command: silent 06 笑いながら電話をかける人
その家の夫婦喧嘩は、いつも同じだった。
怒鳴る。
殴る。
物が倒れる。
壁が揺れて、食器が鳴って、 どこかのドアがばたんと閉まる。
子どもにとっては天気みたいなものだった。
荒れてるな、と思って、やり過ごす。
それだけ。
ある日、玄関で始まった。
声が大きくなって、
体がぶつかる音がして、
いつもと同じだと思っていた。
ただ、その日は少しだけ違った。
玄関に、陶器のフクロウの置物があった。
白くて、つるっとしていて、両手で持てるくらいの大きさ。
いつからそこにあったのかは覚えていない。
父親がそれを手に取った。
……何をしようとしたのかは、はっきり見ていない。
ただ、気づいた時には、父親の手から血が出ていた。
たぶん、手元が狂ったんだと思う。
投げようとしたのか、振り回したのか。
結果だけ見れば、自分でやった怪我だった。
血が、ぽたぽたと玄関のタイルに落ちていた。
父親が叫んでいた。
「救急車呼べ!」
「いいから早く呼べ!」
母親は奥の部屋に戻って、子機を取った。
……そして、笑っていた。
うっすらと、口元だけで、笑っていた。
子機を耳に当てて、玄関に戻ってきた時にはもう、隠す気もなかった。
「夫がぁ……あっはは、置物割っちゃってぇ……」
電話の向こうの救急に、そう言っていた。
父親がさらに怒鳴っていた。
「ふざけんな、さっさと呼べ!」
母親は笑いながら、あえてゆっくりと、住所を伝えていた。
救急車が来て、父親は運ばれていった。
喧嘩がどう終わったのかは、知らない。
覚えているのは、母親の声だけだ。
電話口で笑っている、あの声。
おかしくてたまらない、という顔で、
血を流している人間の横に立っている、あの姿。
それから何年か経って、母親がふいにその話をした。
「ねえ、あの時のフクロウ覚えてる?」
覚えてるよ、とは言わなかった気がする。
曖昧に頷いただけだと思う。
「あれ私、気に入ってたのに。割られて、ごめんも言われてないの」
母親は少し不満そうに言って、それから、ふっと笑った。
「……でもまあ、あの大怪我はスカッとしたわ」
その時も、笑っていた。
何年経っても、笑い方が同じだった。
……怒鳴り声も、血も、救急車のサイレンも、全部消えた。
でも、あの笑い声だけが残っている。
八つか九つの子どもが見た光景の中で、
一番静かで、
一番おかしかったのは、
玄関で血が広がっていく横で、
笑いながら電話をかけている母親の横顔だった。
怖かったのかと聞かれたら、わからない。
たぶん、怖いと思う前に、
「ああ、この人はこういう人なんだ」と、 理解してしまったんだと思う。
八歳の理解力で。
今日はそれだけの話。
