command: silent 09 使わなかった手帳
体の調子がおかしくて、検査を受けることになった。
中学生の頃だったと思う。
正確な歳は覚えてない。
母親はもういなかった。
父親は再婚していたが、継母とはうまくいっていなかった。
だから、ひとりで行くつもりだった。
怖くなかったかと言えば、嘘になる。
でも、誰かに頼む方がもっと面倒だった。
検査の前日、父親が言った。
「林さんっていう同僚がいてさ」
唐突だった。
「前からお前のこと気にかけてくれてて、明日、一緒に行ってくれるって」
ふうん、と答えた。
「あ、変な関係とかじゃないから。そういうんじゃないから」
……一回言えば済むことを、二回言った。
病院の前で、初めて会った。
父親はいなかった。
初対面の女の人と、ふたりきりで待合室に座った。
その人は感じのいい人だった。
笑顔が多くて、声が柔らかかった。
「お父さんとは仲良くさせてもらってるの」
「ほんとに、変な関係とかじゃないのよ?」
また、同じことを言った。
子どもが三人いて、全部女の子なんだ、と笑った。
「男の子って関わる機会ないから、なんかね、新鮮で」
……そうですか、とだけ返した。
検査は問題なく終わった。
帰り際、LINE交換しようよ、と言われた。
断った。
理由は言わなかった。
面倒くさい匂いしかしなかった。
それからしばらく、父親経由でその人の名前が出た。
「林さんが心配してたよ」
「元気にしてる?だって」
そのたびに、「うん、元気って言っといて」と返した。
それ以上でも以下でもなかった。
クリスマスの頃だった。
父親が、小声で呼んだ。
継母のいない隙を見計らって、「こっちこっち」と手招きした。
紙袋を渡された。
「林さんからお前に、って」
中身は手帳だった。
しゃれた革の手帳。
中学生の持ち物としては、少し大人びていた。
「ありがとうって言っといて」
笑って、そう言った。
父親は嬉しそうだった。
自分の子どもが、自分の大事な人に受け入れられている、
……っていう"絵"が欲しかったんだろうと思う。
……なんで、そこまでするんだろう。
それだけが引っかかった。
同僚の、一度しか会っていない子どもに、
クリスマスプレゼントを贈る理由。
「心配してくれている」で済ませるには、距離がおかしかった。
手帳は、机の引き出しに入れた。
包装は開けた。
中は見た。
使わなかった。
何か嫌なものが込められていたわけじゃない。
たぶん、本当に善意だったんだと思う。
ただ、その善意がどこから来て、
どこに向かっているのかが、
わからないまま受け取ることが、
できなかった。
その後、父親と継母は離婚した。
林さんとは、いつの間にか疎遠になっていたらしい。
再婚は、しなかった。
あの手帳は、何だったんだろう。
善意だったのか。
下見だったのか。
それとも、どちらでもない、名前のつかない何かだったのか。
答えは出ない。
出ないまま、引き出しの奥で革が乾いていった。
今日はそれだけの話。
