民主主義を破壊する反共カルトと戦犯③-02🏫イジメとネトウヨの棲息地02👹⛩[イジメの実態②]
民主主義を破壊する反共カルトと戦犯③-02🏫イジメとネトウヨの棲息地02👹⛩[イジメの実態②]
表向きの🇯🇵社会では、なかなか見かけないが、ネット上では暗躍して、
まともな日本人🇯🇵を嬉々として集団で迫害したり、虐殺に追いやったりする
ネトウヨと言う「鬼畜👹が実在」しています。薄々気づいてる人も多いですが、残念ながらこれは、ファシスト👹やナチズム🇩🇪との闘いであり、放置すると、
犠牲💀や被害が広がる一方で、もはや避けては通れない🇯🇵社会問題に
なりつつあります。しかし、ネトウヨはあれだけ大勢居ながら、奴らの生態は
資料や研究もなく、全く分かっていません。このシリーズでは「イジメ」
を介して、その発生や生態を読み解いて解明していこうと思います。
内藤朝雄氏📕の「いじめの構造」はやや難解なので、独自の解説を加えながら、
その「イジメの構造と鬼畜👹の実態を明らかに」していきます。

イジメの実態②
第1章3節2項 秩序の生態学モデル
【空気の正体?】
どういうタイプの秩序が優位であるかによって、現実感覚は刻々移り変わり、
何が「あたりまえ」か、何が「よい」と感じられ
何が「悪い」と感じられるかも変化する。
複数の秩序に応じて、複数の「よい」「悪い」が生じる。
「👼天使の勢力(善人勢力)」での善悪や当たり前と
「👹悪魔の勢力(反社会勢力)」での善悪や当たり前の
基準が異なるのと同じである。
【秩序の生態学モデル】
いじめ論者たちが「秩序の解体」を読み込んだり「秩序の過重」を読み込んだりする事態は、ある秩序と別の秩序との生態学的な競合において、一方が勢力を拡大し、他方が謝汰される事態である。
このような考え方を、「秩序の生態学モデル」と呼ぼう。
これは、単純に「👼天使の勢力(善人勢力)」と「👹悪魔の勢力(反社会勢力)」の競合において、「👼天使の勢力(善人勢力)」が敗れて淘汰されると「治安が悪化する」とイメージすると良い。
【典型例】
本書でとりあげる事例は、ありきたりの学校のありきたりの生徒たちの事例
であり、もっぱらあるタイプの秩序と現実感覚が、他のタイプの秩序と現実感覚
を圧倒し、後景に退かせるようなしかたて突出しているという意味で、
典型的な事例である。
第1章3節3項 👹群生秩序
【👹群生秩序】
秩序の生態学モデルに従って、生徒たちが生きている小世界の秩序を考えてみよう。それは、「いま・ここ」のノリを「みんな」で共に生きるかたちが、
そのまま、畏怖の対象となり、是/非(よし/あし)を分かつ規範の準拠点になるタイプの秩序である。
これを、群れの勢いによる秩序、すなわち「👹群生秩序」と呼ぶことにしよう。
本書で紹介する事例は、このようなタイプの秩序を、典型的に示している。
以下では、👹群生秩序を、正反対のタイプの秩序(👼市民社会の秩序)と対比しながら、浮き彫りにしよう。
👹群生秩序とは?
「👹群生秩序」はイメージとしては「👹悪魔の勢力(反社会勢力)」をイメージすると良い。鬼滅の刃で言うなら「十二鬼月👹」や「鬼の勢力👹」をイメージし、
「鬼の社会」での「鬼舞辻無惨を頂点とする鬼の秩序👹」を「👹群生秩序」と
イメージすると分かりやすくなると思われる。


👼市民社会の秩序とは?
一方で対比される「👼市民社会の秩序」のイメージとしては「👼天使の勢力(善人勢力)」をイメージすると良い。鬼滅の刃で言うなら「鬼殺隊」や「柱」をイメージし、「人間の社会」での「お館様・産屋敷耀哉(うぶやしきかがや)を頂点とする鬼殺隊の秩序👼」を「👼市民社会の秩序」とイメージすると分かりやすくなると思われる。


第1章3節4項 👼市民社会の秩序と👹群生秩序
【普遍主義と人間主義】
「人間主義」がいじめの原因となる事に注意。
👹群生秩序に対して、その場の雰囲気を超えた普遍的な理念やルールに照合
して、ものごとの是非を分けるタイプの秩序を「普遍秩序」としよう。
人類の歴史をふりかえってみると、かならずしも普遍主義(普通秩序)と
ヒューマニズム(人間主義)が結びついているとは限らない。
たとえば神の栄光のためなら人間が滅びてもかまわないとする立場は、
普遍主義であっても人間主義ではない。
また逆に、身近な「仲良し」関係で小集団自治的な生活世界を生きており、
関係が良好である限りにおいて周囲にあたたかい配慮を示すが、
「仲良く」できない、あるいは「生理的な嫌悪感」を感じる人には
酷薄(残酷で薄情)にふるまうタイプの人は、
人間主義的ではあるが普遍主義的ではない。
ちなみに多くのいじめは、「人間主義」的に行われている。
⇦左が「普遍主義(普通秩序)」
右が「ヒューマニズム(人間主義)」⇨

【普遍的ヒューマニズムを👼市民社会の秩序】
現代の先進諸国では、いくつかの普遍的な理念やルールを組み合わせて
👼市民社会の秩序が編成されているが、
その中心部分(核となる最高価値)は、
①普遍的な
②ヒューマニズム(たとえば、人間、人間の尊、自由、平等など)である。
ここでは、さまざまにありうる普遍秩序のうち、
このような普遍的ヒューマニズムを核とした先進諸国型の秩序を、
「👼市民社会の秩序」と呼ぶことにする。
【秩序ベースによる見え方の矛盾の解消】
このような複数の秩序を考えると、これまでのいじめ論の
矛盾と混乱が一気に氷解する。
●「秩序」-「無秩序」
👼市民社会の秩序を「秩序」と見る視点からは、いじめの場に「秩序の解体」が見えてくるが、
👹群生秩序を「秩序」と見る視点からは、「秩序の過重」が見えてくる。
●「濃密」-「希薄」
👼市民社会の秩序や個と個の親密性を見る視点からは人間関係が「希薄」に見え、
👹群生秩序を見る観点からは「濃密」に見える。
●「幼児的」-「大人的」
また👼市民社会の秩序を見る視点からは、群生秩序にもとづいた行動をとる心性は「幼児的」で「欲求不満への耐性が欠如」しているように見える。
だが、👹群生秩序を見る視点からは、悪ノリしている最中ですら計算ずくてうまく立ち回って「大人びて」おり、自分の身分的立場が弱くなればひたすら卑屈になって「辛抱している」ように見える。
【秩序による規範の準拠点の場所は?】
ここで重要なポイントは、規範の準拠点がどの水準にあるのか、ということだ。
👼市民社会の秩序のように、規範の準拠点が、そのときそのときの
みんなのこころの動きを超えた普遍的な水準にある場合、
いじめをしている者たちの付和雷同は「悪い」ことだ。
それに対して、ここで問題にしているノリの秩序(👹群生秩序)では、
共同生活のその場その場で動いていく「いま・ここ」が、「正しさ」の基準
となる。強制された学校コミューンの局面ごとに刻々と動いていく「いま・ここ」の雰囲気のメリハリ(ノリの強度)が、そのまま個を超えた畏怖の対象となり、
規範の準拠点になる。
【日本人が這いつくばって卑屈に生きている理由】
ここでは、その場その場のノリへの付和雷同こそが人倫の要(かなめ)であり、
人と人との間を生きる人間の証となる。
共同生活の「いま・ここ」に従って素直にノリを生きる、清く明るいこころが
もっとも大切だ。「いま・ここ」のノリにまつろわない(祭ろわない)者は、
暗く穢れた、非人間的な存在として忌み嫌われる。
飲み会の「いま・ここ」に従って素直にノリを生きる例

「いま・ここ」のノリにまつろわない(祭ろわない)者の例
暗く穢れた、非人間的な存在として忌み嫌われる。

言い換えれば
「いま・ここ」のノリに祭ろう者=陽キャ
「いま・ここ」のノリに祭ろわない者=陰キャ
陰キャは「暗く穢れた、非人間的な存在として忌み嫌われる」と言う感じである。


【「ノリは神聖にして犯すべからず」or「空気を読め」】
「ノリ」がエスカレートすると「ナチス化🇩🇪」する。
つまり純粋形の👹群生秩序は、群れの付和雷同のなかで全能を配分すること
によって、是/非(たとえば、ノリがよい、すかっとする/ムカつく、嫌われもの、死ね!)を分かつ、情動の共振から生じる秩序である(本書の後半では、利害と結合した複合形の👹群生秩序を示す)。
これを規範的な言い方で表すとすれば、「ノリは神聖にして犯すべからず」、
あるいは「空気を読め」となる。
本書の事例で紹介された、群れた中学生たちの小社会では、ノリがそのまま規範の準拠点になっている。赤の他人が無理矢理ベタベタするよう集められた学校で、
生徒たちは生活空間を遊びのノリで埋め尽くし、そのノリに仕えて生きる。
空騒ぎしながらひたすらノリを生きている中学生の塊は、無秩序・無規範どころか、こういったタイプの秩序に対して、はいつくばって卑屈に生きている。
ノリに仕えて這いつくばって卑屈に生きる


「ノリ」がエスカレートすると「ナチス化🇩🇪」した例。
イスラエル兵士🇮🇱がパレスチナ人🇵🇸を「ノリで攻撃や虐待」し
「ノリで虐殺💀」していることを伺わせる例。

第1章3節5項 「よい」は「みんな」のノリにかなっていること
【「ノリが良い」ことが「よい」ことの基準】
このような小社会では独特の「よい」と「悪い」が成立している。
彼らは、自分たちなりの独自の「よい」「悪い」に、”大きな自信と自負”を持っている。それは、きわめて首尾一貫したものだ。
この倫理秩序に従えば、「よい」とは、「みんな」のノリにかなっている、
と感じられることだ。
いじめは、そのときそのときの「みんな」の気持ちが動いて生じた「よい」
ことだ。いじめは、われわれが「いま・ここ」で繋がっている限り、
大いににやるべき「よい」行為である。いじめで人を死に追い込む者は、
「自分たちなり」の秩序に従ったまでのことだ。
大勢への同調は「よい」。ノリがいいことは「よい」。
周囲のノリにうまく調子を合わせるのは「よい」。
ノリの中心にいる強者(身分が上の者)は「よい」。
強者に対してすなおなのは「よい」。
この辺の「良し悪しの基準」は丁度ネトウヨの特性に当てはまる。
大勢への同調は「よい」。⇨同調圧力、出る杭を打つ
ノリがいいことは「よい」。⇨楽しく人の足を引っ張る
周囲のノリにうまく調子を合わせるのは「よい」。⇨同調圧力
ノリの中心にいる強者(身分が上の者)は「よい」。⇨強い者には媚びる
強者に対してすなおなのは「よい」。⇨強い者には媚びる


【ノリが悪いとは?】
「悪い」とは、規範の準拠点としてのみんなのノリの側から、「浮いている」
とか「ムカツク」といったふうに位置づけられることだ。
自分たちのノリをだした、あるいは踏みにじったと感じられ、
「みんな」の反感と憎しみの対象になるといったことが、「悪い」ことである。
【浮くのも悪い】
共謀して同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを演じないのは悪い
「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。
「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は、「悪い」。
「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は、
「とても悪い」。弱者(身分が下の者)が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは、「ものすごく悪い」。

【兵庫県知事選で県民局長の死を馬鹿にした者の心理】
それに比べれば、「結果として人が死んじゃう💀ぐらいのこと」は
「そんなに悪いことではない」。他人を「自殺💀に追い込む」ことは、
ときに拍手喝采👏に値する「善行」である。
【高潔な人や公益通報のチクリは徹底悪】
「もっとも悪い」のは、「いま・ここ」を超えた普遍的な次元への「チクリ」と、個人的な高貴さである。そういう者は徹底的に苦しめなければならない。
彼らはそのような「悪い」名を、
「いじめ=遊び」の玩具として思う存分痛めつけ、
辱め、あらたな全能感ノリを享受しようとする。

【モラ(NPD)は人権や正義が虫唾が走るほど大嫌い】
”正しいこと”や”綺麗事”が大嫌いで、お説教を垂れる者に、「胃がねじれるような嫌悪と憎悪を感じる」心理。
もちろん、このような「ノリの国」では、個の尊厳や人権といった
普遍的ヒューマニズムは「悪い」ことであり、反感と憎しみの対象になる。
彼らにとっては、その場その場で共振する「みんな」の全能感ノリを超えた
普遍的な理念に従うことや、生の準拠点を持つことは「悪い」。
自分たちの「ノリの国」を汚す普遍的な理念(人権など)に対して、
中学生たちは”胃がねじれるような嫌悪と憎悪を感じる”。



【普通や平均が大好きなファシストの大衆】
桐生市の「生活保護叩き」に加担した公務員などもこのような心理で
気軽に悪事に加担したと思われる。
彼らの小社会では、ノリながらやるのであれば、何でも許されるが、
「みんなから浮いて」しまったら、何をやっても許されない。
中学生たちはその場その場のみんなのノリをおそれ、
かしこみ、うやまい、大騒ぎをしながら生きている。

【弱者叩きに痺れる心理】
いじめて人が死んだり💀自殺したり💀したときですら、生徒たちは
「かっこいい」と拍手喝采したり、堂々と「遊んだだけよ」と言うことがある。
「どうしていじめたのか?」と尋ねられて、加害生徒が、「おもしろかったから」とか「遊んでいた」といったふうに答えることもある。
このようなとき、彼らは「自分たちなり」の遊びとノリの秩序にしたがって、
文字通り「おもしろい」からいじめている。

いじめて人が死んだり💀自殺したり💀したときですら、
内心では「全く反省していない」事がわかる。
例え、”反省の言葉を発しているように見えても”本心では、
全く反省をしていない事を「被害者たちは知っておくべき」である。
【ジェノサイドや虐待もノリで遊びの感覚で、終わらせるのはタブーと言うシオニストの心理】
ここで「遊んだだけ」というときの遊びは、「自分たちなり」のノリの秩序に従いながら、ノリを次々と生み出す。このような秩序状態のもとでは、
「みんな」の遊びに逆らうことは強烈なタブーである。
また、遊びであればすべてが許される。
【兵庫県知事選の悪巧みに加担するのは「ノリが良い」】
「ノリの良い」悪巧みに加担するのが現れた現象が、
「兵庫県知事選のデマへ加担」であろう。
N党の立花が「ノリの中心にいる強者」となって、
「正義漢ぶった県民局長や稲村さんや百条委員会で斎藤知事を追い込んだ
真面目な県議会議員」を誹謗中傷で脅して、死者を冒涜することは
「みんな」のノリにかなっている、として加担したファシストの卵が
110万人もいて、斎藤知事が再選すると言う出来事があった。
例えば「公益通報して斎藤知事のパワハラをチクった県民局長」は、普遍的な次元への「チクリ」であり、「もっとも悪い」人物であり、「そういう者は徹底的に苦しめなければならない」のである。
なので県民局長のパソコンを奪い、弱みを掴んで脅し「結果として人が死んじゃう💀ぐらいのこと」は「そんなに悪いことではない」と斎藤知事や片山副知事や
維新のメンバーは思っているのである。
なので「報復」や「見せしめ」として、死者に鞭打つような「不倫」「クーデター」「死んで当然だった」など、ありとあらゆる事実無根のデマを立花が流し、
後に続いて「連鎖的に」告発しようとした職員やその他の「告発者を萎縮させる」のが「真の狙い」だったのである。
また、「みんな」のノリにかなっている、牛タン倶楽部による「県民局長の
公益通報者潰し」に「水を差して」「ノリを踏みにじったと感じられる」
百条委員会で高貴さを発揮した「奥谷議員」や「丸尾議員」や「竹内議員」
などは、「許されざる者」として誹謗中傷や脅しで辞職に追いやったり、
脅迫し続けているのである。また、「暴力団を追い出した稲村さん」も
同様に、「水を差す者」として敬遠されたと思われる。

第1章3節6項 身分は厳格に定まっている
こういった「遊び」の流れにしたがって、
そのつど仲間内の身分関係が動いていく。
【モラ夫の妻子への嫉妬と怒り】
みんなの感情共振的なノリの秩序のなかで、誰がどのくらい存在感を持って
よいか、楽しげに存在してよいか、幸福そうに笑ってよいか、
といった身分は厳格に定まっている。
ヒエラルキーが決まっており、モラ夫(NPD)にとって、自分より身分が低いハズ
の妻子が、離婚して自分が居ないところで「楽しそうに、幸せそうに」暮らして
いることは、「許せないこと」なのであろう。
「自分の許可なく幸せそうに笑っていること」は許せないのであろう。
【被害者が幸せそうなのは許せない】
たとえば、いじめ被害者が楽しそうに微笑んでいるのを偶然見かけただけで、
いじめグループは憎しみでいっぱいになる、といったケースがよくある。
この場合、彼らは、まるで不正をおかした者に対するかのように「許せない!」
と憤激する。中学生の自治的な世界の内部では、いじめ被害者が幸福そうに
振る舞うことは、「われわれ」の共生に対する、いわば「表情罪」あるいは
「態度罪」ともいうべき罪にあたる。
「イジメの被害者」や「パワハラ被害者」や「性加害被害者」、「公益通報」や「内部通報」した「チクった者」が、自分たちをさし置いて、離婚した妻子同様
「幸せそうにしていること」は、「表情罪」あるいは「態度罪」という
罪にあたるのである。なので、執拗に付き纏って、嫌がらせをし続けるのである。


【ダブルバインドで締め上げられ、見当はずれの「自己改善」を繰り返して息苦しくなる】
このような秩序のなかでは、何をやっても「悪い」のがいじめ被害者だ。
暗い顔をしているといっては責められる被害者が、
明るい顔をすると今度はもっと責められる。
こういった”ダブルバインド”で締め上げられ、
見当はずれの「自己改善」を繰り返しながら、
「友だち」に痛めつけられ続けるのが被害者の身分的運命だ。
こういう分際でありながら楽しそうに微笑むなどということは、
ノリの秩序を台無しにする許しがたい行為だ。
「明るい顔しても」「暗い顔しても」何をやっても怒られる「ダブルバインド」
と言う技法で、「友だちや心配している人の顔」をして精神的に追い詰めて
何をやっても報われない、何をやっても救われない状態に追い込んで、
ますます「生き苦しくしていく」「生き辛くしていき」、絶望感を抱かせ
自殺💀に追い込んでいくのが、「真の日本社会の仕組み」なのである。

日本🇯🇵の自殺者💀は実は世界一🌍の謎



学習性無気力


【ヒエラルキーに従わず、身の程を弁えないのは自己中】
彼らの秩序がノリの秩序であればあるほど、そのノリや「こころ」のありかたの
配分をめぐる身分関係は峻厳苛烈(しゅんげんかれつ)なものになる。
その場その場のみんなのノリに気を配り、そのノリに即した自分の位置(身の程)
をわきまえなければならない。この「微妙な線引きを少しでも誤る」と、
「ムカツク」とか「ジコチュウ(自己中心的)」とか言われる。
このような身分秩序は、
「先生から見てとてもしょうもないものでも、私達にとってとても重要なこと」だ。そして彼らの「自分たちなり」の秩序感覚にとっては、
「やる人もそれなりの理由がある」し、
「いじめられた人はその人に悪いところがあるのだから仕方がない」
(【事例4・先生なんかきらいだ】)。
身の程をわきまえない子ども→ワガママ→発達障害?
例えば、「すなお」じゃなくて、”身の程をわきまえず、自己主張をしてしまう
子ども”や”教師や親に従わない子”を「ワガママ」と評価して「発達障害」
と決めつけてレッテルを貼るケースが増えている。
この辺ももう一度よく再検証していく必要があると思われる。


【人命軽視するナチス化🇩🇪するモラ(NPD)】と放置する🇯🇵学校教育の大失敗
こういったローカル秩序のなかで生きられる現実感覚は、「人間とは何か」
という問題をわれわれに突きつける。というのは彼らはときに人間の尊厳を、
ときには生命さえ、あたりまえのように軽視するからだ。
自分たちがいじめていた「友だち」が自殺💀や自殺未遂💀をしたと知らされて、クラスのみんなが拍手喝采👏して大はしゃぎする、といった出来事は、
いじめが蔓延する学校では、とりたてて珍しいことではない。
このような現象も、彼らなりのノリの秩序から説明できる。
「ノリの勢い」で「人間の尊厳」や「人の生命」さえ当たり前のように
軽視するようになったら、もはや「ジェノサイド💀集団」である。
イスラエル🇮🇱のように共存して生きることが不可能になる。

【人権軽視の理屈と大日本帝国が好きな理由】
ノリの秩序によれば、ひとりひとりの人間存在は、その場その場の
「みんなの気持ち」、あるいはノリの側から個別的に位置づけられて在るもの
であって、人間が「人間である」というだけで普遍的に与えられるものではない。
人間は諸関係の総体である。
いじめて盛り上がる中学生たちは哲学的な思考などしないが、近代実体主義を超えた徹底的な関係主義と社会構成主義を「いま・ここ」て生きている。
日本企業🇯🇵でのある社員の立場は「ノリの側(経営者や同僚)から個別的に位置づけられて在るもの」であって、「普遍的に与えられるものではない」ので、
「自分勝手に休んだり」「自分勝手に意見を述べることは許されない」のである。

【みんなの玩具には人権はない】
たとえば、いじめ遊びは、「わたしたち」の大切なノリの営みであり、
そのノリに即して”人間の位置と価値”が定まる。
ノリの秩序の中では「いじめられる身分の者」は、
その場その場のノリをこの身に受けて共鳴するうつわ
=諸関係の結節項(むすびめ)(みんなの玩具)
としてのみ「存在意義」がある。
玩具に対して「独自の人格」を前提することは不自然であり、
”命令によって動かすことがもっとも自然な接し方”である。
【事例3・遊んだだけ】で、女子中学生が「気絶するまで闘わせる
遊び」という命令的な言い方を、大人たちの前ですらごく自然な感覚でしたのは、
このような倫理秩序において、である。
従業員を踏切自殺に見せて殺害強要事件
ノリの秩序の中では「いじめられる身分の者」は、「みんなの玩具」として
「その場その場のノリをこの身に受けて共鳴するうつわ」としてのみ
「存在意義」がある。みんなの玩具は、「独自の人格」を否定され、
”命令によって動かすことがもっとも自然な接し方”であると言う説明を
裏付けるのが、「社長と社員が従業員を踏切自殺に見せて殺害強要事件」
である。
みんなの玩具には人権はない=黒い羊効果
英語圏では、厄介者や嫌われ者を「Black sheep(黒い羊)」と呼びます。
総じて、集団の中で異質な存在を指す慣用句として使われています。
白い羊の群れに、1匹だけ混ざっていた黒い羊が、仲間である白い羊たちに
認められずに追い出される話が聖書にあります。
「黒い羊効果」はこれに因んでいます。
集団内で「異質な者をみんなで叩いて」組織の結束力を高める「村八分」など
と同じ「統治方法の1つ」であり、
①権力者が自分の命令に従うところを見て権力(自己陶酔)を得ること
②権力者が自分の命令に従わせ権力を維持する方法
③フラモン🐵たちの「組織への帰属意識を高める」こと
などのために利用する手口である。
そのために、組織のヒエラルキーで最下層の人間や自分の気に入らない者を
「みんなの玩具=黒い羊」として集団でいじめる仕組みである。
マルティン・ニーメラー牧師の警句🚨


書籍紹介
🏫イジメとネトウヨの棲息地👹⛩シリーズまとめ(INDEX用)
民主主義を破壊する反共カルトと戦犯シリーズまとめ(INDEX用)
伊丹万作「騙されることの責任」
もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない。一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より
