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鬼死骸の「鬼石」と「あばら石」は何なのか?文献から読み解く由来と伝承のズレ

「鬼石」「あばら石」の由来・伝承について

「鬼死骸(おにしがい)」
岩手県一関市にかつて存在し、そう呼ばれていた村に、
「鬼石」「あばら石」という石があります。

江戸時代から大正時代にかけて残された文献をたどりながら、
この石にまつわる伝承や、当時の人々がどのように語り伝えていたのかを見ていきます。



文献(江戸時代〜大正時代)

「鬼石」「あばら石」の由来が記録された文献を、現代語訳と共に、以下に列記してみます。


宝暦風土記:宝暦13年 1763年

一 鬼石壱つ 高六尺 廻り三丈程 鹿嶋神社下田中に有
  往古大武丸死屍埋置候上に有レ之石の由申伝候
一 肋石壱つ 長六尺 幅四尺程 にて平石 鬼石と壱丁程隅田の中有り

一関市史・第七巻:P152(1977年)より

現代語訳:
一 鬼石 一つ。 高さ六尺(約1.8m)、周囲三丈ほど(約9m)。鹿島神社の下の田の中にある。
 昔、大武丸の死体を埋めたその上にある石だと伝えられている。
一 肋石 一つ。 長さ六尺(約1.8m)、幅四尺ほど(約1.2m)の平たい石。
鬼石から一丁(約110m)ほど離れた田の中にある。


安永風土記:安永四年 1775年

一 鬼石 高五尺 廻り三丈余り 鹿島社下田の中
  右石 田村将軍鬼神御退治の節 大竹丸党類此所迄逃去候を将軍御追懸被遊於此所御退治被成候
  鬼の死体相埋候上に右石を指置候 由絵申伝候事
一 あばら石 高一尺 廻り一丈九寸
  右石に付由来相知不申候 鬼石より壱丁余引隔有之候事

一関市史・第七巻:P158(1977年)より

現代語訳:
一 鬼石 高さ五尺(約1.5m)、周囲三丈あまり(約9m強)。鹿島社の下の田の中にある。
この石については、田村将軍(坂上田村麻呂)が鬼神を退治した際、大竹丸の仲間がここまで逃げてきたのを、将軍が追いかけ、この場所で退治したという。
その鬼の死体を埋め、その上にこの石を立てた、と絵図などで言い伝えられている。
一 あばら石 高さ一尺(約30cm)、周囲一丈九寸(約3m弱)。
この石についての由来は分かっていない。鬼石から一丁あまり(約100m強)離れたところにある。


封内風土記:明和八年 1779年

鬼石、鹿島神社下の田中に在り、高六尺許、囲三丈許、伝え云う、大武丸の屍を埋めし処。
アバラ石、鬼石を隔て一町許の田の中に在り、高六尺許、広四尺許りの平石也。

一関市史・第七巻:P297(1977年)より

現代語訳:
鬼石は、鹿島神社の下の田の中にある。高さ六尺(約1.8m)ほど、周囲三丈(約9m)ほど。
伝えによると、大武丸の死体を埋めた場所であるという。
あばら石は、鬼石から一町(約110m)ほど離れた田の中にある。
高さ六尺(約1.8m)ほど、幅四尺(約1.2m)ほどの平石である。


関邑略志:享和元年 1801年

(省略)
安永風土記に大同二年田村将軍大武丸 の余党を誅してこれを埋め石を其の上に置く 鬼石高さ五尺周り一丈余 鬼石の高さ一尺周り一丈余とあり封内名迹志に田村麻呂の誅し玉ふ鬼の石に化したるなり又田村明神を祭ると載たり邑の六本椚に鹿島社あり 田村明神を相殿とす 彼の二石も其の地に在り
(以下省略)

一関市史・第七巻:p560(1977年)より

現代語訳:
『安永風土記』
によれば、大同2年(807年)、田村将軍が大武丸の残党を討ってこれを埋め、その上に石を置いたという。鬼石は高さ五尺、周囲一丈余。また別の鬼石は高さ一尺、周囲一丈余とある。
『封内名跡志』には、田村麻呂が討った鬼が石に化したものであると記され、また田村明神を祀っているとも載っている。この邑の六本椚には鹿島社があり、田村明神を相殿としている。例の二つの石もそこにある。

『安永風土記』『封内名跡志』からの引用として書かれています。


真瀧村誌:大正5年 1916年

(参考:「復刻 眞瀧村誌」より)

第十七章史跡 第三節 旧蹟(附名所)
一、鬼死骸石
  鹿嶋神社下、今水田中ニアル大石ニシテ、俗ニ之レヲ鬼石ト称ス。
  其ノ南方約一町余、牧澤水田中ニアルモノヲ「あばら石」ト云フ。共ニ花崗岩ナリ。
  安永風土記ニ曰ク、
   鬼死骸、モト鬼石ノ井ニ作ル。延暦二十年、田村将軍大武丸ノ余党ヲ誅シテ之ヲ埋メ石ヲ其ノ上ニ置ク。
   鬼石高五尺周一丈余、鬼死骸石(あばら石)高一尺周一丈余云々。
  封内風土記ニ
   鬼石在鹿島社下田中、高六尺許囲三丈許、云埋大武丸之屍處、アバラ*注一石隔鬼死一町許在田中長六尺許廣四尺許平石也
   編者之レヲ実測セシニ、其ノ大イサ左ノ如シ。
    鬼石   □□□
    アバラ石 □□□

真瀧村誌(大正5年12月発行 / 復刻:2003年6月10日発行)

現代語訳:
一、鬼死骸石
鹿嶋神社の下、現在は水田の中にある大石で、俗にこれを鬼石という。
その南約一町余、牧沢の水田の中にあるものを「あばら石」という。ともに花崗岩である。
『安永風土記』には次のようにある。
鬼死骸はもと鬼石の井にある。延暦20年、田村将軍が大武丸の余党を討ち、これを埋めて上に石を置いた。鬼石は高さ五尺、周囲一丈余。
鬼死骸石(あばら石)は高さ一尺、周囲一丈余などとある。
『封内風土記』には
鬼石は鹿島社下の田中にあり、高さ六尺ほど、囲み三丈ほど。大武丸の屍を埋めた場所という
アバラ石は鬼死から一町ほど隔たり田中にあり、長さ六尺ほど、幅四尺ほどの平石である、とある。
編者がこれを実測したところ、その大きさは次の通りである。
鬼石 (数値不明)
アバラ石 (数値不明)

こちらも『安永風土記』『封内風土記』からの引用として書かれています。


「鬼石」の由来まとめ

鬼石の場所と大きさ

『宝暦風土記』『封内風土記』には、
鹿島神社の下の田畑の中にある石と書かれています。
この位置は、現在の鬼石の場所とも一致しています。

『宝暦風土記』『封内風土記』では
高さ六尺、周囲三丈ほどと記されています。

一方、『安永風土記』では
高さ五尺、周囲三丈あまりとなっており、
高さが30cmほど小さく書かれています。

さらに『関邑略志』や『真瀧村誌』に引用された『安永風土記』の記述では
高さ五尺、周囲一丈余となっており、
こちらは明らかに転載時の誤りの可能性があります。

これらを総合すると、
・高さ:約五〜六尺(約1.5〜1.8m)
・周囲:約三丈(約9m)
ほどの大きな石であったことが分かります。

そして、この大きさは現在の鬼石ともおおむね一致しています。

鬼石の由来

では、この石はなぜ「鬼石」と呼ばれるのでしょうか。

『宝暦風土記』『封内風土記』では、
大武丸の死体を埋めた場所の上にある石とされています。

一方、『安永風土記』では、
田村将軍(坂上田村麻呂)が大武丸の残党を討ち、その死体を埋め、その上に石を置いた
と書かれています。

つまり、
・大武丸本人が埋められた
・大武丸の残党(仲間)が埋められた
という 二つの伝承 が存在していることになります。

また『関邑略志』では、
この石を 「鬼が化けたもの」 と表現しています。

こうして見ていくと、鬼石の伝承は一つではなく、
語り継がれる中で少しずつ変化していったことが分かります。

実際の出来事があったのか、あるいは戦いの記憶が物語として形を変えていったのか。いずれにしても、この地域で 蝦夷(えみし)と大和朝廷の戦いが強く記憶されていた ことは想像できます。


「あばら石」の由来まとめ

あばら石の場所

文献では、どれも
鬼石から一町(約110m)ほど離れた田の中にある石
と書かれています。

しかし、現在のあばら石は、
鬼石から 南西方向に約200m の場所にあります。

つまり、文献の記述とは明らかに距離が異なっています。

あばら石の形状・数

石の形状についても、文献によって違いがあります。

『宝暦風土記』『封内風土記』では
・長さ六尺(約1.8m)
・幅四尺(約1.2m)
ほどの 平たい石 とされています。

一方、『安永風土記』では
・高さ一尺(約30cm)
・周囲一丈九寸(約3m弱)
と書かれており、こちらは やや盛り上がった石 のようにも読めます。

また、どの文献でも 石は一つ と書かれています。

しかし現在「あばら石」と呼ばれているものは、
複数の石が並んでいる状態 になっています。

このことから、
・現在のあばら石は別の石である
・もともとの石が失われた
・伝承の場所が移動した
といった可能性も考えられます。

周辺には多くの石があった

『真瀧村誌』には、かつてこの地域には大きな石が多く存在していたと記されています。

第一章 沿革 第三節 村名起源
鬼死骸
(中略)
此ノホトリニハ大石(置石様ノモノ)多カリシカ、石材ハ花崗岩ナルヲ以テ、之ヲ珍重シ、十数年前、他ニ運搬シテ用ヒラレ、今ハ名石タル鬼死骸石トアバラ石ノミ存セリ。

真瀧村誌(大正5年12月発行 / 復刻:2003年6月10日発行)

(参考:「復刻 眞瀧村誌」より)

現代語訳:
鬼死骸
このあたりには大石(置石のようなもの)が多くあったが、石材が花崗岩であったため珍重され、十数年前に他へ運ばれて利用され、現在は名石である鬼死骸石とアバラ石だけが残っている。

つまり、明治時代頃までは、
この周辺には大きな石が多く存在していた ことになります。
そのため、当時は、現在とは違う石が「あばら石」と呼ばれていた可能性も十分考えられます


まとめ|伝承はどのように変わるのか

現在よく語られている伝承では、
・大武丸の 胴体は鬼石の下に埋められ
首は鬼首へ飛んでいった
とされています。

しかし、大正以前の文献を見てみると、
・大武丸の死体が埋められた
・あるいは大武丸の残党が埋められた
と書かれているだけで、
「胴体だけが埋められた」という記述は見当たりません。
また、鬼首と関連するような記述も見当たりません。

いつ頃からかは記録にないが、情報の交流が広がる中で
鬼死骸と鬼首の伝承が結びつき、
現在のような形の物語が広まったのではないかと考えられます。

こうしたことから分かるのは、
伝承は固定されたものではなく、
長い年月の中で少しずつ形を変えていくものだ
ということです。

ここに、一つの逆説がある。

周囲の花崗岩の大石は、明治以降、建材として運び出された。
だが、鬼石とあばら石は残った。
「鬼の死体が埋まっている」という伝承が、
石を「触れてはならないもの」にしたからだ。

怖い話が、石を守った。

伝承は、記憶を保存する装置でもある。
語り継がれることで、物が残る。
この土地では、少なくとも二つの石が、
その逆説の恩恵を受けて、今もそこにある。

鬼石やあばら石も、そうした語りの積み重ねの中で、
この土地に積み重なってきた「記憶のかたち」なのかもしれません。


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鬼死骸村探検隊の記録は、岩手県一関市の実在の地名・地域をフィールドワークの舞台とした記録と考察です。
伝承・推測・史実の区別には注意を払っていますが、確定的な歴史的事実として提示するものではありません。


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そして、地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。



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