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検体の自白《裏》──お前のそのコメント、"対話"だったか?

前回の記事で、コメント欄に現れる"善意の顔をした侵入者"を解剖した。

▶ 検体の自白──お前のそのコメント、"対話"だと思ってるだろ

記事を読まずに踏むだけの人間、
他人の舞台で一人芝居を始める人間、
善意のコーティングで侵入してくる人間。

読んだお前は、たぶんこう思っただろ。
「あー、いるいる。あれ、ほんと迷惑なんだよな」って。

……今日は、お前の話をする。


1|「いるいる」と笑ったお前へ

前回の記事を読んで、心当たりのある顔が浮かんだだろ。
「あの人のコメント、まさにこれだった」って。

気持ちよかったはずだ。
自分が感じていたモヤモヤに名前がついて、
構造が見えて、
「やっぱりあれはおかしかったんだ」って、確認できた。

その感覚は正しい。
ああいう人間は確かにいる。
お前の周りにも、俺の周りにも。
あの記事は"やられる側"のために書いた。

でも、ここで一つだけ聞かせろ。

お前は「やってる側」じゃないと、なぜ言い切れる?

前回の記事で書いた。
侵入者は、悪意を持って侵入しない、と。

それはつまり、お前も同じように、
悪意なく誰かの庭に入っていた可能性があるってことだ。
悪意がなければセーフ、っていう話じゃない。
無自覚であることは、むしろ繰り返しの条件になる。

気づかないから、止まれない。
謝らないんじゃなくて、謝る必要があることすら、見えていない。

前の記事の「侵入者」を読んで、
自分とは無関係の話だと思えたなら、少しだけ疑ってみてほしい。
人間は自分に都合の悪い鏡を、無意識のままきれいに避ける。

そして、こうも書いた。
図星を突かれた人間は、二つに分かれる。
黙って持ち帰るか、「刺さっていない証明」を始めるか。

今、お前の中で何かが動いたなら。
「いや、自分は違う」と反射的に思ったなら。

その反射を、少しだけ手の中に置いておいてくれ。
まだ捨てなくていい。
ただ握っておけ。


2|お前のコメントを、解剖する

ここから先は、誰かのコメント欄に
一度でも何かを書いたことがある人間の全員に向けて話す。

お前が最後に残したコメントを思い出してくれ。
noteでもXでもYouTubeでもいい。
誰かの投稿に対して、何かを書いた。
あの一回。

思い出したら、三つだけ、確認しろ。

一つ。
そのコメントは、相手の"何"に対する応答だったか。

記事のテーマに触れていたか。
相手が言いたかったことに、反応していたか。
「この部分が刺さった」
「ここに違和感がある」
「こういう経験と重なった」
これは、対話だ。
相手の声を受け取って、自分の声を返してる。

……あるいは。
記事の中のワードを一つか二つ拾って、
そこから自分の話を始めていなかったか。


二つ。
そのコメントを、自分の場所に書いても成立したか。

「これも、知ってる?」
「私にも似たことがあってね」……。
その先が、
自分のnoteに一本の記事として立てても意味が通る内容だったなら。
それは"コメント"じゃなく"お前の話"だ。
他人の舞台に置く必要がなかった。
置いた理由は、
「"相手"に読んでほしかったから」。
「"相手の読者"に見てほしかったから」。
……それ、"寄生"の構造と何が違う。


三つ。
そのコメントを書いた後、お前は満足したか

書いたことで気持ちが軽くなっていたなら、それは対話じゃない。
"排泄"だ。
対話には相手の返事を聞く緊張がある。
排泄には、出したらすっきりする弛緩しかない。


過去に書いたコメントをひとつ取り出して、
「書いた自分」の視点を外し、
この三点を踏まえて、もう一度読んでみろ。

相手の文章を受けて生まれた言葉か。
自分の中にあったものが、相手の文章を踏み台にして出てきた言葉か。

後者が悪いとは言わない。
ただ、それは相手に向けた言葉じゃない。
お前の内側から出てきたものが、たまたま相手の庭に着地しただけ。
それを「コメントした」と呼ぶのは、少し違う。

三つとも白だったなら、お前のコメントは対話だった。
胸を張っていい。

一つでも引っかかったなら……ここから先を、もう少し読んでくれ。


3|なぜお前は、他人の庭に書きたくなるのか

これは責めてるんじゃない。
構造の話をしてる。

他人の投稿にコメントを残したくなる衝動の正体は、
ほとんどの場合、
「自分の言葉に居場所がほしい」という、"飢餓"

自分の場所で書いても誰にも届かない。
反応がない。
自分の言葉が虚空に消えていく感覚がある。
それが続くと、人間は"確実に読まれる場所"に言葉を置きたくなる。

誰かのコメント欄は、その条件を満たす。
少なくとも相手は読む。
返事が来るかもしれない。
他の読者の目にも触れる。
自分の言葉が"存在した"手応えが得られる。

これは弱さじゃない。
人間として当たり前の欲求だ。

だが、当たり前の欲求であることと、
それを他人の場所で満たしていいかどうかは、別の話。

腹が減るのは当たり前だ。
でも他人の皿から食うのは、別の話だろ。

お前の飢餓は本物だ。
言葉を届けたい、
反応がほしい、
自分の存在を確認したい。
それは否定しない。

だがその飢餓を、他人の舞台で満たそうとした瞬間に、
お前の言葉は"対話"から"寄生"に変わる。


4|「私は善意だった」が通じない理由

ここまで読んで、こう思った人間がいるだろ。
「でも、自分は本当に感想を伝えたかっただけなんだ」、と。

分かってる。
お前に悪気はなかった。
そんなことは最初から知っている。

前回の記事でも書いた。
「善意は免罪符にならない」、と。
それを今度は、お前に向かって言う。

お前の動機が純粋であることと、
お前のコメントが相手にとって対話だったかどうかは、
まったく別の問題だ。

「伝えたかった」は、お前の都合だ。
「伝わったか」「相手がそれを必要としていたか」は、相手の都合だ。

"感想を書いてあげた"
この「あげた」が、すでにずれてる。

感想は贈り物じゃない。
感想は対話の入口だ。
贈り物だと思っている時点で、お前はもう相手を見ていない。
自分の「書きたかった」を満たしているだけだ。

もう一度聞く。

お前のそのコメントは……相手の言葉に、応答していたか?
それとも。
相手の舞台を借りて、自分の言葉を"存在させた"だけだったか?


5|対話ができる人間は、怖い

最後に、一つだけ。

本当に対話ができる人間は、コメントを書く前に怖くなる。

「これは的外れじゃないか」
「相手が伝えたかったことを、自分はちゃんと受け取れているか」
「自分の話にすり替えていないか」
……その恐怖がある。

前回の記事に出てきた"善意の侵入者"には、この恐怖がない。
だから長文が書ける。
だから蘊蓄を展開できる。
だから「ご存じですか?」と笑顔で踏み込める。

怖くないから。
"相手"を見ていないから。
"自分"しか、見ていないから。

コメントを書く手が一瞬止まるやつは、大丈夫だ。
その一瞬が、対話の入口だ。

迷わずに書けるやつは、立ち止まれ。
その迷いのなさが、相手の庭を踏み荒らしている可能性を、
一回だけ考えろ。

お前の庭はお前のものだ。
他人の庭も、他人のものだ。

お前の言葉に居場所がほしいなら、自分の庭を耕せ。
他人の庭に種を撒くな。

芽が出なくても、
虫に食われても、
誰も見に来なくても、
自分の土の上に立て。

そこから出た言葉だけが、
誰かのコメント欄に置いた時に……"対話"に、なる。

お前が前回の記事を読んで「いるいる」と笑ったその口で、
誰かの庭に感情を置いてきたことがなかったか。

なかったなら、いい。

あったなら……お前はもう気づいてる。
気づいたなら、次からは変わる。

その"次"があるから、この記事を書いた。

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