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多分「一瞥体験(悟り)」はあなたが思うようなものではない。一瞥のその後。

以前↓こちらの記事で書きましたが、2024年11月と2025年11月にいわゆる「一瞥体験」というものが起きました。

今回は、「一瞥体験のその後」を書いてみたいと思います。

今回は、この体験の後のことについて書いておきたいと思います。

まあ、僕の体験が本当に「一瞥体感」かどうかは本人にしか分かりませんが、一応その頃、阿部敏郎さんが主宰の「禅サンガ(現:ぽよぽよサンガ)」に参加していて、

その中の講師の1人である「雲黒斎さん」にメールで「このような体験が起こりました」と報告すると、動画の中で「それは一瞥体験ですね」「何とも言えない開放感が起こりますよね」というお話をされていたので、間違いないでしょう。

もしかすると、「悟りを開く」というと、
何かすごいパワーを手に入れるとか、問題がすべて解決するとか、
全てを理解するとか・・・

そういうことを想像されている方もいらっしゃるかもしれません。
(僕が実際そうでした)

でも、「雲黒斎さん」もおっしゃってましたが、
実際にそれを体験してみると、「思ってたんと全然違う」という感じです。

以前の記事で書いたように、1回目の一瞥体験では
「これまでで最高のお風呂に入ってリラックスしている」とか
「最高にうまくお酒に酔えている」ような、そしてしばらくの間
「私は最強!無敵!」という気持ちを体験し、

2回目の一瞥体験の時は、
「とにかく、アイデアや、書きたいこと表現したいことが無限に湧いてきて、それを表現していく事が楽しくて仕方ない」というような「全能感」を味わいました。

でも、2週間ほどたった頃には、「日常」に戻っていきました。
その時の「喪失感」がまあまあ辛いです。
「好きな子とイチャイチャしていた夢から覚めてしまった」ような、
「夢の中でつかんだものを失ってしまった」ような。

ただ、その体験だけではなく、その体験をしてからは、
「今までの自分とは、世界の見え方が変わってしまった」というのは続きます。というか、「もう元通りの見方が出来なくなる」感じです。

↓「ルビンの壺」の画像で、一度両側の顔を認識すると、もう2つの顔にしか見えなくなるように。

ルビンの壺

◆「梯子を外された気分」

以前読んだ「悟り」系の本(すみませんタイトル等失念してしまいました)で、著者の方が目覚めを体験した時に「梯子を外された気分」と表現されていました。

その方は、元々結構熱心な「スピリチュアリスト」だったのですが、
「一瞥体験」をしてからは、いわゆる一般的な「スピリチュアル」に興味が無くなって、「今までこれが真実だ!と思っていたことが何の意味も無いということに気づいて、梯子を外された気分になった」と書かれていました。

これは、僕も実際一瞥体験からしばらくして、
特に1回目(2024年)と2回目(2025年)の間は特に連鎖的にたくさんの「気づき」が起こって、

「この世界の仕組み」「私たちの意識の仕組み」などが見えるようになったことによって、

「ああ、今まで学んで来たようなスピリチュアルや自己啓発は、逆に『私』を縛り付けて、限定的な『私』にするだけだ・・・」ということに思い至りました。

つまり、「スピリチュアルに詳しい私」という「キャラ設定」が、次の「新しい私」に変化する時の障害になってしまう感じ。

なので僕は、以前興味を持っていた「スピリチュアル」「自己啓発」については、ほとんど何の興味もなくなりました。

一つ断言できるのは、もしあなたに「一瞥体験」が起こったら、今まで信じていた、「スピリチュアル」などはきっと投げ捨てます。
(それらを、目覚めた視点から再解釈するというのはあるかもしれませんが)

◆とにかくやる気が起きない

そしてこれも以前の記事でも書きましたが、結構悩まされたのが、
「とにかく、今までのようなやる気が起こらない」ということ。

↓AIが解説してくれた「やる気が起きない」仕組み↓

これも、本来悩むようなことではないんですが、どうしても以前の「自我」目線の自分の気持ちからすると、「こんなやる気なくていいの!?」と焦る瞬間がある。

例えば、あなたが何かのゲームをしていて、そのゲームの中では、主人公が装備を奪われて、プレイしているあなたも同じように「おい!そういうのやめてくれよ!」と感じる。

でも、ゲームを終えて、日常に戻ると、自分自身は別に何も奪われてないし、それを気にすることも無いですよね?

それと同じように、今までの生活が「ゲーム」だったと気づいてしまったことによって、没頭できなくなってしまった。という感覚。

今までは、「生き延びるために何とかしないと」と常に何かに追われていたから、「あれもこれもやらないと!」とやってきた。

でも、一瞥体験以降は、良くも悪くも「まあ、大丈夫なんじゃね?」という気持ちが根本にあるので、たとえ状況的に前なら「あれ?このままじゃヤバいんじゃない!?」と焦っていたような時でも、心の底から焦ることが出来ない。

だから、「よし!やろう!」という気合も起きない。
本当にやるべきことは、勝手に湧いてくるから。それに従えばいい。
でも、時々「本当にこれでいいの?」と軽く不安になるときもある。

◆一番の悩み

一瞥体験をしてからの一番の悩みは、「人と話が合わなくなる」!

僕の見え方、考え方が正しいかどうかは分からないけど、完全に以前と変わってしまったので、
まあ、元々僕は共感力が低い人間でしたが、さらに人に共感できないというか、

どんな悩みも、問題も、
無意識のうちに記述された「プログラミング」に沿って、自動で出力された「反応」「出来事」を、「自分がやっている」と勘違いして握りしめるから、そのギャップによって、悩んでしまっている。

だから、「悩まなくていいのに」と思ってしまって、さらに共感力がなくなってしまいました・・・。

◆「私」がほとんど「全自動」で起こっている

そして、これが一番の「気づき」と言ってもいいかもしれませんが、
「あ、自分って自分がコントロールしてるんじゃない」と気づいたこと。

例えば、「思考」。
「今から1分間、頭の中を完全に真っ白にしてください」と言われても、無理じゃないですか?勝手に何かが湧いてきてしまう。

「ああ!消したいのに失恋の瞬間が忘れられない!」
「もう!この曲好きでもないのに頭から離れない!」ということも起こる。

頭の中を自分でコントロールできるなら、今この瞬間に嫌な思い出も曲も出てこないようにすればいいはずなのに。

つまり、「頭の中」は全部自分ではコントロールできていない。

次に「身体」。
勝手にお腹が空く。勝手に性欲が湧く。勝手に便意を催す。
傷も勝手に治る。勝手に髪の毛も伸びる。時々思うように動いてくれない。

さらに最近の研究では、「何かをしよう」と頭で思う前に、身体は動き始めていることが分かってきている。

寝たくないのに眠ってしまう。いつの間にか眠りに落ちる。
もっと寝てたかったのに勝手に目が覚めてしまった。
突然ボールが飛んできて、咄嗟に無意識で手でボールをつかむ。
嫌いな虫が飛んできたら、勝手に身体がのけぞる。
突然風船がパーン!と破裂したら、身体がびくっとして心臓がバクバクする・・・

これらもほとんど自分でコントロールしていない。

そして「感情」。

「バカ!と言われたら腹が立つ」
「1000人の前でしゃべってと言われたら不安になる」
「笑っちゃいけないのに笑いが吹き出す」

これらも、「起こそう」と思って起こしているのではなく、
勝手に湧いてくる。

つまり、私たちは「自分でしている」というよりも、
「私というプログラミングに沿って、入力に対して反応という出力をしている」存在ということ。

↓じゃあ「自由意志」は無いのか?「自由意志に介入する3つのポイント」

◆結局「悟後の修業」が必要になる。

仏教の修行僧でも、悟りを開いた後「悟後の修業」が必要になる。

それは、「悟りを開いた」からといって、いきなりすべてがクリアになるのではないし、全部がいっぺんに分かるわけではない。

今までの生活の中で身につけてきた「プログラミング」が残っているから、それを解除していかないと、「前のように反応してしまう」。

ただ、全体的な「仕組み」が分かるから、「ここに気を付けないと」とか「ああ、またこのパターンに入ってる」ということに気づきやすくなって、前のように本当に「ゲームに没頭しきってしまう」ことが無くなる。

だから、認識、生き方は根本的に変わるけど、一気にすべて解決するわけではない。時々「本来の自分」と「自我の自分」を行ったり来たりするし、
これまでの「プログラミング」は残るから、それに気づいて解除していくというプロセスに入る。という感じです。

僕のnoteでは、この「無意識のプログラミング」を徐々に解除していく方法を、色々な角度から書いています。きっといつか役に立つと思うので、フォローお願いします!

↓結局「運命」とは、あなたに今記述されている「プログラミング」です。↓

↓NLAメソッド「入門編」です↓






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