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秦氏と芭蕉「さるをきく」[ト説]

 芭蕉の「古池や……」の句の読み解きからはじまったわたしの歴史シリーズですが、古代史を探求しているうちに、なんとまた芭蕉に行き当たってしまいました。

 それもわたしが若い頃に記憶した数少ない句への再会だったという因縁。その一節とは

野ざらし紀行(富士川の捨て子)現代語訳
 富士川のほとりを行くと、三歳ぐらいの捨て子で悲しそうに泣いている子がいる。
 この川の(人目の多い渡し場の)流れの速い浅瀬に(子どもの身を)託して、(親は)このつらい世の荒波をしのいでいくことができず、露ほどの(はかない)命(が尽きるの)を待つ間(だけは)と(思って)捨て置いたのであろう。
 小萩(のような幼子)の辺りに吹く秋風に、(か弱い命は)今宵のうちに散るだろうか、明日にはしおれるだろうかと(あわれに思って)、袂から食べ物を(取り出して)与えて通り過ぎる時に、
  猿を聞く人捨子に秋の風いかに
 猿のなく声(に悲痛な思い)を感じてきた詩人たちよ、(泣き叫ぶ)捨て子に吹く秋風(の悲痛さ)を何と(受け止めるのか)。
 どういうわけか、おまえは、父に憎まれているのか、(それとも)母に嫌われているのか。
 父はおまえを憎むのではあるまい、母はおまえを嫌うのではあるまい。
ただこれは天命であって(どうしようもないことなのだから)、おまえの生まれつきの運命の不運を泣け。

https://text.yarukifinder.com/kobun/4430

 確か、立原正秋氏の文章の中で見かけたのだと記憶していますが(だとしたら、それも意味深……)、わからないままに、はっとさせられました。
 皆さんはこの一節、どう思われます?
 親との関係に恵まれなかった方以外の者にとっては、共感できるような内容ではないですよね。たとえそれが、何かを象徴、暗喩しているものだとしても、何をほのめかしているのかわかりません。
 まあ、当時のわたしは、出来の悪い自分に対して、誰かを恨むな。そんな星の元に生まれた自分の運命を嘆け、というくらいにしか思ってなかったのかもしれませんが。

 もちろん、歌も俳句も多層レイヤーの作品ですので、一般向けには、そう受け取れるように書いたのでしょう。入口で引きつけなければ素通りされてしまいますから。
 今回、再会したと云うのは、深層レイヤーの意味に気づいたということ。

 端的に云いますと

「猿」というのは各地の僻地にひっそりと暮らしている
敗者の末裔のこと

「猿を聞」は、彼らの伝承を聴く

 芭蕉は、それをたまたま耳にしたのではなく、それを聴くことが芭蕉の旅の主たる目的の一つでした。自分から聴き取りをやっていたのです。

 しかし、その内容はかなしい。やりきれない。
 その胸の苦しさをどうすればいいのか?

 芭蕉は「お能」の方法をなぞります。
 旅の僧侶は、行く先で出会った亡霊を調伏したりはしません。思うままに語らせ、それを聴いてやるのです。聴いてやって、その話を語り継ぐのが「お能」の鎮魂法。

 芭蕉の俳諧…… おもしろおかしく、また耽美的にふるまい続けますが、それはある意味「隠れ蓑」であって、その内に各地の「悲しい云い伝え」を拾っていくライフワークがあった。

 詳しい方は「蓑」に「猿蓑」選句集を連想されたでしょう。
 わたしは全然、詳しくありませんが、たぶんそのことです。
 本当は「俳諧が蓑」であり、「悲しい云い伝えを聴くことが身」なんですが、それを逆さまに云い換えたんじゃないでしょうか。

「猿」がどうして「云い伝えを聴くこと」を意味するのか?

 歴史を知ると云うのは、そういうことを知ることかも。

「猿」は、猿田彦、先住民、被征服民の隠語

「お能」の前身である「申楽」の本意は、そのような者たちの伝承を「謡い継ぐ」ということなんです。芭蕉はその系譜にいた。

 トンデモらしい云い方をすれば

申楽=秦氏 秦氏=松尾大社→「松尾」芭蕉

 芭蕉については、これ以上は云いません。
 史料が豊富で、詳細に研究されておられる方がたくさんおられますので。
 
 専門家が語りたがらないのは秦氏についてです。
 
 やはり、秦氏はタブーなんです。
 語っていいのは道化師だけ。そこはトンデモ野郎の出番。

列島の古層文化を
誰よりも詳しく聴き取ったのが
渡来人の代名詞、秦氏なんですよ!


「秦氏は建国のゴーストライターだった」という記事で、ざっくりと書きましたが、ヤマト朝廷が文字を導入する前、列島の記録は口承で行われていました。その口承を文字化したのが秦氏です。

 当初は、ヤマト朝廷が抱えていた口承伝承者からの聴き取りをやったのでしょう。しかしすぐにそれでは飽き足らなくなり、自ら直接、各地の山野に隠れていた口承伝承者を探し出し、聴き取りを行った。
 秦氏はある意味、現場の人であり、工事もやれば、養蚕もやる、各種職人も、約半数は定住ではなく移動しながらです。秦氏の方が、各地の人々との接点があった。ヤマト朝廷の役人なんかよりもずっと。
 
 

だから、秦氏が神社を造ることになるのですよ
渡来人でありながら
列島の古い神々を受け継ぐことになってしまったのです!

 
 わたしはついこないだまでこう思っていました。

 渡来の秦氏の造った神社って、どうなのよ?

 違うんです。

 ヤマト朝廷は、自分たち(国家)の神話を整備するのに手一杯だった。その間、ずっと秦氏は各地の古い神々の声(口承)を聴き取っていた。

 民衆にとって、どちらが自分たちに近いか、ということです。


しかし、征服された人々の話はつらい
だから、神社を造ると同時に申楽を演じた
神社は厳かに祀るもの
申楽は感情をあらわにする機会です

 
 秦氏は、陰謀論でいう黒幕的な存在ではないようです。
 縁の下で、この国を支えることもやってきた。
 そのおかげは、かなりある。 現代、誰がそれを担っているのか?

* * *

 この考察は「うたよみざる」という戯曲に大きく触発されたものです。
 そしてそれを教えて下さったのが
Ռոշանակ (Roshanak, 𐎼𐎧𐏁𐎴)」さん。ありがとうございました。

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