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「鬼死骸」という地名はなぜ生まれたのか——文献からたどるその由来

「鬼死骸」の由来について

「鬼死骸(おにしがい)」——
一度見たら忘れない、強烈な名前の地名です。

これは、実際に岩手県南部に存在していた名前です。

なぜこのような名前が付けられたのか。
文献をたどっていくと、その背後にある出来事や、人々の記憶が少しずつ浮かび上がってきます。

この記事では、その由来を記録から読み解いていきます。



文献に見える「鬼死骸」

まず、「鬼死骸」の由来が記録された文献を、現代語訳と共に、以下に列記してみます。


宝暦風土記:宝暦13年(1763年)

鬼死骸村
往古吾勝郷と申候由大武丸死骸埋置
申に付鬼死骸村と申候由申伝候

一関市史・第七巻:P152 (1977年)より

現代語訳:
昔は吾勝郷(あがつごう)といったという。
大武丸の死骸をここに埋めたことによって、“鬼死骸村”と呼ぶようになったと伝えられている。


安永風土記:安永四年(1775年)

鬼死骸村
一村名に付由来
往古吾勝郷と申唱候処田村将軍夷賊
御退治賊主大武丸死骸此所に相埋候以来村名に罷成
候由申伝候事

一関市史・第七巻:P153(1977年)より

現代語訳:
鬼死骸村
村名の由来について。
昔は吾勝郷と称していたところ、田村将軍が蝦夷の賊を討伐し、
その賊の首領である大武丸の死骸をこの地に埋めてから、
村名が“鬼死骸村”になったと伝えられている。


封内風土記:明和八年(1779年)

鬼死骸邑
伝云、古昔、埋大武丸屍故名之。
戸口凡八十七 有号柳沢地。

一関市史・第七巻:P297(1977年)より

現代語訳:
鬼死骸邑
伝えによれば、昔、大武丸の死骸を埋めたことから、この名がついたという。戸数はおよそ八十七戸。柳沢という地名がある。


関邑略志(せきゆうりゃくし):享和元年(1801年)

右三邑の地 古は鬼死骸邑の域にあり 天喜康平の間 安倍氏の乱に関塞を置くにより後分て邑名とすると云ふ按ずるに本州一・二・三関の邑名多し 宗藩の封内には黒川郡 江刺郡にあり 白川領岩瀬郡会津領 大沼郡等にもみえたり 又按ずるに鬼死骸旧鬼岩井に作ると云ふ 安永風土記に大同二年田村将軍大武丸 の余党を誅してこれを埋め石を其の上に置く 鬼石高さ五尺周り一丈余 鬼石の高さ一尺周り一丈余とあり封内名迹志に田村麻呂の誅し玉ふ鬼の石に化したるなり又田村明神を祭ると載たり邑の六本椚に鹿島社あり 田村明神を相殿とす 彼の二石も其の地に在り (以下略)

一関市史・第七巻:p560(1977年)より

現代語訳:
この三つの邑(むら)の土地は、昔は鬼死骸邑の領域に属していた。
天喜・康平年間(11世紀)の安倍氏の乱のときに関所(関塞)が置かれ、その後、そこから分かれて邑名となったという。
考えてみると、本州には第一関・第二関・第三関など、「関」の名をもつ邑が多い。仙台藩(宗藩)の領内では黒川郡・江刺郡にもあり、白河領の岩瀬郡、会津領の大沼郡などにも見られる。
また考えるに、「鬼死骸」は昔「鬼岩井」と書いたともいう。
 『安永風土記』によれば、大同2年(807年)、田村将軍が大武丸の残党を討ってこれを埋め、その上に石を置いたという。鬼石は高さ五尺、周囲一丈余。また別の鬼石は高さ一尺、周囲一丈余とある。
 『封内名跡志』には、田村麻呂が討った鬼が石に化したものであると記され、また田村明神を祀っているとも載っている。この邑の六本椚には鹿島社があり、田村明神を相殿としている。例の二つの石もそこにある。

過去の文献(安永風土記、封内名跡志)も踏まえて書かれています。


真瀧村誌:大正5年(1916年)

(参考:「復刻 眞瀧村誌」より)

第一章 沿革 第三節 村名起源
鬼死骸
往古、吾勝郷桜野荘ト云ヒ、延暦注1二十年、坂上田村麻呂、大武丸ノ賊徒ヲ退治シ、其死骸ヲ埋メ置キタル。ヨク鬼死骸トイフ。
(中略:関邑略誌、安永風土記の記述)
田村将軍ノ誅シ給フ鬼ノ石ニ化シタルナリ。田村明神ヲ祭ル邑ノ六本椚ニ鹿嶋ノ社アリ。田村神社ヲ相殿トス。彼ノ二石モ此ノ地ニ在リ(封内名迹誌)。此ノ鬼石ト称スルモノ今猶存ス。鬼死骸石ハ鹿嶋神社下ノ田中ニ在リ。アバラ石ハ此レヨリ南約一町余、牧田沢水田中ニ在リ。此ノホトリニハ大石(置石様ノモノ)多カリシカ、石材ハ花崗岩ナルヲ以テ、之ヲ珍重シ、十数年前、他ニ運搬シテ用ヒラレ、今ハ名石タル鬼死骸石トアバラ石ノミ存セリ。
注5:封内名蹟誌 佐藤信要撰 庄司惣七校訂 寛保三年(一七四三年)自跋

真瀧村誌(大正5年12月発行 / 復刻:2003年6月10日発行)

現代語訳:
鬼死骸
昔は吾勝郷桜野庄といった。
延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が大武丸の賊徒を討ち、その死骸を埋めたことから「鬼死骸」と呼ぶようになったという。
(中略)
田村将軍に誅された鬼が石に化したものであるという。
田村明神を祀る邑の六本椚には鹿嶋社があり、田村神社を相殿としている。
その二つの石もこの地にある(『封内名跡誌』)。
この鬼石と称するものは今も存在する。鬼死骸石は鹿嶋神社の下の田の中にある。アバラ石はそこから南へ約一町余り、牧田沢の水田の中にある。
このあたりには大石(置石のようなもの)が多くあったが、石材が花崗岩であったため珍重され、十数年前に他へ運ばれて利用され、現在は名石である鬼死骸石とアバラ石だけが残っている。

こちらも、過去の文献(関邑略誌、安永風土記、封内名跡志)も踏まえて書かれていますが、前出の文献と重複するため省略しています。
以下は、鬼死骸村と牧沢村が合併した真柴村に関する記述です。

第一章 沿革 第二節 眞瀧村沿革 二、眞瀧村沿革
真柴
往古、吾勝郷ト称シ(桜場庄鬼死骸邑ナリ。明治維新ノ際ヨリ鬼死骸ト称シ、肝入又ハ村長ノ支配ヲ受ク。明治六,七年ノ頃ハ、隣村牧沢ト共ニ、一関外二ヶ村戸長役場ノ支配ヲ受ケタリ。
明治八年十一月、牧沢合併第十四大区第五小区真柴村ト称シ、一関真柴戸長役場ノ支配スル所トナレリ。明治十七年九月ヨリ、一関外五ヶ村戸長役場ノ管轄スル所トナレリ。
〈備考〉一関外五ヶ村トハ、一関・真柴村、上黒沢村、狐禅寺村、滝沢村ヲ云フ。

真瀧村誌(大正5年12月発行 / 復刻:2003年6月10日発行)

現代語訳:
真柴
昔は吾勝郷(桜場庄)に属し、鬼死骸邑と呼ばれていた。明治維新の頃から鬼死骸と称し、肝入(村役人)または村長の支配を受けていた。明治6、7年頃は、隣村の牧沢とともに「一関外二か村戸長役場」の支配下にあった。
明治8年11月、牧沢と合併し、第十四大区第五小区真柴村と称し、一関真柴戸長役場の管轄となった。明治17年9月からは「一関外五か村戸長役場」の管轄となった。
〈備考〉「一関外五か村」とは、一関・真柴村・上黒沢村・狐禅寺村・滝沢村をいう。


「鬼死骸」の由来を時系列でたどる

ここでは、文献に基づいて分かることを時系列で整理しながら、
「鬼死骸」という地名の由来を考えてみます。


蝦夷(えみし)の時代——水と集落の痕跡

『真瀧村誌』によると、この地域には古くから井戸や湧水があったとされています。実際、江戸時代の文献にも、鬼石の近くに「金魚水」や「的場清水」といった湧水が記録されています。

こうした湧水の豊かな土地であることを考えると、このあたりには古くから蝦夷の人々の集落があった可能性がある。

また、少し南には「蝦夷塚」と呼ばれる塚も残っています。
これが本当に蝦夷のものかどうかは分かりませんが、「蝦夷」という名前が地形や地物として残っている点は、この土地の古い記憶を感じさせます。


吾勝郷桜野庄(あかつごう さくらのそう)——地名に残る意味

奈良〜平安時代ごろ、この地域は「吾勝郷桜野庄(あかつごう さくらのそう)」と呼ばれていたと、多くの文献に記されています。

「吾勝郷」は、おそらく現在の岩手県南部、一関周辺を中心とした広い地域名だったと考えられます。もともとあった地名に、後から漢字で「吾勝(あかつ)」を当てた可能性もあります。

また、「桜野庄」については、正確な範囲は分かっていませんが、鬼死骸周辺を指していたと考えられます。
この「さくらの」という言葉の意味ははっきりしていませんが、いくつかの解釈が考えられます。
たとえば、「サク」を“裂ける・湧き出す”と捉えると、「水が湧き出る場所」という意味になります。
一方で、「サク」を“境界”と考えると、「境目の土地」という見方もできそうです。
どちらが正しいかは分かりません。
ただ、水源、湿地などは、「金魚水」「的場清水」に繋がります。
また、境界は、北は磐井川、南は国堺であることに繋がります。
水や境界といったイメージは、この土地の特徴とどこか重なっているようにも感じられます。もしかすると、もともとはそうした意味を持つ古い地名に、後から「桜」という漢字が当てられたのかもしれません。

また『真瀧村誌』では、「桜野庄」と「桜場庄」という表記の揺れがあり、細かな点でも謎が残ります。
それは、『真瀧村誌』が参照したもともとの資料によるものなのか、
大正時代に『真瀧村誌』を編纂した際に誤記が生じたのか、
もしくは、2003年に再編纂した際に、残された記録の保存状態による見間違い、書き間違いなどによって発生したのか、原因は定かではありません。

真瀧村誌:第一章 沿革
第二節 眞瀧村沿革 二、眞瀧村沿革
 真柴 往古、吾勝郷ト称シ(桜場庄)鬼死骸邑ナリ。
 滝沢 往古、吾勝郷荒滝ノ荘ト称セリ。

第三節 村名起源
 鬼死骸
 往古、吾勝郷 桜野荘ト云ヒ、

真瀧村誌(大正5年12月発行 / 復刻:2003年6月10日発行)

坂上田村麻呂と蝦夷征討

延暦20年(801年)、坂上田村麻呂による蝦夷征討が行われたことは、歴史として知られている出来事です。
伝承では、このとき蝦夷の長(大武丸)が討たれたとされています。
当時、大和朝廷の側から見た蝦夷は「鬼」として表現されることもありました。
そう考えると、激しい戦闘の中で多くの命が失われ、その記憶が「鬼の死骸」という強い言葉として残っていった、という見方もできる。


鬼石——伝承の核となる存在

『真瀧村誌』によると、この地域にはかつて大きな石が多く存在していたようです。
それらの石が、実際に墓石として使われたかは分かりませんが、「鬼の死骸」という伝承と結びつき、「鬼石」として特別な意味を持つ石になったとも考えられます。

また、『封内名跡誌』には、討たれた鬼(大武丸)が石に化たという伝承も残されています。事実そのものというよりは、戦いの記憶が長い年月の中で語り直され、象徴的な形に変わっていったのかもしれません。


「鬼岩井」から「鬼死骸」へ

『関邑略誌』によると、「鬼死骸」はかつて「鬼岩井」と書かれていたとされています。
「鬼(蝦夷)」「岩(鬼石)」「井(水)」という、この土地の地形的特徴と対応している。
   = 蝦夷
   = 鬼石
 戸 = 金魚水、的場清水
そして、そこに「蝦夷の死骸=鬼の死骸」という伝承が重なり、
やがて「鬼死骸」という地名へと変わっていったのかもしれません。


関所の成立と地名の分断(前九年の役)

『関邑略誌』には、一関・二関・三関の地は、古くは鬼死骸邑の区域に属していた。天喜・康平年間(11世紀)、安倍氏の乱の際に関所を置いてから後、分かれてそれぞれの邑名となった、とあります。
* 天喜・康平年間:1053-1058年・1058-1065年

天喜・康平年間(11世紀)、前九年の役のころ、北からの安倍氏の防御ラインとして、磐井川に沿って3ヶ所の関所(一関・二関・三関)が設けられ、それぞれの地域が分かれていったようです。

つまり、それ以前からすでに「鬼死骸」という名前が存在していたことになります。坂上田村麻呂の時代からそれほど遠くない時期に、この名前が定着していたと考えると、激しい戦いの記憶がかなり強く語り継がれていたことがうかがえます。


「鬼」の伝承と地域差

東北には、「鬼」にまつわる地名や伝承が多く残されています。
一般には、「鬼」は大和朝廷から見た蝦夷を指す言葉とされています。

しかし、その扱いは地域によって少し違います。
岩手側では、「鬼」は英雄的に語られることが多い一方、
宮城側では、「鬼」は恐るべき存在として描かれることが多いようです。
この違いは、なかなか興味深いところです。

鬼死骸のある地域は、岩手の南の端にあり、国境の山を越えれば宮城に入る場所にありますので、そのちょうど境目に位置しています。
そうした場所で、「鬼」と「死骸」という強い言葉が地名として残っていることは、とても印象的です。単なる名前以上に、当時の記憶や感情が、そのまま残されているようにも感じられます。


中世から江戸時代の記録

鎌倉・室町時代の記録はあまり残っていませんが、戦国時代には、小岩氏が居城としていた要害城は、「鬼死骸城」とも呼ばれていたことが風土記などに記録されています。
江戸時代の文献にも「鬼死骸村(鬼死骸邑)」の名は残っており、地名として継続していたことが分かります。


明治以降——地名が消えたあと

明治時代になると、周囲にあった大きな石(花崗岩)は次第に取り除かれ、現在のように鬼石だけが残る形になったようです。
「鬼死骸村絵図」に「鬼石」が描かれていますので、周りに大きめの石があったとしても、当時から目立った特別な石だったとも想像できます。

明治8年、鬼死骸村は牧沢村と合併し、「真柴村」となりました。
このとき、「鬼死骸」という名前は行政上は消えることになります
廃藩置県に伴う行政改革の際の、改称の経緯は記録に残っていない。

それでも、「鬼石」は今も残り続け、「鬼石」に刻まれた蝦夷の記憶は、伝承として千年の長い年月を超えて受け継がれてきました。
バス路線の停留所として「鬼死骸」の名前が使われていたことも、地域に地名が根付いていた証なのでしょう。


「鬼死骸」という名前が残したもの

この地にいた蝦夷の長が本当に「大武丸」という人物だったのか、確かなことは分かりません。ただ、激しい戦いがあったことは歴史の中に確かに残っており、強い蝦夷の長がいたかも知れないと想像ができる。

鬼死骸」という名が確認できる最も古い記録は、「関邑略誌」の記述によると、11世紀時点でこの地名が存在していた
坂上田村麻呂による征討(801年)から200年以上が経過してもなお、この地名が使われていたことは、戦いの記憶がいかに強く語り継がれたかを示している。
そして、その前身とされる「鬼岩井」という名には、
蝦夷・石・水という、この土地そのものが刻まれている。
地名は、記録が失われた後も、その場所に何があったかを残し続ける。

——この地名が持つ重みを、そう受け止めたい。


補足

ところで、『封内風土記』に「有号柳沢地。」とポツンと書かれた「柳沢」の地名が気になるところです。
柳沢地域は、鬼死骸の中心部(鹿島神社、鬼石)から西の方にあります。「鬼死骸村絵図(1818年)」には、複数の屋敷が描かれていますので、古くから人々が住んでいたことは分かります。
現在の位置関係から見ると、当時(江戸時代)は、この地域が村の中でも重要な拠点の一つだった可能性もありそうです。


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鬼死骸村探検隊の記録は、岩手県一関市の実在の地名・地域をフィールドワークの舞台とした記録と考察です。
伝承・推測・史実の区別には注意を払っていますが、確定的な歴史的事実として提示するものではありません。


【鬼死骸村探検隊】(ポータルページ)では、
鬼死骸村での現地調査の記録、見つかった古文書や村誌、
地名、伝承などを、少しづつまとめています。
そして、地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。



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