応神期の大規模渡来の実態[ト説]
前記事の訂正から
弓月君(秦氏)と阿知使主(東漢氏)が一度に大挙したと書きましたが、それは『日本書紀』の記述であって、実際は何度かに分けて、計画的に渡来してきたと、学術界では見ているようです。
であれば「おしかけ説」は成り立ちません。
半島側の誰かとヤマト連合政権の間で協議の上、大規模渡来のミッションが実行されたことになります。
半島側の誰かとは、百済です。
構図、流れとしては以下のようになります。
新羅と抗争していた百済が、ヤマトに応援(出兵)を依頼
おそらく伽耶(鉄の供給源)で共通の利害があったのでしょう
ヤマトはそれに答えて、半島に大兵団を送った。
いわゆる神功皇后の三韓征伐の時期のことです。
緒戦では、ヤマト百済連合軍が新羅軍を圧倒。
ところが、新羅は北方の高句麗に支援を求めます。
かねてから南を狙っていた高句麗が参戦。高句麗の騎馬軍団はヤマト百済連合を押し戻し、百済は逆に、高句麗の侵攻に脅えることになりました。
こうなると、ヤマトは兵を撤収出来ません。ヤマトが兵を引き上げれば、高句麗新羅連合が百済に侵攻してくる公算が高かったから。
ところが、当時の兵のほとんどは農村から徴兵された農民。戻って来れないとなると、大きな損失です。
この戦いで、百済がヤマトにどんな報酬を約束していたのかわかりませんが、勝てなかった場合は報酬が無いということだったとしても、駐留してもらうことになった以上、百済としてはその見返りを支払わねばなりません。
そこで百済が提供したのが、先端技術者、学者、職人、訓練された労働者だったのでしょう。そしてその中に、秦氏と東漢氏の割合が高かったのではないか。
何故なら、東漢氏は楽浪郡にいた中国系だったと推定されていますし、秦氏については諸説入り乱れていますが、たとえ百済系であったとしても、特別な集団だったと思われるからです。後の時代の、百済滅亡時に大量にやってきた百済人には秦氏のようなアイデンティティがありませんから。
つまり、百済はヤマトに送る人材を、平均的な国民の中から無作為に選んだのではなく、属性のハッキリしている集団を、そのままヤマトに譲った可能性が高いと思います。
秦氏は各地の豪族の元に分散配置されたとされていますが、その理由が、各地の豪族が出した兵士(農民)の見返りと考えれば、合点がいきます。
一方、東漢氏が大和の一角にまとめて配置されたのは、彼らの得意とする能力が、地方では役に立たなかったからではないか。たとえば、行政に関わる仕事などです。東漢氏には楽浪郡の行政役人が多かった可能性があると思います。
ちなみに、東漢氏が百済に避難していたのは、高句麗が楽浪郡を攻めたからです。大陸に逃げることが出来なかった者が百済を頼った。
学術モドキの話で、関心のない方には退屈な話だったかもしれませんが、これは義務教育でも紹介すべき日本の大切なルーツだと思います。
農村の壮年の男性が兵隊に取られて帰ってこなかった
代わりに渡来人がやってきた
これは安定した日本社会に少数の渡来人がやってきたとか、都や港湾町に渡来人がやってきたという話と違います。いきなり農村で国際交流を迫られたのです。
当時のヤマト連合は、畿内、中国地方、北九州あたりが勢力圏でしたが、戦争に積極的だった豪族の領地で集中的に徴兵されたはずです。そのような地域の聚落にとっては、百人の内、二三名が兵隊にとられたということだったと思われます。
ちょうど今のわたしの居住地区にも外国人家庭が三軒あるんですが、いずれもこの十年以内に転居してこられた方です。わずか三軒ですが、良くも悪くも交流ははじまっています。移民問題とか、そういう全体の話と目の前の話は別なんです。
日本では、応神期(五世紀初め)という大昔において、すでに同様の事態が発生していた。「外国人(渡来人)が、やってきたぞ!」と身構えたのは、最初の数か月、数年もすれば、日常的な関係に移行していた……。
世界広しと云えども、いきなり地方の農村で同時多発的に外国人との付き合いがはじまったという例はあまりないと思います。
ちなみに、そのようなケースでは婚姻も早期に実施されたと思います。夫を失った寡婦、恋人を失った若い女性が、農村で再婚、結婚しないで生きていくことはほぼ無理でしたから。偏見よりも、仕事優先。
もっといえば、昔の農村では共同作業が多く、かつ平等に負担するのが原則。その責任を果たせない家が増えるのは困るんです。したがって、村としては、日本人寡婦と渡来人との婚姻に抵抗するどころか。早期に受け入れる方向に動いたのではないでしょうか。
具体的にイメージすると、いろんなことが察せられます。
たとえば、都に渡来人の職人がいたとしましょう。その職人に仕事を頼むことがなければ、まず接点はありません。
しかし、農村だと、いきなり共同作業がある。言葉が通じないことは二の次、三の次。手伝ってもらわないと困る。
で、なんとかやってもらう。そうすると現代の自治会でもそうですが、一緒に汗を流すと、ぐんと距離が縮まるのです。その後、飲めや歌えやの宴会をすれば、もっと気心が知れます。
そんな共同作業が何回か続けば、渡来人たちも要領が分かってきて、自分たちの方がうまくやれると思えば、逆に、指導的な役を務めることになるでしょうし、成果が上がれば自ずと地位が上がります。現場とはそういうものです。
もし渡来人の中に、鍛冶屋がいれば鉄製の農機具を作ってくれるかもしれません。当時のヤマトでは、鉄製の農機具はまだ貴重品です。
もし彼らが、自分の持ってきた鉄製品を溶かして農機具を作ってくれたりしたら、ヒーローですよ。
酒の造り方、織物の織り方、そんなのを教えてもらえれば、その村は飛躍的に豊かになります。神のレベルです。
何が云いたいか。
片方で「日本は単一民族」と云いながら、同時に古代の歴史において「あれも渡来系、これも渡来系」と説明するのは矛盾していると思います。
「日本は渡来系国家説」も「日本は単一民族説」も、どっちも極端なレッテル。実態は、国家の成立時に外国人との融合が進んだ世界でもめずらしいケースだったのではないでしょうか。
にもかかわらず「渡来系」という言葉が、色褪せずに残り、少なくとも古代史において盛んに用いられているのは、前記事でも書かせていただいたように、秦氏が「渡来系」をブランド化させたからでしょうね。
「渡来人(来たばかりの外国人)」に注目するのは、それなりに意味があると思いますよ。
しかし「渡来系」という言葉には要注意。子や孫なのか、それとも先祖が渡来してから百年以上も経っている「ブランド渡来系」なのかは区別する必要があると思います。
今回の記事は、そんな基本的なことを理解できていなかったという
わたしの反省記事でもあります。
