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2015年のムンバイで読み、2026年の日本で問い直す――倉本聰『富良野風話 日本人として』

2015年8月20日、私はインドのムンバイにいた。
国際ファシリテーター協会のアジア地区カンファレンスに参加するためである。
成田空港の書店で、倉本聰著『富良野風話 日本人として』を見つけた。大の倉本聰ファンである私には、そのまま通り過ぎることができなかった。
しかも、題名が『日本人として』である。

海外へ出ると、普段はそれほど意識していない「日本人である自分」と向き合うことになる。
 自分の話し方。
 相手との距離の取り方。
 沈黙に対する感覚。
 物事をはっきり言うことへのためらい。
 相手の気持ちを察しようとする習慣。

日本にいるときには「自分の性格」と思っていたものが、海外へ出ると「日本人として身につけてきたもの」だったと気づくことがある。

だから、ムンバイへ向かう機内でこの本を開いたとき、私は単なる読者ではなかった。これから異なる文化を持つ人たちと出会い、対話の場をつくろうとする一人の日本人として、倉本聰の言葉を読んでいた。

あれから11年が過ぎ、2026年になった。
当時の原稿を読み返すと、ムンバイで感じた熱気や驚きが、今も鮮明によみがえってくる。

その一方で、11年という時間の中で、日本も、世界も、私自身も変わった。
スマートフォンとSNSは、以前にも増して生活に入り込んだ。
生成AIによって、誰でも短時間で大量の文章をつくれるようになった。
国や世代、立場の違いを越えて言葉を届けることが容易になった一方で、短い言葉が人を傷つけ、怒りや分断を一瞬で広げることもある。
言葉は、以前より遠くへ、速く届くようになった。
だからこそ、どのような言葉を選び、何を語らず、何を丁寧に語るのか。その責任は、むしろ重くなっているのではないか。

倉本聰は、脚本家として、人の感情の細部を見つめ続けてきた。
そしてこの本では、文章を書くこと、日本の豊かさ、戦争の記憶、老い、自然、社会のあり方について、富良野から厳しく、時に温かく問いを投げかけている。

2015年の私は、その言葉をムンバイという異国の地で受け取った。
2026年の私は、ファシリテーターとして、書き手として、そして国際的な対話の場に関わる一人として、もう一度その問いを受け取り直している。

日本人であるとは、何を意味するのか。
過去から、何を引き受けるのか。
豊かさの中で、何を失ってきたのか。
そして、言葉を使う者として、どのように人と未来をつないでいくのか。
以下、2015年のムンバイで私の心に残った倉本聰の言葉をたどりながら、2026年の今、あらためて考えてみたい。

禁じ手にする「言葉」

倉本聰は、日本のテレビ界や映画界を代表する脚本家である。『北の国から』をはじめ、たくさんのドラマ制作にかかっている。それだけでなく、今はもう閉校しているが、富良野塾という私塾のなかで、たくさんの脚本家や役者を育ててきた人でもある。それも1円もとらずに実施してきた人だ。そんな倉本聰が、自分に禁じ手にしている言葉があるというのだ。

「『いつしか』という表現がある。
 いつのまにか、知らぬ間に、といったような意味で、文章の中にしばしば登場する一見美しい言葉であるが、僕はこの言葉を自分の文にはなるべく使わぬように自戒している。何かこの『いつしか』という4文字の中に、その期間の中の微妙な、あるいは重大な変化を意図的に美文で隠蔽しようとする邪な意志がかくされている、そんな気がしてならないからである」

(p80)

なるほど、「いつしか」とは使いたくなる言葉である。
しかし、「いつしか」と書いてしまうと、いちばん肝心なところを描写する機会をつぶしてしまう。文を書くものは、それが脚本でも小説でも物語でも、変化と変化するタイミング、変化していく過程が見せ場になる。

それを心地のよい言葉ですませてもらうことにより、観察力がなえ、描写力がきたえられず、作力はそだつことはない。それを知った思いをした。

このくだりを読みながら、私の癖を思い出した。よく「なんとなく」とか「ちょっと」と書くのであるが、これも、微妙なことを伝えたいのだが、そこの時点が変化した部分であるのに、作者として向き合っていないと反省した。

そんな都合のよい言葉を使っていたら、物書きとしては三流で終わると背筋が寒くなった。

ただ、ここが面白いなあと思うもう一つの点がある。私がシナリオ学校にかよっていたときに、どの講師も同じように指導ていたのが、「ト書きに『間』と書くな」という禁じ手だった。それは、『間』とかくと、なんかを表現できたように思うが、具体的には言葉にしないと力がつかないというのが理由だ。

倉本聰の禁じ手の言葉と通じるのだが、倉本聰の脚本はこの『間』とかくところが多い。それもかなり頻繁にあるのだ。それは、役者に対する信頼があるのか、ドラマの作り手の名手としての計算があるのかわからない。実際に、映像をみるとその『間』がおそろしく効果的なのである。それこそ、「『間』も禁じ手のひとつにすべきでは?」と質問しようものなら、どやしつけられそうである。そんなことを考えていた。

ひとりの先輩の文人

どんな人でも、他人様に読んでもらう文章を書くつもりではあれば、ぜったいに心しておきたいと思ったところだ。そして、倉本聰がこの言葉を意識しながら、書いているのがすごい。

「文は他人を傷つけてはならない。たとえ100万人を感動させられても、それが1人を傷つけることになるなら、そういう文を書いてはならない。ただの1人でも傷つけることになるなら君にはまだ文を書く資格がない」

(p200)

私はこれまで、倉本聰の描き出した世界で何回も涙した。物語の展開がわかっていても、次のシーンがぐっとくるところだと予測できても、涙してしまう。そんな人の感情の襞がわかっている数少ない作家だと思う。影響力も大きいだろう。

その大御所にして、先輩から言われた言葉を大切に思いながら、きっと葛藤もするだろうし、自分の筆不足、力量不足に呪詛するときだってあるだろうと思うのだ。「ただの1人」と言われると、それをどう描くのが、大きな枷になるのではないかと思う。

しかし、それがかえって、創造力をかきたてる源泉なのかもしれない。この言葉は、ヘイトスピーチについてふれているところで述べている。言葉は人を非難したり、人を傷つけるためではなく、人とつながり、可能性を大きくするために使うものだと心したい。

私はファシリテーターである。その仕事は、まさに人と人の問題を、言葉を使ってしずめ、関係者の視点を相手から、ともに未来へと導くことが要求される。しかし、それこそが、言葉の使い方の意味であり、そう考えれば、ファシリテーターという仕事も、言葉の正しい使い方をするべき聖職のように思えてきたのである。

日本の将来を憂う

豊かさは力である。日本が戦後、高度成長して世界で有数の経済を有するのはすばらしい。その国に生まれ幸運だと思う。これから、世界に先駆けて長寿国家になっていくなか、これまで享受した豊かさが力にならないことないだろうかと不安になる。

 たまたま、昨日(2015年8月19日)のことだが、インドのムンバイを観光した。インド門へ行ったあと、そこから今にも沈みそうなフェリー(と彼らが呼ぶのだが)に、1時間ほど揺られれて、ムンバイ湾に浮かぶ小島、エレファンタ島に行った。そこで知り合った現地ガイドの人に案内を受けながら、その帰り彼は自分の村まで私たちを案内してくれた。1日3時間しか電気が使えない生活というのだ。

私は、先輩のファシリテーターとともに、島から戻ったあとの観光をそのガイドの知り合いにお願いした。そのガイドも最初に連れて行ってくれたのは、ドービー・ガーと呼ばれるムンバイ市内最大の屋外洗濯場だった。そして、そのなかのスラムのなかに案内してくれた。狭い路地ともいえないところにひしめく家。そこに暮らす人たち。だらんと寝っ転がっている人、それにだらんと地面に力なく横たわっている野犬。そこには、豊かさは微塵もないと思えたが、ガイドの人がいうのは、「彼らはそれはそれでハッピーなんだ!」という。私はそれはわからないが、そこに豊かさがないからこそ、大きな力があるように感じた。

「今あるものを捨てるのではなく、全く無いところから生活必需品を考えていく。日本全土が焦土となって、日本人全てが粗寒貧となり、どう仕事を得、どう稼ぎ、その金でまず何を買うのか。そこから思考をスタートさせないと、今ある豊穣を基準としてあれも捨てられない、これも要ると考えていたのでは、一向変革は進まない」

(p11)

 そのガイドの車に乗りながら、ムンバイ市内の交通は日本とは想像もつかないくらいそうぞうしい。つねに車が近距離で、クラクションをならしながら進んでいく。その音はまさに、アグレッシブなインド人そのものを連想する。スラムでみたゆっくりすごいている時間と、町中のすごい勢いで人とぶつかりながらら進んでいくような時間は、同じ都市、ムンバイの姿であり、アンビバレントな様子が、かえってそこにある無尽蔵のエネルギーを感じた。日本では、豊かさに捨てられずにいれば、国として勢いがなくなっていく不安を持ってしまった。

歴史の重みとその背負い方

そして、この本で私は機中で涙したところがこの箇所である。「8月の憂鬱」という題名で書かれたものだ。8月にはいつも以上に戦争について考えさせられる。これは、ヒロシマ、ナガサキの原爆が投下された日があり、15日の終戦記念日があるからだ。それにともない、テレビにしても、いっせいに戦争に関する内容になってくる。そんな時期に、倉本聰が「ヒトラーの子供たち」というドキュメントをみたときの話をしている。それは、ナチのホロコーストの責任者、ゲーリング、ヒムラー、ルドルフ・ヘスなどの子孫を追うものである。

「‥ルドルフ・ヘスのまだ若い親族がアウシュビッツに行くことを決意し、その地で、ホロコーストの被害者の末裔たちに面会し、己れの立場をしっかり告白して、彼らに謝罪の言葉を述べる」

(p159)

 この情景を考えただけで、私はこわいと思った。しかし、自分のなかにある歴史を受け止めてその場に向き合おうとする、ヘスの親族にすごさを感じた。だが、どうなるのだろうか、と心配になった。

「硬い表情をした、こちらもまだ若い、20、30人の遺族たちが最初は探るように聴いているのだが、やがて1人が、あなたに我々の気持ちが判るか、と憎しみと怨みの声をあげると、口火が切られたように次々と激しい憤りの声が上がり始め、その中でヘスの親族は只黙って頭を垂れているしかない。その時、被害者の遺族の群から1人の老人が静かに立ち上がり、ヘスの親族である若者に近づいて、その肩に触れやわしく語りかける。
『私はこの強制収容所に入れられていて、生き残ったものの1人です。君たちは罪悪感を持たなくてよろしい。ひどいことをしたのは君ではありません。君がやったことではないのですから」
 若者は無言で老人に抱きつき、全身をゆらして激しく嗚咽する。激しく面罵した被害者の遺族たちも、1人また1人と若者に近寄り、無言でその肩を抱き、手を握る。このシーンを見ながら熱いものがこみあげ、僕も思わず涙を流していた」

(p157~158)

この老人の言葉には涙した。そして、私たちが忘れていることがここにあると思った。

過去があるから現在がある。
現在があるから未来がつむがれる。

しかし、その過去が良いことばかりとはかぎらないし、現在が悪いことばかりともかぎらない。良いとか悪いとか、そんなあまっちょろい言葉で表現できないような歴史のできごともあるだろう。

だから、当事者でない私は何も言うことができない。ただ、私自身の過去についてならば、私だって語ることが許されるだろうし、私自身の過去についてこそ、私は向き合っていくべきだ。

どうこうあれ、今私は生きているのだから、その中で何できることを探していくしかできない。終わったことにくよくよせず前に進むしかない。いつまでも余韻にひたるのもさけねばならない。言葉をつかう職業人として、どういきていくのか、それはいつも考え続けることであるし、いつも問いかけ続けることなんだろうと思う。

明日からはじまるファシリテーターの集うカンファレンスで、言葉ができること、私ができること、そして、人が集ってできることなど、たくさんの可能性と希望をみつけていきたいと思っている。

一つの本を読むとき、その場が変われば、あたりまえだが、感じることも考えることも違ってくる。そんな風に「日本人について」考えていた。


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