民主主義を破壊する反共カルトと戦犯③-06🏫イジメとネトウヨの棲息地06👹⛩[自己愛のタフと玩具]
民主主義を破壊する反共カルトと戦犯③-06🏫イジメとネトウヨの棲息地06👹⛩[自己愛のタフと玩具]
表向きの🇯🇵社会では、なかなか見かけないが、ネット上では暗躍して、
まともな日本人🇯🇵を嬉々として集団で迫害したり、虐殺に追いやったりする
ネトウヨと言う「鬼畜👹が実在」しています。薄々気づいてる人も多いですが、残念ながらこれは、ファシスト👹やナチズム🇩🇪との闘いであり、放置すると、
犠牲💀や被害が広がる一方で、もはや避けては通れない🇯🇵社会問題に
なりつつあります。しかし、ネトウヨはあれだけ大勢居ながら、奴らの生態は
資料や研究もなく、全く分かっていません。このシリーズでは「イジメ」
を介して、その発生や生態を読み解いて解明していこうと思います。
内藤朝雄氏📕の「いじめの構造」はやや難解なので、独自の解説を加えながら、
その「イジメの構造と鬼畜👹の実態を明らかに」していきます。

第3章2節 弱者にとっての「タフであること」
第3章2節1項 「体験加工」
【学校を理不尽に耐える場というカルト教師の増加】
"ひどい理不尽に対してされるがままでいるしかない”、”無力でみじめな者”は、
この”耐えがたい、生きがたい体験の意味”を、それでも「生きうる」、さらには
「生きるに値する」ものへと”変造しがち”である。
このような”リアリティの変造”を、本書では「体験加工」と呼ぶ。
【統一協会現役信者🏺が悲惨な現実を肯定するのと同じ】
”耐えがたい、生きがたい体験の意味”を自己正当化して、被害を訴える人たち
を攻撃してしまう「体験加工」の様子を、X(旧Twitter)のやり取りから
見てもらいたい。
黒色=統一協会被害者の発言
オレンジ色=統一協会現役信者🏺の発言
自分も統一協会🏺の合同結婚式💒で、ロクデナシの夫と結婚させられる
被害に遭いながらも、被害の現実を受け止められず、離婚もせず
離れたまま結婚生活を続けていると言う「体験加工」の例である。



【統一協会🏺や自民党の悪事が再生産され続ける理由】
皮肉なことに、多くの人々がこの体験加工を行うことの積み重ねが、
当の耐えがたい現実を再生産する(メカニズムの主要な構成要素になる)
ことがある。そういうとき、人々を苦しめる悲惨な現実は、いつまでも続く。
スパルタ体罰教師を指導力がある教師と評価して体罰を再生産するシステムなど。

体罰を再生産するシステム

体罰を再生産するシステム

体罰を再生産するシステム
【無能な日本企業にはびこる生存バイアス「タフ」の全能、「タフ」の倫理秩序】
その顕著な例が、「タフ」の全能、「タフ」の倫理秩序といわれるものである。
生きがたい小社会の「自分たちなり」の秩序のなかで、理不尽にいじめられ、
その理不尽をされるがままに耐えるしかなかった惨めな者たちは、
しばしば、このような苦労をしたことによって自分は「タフ」になった、
というふうに体験を加工する。
この”体験加工の習慣”が、最初の残酷と迫害に満ちた小社会を再生産するので
ある。この悪循環について詳しく説明しよう。
これまで述べたように、全能感は”自己の不全感の反転(教済)感覚”として生じ、
さまざまな筋書に託して具現されるのであった。
たとえば、他者を殴り、恐怖で震えあがらせ、辱め、どこまでも思い通りにする、
といった類の筋書によって、いじめ加害者は全能の「強さ」の感覚にひたる。


【耐えることを「タフ」という全能筋書に変造する】
こういったいじめの全能とともに、重要な役割を果たすのが、
「タフ」の筋書による全能である。
「逃げることができず、圧倒的な理不尽に屈服して生きるしかない者」は、
しばしば、「耐えること自体」を、「タフ」という全能筋書に変造する。
【耐えられるDV】
共働きで稼ぐことを求められ、家では良妻賢母を求められて、
「母親なんだからがんばらなくちゃ、妻なんだからこのくらいの夫のわがままには耐えなければ。そんな日常でしたね。我慢するのが当たり前になっていた。夫に文句を言って気まずくなるよりは自分ががんばってしまえばいいんだ、と」
と耐えて頑張ることが当たり前になって支えられてきた「結婚生活」。
それを「タフという全能筋書に変造」した年寄りたちが「そんなことで離婚するなんて我慢が足りない」と女性を非難したり、図々しくなった男が
「耐えられるDV」などと言い出したのが、その典型例であろう。



【パワハラ知事が辞めない=タフと評価みたいなすり替え】
つまり、本来は自分のダメージを最小限にとどめるための戦略(計算のひとつの「解」)にすぎない「耐える」という形を全能筋書に用いて(流用して)、
「タフ」という全能の「強さ」をこの身に具現しようとするのである。
”されるがままになるしかない惨めさ”が、”されるがままであり続ける”「強さ」
に”すり替え”られる。これが「タフ」の全能である。




【卑屈に上に媚びることを肯定する心理】
たとえば、加害者は、「おれは強いぞ」「強いぞ」「殴る」「殴る」
「殴る」・・・・・という全能を生きる。
それに対して被害者は、「どんなに殴られても、鉄のようにまって、ただ耐える」
「耐える」「耐える」「それでも、タフに耐える」・・・・といった、
弱者のなけなしの全能を生きる。
そこから生まれたのが日本人の特徴でもあり、
ネトウヨの特徴である4つであろう。

【虐待が暴力を肯定し人権が意味ない感覚を生み出す】
勝ってる気や精神勝利に改竄する。
負けている現実認識や、失敗している現実を都合よく書き換えるモラ(NPD)の
特性にもつながる。
加害者が「これでもか、これでもか」、と痛めつけてくるのに対して、
被害者は「これでもか、これでもか」と、悲しみや、痛みや、正義感や、ぬくもりや、人間らしい感覚(ヒューマニズム)を、自己の内側から切断し抹殺する内向きの「たたかい」に励む。
そして、このことによって自己を鉄の塊のような「タフ」のイメージにつくりかえ、「勝利だよ」「勝利だよ」と「タフ」の全能にひたる。
イジメやパワハラを見て見ぬフリをして、助けを求める人を見捨てて、
人間らしい感覚(ヒューマニズム)を自己の内側から切断し抹殺して、
自己正当化の言い訳を作り続ける。
喜怒哀楽の心や感情を押し殺して、冷笑系やロボットやゾンビ🧟のように
なることで「自己を鉄の塊のようなタフのイメージ」に「体験加工」
することで、自己正当化する。




第3章2節2項 「タフ」を自負することで現実の惨めさを否認する
【「タフ」になったと勘違い自負することで社畜や臣民やカルト被害者を否認する】
美しい国日本、素晴らしい日本人など、「耐えず、実際の惨めな自分を否認しつつ」理想とする特別な優れた日本人と言うイメージに解離(凍結)しておかねば、
自己を保てなくなる自己愛性パーソナリティ障害(NPD)の特性。
こうして、「タフ」になると自負することで現実の惨めさを否認する。
「タフ」の全能を具現するには、耐えず、実際の惨めな自分を否認しつつ解離
(凍結)しておかなければならない
(この解離された惨めな自己の像が図10のⅠである)。

【売れるために媚びる芸能人の自己正当化】
これが、弱者のなけなしの全能感としての「タフ」である。
「弱い」うちは、このような体験加工によってみじめさを否認し、
「耐えるタフ」の美学を生きながら、ひたすら「世渡り」の技能を修得する。
「世渡り」の技能を修得
例えば、「弱いうち」は、権力者に媚びを売る「世渡りテクニック」として、
悪用されていたのが、自分より弱い者を強者に生贄として捧げる
「松本人志のSEX上納システム」なのであろう。
文春の記事で明らかになった「松本人志のSEX上納システム」は、
各地で後輩芸人たちが「女衒役(アテンド役)」を務めて、
若い女性を集めて、騙して、「人柱として権力者の松本に捧げる」ことで、
権力者の覚えめでたくなって、贔屓されて出演を増やして「強くなる」ために、
女性を犠牲にして行われていたのであろう事が推察される。
「アテンド芸人」としては、スピードワゴン・小沢一敬、パンクブーブー・黒瀬純、たむらけんじ、渡辺センスなどの名前が上がっている。




【悪狡賢く悪事に加担=「世渡りのタフ」で正当化】
パワハラをかわすために悪事に加担する→世渡り上手と誤変換して、
自己正当化する。
この技能修得は、全能を具現する筋書になる。すなわち、悪狡賢く
「うまくやりおおせること」が全能を具現する筋書として用いられ、
「耐えるタフ」から「世渡りのタフ」が分岐していく。
【自民党や経営者や官僚や公務員のバレなきゃOKで悪事を働き出世】
上手く政治家や上司の犯罪を「悪狡賢くうまくやりおおせること」で
揉み消した者や、上手く国民を騙した者が「世渡り上手」あるいは
「気が効く賢い部下」として、覚えめでたくなって出世をして、
「賢い世渡りテクニック」として、重宝され、
「耐えるタフ」から「世渡りのタフ」が分岐していく事がわかる。



【サイトー応援団のデマへの加担=惨めだった自己の救済】
つまり、苦労をして「タフ」になった人たちにとってみれば、
「うまくやりおおせること」は、単なる実利の追求にとどまらない。
(全能筋書としての)「うまくやりおおせるタフ」の具現による、
惨めだった自己の救済という意味を持つ。
「うまくやりおおせ」て出世して、権力を握って、「イエスマンに囲まれる」事で
富や権力を具現化して「全能感」を得て「惨めだった自己の救済」
をするのである。
例えば、「トイレを素手で磨く」という成功ストーリーで
「苦労をして「タフ」になった人」として演出することで、
「苦労することを美化」し「従う者たちに苦労を強いる」ことで、
成功ストーリーに騙された人たちを上手く使って、
自分の地位や権力を維持し続ける事ができるのである。

【姑息な女やフラモン🐵の処世術】
たとえば、場の雰囲気や人の顔色をうかがって、黙っている。
何を考えているかわかないような態度をとり、
自分を偽って、調子を合わせ、うまく他人をだまし、
裏で人間間係をコチョコチョ画策する。
恥知らずなうそをつき、誠実そうに、
他人が右往左往するのを黙って見ている。
ときには自分のうそに部分的に陶酔しながら、
圧力をかけ、他人をひるませ、場のムードを操作する。
【職場の大人のイジメ】
職場のお局のイジメとかはまさにこの通り。









【警察や検察や官僚や公務員や企業弁護士が不正を「うまく隠蔽する」技能の習得に長けている理由】
このように、「うまくやりおおせる」ことそのものが、「タフ」の全能として、
みじめな自己を救済する筋書として用いられるようになる。
「うまくやりおおせること」が救済の価を有するということが、
実利とはまた別の次元で、「うまくやりおおせる」技能の修得へと、
人を駆り立てる。
【「うまくやりおおせる」技能の処世術】
マンガ島耕作などは、日本企業の「うまくやりおおせる」ことの処世術の
集まりであろう。大勢の美女と不倫を重ねながら、手助けして貰い、
上司や社長の愛人や不祥事を上手く隠蔽する手助けをしながら、
上手く出世して、社長や会長に上り詰めていく、処世術の集大成と
いえるであろう。





【世渡りのコツや処世術として「悪事加担の耐えるタフ」が肯定化】
こうして、「タフ」の筋書は「世間を泳ぐ」生活技能に織り込まれていく。
ここのところに「世間に揉まれる(苦労をすると悪くなる)」
といわれることのエッセンスがある。
このことは、全能と利害計算との結合をさらに加速する。
この点については、次章で詳しく論じる。
「耐えるタフ」→「うまくやりおおせるタフ」→「いじめるタフ」へ変容していくことを見ていこう。
第3章2節3項 いじめられることといじめることの間を埋めるメカニズム
【イジメられた者がイジメる側に】
体育会系の上級生のゴミ加害者💩が無限増殖するスパイラルになっているため、
犯罪者が毎年大量に社会に送り出され、一般女性などが盗撮や性虐待、
性犯罪の被害に遭う仕組み。
さらに「タフ」の全能筋書は、「いじめられること」と「いじめること」
との間を埋めるメカニズムのひとつでもある。
いじめや虐待をされてから、いじめをするようになった者の多くは、
この「タフ」の全能を生きている。
以下で、このメカニズムを追ってみよう。
「耐えるタフ」から「うまくやりおおせるタフ」になった者は、往々にして、
自分が過酷な社会環境で「うまくやりおおせる」ことができるようになると、
少しずつ、その「世渡り」の一環として
いじめという〈容れ物〉-内容モデルの「癒し」をはじめる(図10)。

イジメられる側だった新入生が、上級生や先輩などになり、
イジメる側になるのは、体育会系の部活動や、日本企業や自衛隊や宝塚などでも
有名な話である。そして、耐えて変える立場になっても、
ミイラ取りがミイラになって、そのイジメの伝統を変えようとする者はいない。



【相手も同じことをやってるに違いないという「投影」】
「弱者」からほどほどに「強者」になると、これまで否認し凍結してきた、
みじめな自己の筋書ユニット(図10の「みじめな筋書ユニットA」)を少しずつ
解凍し、先に述べた〈容れ物〉(に対する投影同一化)を用いて「癒し=いじめ」をはじめる。

【ミイラ取りがミイラになる仕組み】
このように、かつていじめられていた者が、今度は、他人を執拗にいじめる
ようになる、ということは、よくあることだ。この場合いじめは、心理的に
生き延び「ステップアップ」するために、必要不可欠な(しかも生徒たちの小社会では許容される)営みと感じられるはずである。
【「耐えるタフ」→「うまくやりおおせるタフ」→「いじめるタフ」へ変容】
こうして、「タフ」の筋書は、「耐えるタフ」から、
「うまくやりおおせるタフ」を経て、「いじめるタフ」へと変容していく。




【「タフ」の美学が群れの倫理⇆普遍的なヒューマニズム対立して憎悪】
また「タフ」をめぐる感情の論理が、不幸の平等主義やいじめに対する権利意識
や美意識を生む。「迫害可能性密度」が高く、過密な集団生活を強いられる
生徒たちの小社会には、「タフ」の美学がそのまま群れの倫理となるような、
独自の「タフ」の倫理秩序が発生する。
タフの美学・倫理が「きれいごと」(たとえば、普遍的なヒューマニズム)によって害された場合、生徒にされた者たちの群れは、憎悪を湛えて侵害者たちを睨む。
前掲【事例3・遊んだだけ】では、中学生たちはヒューマニズムを押しつけてくる大人たちを上目づかいに睨んでいる。
ネトウヨや維新は、幼稚なまま大人になり、👹群生秩序のままであるため、
兵庫県知事選で、「普遍的なヒューマニズム」でパワハラ知事を弾劾
しようとした、「百条委員会」を執拗に憎み、「普遍的なヒューマニズム」を
県庁に持ち込もうとした「稲村さん」を憎み嫌悪したのであろう。
次のような事例も、「タフ」になった者のありかたを典型的に示している。
【事例10・タフに、にらむ】
<その1>
1994年、愛知県西尾市東部中学校で、
いじめグループが大河内清輝君(当時13歳)を
残酷にいじめ抜いて自殺に追い込んだ事件は、
マス・メディアに大々的に報道され、多くの人々の記憶に残った。
このグループの「社長」と呼ばれるリーダーは、中学校の先輩からいじめられて、
その後にいじめるようになった「タフ」の鍛え上げを経ている。
彼は、清輝君が自殺した直後に父の大河内祥晴氏に呼び出されても、
「ポーカーフェイスを決め込」み
「睨むような目つきで祥晴さんを見返したまま」だった
(小林篤「ボクは旅立ちます」『月刊現代』1995年2月号)
<その2>
暴力いじめによって全治1ヵ月の骨折を負わせた少年は、
入院している被害者B君の病室を母とともに訪れ、
「あやまるでもなく、ただ、じーっとB君の顔を睨みつけていた」
(太田覚「いじめ地獄絶望の報告書」『週刊朝日』1995年1月6・13日合併号)
【兵庫県知事の「能面」も同じ心理】
兵庫県知事のパワハラ問題で、記者からいろいろ質問されても
壊れたテープレコーダーのように、同じ答えを繰り返し、
「能面のようだ」と評価されるように、「ポーカーフェイス」を
決め込んでいるのも上記のイジメ加害者たちと同じなのであろう。

第3章2節4項 「タフ」になれない者を「玩具」にするのは「正しい」
【心を失い人間を超えて鉄の塊=鬼畜化👹=ナチス化🇩🇪ごみ】
痛めつけられて「タフ」になった彼らは、悲しみや、痛みや、正義や、人間らいい感覚(ヒューマニズム)を切断して、自己を鉄の塊のような「タフ」のイメージに
作り変えることに、自己刺激的なこだわりを持つ。
自分が殺したり、大けがを負わせたりした被害者の家族を前にして
何も感じるところがなく、無表情に睨みつけ続けることは、
弱く傷つきやすい人の、心を失い(克服し!)、
人間を超えて鉄の塊のようになった強さのイメージをもたらす。
これこそ「タフ」の真骨頂である。
厳しい訓練や環境に耐えて、心を失い被害者潰しを見て見ぬフリをしてきて
「人間でない鬼👹やゾンビ🧟になった」ことを「強くなった」と勘違いして、
”タフになった”と「特別意識や特権意識を抱く」ようになる。
「タフの論理」とは、鬼滅の刃の「鬼👹になる」のと、
まさにそっくり同じである。



【体育会系やブラック企業の後輩や新人イジメが止まらない理由】
彼らが「世渡り」をする社会(「世間」)では、十分に「タフ」になった者が
「タフ」になれない者を「玩具」にして「遊ぶ」ことは「正しい」ことであり、
生徒たちは、自分たち「なりの」社会のなかでこの「権利意識」を持つ
ようになる。いじめを耐えた体験が大きければ大きいほど、この「権利意識」
も大きくなる。「きれいごとを言ってくる連中」からの、
この「権利」の侵害(不正)に対しては、激しい怒りをぶつける。
自分自身が迫害されるなか、必死で「世渡り」をして生き延びてきたという
「タフ」。自負(生存の美学)と、「世間」とはそういうものだという秩序感覚が、
このような事態を生んでいる。
パワハラ上司や経営者に長年仕えてきたので、自分も部下や後輩ができたら
「ワガママに振る舞ってパワハラやイジメをする権利がある」
あるいは、長年維新や自壺党🏺の幹部たちに搾取されてきたので、
ようやく「権力を得た自分たちも搾取する権利がある」という思いが強く、
”企業献金を止める”などの自浄作用が働かないのは、明白であろう。
【日本企業では涙を流しながら「世渡り」をすることで自分たちが「タフ」になってきた会社=正しい正義と勘違いしてゴミ再生産】
つまり、このような生徒たちにとっては、自分が所属し、忠誠を捧げ、規範を
仰いでいる社会は、人を殺してはいけないとする社会や、法律で人々を守っている
社会ではなく、涙を流しながら「世渡り」をすることで自分たちが「タフ」
になってきた社会である。生徒たちは、学校で集団生活をすることによって、
「このような集団教育をされてしまう」。
「閉鎖的な学校社会で生活する」ことで、イジメを学習し、
「世渡りしながら」イジメる側に回って、この「搾取環境を維持しよう」と
日本会議⛩や統一協会🏺の教義を学び、ネトウヨ化することで
歪んで破綻寸前の搾取日本社会を強引に守ろうとしてるのが、「ネトウヨ」と
呼ばれる「反共カルト」に染まった保守や愛国者の正体なのであろう。
【安倍喜び組やネトウヨが弱者被害者叩きする理由】
「タフ」の美学は、いじめられる者は情けないからいけないのだとか、
いじめられた者は強くなっていじめる側になればよいという実感をもたらす。
彼らは、自分を痛めつけた嗜虐者が「タフ」の美学を教えてくれた
というふうに体験加工する代わりに、「タフ」になれない「情けない」者には
「むかつい」てしまい、攻撃せざるをえない。
例えば、JAやかんぽやビッグモーターなどの営業マンだった場合、
無理なノルマが設定されているため、新入社員や部下に
自爆営業させたり、老人や顧客を騙させたりすることで、
自分は手を汚さず、ノルマを達成し、高い給料を貰える
上司になれば「安全であることの愉悦」を楽しめるのである。
なので、不正をしようが、騙そうが、良心の呵責もなく、
平気で高成績の数値を上げて、出世して権力を得るのである。
そして、「経営者や上司がタフの美学や厳しい現実を教えてくれた」
と「体験加工」し、「タフ」になれない「情けない」部下や後輩には
「むかつい」てしまい、パワハラやイジメなどの攻撃せざるをえない。
そして、ネトウヨ化していくのであろう。
軒並み大企業の経営陣が腐敗して衰退しているのは、まさに責任を取らずに
「安全であることの愉悦」を享受しているからであろう。




【パワハラや村八分の正当化】
たとえ「情けない」という印象を与えなくとも、
「タフ」の美学=倫理を「かかわりあい」の中で「みんなとともに」生きない者は
「まじわらない」「悪い」「むかつく」者とみなされ、いじめの対象となる。
正義感を持ってイジメを止めようと「みんなとともに」生きない者は、
イジメの対象になるのである。
自称社会学者の古市憲寿が「正義の味方が苦手です」と言う本を書いたり、
正義を揶揄する、正論を言う者を冷笑することで、
「イジメに加担して保身」する事が、イジメがエスカレートして
止まらなくなった要因であるともいえる。

イジメの対象になるのである。

イジメの対象になるのである。

【ネトウヨの狡い狡いで足を引っ張る=不幸の平等主義】
集団生活のなかで「タフ」がしみついた者は、”不幸の平等主義に対する違反”
には敏感になる。苦労して「タフ」になってきた者は、苦労を共にし合うことなく
世間に対してうまく自他境界を引くことに成功して幸福そうに見える者を
目の当たりにしただけで、被害感と憎悪でいっぱいになる。
そしてチャンスがあれば、痛めつけてやろうと思う。
学校の集団生活は、「苦労をして意地が悪くなった」者たちに、
そのようなチャンスをふんだんに与える。
”不幸の平等主義に対する違反”=ズルイ、ズルイ
と言う感覚であろう。
不登校の子が学校に行けないと「ズルイ、ズルイ」
働けない人が生活保護を受給すると「ズルイ、ズルイ」
また、「苦労を共にし合うことなく、世間に対してうまく自他境界を
引くことに成功して幸福そうに見える者」として、
幸せそうな女性を見ると、「被害感と憎悪でいっぱい」になり、
「チャンスがあれば、痛めつけてやろう」と難癖をつける口実
を探し始めるのである。
ネトウヨが「女は楽して稼げる」と「被害感と憎悪でいっぱい」で
攻撃を仕掛けてくるのは、まさにその典型であろう。

第3章3節2項 「すなお」でなければならない
この〈祝祭〉を中心にして独特の心理・社会的な秩序が立ち上がる。
これが、第1章で述べた「👹群生秩序(の純粋形)」である。
【PTAや町内会やママ友などの嫌がらせも同じ】
このような〈祝祭〉の秩序が成立している場合、
〈容れ物〉としてのグループのありかたにそぐわない者に対して、
各メンバーは、自己を汚されたかのような被害感と憎悪を感じるようになる。
例えば、「〈祝祭〉の秩序が成立している」田舎の村社会やPTAなどは、
まさにそれであろう。例えば、任意加入のPTAでありながら、
「PTAに加入していない子どもに嫌がらせや差別」をする
姑息な母親などは、加入しなかった親に対して、ワガママ勝手な親で
「自己を汚されたかのような被害感と憎悪を感じ」て、
共謀して「嫌がらせや差別を正当化する幼稚さ」を発揮している
と言える。




【裏表の仮面や情報収集のスパイ活動】
こういう心理-社会的な秩序状態では、全体としての集団のありかたが、
個人の意志や成熟度とは独立に、個人の内部でどういう現実感覚のモードが
活性化するかを大きく左右する(図2および図3)。
集団内の現実感覚はしばしば、ひとりひとりの意志や成熟度とは独立した、
全体としての集団独自のものになる。
また、このような場の情報による内的モードの切り替わりが
自動化することによって、付和雷同とか、場の雰囲気によって
人がちがったようになるといわれる現象が生じる。
集団が、シンプルな目標達成のための「しくみ」タイプであるか?、
全能体験の<容れ物>となる<祝祭>タイプであるか?によって、
活性化する内的ユニットはある程自動的に切り替わる。


【ノリで殺すファシストの理屈】
中学生たちがいじめを「遊び」と言い、弱者をなぶり殺しにするような行為を
「遊んだだけよ」と言うときの「遊び」とは、こういった<祝祭>的な共同作業
のことであり、それは、集合的な「生命」感覚を構成する、
きわめて重要な営みである。そして、このような「遊び」を通じて、
「自分たちなりの自治的な」倫理感覚や「あたりまえ」がかたちづくられ、
「ノリは神聖にして犯すべからず」という独特な小世界の秩序が生じる。
ノリで響きあう「みんなの空気」は彼らの秩序の根幹であり、
人の命よりも大きな価値がある。
ここで、「みんなのノリ>>>人の命」と言う
「大日本帝国🇯🇵やナチス🇩🇪のファシストの秩序」が形成されてしまう。
【表裏の仮面】【本音と建前】【素直とは「コントロールする側の全能感に対して打てば響くようになれ」=察するの強要】
「すなお」とは、上位者や「みんな」の一挙手一投足に合わせて人格状態が
即座に変化していると思われるように、”下位者が振る舞うこと”である。
別の言い方をすれば、「すなお」とは、
コントロールする側の”全能気分に対して打てば響くようなやりかた”で、
コントロールされる側の人間存在が伸縮自在に変化する(と周囲から感じられる)、
深いところからの”自動性・即応性”のことである。
下位者の「すなおさ」は、上位者の全能感(尊大さ)を具体的に実現する
<具材(よりしろ>となる。
第3章3節3項 「すなお」にするための「しつけ」
【普遍的なルールで法治支配=自由な個人を育成】
下位者を「すなお」にするのが「しつけ」である。「すなお」ということの
本質上、「しつけ」のためには、「いま・ここ」の人間関係を超えた
”普遍的なルールによる予測可能な賞罰は逆効果”である。
社会の広域にあてはまる普遍的なルールによる支配は、いつも同じ方向を
向いている、「内面のジャイロコンパス」を基準にして生きる個人を
育成しがちであるからだ。
”普遍的なルールによる予測可能な賞罰”で育てると左側の万人に共通する
法律を意識する「内面のジャイロコンパス」を持つ人間になる。
一方で、ノリの文化に適応する「すなお」な人間になるように「しつけ」る
には、常に上位者の意のままに動くよう、常に上位者のご機嫌を伺う癖を
身につけさせて、24時間365日怯えて暮らすように「しつけ」る必要がある。
これは、統一協会🏺が信者を共同生活させて、上位者の指示で24時間365日
即応するように、「しつけ」られるのと同じである。

【恣意的なルールで理不尽にしつける=従順な言いなりの「すなおな奴隷」を育成】
人間を「すなお」に「しつけ」るためには、予測不能な仕方で、
理不尽に慣れさせて、上位者の意のままにコントロールできるように「調教」し、
保身のズル賢い「今だけ、ここだけ、自分だけ」人間を量産できるようにする。
人間を「すなお」に「しつけ」るためには、予測不能な仕方で、上位者や
「みんな」の気分次第で恣意的に「痛めつけ」るほうが、理にかなっている。
このような予測不能で理不尽な「痛めつけ」によって、まわりの顔色をうかがい、
不安なレーダーのように反応して状況次第の人格を生きる、「いま・ここ」人間
が育成される。学校は、このような「こころがとけあう」👹群生秩序の社会に
順応させるという教育目標からは、事例に挙げるような旧陸軍内務班と同様、
実に「理にかなった」教育空間となっている。


ノルマや過密スケジュールで、疲労と睡眠不足に陥らせて
判断力を低下させ、「同調圧力に屈しやすく」し、
カルト思想🧠を注入し、洗脳🧠するのである。

-
【事例11・旧陸軍内務班の生活】
大日本帝国陸軍を経験した多米田宏司は、次のように回想する。
「ある初年兵がいったことですが、何をいったいやっていたならば
叱られずにすむのか?その目標というものがわからない。
ある古年次兵にこういわれたからそのとおりやっていると、
別の古年次兵がそれを見て、そんなやり方があるかといって叱られる、
その人その人によってやり方が異なり、いったいどうすればいいのかわからない。
だからその古年次兵の個々の顔色を窺って、
気に入られるようなやり方をしなければならないということになるんです。
それからまた、その古年次兵なり班長の虫の居所が悪かったら、なにをしても
怒られる。初年兵はいつもその場の空気によって態度を機敏に
変化させなければならない」
(飯塚浩二『日本の軍隊』岩波書店より)
パワハラ上司や毒親などの元で「叱責」怯えながら、顔色を窺って、
生きると、大日本帝国🇯🇵やイスラエル🇮🇱のジェノサイド兵士💀と同じ、
鬼畜👹を量産できるようになる。
【役割を演じるのが務め?】【シアター】
「すなお」とは、利害と身分が織り込まれた場の空気に「あわせる」だけ
ではなく、それを通り越して、場の空気に「なりきる」ことでもある。
実際、過酷な集団心理-利害闘争に投げ込まれた人々は、
「なりきる」以外に生きる術がない
(このことは、学校の集団生活にかぎったことではない。
たとえば、後出の【事例19・中国の文化大革命】)にみられる
「なりきる」姿は、女子中学生が学校の「友だち」グループに
「すなお」であるさまと、よく似ている)。
【鬼畜👹モラ(NPD)が混じる「みんな仲良く」の無能学校教育の弊害】
学校では、「すなお」ということは集団の倫理秩序にもなっている。
「すなお」でないものは「ジコチュウ(自己中心)」で「悪い」。
だから痛めつける。「空気を読め」というときの、「みんなの空気」と
個人の関係は、旧約聖書の神とヨブの関係に近い。これが、「みんな仲良く」
を完膚無きまでに押しつけようとする学校制度の帰結である。
自己愛性パーソナリティ障害(NPD)を獰猛な肉食動物🍖に例えて、
普通の人を草食動物に例えると、ライオンがシマウマを檻の中で
食い散らかし放題にしている、と言うのが今のファシスト化する
学校制度の帰結なのである。
ライオンは、ちゃんと檻の中に入れて管理・監視することによって
平和な学校や日本社会になると言うことである。



マルティン・ニーメラー牧師の警句🚨


書籍紹介
🏫イジメとネトウヨの棲息地👹⛩シリーズまとめ(INDEX用)
民主主義を破壊する反共カルトと戦犯シリーズまとめ(INDEX用)
伊丹万作「騙されることの責任」
もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない。一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より
