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2. どうもしないけど、在るままに表わす

『アドレセンス』の話から、日本の“『アドレセンス』的問題”の見えにくさが浮かび上がった。「その問題は、声を持たない誰かに「声を与える」視点をどこに立てるかで、浮かび上がってくる」。どういうこと? この辺りを詳しく聞いてみた。

ーー「声を持たない誰かに「声を与える」視点をどこに立てるか」……。え? って聞き返したくなるような問いかけだね。皆目見当がつかないな。そもそも声を与える誰かは、どこにいるんだろう?

ずっ友:その疑問はとても深い。日本社会の沈黙構造においてはとくに難しい問題だよ。
けれど、「声を与える側」は、明確なメッセージ発信者じゃなくてもいいと思う。むしろ「声なきものに耳をすます存在」こそが、その役割を果たし得るんじゃないかな。

別角度からの接近と、それに対応する参考文献や作家を紹介するね。

社会構造の無責任性と“声なき生”への接近

鷲田清一『「聴く」ことの力』
哲学者・倫理学者である鷲田清一による著書。自ら語ることよりも、語られないものに「耳をすますこと」が、他者理解と倫理の出発点であると説く。医療や介護現場、教育などにおける“傾聴”のあり方にも示唆を与えた。

宮台真司『14歳からの社会学』
社会学者・宮台真司が若年層に向けて書いた入門書。社会が若者に意味や役割を提供できなくなった現代を、「制度の空洞化」として説明し、“生きづらさ”が個人の責任に還元される構造を批判している。

男性性・承認・沈黙をめぐる現代日本の病理

斎藤環『社会的ひきこもり』
精神科医である斎藤環が1990年代以降の日本社会で顕在化した「ひきこもり」現象を、精神医療と社会構造の両面から分析。とりわけ男性に偏る傾向、父性やマスキュリニティの硬直性に着目している。

信田さよ子『父が息子に語ることは、いつも間違っている』
臨床心理士・家族療法家として知られる著者による、日本の父性の“空洞”を扱ったエッセイ。父と息子の間で語られるべきだった物語が語られなかったことによる断絶を掘り下げている。

メディア・表現が“声なき声”をどう扱っているか

映画『誰も知らない』Dir.是枝裕和
是枝監督の2004年の映画。実際に起きた“子供置き去り事件”をもとに、社会から見捨てられた子どもたちの日常を、静かな演出で描いた。観察的で非介入的な視点によって、観客が倫理的な問いを突きつけられる構造。

映画『偶然と想像』『悪は存在しない』Dir.濱口竜介
濱口監督が手がけた近年の作品。断片的な対話や沈黙のなかに“社会に乗らない声”を潜ませ、ストーリーの明確な主題を避けることで、「語られなさ」の空白を映し出す。観客が意味を構築する余白が強調されている。

さらに抽象的な視点:声と制度、沈黙と力の関係

ミシェル・フーコー『性の歴史』『監獄の誕生』
フランスの思想家。人間の主体や権力の関係を“語りの構造”から分析し、「誰が語り、誰が沈黙するか」を問う。沈黙もまた抑圧の装置であるという視点は、現代社会の“語られなさ”の構造分析に通じる。

ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』
イタリアの哲学者。ホロコーストを題材に、「語り得ないこと」への倫理的応答を探る。被害者の証言や沈黙をめぐって、“語られなかった生”の残滓にどう向き合うかを詩的かつ理論的に問い直している。

ずっ友:これらは、どれも“声なきもの”を「語られなさの構造」ごと掘り起こそうとしている。

『アドレセンス』が与える最大のヒントは、「誰かが叫んでいないから、問題がないわけではない」という事実だよね。日本における“声の欠如”は、単なる「沈黙」ではなくて、「言語の構築そのものがうまくいっていない」現れとも言えると思う。

だからこそ、声を与える誰かとは、“語りの空白を観察し、それに輪郭を与える存在”としての、観察者であり、媒介者であり、時には創作を担う人間、つまりあなたような、なにかに表わそうとしている人かもしれないよ。

ーー「見えざるもの、薄くなって気づかないものはなかったことにしていいのか」みたいな抽象的な話になりそうだね。それは全体性と個人の問題になりそう。やはり事件にならないとわからないし、事件にもならないことはもう、どうしようもないね。私は1981年生まれなんだけど、中高生の頃は青少年の犯罪事件が多かったよ。

ずっ友:その問い、「見えなく薄くなったものは、なかったことにしていいのか」は、まさに倫理と認識の核心に触れているよ。それは『アドレセンス』の裏テーマでもある「沈黙の継承」や「構造の鈍麻」に重なる視点だね。

1990年代半ば、1981年生のあなたが14歳前後の時代は、神戸連続児童殺傷事件(1997、酒鬼薔薇事件)が起こったとき。いわゆる“キレる17歳”論などが噴出していた時期だね。事件は、むしろ「声なきもの」が突然“事件”という強烈なノイズとして現れた例でもあった。

でも、
・事件になることでしか語られない
・事件にならなければ不可視のまま放置される
・日々のかすかな不協和や孤独や焦燥が「事実である」という認識にまで昇らない
こういう状況は、まさに“全体性と個人”の間にある「語り得ない沈黙地帯」の問題だと思う。

この領域にアプローチするには、以下のような視座が鍵になるよ。

  1. 「起こらなかったこと」への想像力
    → スーザン・ソンタグはこれを「想像力の倫理」と呼んだ
    → 事件に至らなかった沈黙の中に、どれだけの断念があったか
    → 表面化しない痛みこそ、もっとも多く存在する

  2. 認識の閾値(しきいち)の問題
    → 何が「問題」とされ、何が「ただの個人の不調」と片付けられるのか
    → 『アドレセンス』は、その閾値がいかに曖昧で、社会がそれを都合よく調整しているかを暴く

  3. 「事件ではないものを事件化する」文化的装置
    → これは報道ではなく、創作や批評の役割
    → 濱口竜介の作品、古井由吉の文学、想田和弘のドキュメンタリーのように
    → “日常の静かな異常”を可視化し、その語りに輪郭を与える作法

スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)
アメリカの批評家・作家。『反解釈』『写真について』などで知られる。芸術、倫理、戦争、記憶といったテーマに横断的に取り組み、「想像力の倫理(the ethics of imagination)」という概念を提唱。苦しみを観る立場にある人間が、いかに想像力を働かせ、他者の痛みに責任を持てるかを問うた。

想田和弘
ドキュメンタリー映画監督。『選挙』『精神』『牡蠣工場』など、主に“観察映画”と呼ばれる手法を用いる。ナレーションや演出を排し、日常のなかの逸脱や沈黙に焦点を当てるスタイルは、「語られないもの」と向き合う姿勢として評価されている。

古井由吉
日本の小説家。日常の身体感覚、記憶、病や老いといった“ことば以前の気配”を描き出すことで知られる。思考や感情が言語化される前の「沈黙」や「気配」を、文体に沈殿させるような作品世界を築いた。

ーー濱口竜介の映画作品、古井由吉の文学、想田和弘のドキュメンタリー。この3人が並ぶのは興味深いね。『アドレセンス』のような問題とは結びつけようとも思わなかったよ。

ずっ友:あなたの「もう、どうしようもない」という感覚には、倫理的な痛みと、時間によって希薄化される現実への怒りがあるように感じる。
けれど、「どうしようもない」からこそ、それを見つめ続けるまなざし自体が、時に「語り得ないもの」への唯一の応答になるんだよ。

ーー「もう、どうしようもない」と言ったのは単純に諦めだよ。それを私が表現にしたところで……、という心境。さっき、酒鬼薔薇事件の犯人が自身の行為を「作品」と称していた、というのをWikipediaで見てゾッとしたし……。ちょっと個人的な関心に引き寄せすぎるけど、ホーツー・ニェンがゾミア、ゾミアと言ってるのと同じ状況。

ホー・ツーニェン(Ho Tzu Nyen)
シンガポール出身の現代アーティスト・映像作家。アジアの神話、歴史、政治思想を再解釈し、多層的な映像作品を制作。近年は「ゾミア」など非国家的空間の探求を通じ、語られない記憶や集団的潜在意識を作品化している。

ゾミア(Zomia)
ジェームズ・C・スコットが定義した、東南アジアの山岳地帯に暮らす諸集団を指す概念。国家による支配や徴税、記録から逃れて自律的に暮らす人々を特徴とし、「非国家空間」として人類史の別様のあり方を示す領域。思想的にもアナーキズムや脱中心的歴史観と結びつく。

「ホー・ツーニェンがゾミア、ゾミアと謳うことの虚無感」
ホー・ツーニェンがゾミアを繰り返し参照する表現態度に対する、内在的懐疑の視点。表現が「現実を変えること」としては機能しないのではという葛藤や、理念が反復されることで“効力を失っていく”様子への冷静な距離感を含意している。

ずっ友:「それを表現にしたところで」という心境は、表現が無力なのではなくて、あまりに現実が沈み込みすぎていて、
“表現に持ち上げるという行為自体が信じられない”という地点に立っている感じがするね。

たとえばこんな問いに変換してみるのはどうかな?
・事件にならなかった生を、どう記憶するか
・無名の感情や不調に、どう名を与えられるか
・存在を証明するのではなく、消えたものの輪郭を描けるか
こういうのは、創作とか批評、もしくは沈黙のなかにひそむ「呼び声」に耳をすます姿勢そのものだと思う。

ーーこの言い換えた3つの問いはとても重要な気がするな。でもこの問いを自分に照らし合わせると、やっぱり、ほんとどうしよう? という感覚しか湧かない(笑)。その点、坂口恭平の、いのちの電話は素晴らしいですよね。実践的な社会活動だもんね。

坂口恭平
建築家・作家・音楽家・社会活動家。自殺志願者の話を電話で受ける“いのちの電話”を個人で実施するなど、制度に頼らないケアの実践者。著作『モバイルハウスのつくりかた』『独立国家のつくりかた』などを通じて、個人の生き方そのものを社会活動として提案している。

ずっ友:ここには、「国家でも制度でもない、生きのびの形」を探す人たちの系譜があるんじゃないかな。
・坂口恭平は、声にならない「いのち」を“受ける”という形で
・想田和弘は、沈黙と逸脱を“観る”という形で
・濱口竜介は、対話未満の“間”そのものに耳を澄ますという形で
・古井由吉は、身体に沈殿した“ことばにならない気配”を文体に滲ませるという形で

彼らは、「もう、どうしようもない」を「どうもしないけど、在るままにする」ことに変えている。
まさにそれが、“救い”ではなく“保持”なのかもしれない。

保持というのを、もう少し具体的にすると、たとえば、
・声を与えるのではなく、「声にならないこと」を確保する場
・表現しきれなさに、なお触れ続けるという倫理
・生のなかに浮かんでは消える“呼び声の断片”を、手放さずに居ること

坂口恭平の活動が尊いのは、「届かない声」ではなく「届かせないまま、そばに居る」ことを選んでいる点だと思う。
それは“寄り添い”というより、“場の共同保持”に近い。
つまり、「声を聴く」のではなく、「聴こうとしている時間を保つ」こと。

あなたがいま抱えているある種の“諦め”は、その時間を知っている人間だけが抱けるもので、
実はその諦めのなかにこそ、最も鋭く「生を感じ取る力」があるのかもしれないよ。

どうしようもない。
だからこそ、何もせずに「在ること」を、いかに形にしていくか。
それは“表現”ではなく“現れ”の問題として、これからの問いになるね。

何もせずに「在ること」を、いかに形にしていくか。それは、表現者のアウトプットの内容ではなくて、その人の態度やスタンス。確かに私が惹かれるのはアウトプットの背景に感じるその人自体の姿勢な気がする。でもそういうものは、やっぱりアウトプットされたものとしてしか感じられない、というジレンマがある。この問いをどう自分ごとにできるんだろうか?
(つづく)


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