「それ以外のものです」

老人は、沢渡を見た。
それから、首を振った。
「知らん」

それだけだった。

老人は、湯呑みを手に取り、
「調べるのは、構わんがな」

少し間を置いて言った。
「無いものは、無いままでええ」
「あっても、困らんしな」

老人は、また茶を飲んだ。
話は、そこで終わった。

三人は、しばらくそのまま座っていた。

そのとき、店の引き戸が開いた。
二人の女性、イズミとリカが入ってきた。
「こんにちは」

娘が、顔を上げた。
「あ、また来たんですか」

「来ちゃいました」
イズミが笑った。

「今日は何の用ですか」
娘が聞いた。

「墓」
リカが、スマートフォンを見ながら言った。
「鬼死骸の、あの墓」

娘は、少しだけ首をかしげた。
「また変なもの調べてる。今度は、墓?」

大将は、顔も上げずに答えた。
「飯か」

「はい」
リカが言った。

二人は、カウンターの端に座った。

「墓に、変な図形があるって」
イズミが言った。
「SNSで見たんですけど」

ケンジは、湯のみを持ったまま答えた。
「あるかもしれないね」

「やっぱりあるんだ」
リカは、少し身を乗り出した。
「暗号みたいなやつですよね」

誰も、すぐには答えなかった。

「解読とか、されてないんですか」
イズミが続けた。

沢渡は、視線を向けたが、何も言わなかった。

ケンジが言った。
「どうでしょうね」

「え、調べないんですか」
リカが笑った。
「もったいなくないですか」

ケンジは、少しだけ考えてから言った。
「仕事あるしね」

イズミは、少しだけ首を傾げた。
「でも、気になりません?」

映美が答えた。
「気にはなりますよ」

それだけだった。

料理が運ばれてきて、二人はすぐにそちらに意識を向けた。

「写真撮っていいですか」
イズミが言った。

大将は、無愛想に言った。
「好きにすればいい」

シャッター音が、小さく鳴った。

しばらくして、二人は食べ終え、礼を言って店を出ていった。

引き戸が閉まる。

元の静けさに戻った。
誰も、さっきの話を続けなかった。

やがて、ケンジが言った。
「冤罪かもしれない人が、
ここで処刑されて、ここに埋まってて、
毎年桜が咲く」

誰も、返事をしなかった。

返事のしようが、なかった。


第4章:位置情報かもしれない

その夜、沢渡は研究室にいた。

机の上に、写真を並べる。
墓石の図形を、数枚の角度から撮ったものだった。

画像解析のソフトを立ち上げる。
苔で不鮮明な部分を、補正していく。

少しずつ、図形が浮かび上がる。

装飾ではない。
何かを、示している。

沢渡は手を止めた。

「位置情報かもしれない」

声に出していた。
誰もいない部屋だった。

地図だとすれば、何の地図か。

沢渡は、別の資料を引き寄せた。
鬼死骸周辺の地図。
江戸時代の記録。

重ねて、見る。

一致する場所が、ある気がした。

気がした、だけだった。

だが、沢渡は、その感覚を無視しなかった。

豊吉は、逃亡していた。
どこかに潜んでいた。

この地域で、身を隠せる場所。

沢渡は、地図の一点を見ていた。

七つ盛り。


天明五年、秋。

男は、隠れていた。

人目を避け、山の中に。

理由は、書かれていない。


第5章:戻りましょうか

翌日、三人は七つ盛りにいた。

春の山は、静かだった。
鳥の声が、遠くで聞こえる。
風も、穏やかだった。

七つの塚が、並んでいる。
草に覆われている。
長い時間を、感じさせる形だった。

沢渡は、周囲を見ていた。

「豊吉が、ここに潜んでいたとすれば」
独り言のように言った。

ケンジが、塚の一つを見ながら答えた。
「隠れるには、悪くないですね」

「人目につかない」
沢渡は、歩きながら続けた。
「山の中で、目印になる場所がある」

映美は、塚の配置を見ていた。
「七つ、全部残ってるんですね」

「ああ」
ケンジが言った。
「昔から、七つ盛りって呼ばれてる」

沢渡は、立ち止まった。
写真と、目の前の景色を、交互に見る。

図形の線と、七つ盛りの配置。
重なる部分が、ある気がした。

だが、確信は持てなかった。

「もし、これが地図なら」
沢渡は言った。
「目的地がある」

映美が近づく。
「どのあたりですか」

沢渡は、写真の一点を指した。
「この交差点が、七つ盛りだとすると」

線が、一方向に伸びている。
その先は、山の中だった。

三人は、その方向を見た。

木が、深く続いている。
道は、ない。

「行けますか」
映美が聞いた。

「行ってみましょう」
沢渡は、すでに歩き出していた。


山の中は、静かだった。

道がない分、歩きにくい。
枯れ枝を踏む音が、続く。

しばらく歩くと、開けた場所に出た。

平らな地面。
周囲より、少しだけ広い。

三人は、そこに立った。

何もなかった。

木が生えている。
草が生えている。
それだけだった。

「ここですか」
ケンジが言った。

沢渡は、周囲を見渡した。
「地図が正しければ、この付近のはずだが」

「何もないですね」
映美が、静かに言った。

否定ではなかった。
ただ、事実として言った。

沢渡は、地面を見た。
それから、木を見た。
それから、空を見た。

何も、ない。

「先生」
映美が言った。
「ここ、何かあったと思いますか」

沢渡は、少しだけ考えた。

「分からない」
正直に答えた。

そのとき、映美が何かに気づいた。
鞄から、折りたたんだ紙を取り出す。

「これ」
広げて、沢渡に見せた。

古い絵図だった。

「鬼死骸村絵図です。資料館で見つけました」

沢渡は、それを受け取った。

村の形が、描かれている。
山の位置。
道の位置。

そして、一点に文字があった。

「八幡神社」

沢渡は、顔を上げた。
周囲を、もう一度見る。

「ここに、神社があった」

映美がうなずいた。
「現在の鬼死骸八幡神社は、移転しています。
元々は、この山の中にあったようです」

ケンジが、きょろきょろと周囲を見た。
「神社が、ここに?」

「江戸時代の話です」
映美が言った。

沢渡は、絵図と写真を、並べて見た。

図形の示す場所。
元の八幡神社の位置。

一致していた。

「豊吉は」
沢渡は、ゆっくりと言った。
「七つ盛りで、何かを見たのかもしれない」

誰も、返事をしなかった。

風が、木の間を通り抜けた。

「でも……」
ケンジが言った。
「何もないですよね」

地面を掘るわけにも、いかない。
手がかりも、ない。

ケンジは続けた。
「でも、誰も探してないんですよね」

少しだけ間があった。
「あるなら、とっくに誰か見つけてる気がするけど」

三人は、しばらくその場に立っていた。

沢渡は、地面を見た。
長い時間が、経っている。

神社は、移転した。
豊吉は、処刑された。
記録は、残っていない。

あったとしても、もう、ない。

「戻りましょうか」
映美が、静かに言った。

沢渡は、もう一度、周囲を見る。

それから、うなずいた。

三人は、来た道を戻り始めた。
誰も、振り返らなかった。

振り返る理由が、なかった。


第6章:どこの誰かも、分からない

集会場は、昼過ぎの静かな時間だった。

映美が書類を整理していると、引き戸が開いた。

老女が一人、入ってきた。

「こんにちは」
映美は顔を上げた。

老女は、ゆっくりと中に入る。
用件があるというより、ふらりと寄った、という様子だった。

「お茶でも飲みますか」
映美が聞いた。

「いただこうかね」
老女は、椅子に座った。

映美は、お茶を淹れた。
二人分。

向かいに座って、一緒に飲んだ。

「今日は、いい天気ですね」
映美が言った。

「桜が、そろそろ終わりだね」
老女は、窓の外を見た。
「散り始めると、早いから」

「豊吉さんの墓の桜も、そろそろですね」
映美は、自然に言った。

老女は、湯のみを持ったまま、少しだけ動きを止めた。

「豊吉のこと、知っとるのかね」

「少しだけ」
映美は答えた。
「先日、お墓に行ってきました」

老女は、窓の外を見たまま言った。
「あの人のことは、うちのばあさんから聞いたことがあってね」

映美は、静かに待った。

老女は、お茶を一口飲んだ。
それから、思い出すように続けた。
「冤罪だったらしい、と言っとった」

「冤罪」
映美は、繰り返した。

「飢饉の頃だから、盗みをする人間は多かった。
疑われたら、それで終わりだったと」

老女は、湯のみを置いた。
「本当のことは、分からんけどね」

映美は、うなずいた。

「それと」
老女は、少しだけ間を置いた。
「あの人、この村の人間じゃなかったらしい」

「鬼死骸の人ではなかった、ということですか」

「近くの村から流れてきたんじゃないかと、ばあさんは言っとった」
老女は、また窓の外を見た。
「名前だけ残って、どこの誰かは分からない」

しばらく、二人とも黙っていた。

風が吹いた。
窓の外で、桜の花びらが散っていく。

「お墓は、きれいにしてもらっとるね」
老女が言った。

「医師会の方々が、今も管理されているそうです」
映美が答えた。

「それは、良かった」
老女は、小さくうなずいた。
「どこの誰かも分からんでも、ちゃんとしてもらっとる」

それだけだった。

老女は、お茶を飲み終えると、ゆっくりと立ち上がった。

「ごちそうさま」

「またいつでも」
映美は、見送った。

引き戸が閉まる。

映美は、しばらくそのまま座っていた。
老女の言葉が、頭の中に残っていた。

冤罪かもしれない。
鬼死骸の人間ではなかったかもしれない。

どちらも、「かもしれない」だった。

確かなことは、何もない。
ただ、名前だけが残っている。

賊、豊吉。

映美は、窓の外を見た。

花びらが、また一枚、静かに落ちた。


天明五年、晩秋。

男は、山の中にいた。

遠くを、見ていた。

どこを見ていたのかは、分からない。
誰かがいる方角だったのか、
そうでなかったのかも、分からない。

ただ、しばらく、そちらを見ていた。


第7章:自分がここにいた、ということかもしれない

その日の夕方、映美は研究室を訪ねた。

ドアをノックする。
「失礼します」

沢渡は、机に向かっていた。
写真と地図が、並んでいる。

「まだ、やってるんですか」
映美は、部屋に入った。

「座って」
沢渡は、視線を写真から外さずに言った。

映美は、椅子を引いた。
沢渡の向かいに座る。

「今日、集会場に高齢の女性が来たんですよ」
映美は言った。

沢渡は、顔を上げた。

「豊吉の話を、聞いたんですよ」
映美は続けた。

「何を」

「その人は、おばあさんから聞いた話だと言ってて」
映美は、言葉を選びながら話した。
「豊吉は、冤罪だったかもしれない、と」

沢渡は、何も言わなかった。

「それと」
映美は、続けた。
「鬼死骸村の人間ではなかったかもしれない、と」

沢渡は、机の上の写真を見た。

図形。
地図。
七つ盛り。
八幡神社。

しばらく、黙っていた。

「鬼死骸の人間ではなかった」
沢渡は、静かに繰り返した。

「そうかもしれない、ということです」
映美は、付け加えた。
「確かなことは、何も」

沢渡は、椅子の背にもたれた。

視線が、天井に向く。

「近くの村から流れてきた男が、
飢饉の時代に疑われて、鬼死骸で処刑された」

「そうかもしれない」
映美は、繰り返した。

沢渡は、もう一度写真を見た。

地図だとすれば、豊吉がこの地域を知っていたことになる。
だが、この村の人間ではなかったとすれば。

「七つ盛りを、知っていたのか」
沢渡は、独り言のように言った。

「外から来た人間でも、知ることはあると思いますが」
映美は、静かに言った。

「そうだな」
沢渡は、うなずいた。

だが、表情は晴れなかった。

映美は、机の上の写真を見た。
図形の補正画像。
重ねられた地図。

「先生」
映美は言った。
沢渡は、視線を向けた。

「これ、地図に見えますけど」

「写したものにも見えませんか」

沢渡は、少し考えて言った。
「だとしても、意味は同じだ」

「でも」

「でも」
沢渡が、先を促した。

映美は、少しだけ間を置いた。
「豊吉が何を伝えたかったのかは、地図じゃないかもしれない」

沢渡は、映美を見た。

「自分がここにいた、ということかもしれない」
映美は、静かに言った。
「それだけかもしれない」

部屋が、しばらく静かになった。

沢渡は、写真を見た。
それから、映美を見た。
それから、また写真を見た。

「どちらが正しいか」
沢渡は言った。

「分からないと思います」
映美は、はっきりと言った。

沢渡は、小さくうなずいた。

否定はしなかった。

机の上の写真は、変わらずそこにあった。
線が、いくつか。
交差する点。

それが何を意味するのかは、豊吉だけが知っている。

豊吉は、いない。

風が、窓の外を通り過ぎた。


第8章:保存したのか、しなかったのか

数日後、沢渡は研究室にいた。

画面に、文章が並んでいる。

調査の記録だった。
図形の解析。
地図との照合。
八幡神社の移転。
七つ盛りとの関係。

丁寧に、書いた。
論理的に、書いた。

読み返す。

悪くない、と思った。
筋は、通っている。

だが、手が止まった。

画面を見たまま、沢渡は動かなかった。

しばらくして、映美の言葉が戻ってきた。

「豊吉が何を伝えたかったのかは、地図じゃないかもしれない」

沢渡は、画面を見た。

自分が書いたものを、もう一度読む。

豊吉は、七つ盛りに潜んでいた。
そこで何かを見つけた。
八幡神社に隠した。
刺青に、場所を記録した。

全部、自分が繋いだものだった。
点と点を、結んだ。

沢渡は、椅子の背にもたれた。

大武丸の首が、鬼首に飛んでいった。
誰かが、そう繋いだ。
それが今では、伝承になっている。

自分が書いたものも、いつか誰かが読む。
豊吉の真意とは、関係なく。

沢渡は、画面を見た。

カーソルが、点滅している。

保存するか、しないか。
同じ文章が、別のファイルにもあった。

しばらく、そのままでいた。

やがて、沢渡は画面を閉じた。

保存したのか、しなかったのかは、分からなかった。


第9章:桜が、咲いていた

天明五年、晩秋。

男は、七つ盛りにいた。
そう記された記録が、どこかにあった。

夜だった。
風が、冷たかった。

男は、動かなかった。

塚が、七つ、並んでいる。
暗くて、よく見えない。
それでも、そこにあることは、分かった。

男は、しばらくその場にいた。
手が、冷えていた。
それだけは、はっきりしていた。

何を考えていたのかは、分からない。
何をしていたのかも、分からない。

ただ、そこにいた。

風が、また吹いた。

男は、顔を上げた。

空に、星があった。

それが、どこを指していたのかは分からない。

それだけだった。


春になると、桜が咲く。

今年も、満開だった。

賊、豊吉之墓。

墓石は、静かにそこにある。

見ようとするたびに、少し違って見える気がした。

苔の下の図形は、何も語らない。



SNSでは、「鬼死骸の暗号」として話題になっていた。
投稿ごとに、図形は少しずつ変わっていた。
元の形に近いものは、むしろ少なかった。


※ 本記録に掲載された図形は、現在確認されていない。
ただし外部の記録では、互いに一致しない複数の図形が報告されている。


第2部:千歳之大疑


第1章:腑分

天明五年、晩秋。

橋田原。

豊吉の手に、何かがあった。

崇徳は、顔を近づけた。

線が、いくつか。
荒い。
深さが、一定でない。

針一本で、自分で刻んだものだった。

崇徳は、それを見ていた。

長い時間、見ていた。

誰も、気づいていなかった。

崇徳だけが、見ていた。


第2章:賊と、日月と

研究室の窓から、光が入っていた。

映美は、机の上に写真を広げていた。
豊吉之墓の碑文を、数枚の角度から撮ったものだった。

沢渡は、向かいに座っていた。

「先生」
映美が言った。

「ん」

映美は碑文を指でなぞり、顔を上げた。
「これ、おかしくないですか」

沢渡も、顔を上げた。

映美は、写真の一点を指した。
「ここに、『賊』と書いてあります」

「ああ」

「でも、最後はこう書いてあります」
映美は、碑文の末尾を声に出した。
「其功与日月争爾」

沢渡は、少しだけ動きを止めた。

「……その功績は、日月と争うほどだ」

「賊と書いておきながら」
映美は言った。
「日月と争う、と書いてますよね」

沢渡は、写真を手に取った。
しばらく、黙って見ていた。

矛盾している。

だが、言葉を選んで書いた跡がある。
何かがあって、この言葉になった。

そのとき、ドアが開いた。

ケンジだった。
「あ、二人ともいた」

部屋に入る。
机の上の写真を見る。
「また豊吉の話ですか」

「碑文を見ていたのよ」
映美が言った。
「読んでみましょうか」

「チンプンカンプンで、分からない思いますけど」

「じゃ、訳しますよ」

ケンジは、椅子を引いて座った。

映美は、ゆっくりと読み始めた。

天明五年十一月十三日、賊の豊吉が処刑された。
我ら十六人は、官に願い出て遺体を引き取り、
皮膚を剥いで、腹の内側を詳しく調べた。
これは、千年来の大いなる疑問を解明するためだった。
我らの道において、豊吉は大きな功績を残した。
そこで同志たちと相談し、石を建て、
その功績が日月とともに永遠に輝くよう記す。
一関侯医 菊池崇徳謹識焉

ケンジは、しばらく黙っていた。
「賊なのに」
やがて、言った。
「日月とともに永遠に輝く、ですか」

「そこが、おかしいと思ってね」
映美が言った。

「矛盾してますよね」
ケンジは、首をかしげた。
「わざわざ賊って書かなくてもよかったんじゃないですか」

沢渡は写真をゆっくり回し、視線を窓に向けた。
「そこは、書かなければならなかった」

「なぜですか」

「公式の記録だからな」
沢渡は続けた。
「豊吉は賊として処刑された。
それは事実として残さなければならない」

「でも」
映美が言った。
「それだけでは終わらせたくなかった」

ケンジは、二人を交互に見た。
「碑文を書いた人は、崇徳って人ですよね」

「そうだ」

「十六人いたのに、書いたのは一人だけか」

誰も、答えなかった。

ケンジは、写真を見たまま言った。
「崇徳って、どんな人だったんですかね」

沢渡は、窓の外を見た。

「分からない」

それだけだった。


第3章:前夜

天明五年、晩秋。

前日の夜だった。
崇徳は、牢の前に立っていた。

用件は、診察だった。
処刑前の囚人を診ることは、崇徳の役目だった。

格子の向こうに、男がいた。

豊吉だった。

暗くて、よく見えない。

崇徳は、用意してきたものを置いた。

形式的な確認をする。
傷の有無。
熱の有無。
意識の有無。

豊吉は、動かなかった。

崇徳は、続けた。

やがて、豊吉が顔を上げた。

目が、合った。

崇徳は、手を止めた。

悲しい目では、なかった。
怒った目でも、なかった。
泣いてもいなかった。

覚悟を、決めた顔だった。

だが、視線は外れなかった。

崇徳から、離れなかった。

何かを、訴えているようだった。

何が言いたいのか。
何をしてほしいのか。

崇徳には、分からなかった。
分からないまま、その目を見ていた。

そのとき、崇徳は気づいた。

豊吉が、着物の襟を、わずかに開いていた。
意図的だった。

そこに、何かがあった。

崇徳は、目を細めた。
暗くて、よく見えない。

だが、何かがあることは、分かった。

豊吉は、まだ崇徳を見ていた。

視線を、外さなかった。

崇徳は、しばらく、そこにいた。

やがて、立ち上がった。

何も言わなかった。

豊吉も、何も言わなかった。

崇徳は、牢を離れた。
廊下を歩く。
足音だけが、続いた。

その夜、崇徳は眠れなかった。

あの目が、消えなかった。

そして、夜明け前に、崇徳は決めた。


第4章:書かれていない

別の日だった。

沢渡は、研究室に一人でいた。

画面に、碑文の画像が映っていた。

しばらくして、沢渡は手を止めた。

当然だった。

崇徳は、暗号を書いたわけではない。

沢渡は、それを分かっていた。
分かっていても、やめられなかった。

画面を見たまま、沢渡は呟いた。

「千歳之大疑」

千年来の、大いなる疑問。

中身は、書かれていない。

そのとき、ドアがノックされた。

映美だった。
「まだいたんですか」

「ああ」

映美は、部屋に入った。
画面を見た。
「また、碑文ですか」

「暗号として、扱ってみた」

映美は、少し笑った。
「何か、出ましたか」

「何も」

「そうですよね」

映美は、椅子を引いて座った。
沢渡の向かいに。

「千歳之大疑」
映美が言った。
「千年来の大いなる疑問、の中身が書かれていないですよね」

「ああ」

「書けなかったのか」
映美は続けた。
「書かなかったのか」

沢渡は、画面を見たまま言った。
「その違いが、気になる」

「どう違うんですか」

「書けなかったなら、言葉にならなかった」
沢渡は言った。
「書かなかったなら、言葉はあったが、残さなかった」

映美は、しばらく考えた。
「どちらだと思いますか」

沢渡は、答えなかった。

しばらくして、言った。
「崇徳は、医師だ」

「言葉にする訓練を、受けている」
「書けなかった、とは考えにくい」

映美は、うなずいた。

「書かなかった」
「そう考えた方が、自然だな」

部屋が、静かになった。

窓の外で、風が動いた。

「なぜ、書かなかったんでしょうか」
映美が聞いた。

沢渡は、画面を見たまま答えた。

「書いてはいけないものが、あったのかもしれない」

映美は、沢渡を見た。

「書いてはいけない」

「時代と、立場がある」
沢渡は続けた。
「藩医として、藩に仕える立場で、書けることと、書けないことがあった」

映美は、碑文の画像を見た。

賊豊吉。

その言葉が、画面の中にある。

「賊と書いた」
映美が言った。
「でも、日月と争うとも書いた」

「それが、崇徳の精一杯だったのかもしれない」
沢渡が言った。

部屋が、また静かになった。

書いてはいけないことを、書かずに、残した。

その言葉が、二人の間に、しばらくあった。


第5章:処斬

天明五年、晩秋。

処刑の朝だった。

崇徳は、橋田原に来ていた。

役目ではなかった。
来なくてもよかった。

それでも、来ていた。

人が、集まっていた。
役人が、いた。
野次馬も、いた。

崇徳は、少し離れた場所に立っていた。

豊吉が、引き出された。

縛られていた。
うつむいていた。

崇徳は、見ていた。

やがて、豊吉が顔を上げた。

周囲を、見た。

崇徳の方を、見た。

目が、合った。

昨夜と、同じ目だった。

悲しくない。
怒っていない。
泣いてもいない。

ただ、静かだった。

一瞬だった。

豊吉の視線は、すぐに外れた。

正面を向いた。

それで、終わりだった。

崇徳は、最後まで見ていた。

動かなかった。

全てが終わった後、崇徳はその場を離れた。

来た道を、戻る。

何も、考えていなかった。

いや、何かを、考えていた。

それが何なのかは、言葉にならなかった。


第6章:ここに至って

映美が、研究室に来た。

手に、紙を持っていた。
碑文を、書き写したものだった。

「先生」
映美は、紙を机に置いた。
「一つ、気になることがあって」

沢渡は、顔を上げた。

映美は、碑文の一箇所を指した。

「於是、謀諸同志建石」

沢渡は、それを読んだ。
「ここに至って、同志に謀り、石を建てた」

「はい」
映美はうなずいた。
「於是、という言葉です」

「ここに至って」
沢渡が繰り返した。

「すぐではなかった、ということだと思います」
映美は言った。
「処刑の直後に建てたのではなく、何かがあって、ここに至った」

沢渡は、紙を手に取った。

於是。

確かに、そう読める。

「何があったんだろう」
沢渡は、独り言のように言った。

映美は、椅子に座った。
「崇徳は、解剖の後も、いつも通り診察を続けていたはずです」

「ああ」

「飢饉の時代です」
映美は続けた。
「患者の中に、豊吉を知っている者がいたかもしれない」

沢渡は、映美を見た。

「崇徳は、何かを聞いた」

「聞いてしまった、のかもしれません」
映美は、静かに言った。

部屋が、しばらく静かになった。

沢渡は、紙を置いた。

「於是」
もう一度、声に出した。
「ここに至って」

何かがあった。
それが何だったのかは、書かれていない。

「その間、崇徳は何を考えていたんでしょうか」
映美が聞いた。

沢渡は、答えなかった。
答えられなかった。

崇徳は、いない。

書かれていない。
だから、分からない。
永遠に、分からない。

「でも」
映美が言った。

沢渡は、映美を見た。

「石を建てた」
それだけだった。

何があったのかは、分からない。
それでも、崇徳は動いた。

「同志に謀った」
沢渡が言った。
「理由は、言わなかったかもしれない」

映美は、うなずいた。

「誰も、聞かなかったかもしれない」

二人は、しばらく黙っていた。

於是。

ここに至って。

その言葉の前に、何があったのか。

碑文は、語らない。


第7章:遺言未尽

数日が、過ぎた。

崇徳は、いつも通り診察をしていた。

患者が来る。
薬を出す。
次の患者が来る。

飢饉の年だった。
痩せた人々が、続いた。

ある日、一人の男が来た。

近隣の村から来たという。
年は、五十前後。
顔に、疲れが染み付いていた。

崇徳は、診察をした。

大したことはなかった。
薬を出す。

男は、帰り際に言った。
「先生は、豊吉のことを、ご存じですか」

崇徳は、手を止めた。
「……知っている」

男は、少しだけ間を置いた。

「あの人は」
そこで、男は言葉を切った。

周囲を、一度見た。

それから、小さな声で続けた。
「悪い人では、なかったと——」
それ以上は、言わなかった。

崇徳は、男を見た。
「そうか」

男は、うつむいた。
「ただ、その……残念だなと」

それだけだった。

言い残したことが、あったのかもしれない。
男は、それ以上は言わなかった。

言えなかったのか、
言わなかったのか、
分からなかった。

崇徳も、それ以上は聞かなかった。

男が、帰っていく。

崇徳は、しばらくそこにいた。

悪い人では、なかった。

その言葉が、頭の中に残った。

罪人と聞いていた。
賊と、記録にあった。

だが。

崇徳の脳裏に、豊吉の目が浮かんだ。

処刑の朝の、あの目。

そして、暗い牢の中で、わずかに開いた着物の襟。

そこにあった、何か。

崇徳は、机の上の紙を見た。
解剖の際に、写し取った刺青の図形。

まだ、意味は分からなかった。

だが、捨てられなかった。


第8章:本当のことは、分からない

三人は、鬼死骸食堂にいた。

いつものカウンターだった。
湯気が、立っていた。

「豊吉って」
ケンジが言った。
「本当に盗賊だったんですかね」

沢渡は、湯のみを持ったまま答えた。
「記録には、そうある」

「記録には」
ケンジが繰り返した。

「でも、本当は」
映美が言った。
「天明の飢饉の時代です。東北は特に深刻だったはず」

「食えなくて、盗みをした、ということですか」

「それだけとも、言い切れない」
映美は続けた。
「冤罪だったかもしれない。それとも——」

ケンジは、湯のみを置いた。
「でも、本当のことは」

「分からない」
沢渡が言った。

食堂の音が、続いた。
食器の触れる音。
大将が鍋をかき混ぜる音。
遠くで、誰かが笑う声。

しばらくして、ケンジが言った。
「人って、悲劇のヒーローが好きじゃないですか」

沢渡が、ケンジを見た。

「解剖された豊吉への敬意とか、冥福とか、そういうのが積み重なって、
いつの間にか、そういう話になったのかもしれないっすよね」

映美も、ケンジを見ていた。

「本当のことは、分からないですけど」
ケンジは、特に深刻な顔をしていなかった。

ただ、そう思ったから、言った。
それだけだった。

沢渡は、湯のみを持ったまま、しばらく動かなかった。

人は、悲劇のヒーローが好きだ。
自分も、そうだったかもしれない。

豊吉に、意味を見出したかった。
崇徳に、意味を見出したかった。

点と点を、結びたかった。

だが、それは、最初から、そこにあった。

「でも」
映美が、静かに言った。

二人は、映美を見た。

「崇徳は、豊吉のために石を建てた」

誰も、返事をしなかった。

「本当のことが分からなくても」
映美は続けた。
「崇徳には、何かが見えていた」

「何が」
ケンジが聞いた。

映美は、答えなかった。
答えられなかった。
それも、分からない。

崇徳だけが、知っている。

三人は、しばらくそのまま座っていた。

湯のみの湯気が、細く立ち続けた。


第9章:於是

冬になった。

飢饉は、続いていた。

崇徳は、毎日診察をした。

患者が来る。
薬を出す。
また来る。

同じことの繰り返しだった。
それでも、崇徳は続けた。

ある夜、崇徳は机に向かっていた。

紙が、一枚あった。
解剖の際に写し取った、刺青の図形だった。

崇徳は、それを見ていた。
何度も、見ていた。

意味は、分からなかった。

地図なのか。
ただの模様なのか。
それとも、別の何かなのか。

豊吉だけが、知っていた。

崇徳は、筆を取った。

しばらく、そのままでいた。
筆先は震え、指先が冷えた。

やがて、筆を置いた。

また、図形を見た。

処刑の朝の、豊吉の目が重なった。
牢の中で、わずかに開いた襟が重なった。

悪い人では、なかったと思うんですが。
あの男の言葉が、重なった。

崇徳は、立ち上がった。

着物を羽織った。
外に出た。

夜だった。
風が、冷たかった。

崇徳は、歩いた。

橋田原の方へ。
刑場跡は、暗かった。

人は、いない。
崇徳は、その場に立った。

土を、見た。

豊吉が処刑された場所だった。
解剖した場所だった。

今は、何もない。
ただの土だった。

崇徳は、しばらくそこにいた。

風が、また吹いた。

崇徳は、空を見た。
星が、あった。

それだけだった。

崇徳は、来た道を戻った。

翌日。
崇徳は、同志を集めた。

「石を建てたい」

それだけを、言った。

理由は、言わなかった。

誰も、聞かなかった。


第10章:普通に書いたんじゃないですか

春になっていた。

三人は、鬼死骸食堂にいた。

「崇徳って」
ケンジが言った。
「一関では、有名な人なんですか」

「あまり知られていない」
沢渡が答えた。

「建部清庵は有名ですよね」
映美が言った。
「一関に過ぎたるものが二つあり、時の太鼓に建部清庵、と言われたくらい」

「崇徳は」

「碑文に名前があるだけです」
映美は続けた。
「それ以上の記録は、ほとんど残っていない」

ケンジは、湯のみを持ったまま言った。
「豊吉も、名前しか残ってないですよね」

「そうだな」
沢渡が言った。

「二人とも、名前だけか」
ケンジは、少しだけ考えてから続けた。
「でも、豊吉は墓石があるから、名前が残った」

「崇徳が建てたから」

映美が言った。
「崇徳の名前が残ったのも」

沢渡が言った。
「豊吉の墓石に刻んだから、だ」

三人は、しばらく黙っていた。

二人が、互いの名前を残し合っていた。

「豊吉以外に解剖された人は」
ケンジが聞いた。
「どうなったんですかね」

映美が、静かに答えた。
「名前は、残っていません」

ケンジは、湯のみを置いた。
「そうか」

それだけだった。

しばらく、誰も話さなかった。

食器の触れる音が、時間を埋めた。

やがて、沢渡が言った。
「崇徳は、なぜ一人で書いたんだろう」

「十六人いたのに」
映美が繰り返した。

「碑文には、一関侯医とだけある」
沢渡は続けた。
「代表でも、筆頭でもなく、一人の医師として書いた」

ケンジは、写真を見ていた。

少しだけ、考えてから言った。
「普通に書いたんじゃないですかね」

だから、書かなかったことも、普通だったのかもしれない。

沢渡が、ケンジを見た。
「普通に?」

「偉いとか、代表とか、そういうことじゃなくて」
ケンジは、続けた。
「ただ、書きたかっただけじゃないですか」

「書きたかった」
映美が繰り返した。

「自分が書かなきゃ、誰も書かないから」

沢渡は、何も言わなかった。
映美も、何も言わなかった。

ケンジは、特に意味があって言ったわけではなさそうだった。
ただ、そう思ったから、言った。

それだけだった。

しばらくして、映美が窓の外を見た。

桜が、散り始めていた。

「そろそろですね」
映美が言った。

「何が」
ケンジが聞く。

「豊吉之墓の桜」

ケンジは、少しだけ目を細めた。

「今年も、咲いたか」


第11章:独観

天明五年、晩秋。

崇徳は、見た。
見たのは、崇徳だけだった。

それから、手を動かした。
淡々と。
正確に。
医師として。

内側を、見る。
賊と、呼ばれた男の。
内側を。

内臓が、現れる。
記録する者が、書き留める。
絵を描く者が、描く。

崇徳は、見ながら、手を動かした。
観ることと、動かすことが、同じ線の上にあった。

そのとき、手が止まった。

豊吉の手だった。

昨夜、牢の格子越しに見たものが、そこにあった。
はっきりと、見えた。

線が、いくつか。
荒い。
深さが、一定でない。

崇徳は、顔を近づけた。
針一本で、自分で刻んだものだった。

刑罰の入墨では、なかった。

線の形が、違う。
場所も、違う。

誰かに頼んだものでも、なかった。
急いで、自分で刻んだ。

崇徳は、足を見た。
そこにも、あった。

手と、足。

自分で見える場所だけに、あった。

崇徳は、しばらく動かなかった。

誰も、気づいていなかった。
十六人の中で、崇徳だけが、見ていた。

図形だった。
線が交差している。
点のようなものも、ある。

地図なのか。
ただの模様なのか。
それとも、別の何かなのか。

崇徳には、分からなかった。

そのとき、処刑の朝の目が、重なった。
覚悟を決めた、あの目。

崇徳から、視線を外さなかった、あの目。

牢の中で、わずかに開いた襟。
あれは、これを、見せようとしていたのか。

崇徳には、分からなかった。
分からないまま、図形を見ていた。

誰かが、声をかけた。
崇徳は、顔を上げた。

「どうした」

「……いや」

崇徳は、続けた。

手を動かした。
医師として。
淡々と。
正確に。

だが、頭の中から、図形が消えなかった。
あの目が、消えなかった。

全てが終わった。
十六人は、道具を片付けた。

記録をまとめる者がいた。
絵を確認する者がいた。

崇徳は、紙を一枚取り出した。
図形を、写し取った。

誰にも、言わなかった。
誰も、見ていなかった。

崇徳は、その紙を、懐に入れた。

風が、また吹いた。
冷たかった。

崇徳は、空を見た。
曇っていた。

何も、語らなかった。


最終章:桜が、散っていた


豊吉以外に解剖された者たちの名前は、残っていない。
崇徳以外に碑文を書いた者の名前も、残っていない。


桜が、散っていた。

沢渡と映美は、豊吉之墓の前に立っていた。
風が吹くたびに、花びらが落ちた。
墓石は、静かにそこにあった。

賊、豊吉之墓。

苔が、厚く覆っていた。
その下に、図形がある。


沢渡は、それを見ていた。
何を意味するのかは、分からなかった。

地図なのか。
自分がここにいた証明なのか。
それとも、別の何かなのか。
豊吉だけが、知っていた。

豊吉は、いない。


映美は、碑文を読んでいた。
声には、出さなかった。
ただ、目で追っていた。

千歳之大疑。

崇徳が、書かなかったもの。
それが何なのかも、分からなかった。

崇徳も、いない。


風が、また吹いた。
花びらが、墓石の上に落ちた。

一枚。
また、一枚。


沢渡は、何も言わなかった。
映美も、何も言わなかった。

ただ、そこにいた。

しばらくして、映美が言った。
「先生」

沢渡は、映美を見た。

「崇徳は、正しかったんでしょうか」

沢渡は、少しだけ考えた。

「分からない」
正直に、答えた。

映美は、また墓石を見た。
「豊吉は」

「分からない」
同じ答えだった。

二人は、また黙った。

桜が、散り続けた。
墓石の上に、花びらが積もっていく。

白く、静かに。

やがて、沢渡が言った。
「帰ろうか」

映美は、うなずいた。

二人は、来た道を戻り始めた。
振り返らなかった。

豊吉之墓は、静かにそこにあった。

苔の下の図形は、何も語らない。
碑文の余白も、何も語らない。

見ようとするたびに、少し違って見える気がした。



※ 豊吉之墓についての解説記事はこちらにあります。
「賊」と刻まれた男の墓——豊吉之墓が語る“語られなかったこと”


この物語は、実在する岩手県一関市・旧鬼死骸村を舞台にした、
記録・神話・現代が織りなす物語の一編です。
この村には、フィクションでは作れない地形と歴史があります。
鬼死骸村の全体像は、【鬼死骸村探検隊】(ポータルページ)にて。
地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。





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