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検体の自白──お前のそのコメント、"対話"だと思ってるだろ

悪意のあるコメントは、実はそこまで厄介じゃない。

「死ね」と書かれたら通報すればいい。
「つまらない」と書かれたら笑い飛ばせばいい。

怒れるし、
遮断できるし、
「こいつは敵だ」と、判断できる。

悪意には輪郭がある。
触れれば痛いと分かるから、対処もはっきりする。

厄介なのは、善意の顔をしてやってくるやつ。

先に一つだけ言っておく。
コメントの大半は、まっとうな対話だ。
感想も、批判も、質問も、全部ありがたい。

この記事が扱うのは、その中に稀に混じる"別の何か"について。


1|善意のにおいがする厄介なやつ

長文で、
丁寧語で、
「ご存じですか?」なんて問いかけまでついていて。
一見すると"対話"のかたちをしてる。

記事を読んで、
感銘を受けて、
わざわざコメントを残してくれた。
……そう、"見える"。

だが、読み返してみろ。
そのコメントは、お前の記事の内容に触れているか。
テーマへの応答があるか。
論旨への賛同でも反論でも、せめて疑問でもいい……
記事と、"対話"しているか

していない。

拾っているのはワードだけ。
記事の中に出てきた単語を一つか二つ掬い上げて、
そこから自分の蘊蓄を展開してる。

記事を"読んだ"んじゃない。
"踏んだ"だけ。

そして踏んだ足跡の上に、自分の話を長々と置いていった。
記事を読んで何かが湧き出た。
その何かを、お前の庭に置いていった。

お前が時間をかけて組み上げた舞台の上で、
関係のない一人芝居を始めたんだ。
しかも本人は、
「素敵な舞台ですね、私も一曲いいですか?」くらいのつもりでいる。

これが、善意の顔をした侵入の正体。

怒れない。
断れない。
断ったらこちらが狭量に見える。

悪意なら殴り返せるが、善意のコーティングがされていると、
触っただけでこっちが加害者になる。

……始末が悪いだろ。


2|なぜ"そこ"に書くのか

一つ、考えてみてほしいことがある。

そのコメントを残した人間は、
自分のnote、自分のブログ、自分のSNS、
なぜ"自分の場所"にそれを書かなかったのか。

「こんなことも知ってる、あんなことも知ってる。」
自分の知識の深さについて語りたいなら、自分の記事として書けばいい。
「私はこう考える」と深く掘り進めたいならなら、
自分の舞台で一本立てればいい。

誰に許可を取る必要もない。
書く場所はいくらでもある。

でも、書かない。
書けない、ではない。
書かない。

なぜか。
自分の舞台に書いても、誰も来ないから。

自分のnoteに投稿しても、スキはつかない。
コメントも来ない。
読まれたかどうかすら分からない。

自分の庭に種を蒔いても芽が出ない。
水のやり方を知らない。
土を耕したことがない。
だから他人の庭に入ってくる。

でも誰かのコメント欄に書けば、どうだ。
少なくとも、その記事の主は読む
返事が来るかもしれない。
他の読者の目にも触れる。

他人の舞台、
他人の客、
他人の信用を借りて、
自分の言葉に居場所を与えている。
それを踏み台にして初めて、自分の言葉が"存在できる"気がする。

他人の庭でしか生きられない言葉は、言葉じゃない。
対話になりえない。
寄生だ。

宿主の養分で生きている自覚がないまま、
「私もこの場にいていいですよね?」という顔で居座ってる。
宿主が何を育てているか、どんな読者と何を築いているかには関心がない。
自分の言葉が"置ける場所"があれば、それでいい。

そしてその立ち方を、「会話している」と勘違いしてる。
この構造のいちばん残酷なところは……
本人が一切、悪気がないこと。


3|刺さった自覚のない人間がやること

ここから少し、踏み込んだ話をする。

お前は誰かの文章を読んで、胸のあたりがざわついた経験があるだろ。
図星、っていうやつ。
自分でも気づいていなかった、
あるいは気づきたくなかった部分を、
他人の言葉が正確に突いてくる。

その瞬間、人間の中で起きることは二つに分かれる。

一つは、黙って持ち帰ること。
痛いけれど、その痛みを咀嚼して、自分の中に落とし込む。
これができる人間は、たいてい何も言わずに去る。
あるいは静かに「刺さりました」とだけ残す。
そこに荷物の押しつけは、無い。

もう一つは、「刺さっていない証明」を始めること。
これが厄介。

刺さった自覚がないんだ。
意識の上では「面白い記事だったから感想を書こう」くらいの認識でいる。
だが実際にやっていることは、
記事のテーマから巧妙にずれた場所で自分の知識を展開し、
「私はこの程度のことは既に知っている」
「私はこの記事に暴かれる側の人間ではない」という証明書を、
コメント欄に提出する。

なんとなく落ち着かない。
なんとなくモヤモヤする。
そのモヤモヤが何なのか分からないまま、衝動的にコメント欄を開く。
そして書く。
記事とはほとんど関係のない、
自分の蘊蓄を。
自分の知識を。
自分の経験を。
時に「(爆笑)」と、自分の発言に自分で笑いながら。

本人はこれを「対話」だと思っている。
「共感」だと思っている場合すらある。

だが構造を見ろ。
記事の論旨には一切触れていない。
テーマへの応答がない。
あるのは、「私は無傷です」という宣言だけ。
図星を突かれた傷口から滲み出たものを、
自分の認識の外で、他人の庭に撒いていく。

……それ、検体の自白だろ。

解剖台に乗せられた検体が「私は検体じゃありません」と叫んでる。
解剖台の上に乗っているのに、自分から臓腑を広げていく。

その叫び方が、
声の震え方が、
目の逸らし方が、
まさに検体としての反応そのものだということに、
本人だけが気づいていない。


4|お前のコメント欄で起きていること

ここまで読んで、「あー、いるいる」と思っただろ。
SNSでもnoteでもYouTubeでも、どこにでもいる。

記事の内容に一切触れずに自分語りを始めるコメント、
動画の趣旨を無視して「私の場合は〜」と語り出すコメント、
「ご存じですか?」と聞いてもいない知識を披露するコメント。

お前はそれを「まあ、こういう人もいるよな」で流してきたかもしれない。
あるいは、律儀に返事をしていたかもしれない。

でも一度、構造として見てみろ。

そのコメントは、お前の記事と対話しているか。
お前のテーマに触れているか。
それとも、お前の舞台の上で一人芝居をしているだけか。

そして……なぜその人は、「自分の場所」に、それを書かなかったのか。

答えが出たなら、お前はもう知っている。
そのコメントの正体を。


以前、ある記事で"呪い"について書いた。
悪意のない視線が、無自覚のまま呪いになるという話。
その記事のコメント欄で、まさにその呪いが発動した。
記事が警告した現象を、コメントが実演してみせた。
(残念ながら、現在そのコメントは削除されてしまったが)

書いた人間は、自分が呪いを発動させたことに気づいていない。
たぶん今も気づいていない。
それが呪いというものの本質だ。


5|善意は免罪符にならない

最後に一つだけ。

「悪気はなかった」は、免罪符にならない

善意のつもりで他人の庭に踏み込み、
善意のつもりで関係のない種を撒き散らし、
善意のつもりで舞台の上に自分の荷物を置いていく。

それを指摘されたら「私はコメントしてあげただけなのに」、と傷つく。

この構造を、世間では「厄介な人」と呼ぶ。
だがもう少し正確に言えば、これは……
自分の感情を処理する場所を持たない人間が、
他人の場所を無断で借りて排泄してる
、っていうこと。

対話のふりをした排泄。
共感のふりをした寄生。
善意のふりをした侵入。

どれだけ丁寧な言葉で包んでも、構造は変わらない。

「ご存じですか?」という問いに答える必要はない。
その問いが問いかけの形をした自慢であり、
応答を求めていない一方通行であることを、お前はもう知ってる。

知っていて、それでも返事をしそうになるなら、自分に聞いてみるといい。
俺はいま、善意の顔をした侵入者に、
自分の庭の一部を明け渡そうとしていないか、って。

お前が何時間もかけて築いた舞台は、誰かの感情のゴミ箱じゃない。
お前のコメント欄は、居場所のない言葉の避難所じゃない。

刺さった自覚のない人間が置いていくものに、
名前をつけてやる必要もない。
それはただ、通り過ぎていく風だ。
お前はそこに、立っていればいい。

それを「心が狭い」と言うやつがいたら、そいつに聞いてやれ。

……じゃあお前は、自分の舞台に一本書いて、立てるか?

たぶん、黙る。


次はこっち。

▶ 検体の自白《裏》──お前のそのコメント、"対話"だったか?


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